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王都ワーキングガールズコレクション

花と眼鏡のあいことば

作者: 結木さんと


 冬のにおいをまとう風が街に吹きはじめるころ。

 真新しい外套に袖を通した人々が行き交う王都では、とある行事を目前に控えてそわそわした空気が流れていた。


 それは、大切な人に想いをこめたブーケを贈る『ディア・ウィーク』。


 相手は恋人でも意中の人でも、家族や友達だってかまわない。

 とにかく小さな花束を大切に想う気持ちといっしょに渡す。

 ……元はそういう行事だった。

 けれど流行は広まれば勝手に一人歩きをはじめるもの。たしかきっかけはときの国王陛下が王妃様に日頃の感謝と愛を込めた花束を贈ったことだったけど、いまではどちらかといえば告白をメインとする色合いが強い。とくに、年若い人たちの間では。

 だから、なんだか街はそわそわ落ち着かない。


 秘めた想いをブーケといっしょに手渡される。


 女の子なら誰でも憧れる光景だ。それが自分もにくからず想っている相手なら、なおさら。

 男の子だって満更でもないのだろう。というより、どちらかといえばそわそわしているのは男の子の方が多い。

 なにやらブーケの獲得数で格差が生まれるらしく、この時期は花を抱えた男の子が自慢げに歩く姿をよく見かける。反面、ひとつももらえなかった子はどんよりした空気を背負ってすみっこの方をとぼとぼ歩いている。

 ……ただ、両手いっぱいに抱えた花が『友情』の意味が強い白のライラックや『親しみやすさ』のガーベラだったりする男の子もちらほらいるのだけど、そういうのでもいいのだろうか? 女の子は仲のいい友達にもブーケを渡すから……あ、いや、それでも友達の少ないわたしには、とても羨ましいのだけど。

 うん、あれはきっと友達がたくさんいることをアピールするものなんだ。

 もらえなかった人にはちょっぴり共感してしまう。今年こそは友達にたくさんブーケを渡したりもらったりしたいなーといつも思うけど、わたしにはなかなか難しいことだから。





 ディア・ウィークが近づくと、当たり前だけど花屋は忙しくなる。

 農家さんに注文して調整してもらった花を受け取ったり、開花をずらした花が狙った時期に綺麗に咲くように倉庫を区切って温室の準備をしたり。

 なによりディア・ウィークの期間中。

 この一週間は、お客さんと花屋の間で特別なやりとりが交わされる。

 それはジンクスにまつわる合い言葉。

 なんでも、つくったブーケを祝福の言葉といっしょに受け取ると、告白の成功率があがるんだとか。

 まずお客さんが「お店で一番綺麗な花束をください」と注文して、お店側は贈る相手の好みや伝えたいメッセージを聞いてからブーケをつくる。中心には相手をイメージした花を一輪。そしてラッピングしたブーケを渡すとき、花屋が祝福の言葉をかけるのだ。

 他愛のない言葉遊びのようななもの。でも、素敵なジンクスだ。なんだかロマンチックだと思う。……花屋サイドのプレッシャーがすごいけど。

 そんな祝福の言葉はお店によって違う。

 大きな商会は「愛の女神の御加護があらんことを!」と荘大なものだったり、昔からある老舗だと「険しき旅路を往く若人に祝福あれ」という古めかしい言い回しだったりと、それぞれ個性を出している。勝手に人の恋を険しいものと決めつけるのはいかがなものかと思わないでもないけど、やっぱり盛り上がりが違うのだろう。お客さんがすごく勇ましい顔で帰っていきそうだ。

 ちなみに、大きくも古い伝統があるわけでもないうちのお店では、


『あなたがたくさん笑顔になれますように』


 うん、シンプル。

 飾りっけ、まるでなし。

 シンプル・イズ・ベストにも程がある言葉は誰が考えたのかわからないけど、うちではずっとこう。わたしがいうのもなんだけどもう少しやる気を出した方がいい。少なくとも借金のあるお店がとっていい態度じゃない。

 生まれたときから花屋の娘であるわたしは考えた。

 このままじゃわが家は危ない。父一人娘二人で細々とがんばってきたお店が潰れてしまう。それでは病気で亡くなったお母さんとの約束が果たせなくなる。

 この小さな花屋はお父さんとお母さんの夢であり誇りだ。

 そして、わたしとお姉ちゃんはちょっと不器用なお父さんを助けると約束した。

 二つ上のお姉ちゃんが先にお店を手伝いだして、一年後に中等部を卒業したわたしも進学せずお店に入った。

 お父さんは仕入れや配達、お姉ちゃんはお客さんの対応、わたしはお花の管理やブーケづくり。

 とくにディア・ウィークはこの役割分担が重要になる。なにしろ大口の稼ぎだ。ここでがんばらないと、うちみたいに小さいお店はほんとに潰れる。

 そこでわたしは勝負に出た。


 ブーケを『アレンジ』することにしたのだ。


 普通はラッピングに色々と細工をするものだけど、わたしは花束そのものを加工した。

 することはネコとかイヌとかハートといった形に束ねるだけ。でもこれが意外と難しい。

 花の茎は硬さがまちまちだし、大きさが揃わないと変な隙間ができてしまう。

 だけどわたしは起死回生の試みに成功した。昔から手先の器用さには自信があるのだ。おかげで去年のディア・ウィークの後半は評判を聞いたお客さんが押し掛けて大忙しだった。おまけにそのアレンジブーケの仕入れ先が増えて、夕飯のメニューも一品増えた。

 ここからが正念場。きっと去年の話を聞いてマネするお店も出てくるだろう。

 その対抗策も準備して、半年後の繁忙期を迎え討とうとなけなしの気合をいれた矢先……お姉ちゃんが、裏切った。

 信じられなかった。お姉ちゃんがそんなことするわけないって、これは夢なんじゃないかって、何度も自分の頬をつねった。痛かった。生白い頬がすごく赤くなった。

 いくら否定しても状況は変わってくれなくて、わたしは呆然としたまま、その残酷な現実を受け入れるしかなかった。


 ――――お姉ちゃんは、お嫁にいった。


 お姉ちゃんの嘘つき。約束したのに。「フローラがお嫁にいくまで安心して結婚なんてできないわ」っていってたくせに、辺境の騎士団長さんと、あんなにあっさり!

 絶対に許さない! 三ヶ月に一回の里帰りで申し訳なさそうに美味しいコケモモのジャムを持ってきたって、絶対に…………ちょっとだけしか、許さないんだから……っ!


 と、いくら嘆いても時間は進んでしまうもので。

 気がつけば王都には冬が訪れ、ディア・ウィークは一ヶ月後に迫っていた。

 当日のお父さんは仕入れで忙しい。なによりお父さんはあまり接客に向いていない。

 見上げるほどの巨体に隆々とした筋肉。盗賊だといわれても納得できてしまう厳つい顔立ち。

 なぜ、花屋。

 せめて酒場の主か見た目通り衛兵でよかった。そちら方面でがんばっていただきたかった。

 泣く子を失神させかねないお父さんに接客なんてできるわけもなく、必然的に残されたわたしがお客さんの相手をすることになる。

 けど、


「おらフローラ! もっと腹から声出せ!」

「いっ、いらっひゃいませ……っ!」

「噛むなよ! なんで特訓の時点で噛むんだよ!? しかもただの挨拶っ!」

「は、はいぃぃ……」

「情けねぇ声出すな! ほれもう一回!」

「はいぃぃっ!」


 ――わたし、すっごい人見知りなんですけど。


 やめてくださいお父さん。特訓とかいって毎日毎日そんなに怖い顔でしごかれたら、ただでさえ脆弱なあなたの娘の精神がすり切れてしまいます。伸ばした前髪越しじゃないと人の顔を見れない女に愛想笑いなんて絶対ムリです。やめて大きい声ださないで。


「デカイ声で挨拶! その幽霊みてぇな髪切る! 急げ! ディア・ウィークまでに間に合わせるぞ!!」

「むっ、無理ぃぃっ!」



 フローラ・オルコット、十六歳。

 いま、人生最大のピンチです……!



     ☆彡



 ……前髪、切られました。


 ひどい。こんなのあんまりだ。

 なんとか目の下二センチは死守したけど、心細くて仕方ない。

 誰か鎧を、わたしの視界と精神を守る頑丈な鎧をください……。


「あの、フローラさん。いま大丈夫ですか?」

「ひゃいいいっ!?」


 うっ、後ろに誰かいた!?

 い、いやいや、お店を開けてるんだからお客さんがくるのは当たり前だ。営業中に現実逃避していたわたしが悪い。深呼吸だ、深呼吸。落ち着けわたし。

 ところで、背後から聞こえたのは耳に馴染みのある声だった。

 ひょっとして……と振り返る。


「ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったんですが……」

「り、りりりリズさん!」


 そこにはわたしの唯一の『お友達』である女性が立っていた。言葉の割にすさまじい無表情だけど、なんとなく申し訳なさそうな雰囲気を感じる。……なんとなく。

 ほとんど表情が動かない彼女の名前はリズ・ディラックさん。たしか年齢は三つ上の十九歳。でも、その若さでなんとあの有名な王立クレイヴィール学院図書館の司書さんなのだ。

 図書館の一般開放日に色々とお世話になって、お店のお客さんにもなってくれた、とても凛々しくて優しい人。

 人見知りの悩みを相談したら「では、わたしとお友達になりましょう」と誘ってくれたのも彼女だ。こんな挙動不審の根暗女に。慈愛の精神がすごすぎる。

 だというのに、なぜかお父さんはリズさんを怖がっている。意味がわからない。むしろお父さんの容姿で人を怖がるとか失礼にも程があるので、いつか謝罪させなければと心から思う。

 と、わたしが決意を固めているとリズさんが心配そうに覗きこんできた。

 ああ、いけない。いまは接客中だ。ちゃんとしなくては。

 あとリズさん、あまり近づきすぎてはいけません。一定の距離をこえるとわたしの人見知りが発動してしまいますよ? いまは防御が薄いので、いつもより注意が必要なのです。


「大丈夫ですか?」

「は、はい! ……そっ、それより、きょうはどういった、ご用件でしょうか?」


 途中で声が裏返ったけど、わたし、がんばった。

 ……努力が必要なことはわかってる。


「えっとですね、今日は自分の部屋に飾る花が欲しいんです」

「リズさんのお部屋用、ですか?」

「はい。実は、雪が降りだす前に故郷から両親が遊びにくることになりまして……ついでに王都でのわたしの暮らしぶりも見たい、などといいだしてですね……」


 ああ、なるほど。

 その気まずそうな説明でわたしはだいたいの事情を把握できた。

 リズさんのお部屋には一度だけお邪魔したことがある。

 場所は広大な学院敷地内の第三職員寮。国内随一と謳われるクレイヴィール学院の名に恥じない立派な煉瓦造りの建物だった。

 しかし、いくら外観がよくても今回の問題はその中身。

 リズさんのお部屋には『物』がない。それはもう――清々しいくらい。

 置いてあるのは本棚と大量の本。あとは備えつけのベッドと机とチェスト。一応、来客用のソファーとクッションもあったかな。

 ――以上、である。

 ちょっと女の子の部屋としてはどうかなー? と思わなくもない。本が大好きなリズさんらしいといえば、そうなのかもしれないけれど。


「で、では、一輪挿しのものより、鉢花の方が、いいですね。お部屋に馴染むようにアンティーク風のポットで、花は、この時期の開花株だとカランコエとか、ルクリアとか……」


 花は小さい方がいいだろう。定番のポインセチアなんかもあるけど、ちょっとお部屋に合わないかも。なんだかとってつけた感が滲みそうで。

 その点、カランコエは可愛らしいし、ルクリアはとてもいい匂いがする。花の色も可憐だ。

 ……あ、でも。


 ふと身の程しらずな考えが浮かんで説明を止めたわたしは、ようやくリズさんが花ではなくこちらをじっと見ていることに気づいた。


「す、すすすすいません! つい、熱中しちゃって……な、なにかわかりにくかったですか?」

「あ、いえ。そうではなくて」


 小さく手を振るリズさんの声はとても穏やかだった。

 表情は変わらないけど、雰囲気でなんとなくわかる。


「お花の話をするとき、フローラさんがとてもイキイキされていたので……本当に花がお好きなんですね」

「は、はいっ! それなら誰にも負けませんっ!」


 思わず大きな声がでた。

 は、恥ずかしい……。

 で、ででででも、花が好きなのは本当だから!

 手のかかる子も多いけど、だからこそ必死に生きようとするその姿がとても愛おしい。

 ここにいるよって、せいいっぱい主張するみたいに。力の限りに咲く小さな花たちがとてもとても大好きで。

 綺麗に咲いた子が、いまはまだ花開くときを待つ子が、これから誰かに幸せを運ぶんだと想像するだけで、ふんわり温かな気持ちになる。

 ……あと、たまに寂しいわたしの話し相手にもなってくれるし。


「フローラさんのお話のおかげで、どの子も素敵に感じられます。迷いますね……」


 棚に並ぶ花たちを真剣に見つめるリズさんが、そんな嬉しいことをいってくれたから。

 ――わたしは、なけなしの勇気を奮うことにした。


「あ、あの! ……その、よかったら…………わ、わたしにっ、花を贈らせてもらえませんでひょうか!?」


 ああ噛んだ。声も裏返った。

 リズさんはビックリしただろうか。ひょっとしたら呆れているかもしれない。もともと前髪カーテンのおかげで顔はあまり見えていないのだけれど。

 引かれるのは怖い。……でも、どうしてもリズさんにこの花を贈りたかった。


「えっと、えっと……セントポーリア、っていう、お花なんですけど、かっ、かわいくて……その、花言葉があって、『小さな愛』や『親しみ深い』という、言葉で……たっ、大切なリズさんにっ、この花を、もらってほしくて……っ!」


 相変わらず声は情けなく震えていた。

 緊張で意識が遠くなる。涙がでそう……いや、もうちょっとでてる。

 なんでそんな調子に乗っちゃったの!? って、やっぱりあとで後悔するのかもしれない。

 ……でも、ディア・ウィークにお店から離れられないわたしは、大切なお友達にブーケを渡すことができない。

 だから、今日のうちに渡さないと。

 ほんとはちゃんとしたアレンジブーケにしたかったけど、どうせ贈るなら必要とされるものがいい。


 セントポーリア。ぽってりした丸い葉に、ふわりと広がるドレスみたいな花びら。

 季節を越えて長く咲き続けるその花に、どうかいつまでも仲良くしてくださいと、そんなわがままな願いを込めて。


 心臓が痛いくらいに鳴っている。口の中もカラカラで、スカートをギュッと握って立ち尽くす時間が永遠のように感じられた。

 しん、と静まりかえった空気の中、わたしは瞬きすら忘れてひたすら返事を待った。


「……では、そのお花を一つください。お代はちゃんと払いますので」


 あ――だめ、か。

 う、うん、そうだよね。仕方ない。

 だって、こんな根暗女からのプレゼントなんて……きっと、誰だって欲しくない。


「それで、そのセントポーリアはわたしからフローラさんにプレゼントさせてください」

「…………え?」


 思わず顔をあげる。

 いま、なんて……?


「大切な人に贈る花、なんですよね? ……それならわたしからも贈ります。フローラさんは大切なお友達ですから」


 なんでもないみたいに。

 それが当然のことであるかのように、リズさんがいう。

 頭の中がぐるぐるしてうまく理解できない。

 だってそれはとても嬉しい言葉で。届くはずのない憧れで。

 わたしが、ずっとずっと――欲しいと願い続けた、夢だったから。


「あれ、フローラさん……え!? あ、ご、ごめんなさい。あの、泣かせるつもりなど決してなくてですね……」

「ち、が…………あ、ありが……い、まず、っ……う、うれじ……でず!」


 ああ困らせてしまっている。早くこのみっともない涙を止めないと。

 ……そう思うのに、身体はちっともいうことをきいてくれなくて。


 違うんです、嬉しいんです。

 ずっと、憧れていたんです。

 笑顔で花束を贈りあうお友達に。

 自分がそんな相手といっしょにいられる光景に。

 ずっとずっと、昔から。



 結局、自分ではどうにもできなくなった涙は、配達から帰ってきたお父さんの顔を見たら自然に止まった。なぜか気持ちが萎んだ。お父さんすごい。

 ちなみに、リズさんはわたしが泣き止むまでずっと付き添ってくれていた。その姿はまるで小さな子供をあやすお母さんのようだった。


 …………ほんとうに、ご迷惑をおかけしました。



     ☆彡



 メインストリートから道を三本外れて西へ向かう路地に、うちの花屋はある。

 白い石壁に赤い屋根、古い胡桃の扉が目印の小さなお店。

 普段は静かな住宅地だけど、この時期だけはそれなりに人通りが増える。

 彼らはみんなディア・ウィークに仕事があってブーケを買いにこれない人たちだ。

 そういう人たちには事前に注文と代金をいただいて、あらかじめブーケを作っておく。

 去年の評判のおかげで今年の売れ行きは上々だ。アレンジブーケは花の数も増えるから少し高いのに、みんな嬉しそうに予約してくれる。

 今年の目玉はラッピングの中でネコが一輪の花を抱くドールフラワー。その見本をおいてあるのがよかったのかもしれない。

 これならよそのお店にはマネできないはず。

 ……ふ、自分の器用さが恐ろしい。土台の工夫や花の配列にはすごく苦労した。

 この絶妙な器用さがなぜ人間関係には適用されないのか、そこらへんは神様あたりとじっくりご相談したいところではある。


「おいフローラ! ボーッとしてんじゃねぇ、手が空いたんなら店の奥を掃除してろ! あとこっちには絶対近づくんじゃねぇぞ!」


 ねえ、どうしてお父さんは花屋なの?

 荒い。荒すぎるよ。どう考えたってそれは花屋のだしていい声じゃない。

 かといってあのお父さんの可愛らしい声とかちょっと身内としては全力でご遠慮せざるをえない代物なので、結論としては繊細な職業が絶望的に向いていないのだろう。

 今日のお父さんは目に見えて不機嫌だ。原因はたぶんお店の前にいるあの人。

 背丈はお父さんより少し低いくらいの長身で、榛色の髪に切れ長の瞳がなんだか上品に感じられる優しそうなお兄さん。

 実際にお話ししたことはないけど、いつもにこにこと笑いかけてくれるのでたぶん穏やかな人なんだろう。仕立てのいい服を着ているあたり、ひょっとすると貴族の家令さんなのかもしれない。

 なにより印象的なのは彼のかけている眼鏡。

 庶民では手の届かない上等そうなものだ。デザインはシンプルだけど、銀色に輝く縁取りが控えめな高級感を演出し……いや、ちょっと知ったかぶった。ほんとは眼鏡の値段とかわからない。高そうだなーと思う。感性って大事。

 わたしは彼を「眼鏡さん」と呼んでいた。もちろん心の中で。

 眼鏡さんは月に一度お店にきてくれる常連さんだ。はじめて見たのは一年くらい前。買っていく花はサルビア、カーネーション、パンジーゼラニウムと季節やそのときどきで違うけど、たぶん家族に贈っているんじゃないかなと思う。そういうメッセージのお花ばかりだから。

 きれいなお顔でお金持ちで家族想い。

 もうわたしみたいな人間は同じ空気を吸うことすら許されないよね。息苦しい、誰か窓を。

 眼鏡さんは定期的に花束を買ってくださるお得意様なのに、なぜかお父さんに嫌われている。

 お父さん本当にうちの現状を理解してますか? 借金があるんですよ? お客さんにケンカ腰とか絶対だめですよね? お父さん、わたしはせめて月に一度くらいお肉が食べたいです。

 などという願いはまるで届く気配もなく、なおも響き続けるお父さんの声は荒い。

 どうしてあんなに嫌うんだろう。見た限りではすごくいい人そうなのに……。

 などと首を傾げながら鉢花の葉についた小さなホコリを拭いていると、ふいに威圧するような声が止んだ。どうやら眼鏡さんが帰ったらしい。

 もう次はきてくれないかも……と不安になるこの胸のざわめきはなんだ。安定した暮らしが全速力で遠ざかっていく。

 これはダメだ。今日こそちゃんと注意しようと覚悟を決めて、倉庫に向かったお父さんを追いかける。

 果たして冬眠前の熊みたいに気が立っているあの状態でちゃんと話を聞いてくれるかはわからないけれども。


「あの、少しよろしいですか?」


 ――心臓が止まるかと思った。

 な、なに? いまの王都では人見知りに背後から話しかけるのが流行ってるの? なんて迷惑な……。

 もちろんそんなことはないのだろう。わたしは深呼吸しながら振り向いた。

 お店の入口に立っていたのは、さっき帰ったはずの眼鏡さんだった。


「は、はい、なななななんでしょう!?」

「ああ、驚かせてしまってすみません」


 申し訳なさそうな表情の眼鏡さんがいう。困ったように笑うその目元には人柄の良さが滲んでいるように感じられた。

 うん。絶対に悪い人じゃないと思う。だって、ただの返事にすらおびただしい「な」を並べてしまうポンコツにも平然と笑いかけてくれるんだから。


「お恥ずかしながら、花を買いにきていたのをすっかり忘れていまして」

「あ、で、では、父を……」

「いえ、今日は貴女に選んで欲しいんです。フローラ・オルコットさん?」


 あれ? わたしの名前……。

 お父さんが教えたんだろうか? あんな暴れ馬のごとく猛り狂っていながらいつの間に?

 首を傾げていると、微笑む眼鏡さんと目が合った。

 カァッと頬が熱くなる。……や、やめてほしい。人見知りの弱点が他人の視線であることをご存じないのだろうか。


「ご迷惑でしたか?」

「あっ、い、いえ! えっと、えっと、どっ、どのようなお花が、よろしいですか?」

「母に……といっても随分と昔に亡くなっていますので、その墓前に供える花束を」


 その言葉に、スッと身体が冷えるのを感じた。

 ……ああ、いままでのお花は、そういう意味だったんだ。

 『母の愛』『あなたを尊敬します』――忘れられない大切な人へ、もうどうしても届かない言葉を伝えるための。


「ああ、どうかそんなにお気になさらず。亡くなったのはもう十年も前ですので」

「いいえ! ……ちゃ、ちゃんと、素敵なお花を選びます! おっ、お母様のお好きだった花はわかりますか?」


 勢いこんで質問すると、眼鏡さんがクスッと笑みをこぼした。

 余計に顔が熱くなる。けど、怯んでいる場合じゃない。

 その気持ちはわたしにもわかるから。お母さんとの約束を守るために苦手な接客もがんばろうと思えるし、いまでもときどき思い出して寂しくなる。

 ぽっかりと空いた心の穴はまだ塞がってくれないけれど、それでも、ずっと立ち止まったままならきっとお母さんは怒る。

 だから、歩きださなきゃ。

 眼鏡さんの心もわたしと同じように、眩く咲く花たちが癒してくれればいいのにと思う。


「そうですね。あまり花にこだわりを持つ人ではありませんでしたが……ああ、そういえばたまたま手に入れたカルミアという花を見せたときは、興味深く眺めていましたね」


 カルミア……たしか王都には最近になって持ち込まれた花だ。開花時期は春だし毒性もあるらしいので、市場にはまだ出回らないだろう。わたしも図鑑の絵でしか見たことがない。

 似たような花だと、珍しい形のエンゼルランプやディア・ウィーク用に調整してもらったスイートアリッサムがある。

 レースの日傘みたいに可愛らしいカルミアがお好きなら、きっと気に入ってもらえるんじゃないだろうか。

 ――そこまで考えて、わたしはまだ足りていないものに気づいた。

 これだけじゃダメだ。ちゃんと、眼鏡さんの気持ちも考えないと。

 だったら……。


「で、では、こちらの、プリムラ・ジュリアンが、いいと思います。淡く可憐な花が咲きますし、甘くて珍しい香りがあります。な、なにより……『永続する愛情』という、花言葉を、持っています」


 切れ長の瞳がわずかに見開かれる。

 やがて、それは柔和な気配を滲ませる苦笑に変わった。


「親離れのできない子供だと思われてしまいましたかね」

「え!? あ、や、ちちち違……っ」

「ふふ。それより、いままで買った花を覚えていてくれたんですね。嬉しいです」


 話をそらされたーっ!? たぶん気まずいから話題を変えられた! わ、わたしはなんて失礼なことを! これだから、これだから人見知りはっ!

 うあああぁぁ……もういやだ。もう帰りたい。自分のお部屋に帰ってベッドに潜って誰とも顔を合わせず五年くらい寝て過ごしたい……。


「やはり貴女に選んでもらってよかった」

「……ふぇ?」

「母が亡くなってから今日でちょうど十年なんです。そんな日の花束は、せっかくなら花やお客を心から愛する素敵な店員さんに選んでもらいたいものでしょう?」

「え、ぁ……えっ!?」


 な、なんで? なんでいきなりの褒めごろし?

 この人はわたしをどうしたいの? 無抵抗の人見知りをどうするつもりなの!?


「あ、と、その……わ、わたしは、そんな、たいした人間じゃ……」

「いいえ。人を見る目には自信があります。私はこれほど深く誰かの心に寄り添える優しい人を他に知りません。そうじゃないなら、わざわざあんな真剣に悩みませんよ」


 うわああああああ?! 熱い! 顔が熱い焼けしぬ!? 嬉しいけど! 嬉しいけど面と向かって褒められることに免疫なさすぎて脆弱な精神が悲鳴をあげている!


「困らせてしまったなら申し訳ありません。ですが、これは私の正直な気持ちです。どうか覚えていてください。……あと」


 混乱で挙動不審が極限に達しているわたしに、眼鏡さんはふわりと微笑んだ。


「プリムラ・ジュリアンをディア・ウィーク用のブーケとして購入したいのですが、祝福の言葉をいただけますか?」

「ぅえ!?」


 こっ、このうえさらに困難が! 怒涛の勢いで瀕死の人見知りに迫る! 神様わたしなにしましたか!?

 うああ……ぁ……で、でも、眼鏡さんはお客さんだ。ご希望ならちゃんとしないと。

 ――ががががんばれ、わたし。

 震える手で花束を作る。鉢物だから花が開ききったものを選んで、茎が短いのでミニブーケにして、薄桃の花びらが栄えるようにミントグリーンの薄紙でラッピングして……ここでアレンジとかどうがんばっても無理です、ごめんなさい。

 なんとか仕上がった花束を手に、わたしは残りわずかな気合いを奮い立たせる。


「あっ、あなたが、たくさんっ、笑顔になれましゅように……っ!」


 噛んだぁ。やっぱりこうなったぁ。もうやだ……。


「ありがとう。これでまた頑張れます」


 そういって、輝かんばかりの眩しい笑顔を浮かべる眼鏡さんが手を差し出した。

 え。ああ、握手ですか。はいはい。こんなわたしごときの手でよければどうぞ。帰ったらきちんと洗ってくださいね? 末期の人見知りに感染したら大変です。


 ハッ。わたしは、いったいなにを……?


 気がつけば眼鏡さんはもうお店を出たあとだった。

 ぺたん、とその場にへたりこむ。

 疲れきった身体にはもう力が入らない。

 誰もいない店内で、わたしは呆然と自分の右手を眺め続けた。


 ――どうしてだろう?


 硬い手の感触が残る指先は、いつまでもふわふわと温かいままだった。



     ☆彡



 この間から身体の調子がおかしい。

 なんだか頭がぼうっとする。ときどき胸がきゅうっと締めつけられて、喉がつまったように息苦しい。

 まさかとは思うけど……これ、病気だろうか?

 精神の脆さに定評のあるわたしも健康だけには自信があったのに。悔しい。

 発熱していないのがせめてもの救いか。こういうとき家にお父さんしかいないのは本当に困る。お父さん、風邪ひいたことないらしいから。

 ……筋肉って病気も弾き返すのかな。


 しかし、たとえ体調が悪くてもお客さんは待ってくれない。

 ディア・ウィークまで残り二十日。北風の吹く王都の大通りでは、花屋だけでなくお菓子屋さんや装飾品を扱う商会、ブティックや料理屋の店子さんたちが寒さに負けじと声を張り上げている。年の瀬の贈り物商戦もいよいよ正念場だ。

 その活気にあてられたのか、うちのお店にやってくるお客さんもぐんと増えた。

 中には次期宰相と噂されるローランズ侯爵家のクライド様にそっくりなお客さんがいたりしてビックリしたこともあった。

 まあうちのような小さいお店に貴族の方なんて来るはずがないし、お話を聞いてみるとなにやら少し残念な女性に随分と苦戦されているようなので、すぐによく似たそっくりさんだと気づいたけど。……残念とかわたしがいうなという話でもあるけれど。

 相変わらず忙しなく過ぎていくディア・ウィーク直前の日々には、けれどもほんのわずかな変化があった。

 たまに眼鏡さんと遭遇するようになったのだ。

 場所はお店の並ぶ大通り。前まではそんなこと一度もなかったのに、最近はおつかいに出かけると本当によく会う。

 することといえば他愛のない会話くらいだけど、やっぱりわたしは挙動不審で、眼鏡さんはにこにこと笑いながら相手をしてくれて。その度に得体のしれない病気が発生して胸が苦しく……。

 ――いや、うん、違う。これは病気じゃない。さすがのわたしにも理解できた。いくら人見知りでもそこまで鈍くない。悪あがきはそろそろやめよう。

 これは、アレだ。その……ここここ、こっ、「こ」ではじまる、たぶん甘酸っぱくてレモン味のやつ。

 いままで図書館の本で読んだものと症状は同じ。物語に出てくる可愛らしい女の子たちは、それぞれ若干の違いはあってもみんな同じような状態に陥っていた。

 まさか褒められて握手したくらいで……と自分でもあまりのたやすさに愕然としたけれど、いくら否定しても胸の苦しさはなくならない。夕飯もサラダとスープとパン二つしか食べれなくなった。前まで四つはいけたのに。

 ……わ、わかってる。自分には分不相応な気持ちだって。

 たぶん眼鏡さんは誰にだって優しい人なんだろう。じゃないとこんな根暗に優しくする意味がわからない。

 で、でででも! 想うだけなら許されるはず! わたしみたいな人見知り末期の前髪カーテン女にも、人並みに片想いする権利くらいは、与えてください神様お願いします……!

 ……はあ。なんだか思考がうまくいかない。いままで想像もしなかった感情に、心も身体も振り回されっぱなしだ。

 仕事でも小さなミスを連発してお父さんに怒られた。食欲がなくなったことには「食費が浮く」と喜んでいたけれど。……お父さん、わたし、生まれてきてよかったんだよね?


 とにかくこのままじゃダメだ。お客さんにまで迷惑をかけてしまう。そもそも眼鏡さんに恋人がいる可能性だってあるのだ。いや、あんなに完璧な人なんだから絶対にいるだろう。ひょっとしたら奥さんがいたりして……あ、れ……? もう、終わってる?


 ――どどど、どうすればいいんだろう!?


 たやすく追いつめられたわたしは、ふと、このあと会う人のことを思い出した。

 そうだ、聞いてみよう。きっとあの人なら恋愛のことにも詳しいはず。

 いきなり相談なんてあつかましくて気が引けるけど、他に頼れそうな人がいない。

 午前の仕事の片づけと戸締りを済ませ、お店の看板をくるりと裏返すと、縋るような気持ちで待ち合わせ場所へと急いだ。





「恋ですか……」


 ぽつりと反復された言葉に思わず頬が熱くなる。

 その声の主はもちろんリズさん。

 静かに昼食後の紅茶を飲む姿がすごくサマになっていらっしゃる。


「は、はははいっ」


 対するわたしは緊張のあまり壊れかけの風見鶏よろしく首をガクガク振ることしかできない。この違いはいったいどこから生まれるのか。誰でもいいから教えて欲しい。

 現在、わたしたちはクレイヴィール学院のカレッジ内にある食堂で昼食をとっていた。

 職員さんの招待があれば利用することが可能なので、リズさんが「よければ」とランチに誘ってくださったのだ。

 さすがはクレイヴィール学院の食堂。メニューが豊富で安くて美味しい。これなら貧乏なわたしでも遠慮なく注文できる。

 リズさんおすすめのオムレツとミートパイのコースを堪能し、食後の紅茶をいただきながら、思いきって目下の悩みを相談することにした。

 周囲の人の多さに断念しかけたけど、すでに仕事に支障がではじめている。背に腹は代えられない。なぜか遠くからこちらをジッと見続けている華々しいご令嬢の視線に折れかけたりもしたけど、わたしは、追い詰められているのだ。

 なんとかここで解決の手がかりを見つけなくては。


「わたしなどに大したアドバイスが出来るとは思えませんが……内容をお聞きしても?」

「は、はい! ありがとうございます!」


 嬉しさのあまり飛びあがりそうになりながら、手短に状況を説明することにした。

 き、緊張する……ちゃんと伝えられるだろうか?


「え、えっと……わ、わたしは、いままでお花くらいしか、お話しできる相手がいなかったんですが……つい最近になって、ようやく、め、眼鏡さんとも、お話しできるようになりまして」

「――――メガネ、さん……ですか……?」

「はっ、はい……その、とても優しくて」

「優しい」

「い、いつも、ぎこちないですけど、お話しすると楽しくて……」

「……会話が、成立するのですか」

「え? あ、はい」


 なんだろう? ……あ、そうか。リズさんはわたしが絶望的に人類と会話できないという悩みをしってるんだ。そのことを考えると――お、お友達っ、に、なる前から、お世話になりっぱなしだ。

 いつか、ちゃんとお礼をしたいな。


「そ、それで、あの……ど、どうやら、すっ、すすす好き、に、なってしまったようで……」


 ああ、いってしまった。

 胸がドキドキして破裂しそう。

 みんな、恋の話をするときはこうなるんだろうか。


「……難しい、恋のようですね」

「そっ、そうなんです!」


 す、すごい。さすがはリズさんだ。たったこれだけの情報ですべてわかってしまうなんて!


「あの、わたし、どうすればいいでしょうか……? なんだか、すごく不安で」

「それは……そう、でしょうね」

「こ、こういうこと、本当にはじめてで、色んな人に聞いてみたほうがいいのかと……」

「――ダメです」

「え?」

「フローラさん、この話を他の人にしてはいけません。必ずわたしに話してください。時間の許す限り相談に乗ります。……だから、一緒に正しい答えを見つけましょう」


 リズさんの真剣な口調に、カッと頬が熱くなる。

 そ、そうだよね。こんな話、誰彼かまわずいいふらすなんてはしたないよね。そもそも話せる相手がいないし。

 で、ででででも……すごく、嬉しい。やっぱりリズさんに相談してよかった。

 リズさんは本当に優しい人だ。こんなわたしのくだらない悩みを打ち明けても、すごく真面目に考えてくれている。その姿に思わず眼の奥が熱くなった。

 いつかリズさんが困っていたらわたしが全力で助けよう。

 なにができるかなんてわからないけど、絶対に。


「……まずは、相手のことをよく知りましょう。相手がどういう存在であるかを知れば、見えてくる道があるはずです」

「は、はい……!」



 こうして、わたしは生まれてはじめての恋に最初の一歩を踏み出した。





 幸せというものはどうやら連続でやってくるようで。


 リズさんと昼食をご一緒した日の夕方、またしても市場で眼鏡さんに会った。


 ど、どどどどうしよう!? もっとちゃんとした服を着てくればよかった! ここのところよくお会いしてるのにわたしはなんで仕事着に適当なコートを羽織っただけの油断しきった格好でおつかいに……っ! 髪型は……うん、安定のカーテン。……これ、切った方がいいのかな? いや顔が見えたところでなにか期待できるような代物ではないけれど。

 などとひとりで百面相を繰り広げている絶賛挙動不審中のわたしにも、眼鏡さんはいつもと変わらない優しげな笑みを向けてくださった。

 聖人か。


「あと、その、ここここここんにち……じゃ、なくてっ、こ、こんばん、は……」

「こんばんは。今日もお買い物ですか?」

「は、はいっ……えっと、よく、お会いしますね?」

「…………そうですね」


 なんだろう、いまの間は……? あと眼鏡さんが困ったような苦笑を浮かべていらっしゃる。つい最近よく見るようになった表情だ。


「……私は、お会いできて嬉しいですよ」


 そして突然のころし文句! なんで!? 眼鏡さんは人見知りの息の根を止める気なの!? ひょっとして社交辞令で除霊するつもりなのかやめてくださいわたしこんな見た目ですけど幽霊じゃないんです!!

 ぜったい赤くなってるだろう顔を隠さないと! あ、でも夕陽のおかげでごまかせるかも。

 ……う、うん。大丈夫。大丈夫だからとにかく落ち着こう。じゃないと通り過ぎていくみなさんがわたしの奇怪な動きを生温かい目で見ていらっしゃる。


「そうだ。今度フローラさんに会ったら渡そうと思っていたものがあったんです」


 そういって、眼鏡さんはフロックコートの懐から細長い箱を取り出した。

 手渡されたそれをおそるおそる開ける。


 中には、シンプルで可愛らしいデザインの眼鏡が入っていた。


 わぁ……え、眼鏡?


「え、っと……?」

「ああ、レンズはただの硝子です。少しだけ特殊な加工をしていますが……お気に召しませんでしたか?」

「あ、い、いえっ」


 気に入るとか気に入らないとかあるのだろうか? 眼鏡に?

 よくわからないけれど、なにやらこの場で装着した方がいいらしく、眼鏡さんはじっと待っていた。この場合の『眼鏡さん』とはもちろん人間の方である。

 この眼鏡はどうやら折りたたみ式みたいだ。耳にかける部分が小さなネジで固定されている……こ、これ、高くないのかな? お金払えっていわれても無理ですよ?

 ま、まあでも、一度試すくらいならいいかな……?

 わたしは思い切って眼鏡をかけてみた。


「あ……」


 なんだか、不思議な感じ。少し景色がぼやけて見える。

 それも全然というほどではなくて、前髪で覆っているときより視界は良好だ。でも細部はぼやけているので周囲を歩く人たちの視線が気にならない。

 手で前髪を押さえつつ眼鏡さんの方を向く。

 その上品なお顔は、冬の夕焼けに赤く染まっていた。


「……よくお似合いですよ」

「! あ、ありがとう、ございましゅ!?」


 ふわっと蕩けるような微笑み。

 うわー、うわー……こ、こんな顔だったんだ。いままで前髪の隙間からチラチラ覗くくらいだったから、知らなかった。

 優しい曲線を描く唇。少しクセのある柔らかそうな髪。冬の空みたいに澄んだ瞳は、穏やかな知性の輝きを灯している。

 いま自分の顔はきっと真っ赤だろう。でも、そんなことが気にならなくなるくらい、わたしは眼鏡さんの表情に見とれていた。


「髪が入ると眼が悪くなるそうなので、よければその眼鏡を使ってください。それなら周囲の視線も気にならないでしょう?」

「あ! で、でも、お、お金……」

「かまいません。この間は素敵な花を選んでもらいましたし、そのお礼ということで」


 ふわぁぁぁああ!? や、やめてください! そんなきらきらした顔で見られたらわたしは灰になってしまいます……!


 相変わらずたやすく挙動不審になってしまうけれど、今日は忘れてはならない課題があった。

 それはリズさんにいわれた『相手をよく知ること』。

 わたしは深呼吸をして、鳴りっぱなしの心臓をなんとか宥める。


「あ、あの!」

「はい?」

「おっ――お名前、をっ、お聞きしても、よろしいでしょうか!?」


 息つぎもせず勢いだけで尋ねる。

 だって、せっかくリズさんが教えてくれたんだもの。ここでなにもしなければ、わたしは本当にただのダメ人間になってしまう。

 心臓が痛い。足が震える。

 視線を逸らすこともできないわたしの目の前で、少し見開かれた眼鏡さんの瞳が、再び柔らかな弧を描いた。


「――レヴィンです」


 ああ、よかった。教えてくれ……あれ、それだけ?


「あの、えっと……ご、ご家名……」

「レヴィン、です。フローラさん?」


 にっこり。

 ……あ、あれ? 教える気、なし?

 あ、いや、それより、呼べってことですか? その笑顔……こっ、ここで!?


「あの、その…………れ、れれ、れれれっ、レヴィン、さん……っ!」

「はい」


 返事をする眼鏡さんの声は、なんだかとても満足そうなものだった。

 ……対するわたしは、もう色々と限界でボロボロだったけれど。



 冬の気配がより色濃くなったその日。

 わたしは、片想いの人の名前を手に入れた。



     ☆彡



「ついに……名前が……」

「は、はいっ。あ、あああ、あと、この眼鏡もいただいてしまって!」


 報告を聞いたリズさんは「贈り物まで……」と少し驚いたような声をもらした。

 い、急ぎすぎたかな? 眼鏡はわたしが欲しがったんじゃないんだけど……あ、や、でも、うううううう嬉しいんだけどね!?

 今日はせっかくなのでと前髪をピンでとめて、もらった眼鏡をかけてきている。あ、リズさん、そんなに見つめられると照れてしまいます……。


「……急展開ですね」

「はい。わたしも、驚いてます……」


 名前だけじゃなくプレゼントまで。このカフェを出てすぐ乗合馬車に轢かれたとしてもなんら不思議じゃない。今日はいつもより挙動不審になりながらここまで来た。


「やっぱり、れ、レヴィンさんは眼鏡が……その、お、お、お好き、なんでしょうか……?」

「それは必然的にそうなると……あ、いや、当然フローラさんのことをお好きだと思いますよ。ええ。もちろん」

「そ、そんな……!」


 は、恥ずかしい。たとえリズさんの気遣いなんだとしても、その言葉はとても嬉しいものだった。

 ……ゆ、夢くらい、見てもいいのかな?



 リズさんと別れたわたしは、なんとなく王都をぶらぶらとお散歩していた。

 普段ならこんなことはしない。けど、今日はなんだか気分がよかったのだ。

 身を切るように冷たい風も、いまは少し和らいでいるように感じられた。

 時間はまだお昼前。今日はディア・ウィーク前の最後の休日なので、気分転換にちょうどいい。

 貴重な昼番の出勤前の時間をわたしなんかに割いてくれたリズさんに感謝しながら、ゆっくりと石畳の上を歩く。ひょっとしたら今日もレヴィンさんに会えたりして、などと、のんきなことを考えながら。


 結論からいうと、片想いのお相手には会えた。

 いや、見かけた、というべきか。

 場所は北へと伸びる住宅街の小道。

 お店の借金をしている大手商会の前がなんとなく通りづらくて、裏道を選んで歩いていたときのこと。


 ――道のまんなかで、綺麗な女性に抱きつかれている眼鏡さんを見た。


 慌てて脇の小道に飛び込んで。ちゃんと確認しようと顔だけ出して。

 やっぱり、そこには女の人に抱きつかれて微笑むレヴィンさんがいて。


 ああ……あれは、わたしが見たことのない表情だ。


 気がつけば身体は勝手に駆けだしていた。

 家へと。勝手に浮かれていた自分が恥ずかしくて。切れる息もそのまま。吹き抜ける乾いた風に頬を打たれながら。周りの視線なんて気にする暇もなく。

 飛びこむようにお店の扉をくぐって、大きく肩で息をする。

 肺が痛い。やけに湿った音が、喉の奥から聞こえていた。


「おい……どうしたフローラ?」

「おとう、さん……」


 聞き慣れた大きな足音。

 視線をあげると、そこにはとても花屋には見えないお父さんの顔があった。

 でも、どうしたんだろう?

 今日はいつにも増して難しい顔をしている。


「どう、した……の?」

「どうしたもこうしたもねぇ……ローグの野郎、聞いたこともねぇ高額な商品の代金を上乗せして、いますぐ借金を全額返せなんぞとぬかしやがった」


 口調を荒げてお父さんがいう。

 ローグというのは王都で一、二を争う大きな商会の名前だ。商店相手の金貸し業にも携わっていて、うちもそこからお金を借りている。

 利子が高くて催促も乱暴だから評判がよくないけど、うちのような小さいお店は他にお金を借りられるところがなかった。

 けど、借金はちゃんと決められた日にコツコツ返してきたはず。あと一年で全ての返済が終わるのに、なんで急にそんなことをいってきたんだろう。

 それに聞いたことのない商品って……。


「フローラ……お前、まさかとは思うがアイツから何か受け取ったんじゃねぇだろうな?」

「あいつ、って……?」

「ローグの跡取り息子だよ。ここのところちょくちょくウチに来てただろうが。あの、レヴィン・ローグとかいう……」


 ――息が止まった。


 レヴィン、さん……?

 どういうこと?

 眼鏡さんがローグ商会の跡取りで、わたしがなにか、受け、とって……?


 心臓がいやな音をたてる。

 感覚のない指先は、気がつけば目の前にぶらさがったままのモノに触れていた。


「……やっぱりか。おかしいと思ってたんだ。最近のお前の様子も、急にあのクソガキが姿を現したのも……まさか娘に手ぇ出してきやがるとはな。とんだクズがいたもんだ」


 その言葉を最後まで聞くことはできなかった。

 もう身体が自分のものじゃないみたい。

 あちこちぶつかりながら階段を駆け上がって、必死で部屋の扉の鍵を閉めた。

 下からお父さんの声が聞こえて、慌てて耳を塞ぐ。聞きたくない……聞きたくない、ききたくない……っ!

 ギュッと両手で押さえて、もうなにも聞こえないように。

 さっきまで明るかった視界が真っ暗になる。

 気づかないうちに目蓋も閉じていたらしい。


「ぅ……く……っ」


 みっともない。

 最初からわかってたことじゃないか。

 恋なんてわたしにはムリだって。

 それは分不相応な感情なんだって。


 お父さんにまで迷惑かけて……バカみたい。




 ――その日、わたしの生まれてはじめての恋は、跡形も残さず崩れ去っていった。



     ☆彡



 ……どれくらいこうしているだろう。

 まるで時間の間隔がない。

 自分の輪郭があやふやで、このままいけばそのうち空気に溶けだしてしまいそうだ、

 ベッドに潜って。なにも口にせず。なにもいわず。ただぼんやりとする意識を繋ぎとめて、誰のものかもわからない呼吸の音を聞いていた。

 ふいに、ドアをノックする音が響く。

 お父さんかな? そういえばもうすぐディア・ウィークだっけ。ひょっとしたらもうはじまってるのかも。

 大事なときに役立たずな娘でごめんなさい。

 お母さんとの約束も、結局、守れなかったな……。

 そうして現実から逃げているうちに、いつも扉を叩く音はすぐ遠ざかっていた。

 だけど、今日はずいぶんと長い。

 最初のコンコンという音がドンッドンッという……あ、れ? ……は、激しくない……?

 まるで部屋ごと揺さぶろうとでもいうような衝撃は、やがて、ひときわ大きな音とともにピタリと止んだ。

 勢いよく倒れてきた扉の先、そこには――


 ――肩で息をするリズさんが、立っていた。


「あ、ぇ……え! り、リズさん!? なななななん、で……」


 慌ててベッドに隠れようとするわたしの腕は、大股で近づいてきたリズさんの手に捕まった。

 いつもの落ち着いた雰囲気はどこにもない。荒げた呼吸はそのままに、リズさんは力づくでわたしをシーツから引きずり出した。


「扉を壊して申し訳ありません。あとで必ず弁償します……ですが、大切な友達の幸せが懸っているというのに、扉ごときに邪魔されたくなかったのです」


 それはあまりにもリズさんらしくない態度だった。

 声が少し震えていて、鋭く凛々しい眼差しは、まるでいつものわたしみたいに頼りなく揺れていた。


「すみません。わたしは、大きな勘違いをしていました」

「……え?」

「ロー……知人、から教えてもらいました。フローラさんが寝込んでいることも、その理由も、そうなった騒動の真相も、すべて」


 捲くし立てるようにいわれて、わけがわからず混乱する。

 えっと……リズさんは、いったい、なにを……?


「フローラさん……まだ、レヴィンさんのことを想っていますか?」


 ――完全に不意打ちのその言葉は、鋭い棘のように胸の奥を引っ掻いた。


「あ、と……それ、は……もう、いい、です……」

「よくありません!」


 聞いたことのない大きな声が、わたしの言葉を遮る。少しビックリしたけど、いまは聞けない。……もう、やめて欲しい。

 どうして? どうして、みんなわたしを放っておいてくれないんだろう。

 もういいのに。……ほんとに、もうどうだって……。


「……フローラさん。わたしに花をくれたときのこと、覚えていますか?」


 声の位置が近くなった。

 リズさんは床に膝をついて、視線を合わせようとしてくれているらしい。

 そんなことしちゃダメです。スカートが、汚れてしまう。

 ……でも、わたしはどうしても顔をあげることができなかった。


「わたしは、ずっと不安だったんです。友達になろうだなどと勝手なことをいって、迷惑ではなかったかと……フローラさんと同じです。わたしも、友達なんてあまりいませんから」


 そんなの、ウソだ。リズさんに友達がいないなんて、そんなのありえない。


「本当ですよ? フローラさんは褒めてくれますが、この目付きはいつも他の人に怯えられるんです。……でもね、だからこそ嬉しかった。お花をくれたこと。親しい友人だと思っていると、フローラさんがそういってくれて、わたしがどれほど嬉しかったか……」


 滔々と信じられない話が続く。

 こんなに素敵なリズさんが、まさか。いや、でも……。


「わたしは、フローラさんを花のような人だと思っています。知ってますか? あなたは誰かのお花を選ぶとき、ずっと呟いているんです。『あれもいい、これもいい』って。……そうしてその人に一番合う子を見つけたら、とても素敵な笑顔で花の説明をしてくれる。一生懸命に。決して手を抜くことなく、いつだって全力で花と人のためにあろうとする。

 わたしは、フローラさんのそういうところに心惹かれたんです。図書館にやって来ては、ずっと休憩もとらずに植物の本とにらめっこしているような、そんなひたむきな姿勢に」

「りず、さん……」

「わたしたちの間にあった種は、たくさん水をもらって綺麗な花が咲きました。……でも、フローラさんが抱く花の種は、まだ水を与えられていないでしょう?」


 ああ……そうかも、しれない……。

 だって、わたしは一度も自分から動いていない。

 ずっとひとりで塞ぎこんでぐずぐず嘆いていただけで……わたしは、一度もこの胸に芽生えた想いを、眼鏡さんに伝えていなかった。


「ね、フローラさん。わたしが応援します。――だから、頑張って花を咲かせてみませんか?」


 それはとても優しい声だった。

 凍えた大地を溶かす、春の柔らかい陽射しのような。

 じわりと胸の奥へと染み込む言葉につられて、わたしは窓辺の鉢花を見た。

 可憐な花びらに『小さな愛』を抱いたセントポーリア。

 生まれてはじめてのお友達がくれた、大切な宝物。


 ――まだ、あきらめたくない。


 わたしは利用されていただけなのかもしれない。

 あの綺麗な女の人には、わたしなんかじゃ逆立ちしたって敵わない。

 告白したって、きっとうまくなんかいかない。

 レヴィンさんは迷惑に思うのかもしれない。

 ……でも、このまま終わってしまうのはいやだ。絶対に、いや。


 どうしても、この想いだけでも、伝えたい。

 だって、せっかくわたしの心に根づいてくれたんだもの。

 たとえ花が咲かず枯れてしまうのだとしても、わたしが最後まで面倒を見てあげなきゃ。


「リズさん」


 覚悟を決めて、のろまなわたしはようやく顔をあげることができた。

 久しぶりに見た気がするリズさんの表情は、なんだか穏やかに感じられた。


「わたし……伝えます。レヴィンさんに…………好きです、って」


 いまのわたしには短く告げるだけで精いっぱい。

 でも、リズさんはとても力強い声で、


「――それでこそ、わたしの自慢のお友達です」


 そういって、弱虫なわたしの背中を押してくれた。



     ☆彡



 なんだかお店の外が騒がしい。

 気づいたのは、身支度を整えて久しぶりに店舗の一階部分へ下りたときのことだった。

 扉の窓から見えるのはお父さんの大きな背中。その向こうに、大勢の人だかりがある。

 どうしたんだろう? たとえいまがディア・ウィークだとしても、あんな風になるのはおかしい。

 いつもなら忙しくても明るい空気が流れているのに、いまは……まるで、告別式みたいだ。

 付き添ってくれているリズさんも怪訝そうに押し黙っている。

 外に出るのが怖い。

 ……でも、自分で動きだすって決めたから。

 わたしは大きく息を吸い込んで、古い扉に手をかけた。


「いい加減にしろ! 急に残りの借金を全額返すなんざ無理に決まってるだろ!」


 聞こえたのはお父さんの怒鳴り声。いつも不機嫌に見えるけど、ここまで怒っているのははじめてかもしれない。

 ここからじゃ背中しか見えないけど、それでも苛立つ気配がひしひしと伝わってきた。

 そんなお父さんを取り囲んでいる人たちには見覚えがある。

 ――ローグ商会の人たちだ。

 やっぱり大手だけあって人数が多い。近所の人々も心配そうにこちらを覗き込んでいた。

 その中心には、会頭であるローグさんがいる。

 骨ばった長身に、どこかくすんで見える茶褐色の瞳。白い色が混じるグレーの髪をきっちりと後ろに流したその姿は、たしかにやり手の商人という風情を漂わせている。

 だけど、なんとなくイヤな笑い方をする人だ。まるで他人の不幸を笑うような。

 いまだにレヴィンさんと親子だなんて信じられない。

 わたしは昔からこのおじさんが苦手だった。


「おや? お前には店も商品も、明日からの生活費もあるだろう、オルコット?」

「……それは、俺たち家族に死ねっつってんのか?」

「そんなことはない。ただ、いますぐ高額な商品代と借金を返して欲しいだけさ。本来ならこれは息子の役目だったんだがね。あの出来損ないめ、仕事を放ったらかしてフラフラと……仕方ないから私が直々に取り立てにきたんだよ。強制回収じゃないだけ感謝して欲しいものだ」

「同じことだろうが!」

「お前にはまだ選択の余地を与えているだろう? この店を売るか、あるいは……」


 口端を吊りあげたローグさんが、チラリとこちらを見た。それはとてもイヤな感じの視線だった。


「……そこの娘を娼館に売り払う、という手もあるな」


 その言葉でお父さんの身体が一回り大きくなったように感じた。

 怒ってる。すっごく。いまにも飛びかかるんじゃないかとハラハラする。向かいの商会の人たちが青くなって後退さった。

 あ、リズさんがわたしをかばうように前に立ってくれた。う、うれしい……。

 ……とか、いまはそんなこといってる場合じゃなかった。

 わたしはお腹に力をいれて、一歩前に出る。


「な、なにを、そんなに焦っているんですか?」

「……何だと」

「わたしには、なんだかローグさんが焦っているように、見えます……そっ、それに、レヴィンさんは、出来損ないなんかじゃありません!」


 これは自信がある。

 ほとんどお話ししたことはないけど――でも、この一年間、わたしは優しい眼鏡さんを見てきたから。


「れ、レヴィンさんの靴が、二ヶ月で買い換えられること、知っていますか? ……新しくなっても、たった一ヶ月で底が磨り減ってしまうんです。とても姿勢がいいのに、あちこち歩き回って、たくさんお仕事をがんばっているから、すぐダメになるんです」


 ……ああ、だからわたしは「もしかしたら」と思うのを止められないのかもしれない。

 しっかりとお手入れされた靴が、それでも二ヶ月でボロボロになってしまうところをずっと見てきたから。

 真面目に、まっすぐに。疲れているときでも笑顔を絶やそうとしないレヴィンさんが、どうしても悪い人だとは思えなくて……。


「……出来損ないなんかじゃ、ありません。どうして、ご自分の息子さんを、そんなに悪くいうんですか?」

「う、うるさい! おい、あの生意気な小娘を捕まえろ! そのまま娼館に向かう!」


 ローグさんが大きな声で怒鳴る。

 ……でも、どうしてか周りの人は身じろぎすらしなかった。


「おい、どうした? 何故誰も動かん! ボサッとするな! さっさと働け!」

「……無駄ですよ会頭。その人たちはすでに貴方の部下ではありません」


 ――聞き覚えのある静かな声に身体が強張る。


 人垣を割って現れたのは、やっぱりレヴィンさんだった。

 だけど、その表情はいつになく険しくて、呼吸も少し乱れている。

 ここまで走ってきたみたいだ。

 そんなに慌てて、どうしたんだろう?


「ど、どういうことだレヴィン! 貴様、いままで何をしていた!」

「貴方の愚行の後始末ですよ……資金回収を急いでいた理由は、これでしょう?」


 そういって、レヴィンさんは一枚の羊皮紙を突きだした。


「――収支報告の不備による監査通告。もし受け入れなければ国は強制執行に入る。貴方はそこで商会の使途不明金について調べられることを恐れた……違いますか」

「なっ……!?」

「貴方が妾にいくら私財をつぎ込もうとそんな些事に興味はありません。ですが、組織の資金に手を出したことは愚鈍の一言で済ますわけにはいかない。

 過去数年にわたる帳簿や報告書の改竄はこちらで然るべき処理をしました。足りない金額と愛人たちの家にあった贈物の見積もりがほぼ合致、裏付けも取れたので言い逃れは出来ません。会頭、今日をもって貴方には現在の地位を退いていただきます。これは支店を含めた幹部会全体の総意ですので、抗議は無意味とお考えください」

「ば、馬鹿な……あ、ありえん! 幹部達が、私に楯突くなど……!」

「おや、貴方は何か勘違いをしているようだ。彼らは経営陣である前に歴戦の商人です。より利益が生まれる道を進むのは、商人として当然の選択でしょう?」


 冷厳な声で告げる眼鏡さんは、わたしが見たことのない顔をしていた。

 そこにあるのは静かな怒り。苛烈ともいえる感情を、冷たい微笑の下に押し隠しているように見えた。


「私も同じです、お父さん。これまでは母さんとの約束があって貴方の下にいましたが、私の大切な人に危害を加えるというなら容赦はしません。聞けば私個人からの贈り物を勝手に借金に上乗せしたそうですね? ……この程度の処置で済んだことを幸運だと思ってください。私があと少し浅慮なら八つ裂きにしているところです」

「あ、ぁ……」

「さあ、前会頭はお疲れのようです。新しい住まいにお連れしてください」


 レヴィンさんの号令で商会の人たちが動きだす。なにもいえなくなった会頭さんは、そのままどこかへ連れ去られていった。

 あまりにも急すぎる展開についていけず、わたしはポカーンと一連の流れを眺めていた。

 いや、わたしだけじゃない。リズさんやお父さんも同じような顔をしている。

 やがて、放心状態のわたしの前に、申し訳なさそうな表情のレヴィンさんが立った。


「皆さんには大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ありません」

「へ? ……あ、い、いえ! ぶ、ぶ無事だったので! お気になさらず!」

「そういうわけにはいきません。フローラさんが寝込んでしまったのは、私の行動が原因なのでしょう?」

「あ、ぇ……えっ!? な、ななななんで!?」

「悪友から聞きました。私が女性に抱きつかれたところを見られていたようだ、と。……今更いい訳のように聞こえるかもしれませんが、あれは会頭の妾の一人です。証言を得るためにどうしても近づく必要がありました。しかし、誓って私は彼女に何もしていません。……それを証明する方法は、どこにもありませんが……」

「えええええっ!? だ、だだだ大丈夫! 信じます! 信じますから!?」


 ますます眼鏡さんが落ち込んでしまって、わたしは大いに慌てふためいた。

 そ、その顔はやめて欲しい。なんだか捨てられた仔犬みたいだ。さっきまでの冷徹な策士のお兄さんはどこへいったというのか。

 ……でも、なんだか安心した。

 やっぱりレヴィンさんは悪い人じゃなかった。

 真面目で、誠実で、きっとすごく仕事はできるんだろうけど、少し不器用な優しい人。

 これまでの厳しい表情も、ひょっとしたらがんばって作っていたんじゃないかなって、浮かんだいつも通りの苦笑を見ると、なんとなくだけどそう思う。

 ホッとして、なんだか身体の力が抜けて。


 ふと意識が緩んだ瞬間に、脳裏をよぎったのはリズさんとの約束。


 ……気づけば、わたしは口を開いていた。


「レヴィン、さん」

「はい、どうされました?」

「……す、好き、です」

「――――っ!」


 身体が燃えるように熱くなる。頭の中が真っ白になって、心臓はこわれそうになるくらいうるさくて。

 あふれだした想いは、堰を切ったように止まらなくなった。


「レヴィンさんの、ことが……好き…………好き、なんです……っ!」


 半泣きで、膝もガクガク震えていて。

 もっとこう雰囲気とか、時間とか、場所とか、考えることはあったはず。

 だけどもう色々と限界で。

 ただ伝えなければとその一心で……わたしは、盛大にやらかした。


 ようやくほんのり理性を取り戻したのは、顎を落っことしそうなくらい口を開いたお父さんや、表情は変わらないけどビックリしているらしいリズさんや、なにより大きく目を見開いたレヴィンさんの顔を認識したときのこと。

 ――サァッ、と血の気が引いていくのがわかった。


「あっ!? えとっ、こっ、これっ、ちが……っ!?」

「……フローラさん」


 慌てて逃げ出そうとしたけど、それは囲い込むような動きであっさり阻止される。

 わたしの身体は、二本の腕でしっかりと抱きしめられていた。

 ……あ、れ?


「ぁえ!? れ、れっ、レヴィ、さっ!?」

「このお店の合い言葉……フローラさんは、その由来を覚えていますか?」


 や、ややややめて耳元で囁かないでアタマ沸騰します!?

 合い言葉ってなんのこと! この状況でなんの話がはじまったの!?


「ちょうど十年前、貴女がいってくれた言葉なんですよ? ……優しかった母を亡くし、女遊びにうつつを抜かす父に失望し、何も信じることが出来なくなった私に、貴女が小さな手で花束を渡しながらいったんです。――『あなたがたくさん笑顔になれますように』と」


 ――え。

 そ、そうだったかな? 十年前だと、わたしは六歳で、レヴィンさんは十歳、くらい?

 ……えええええ!? 六歳のわたし、そんな大胆なことを!? ぜ、全然覚えてない!


「あの時も、貴女は一生懸命に花を選んでくれたようでした。そうして父の便利な側付きとしてここへ連れてこられた私に、震える手と声で祝福をくれたんです。それまではたしか違う言葉だったと記憶していますので、お父様が採用されたんでしょうね」


 その言葉を聞いて、お父さんの方を振り返る。あ、顔を逸らした。……て、照れてるの? お父さんが……?


「ひょっとしたらご両親を真似たつもりだったのかもしれません。それでも、私はその心に救われた。人と接することが苦手なのだろう貴女が、懸命に選んでくれた花と言葉に。……それから死に物狂いで勉強して、各地を飛び回って力をつけました。もし貴女に何かあった時、私の手で守り抜けるよう……十年も、かかってしまいましたが」


 そうこぼした眼鏡さんの顔を、わたしはなんとなく想像できた。

 きっといつもの困ったような笑顔を浮かべているんだろうな、と。もう声でわかるようになってしまった。

 ふいに、密着していた体温が離れて。

 地面に膝をついたレヴィンさんが、わたしの左手をとった。


「このお店で一番綺麗な花束をください」


 唐突に投げかけられたのは、ディア・ウィークの合い言葉。

 え? ど、どういうこと? ブーケもなにも準備できないのだけれど……こ、これは、祝福の言葉を返せってこと?!

 理解が進まず戸惑うわたしを、レヴィンさんは身じろぎもせず待ち続けている。

 あああああ……い、いえば、いいの?


「あ、あなたが、たくさん笑顔になれまひゅ、ように……」


 ほらね! だから急に人見知りに無茶なことさせちゃダメなんですってば!?


「――もう貴女と離れてちゃんと笑える自信がありません。どうか、傍にいさせてください」


 そういって、レヴィンさんがいつもの不器用な笑顔を浮かべる。

 再び穏やかな体温に包まれて、遠くでお父さんの雄叫びみたいなものが響いて。

 わたしはなんだか頭がふわふわとしたまま、



 ――――気絶した。




「あ、れ……フローラ、さん……?」

「こんのクソガキィィィ! ウチの娘になにしやがる! その手ェ離さんかコラ!」

「ちょ、ご主人、その人を揺すってはいけません。娘さんも一緒に揺れてます。……フローラさん、聞こえますか? フローラさ――」



     ☆彡



 短い夢をみた。

 それはわたしがまだ小さい頃の夢。

 お花でいっぱいのお店の中には、なんだかいやな笑い方をする知らないおじさんと、ふてくされたような顔の男の子がいた。

 お父さんはおじさんと難しいお話をしていて、放っておかれた男の子はひとりぼっち。

 ……どうしてだろう。わたしには、その子がなにかに耐えているように見えた。

 俯いて必死に涙を隠しているような、そんな顔。

 見ているうちになんだかわたしまで悲しくなって、慌てて売れ残りのお花でブーケを作った。

 花言葉なんてまだわからないから、とにかくとびきり綺麗な花を選んで。

 あの子が元気になれますようにと、たくさんたくさん願いをこめて。

 震える足に力をいれて、逃げそうになる心を抑えこんで。

 うろ覚えの祝福の言葉を必死に思い出しながら、わたしはいった。


『あ……あなたがっ、たくしゃん、笑顔になれましゅ、ようにっ!』


 まるでちゃんとした声にならなかった。

 ほんとにこんな言葉だったっけ?

 混乱して頭が真っ白になる。

 意味もよくわからない言葉を聞かされた男の子は、ビックリした様子で目を見開いた。

 何度も何度も、わたしと花束に目を向けていた。



 夢からさめる間際になって、ようやく男の子は花束を受け取ってくれた。


『……ありがとう』


 彼はなんだか泣き出しそうな、とても不器用な笑顔を浮かべて、そういった。



     ☆彡



 大切な人に日頃の想いを告げるディア・ウィーク。

 この時期の王都はそわそわと落ち着かず、それでもなんだか楽しくなる賑やかな空気が流れています。

 あなたには誰か大切な人がいますか?

 もしいるのなら、まずは花束を準備しましょう。

 メインストリートにもお花屋さんはありますが、オススメのお店があります。

 大通りから道を三本外れた西へ伸びる路地。その一角にある赤い屋根と白色の石壁、古い胡桃の扉が目印の小さなお店です。

 ……そうですね、わたしのお店です。意地汚くてごめんなさい。お肉が食べたいんです。いえ、こちらの話です。

 少し重たい扉を開けると柔らかな若草色を基調とした内装が見えます。

 もし運がよければ、眼鏡をかけたとても格好いいお兄さんが出迎えてくれます。

 そうじゃなければ、とても花屋にはいそうもない厳ついおじさんと遭遇します。

 店内にはたくさんお花がありますので、伝えたいメッセージに合わせてお好きな子を選んでください。

 もしよくわからないというときは、いよいよわたしの出番です。

 やたらと長い髪に眼鏡をかけた奇妙な女を探してください。それがわたしです。基本的に挙動不審なのですぐ見つかると思います。

 これでもお花のことには少し詳しいですから、丁寧にお答えしますよ。はい。

 あ、ディア・ウィーク用のブーケをお求めのときは、「このお店で一番綺麗な花束をください」と合い言葉を告げてくださいね。決まりではありませんが、お渡しの際には心をこめて祝福の言葉をかけさせていただきますので。


 ブーケを受け取ったら、あとは大切な人に想いをこめて手渡すだけです。

 告白は緊張のしすぎで噛んだり心臓が止まりかけたりしますが、きっと大丈夫。

 わたしが全力で応援します。


 生命の限りに咲く愛らしい花々が。

 どうか、次はあなたを幸せにしてくれますようにと願いをこめて。




「……あ、あなたが、たくさん笑顔になれまひゅようにっ!」







                               ―fin―






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― 新着の感想 ―
[一言] ええ話やのぉ!!! お父さんの体つきのよさは何か理由があるんですかね
[一言] 心温まる素敵なお話をありがとうございます!! 大切な友人のためには扉を破壊することさえいとわないリズさんが男前すぎて最高です! ローランドさんのお名前がちらりと登場して嬉しかったです。ふふふ…
[良い点] 全体的にほっこりした暖かいいいお話でした(*´∀`*) [一言] リズさんは何故主人公のお父さんに警戒されていたんでしょうか?
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