見知らぬ森
冷たいものが頬に触れた。私は腕をつき、起き上がると、辺りを見渡した。私の顔くらいの多きさの葉が目の前にあった。
大きな葉……。その葉をしっかりと認識してから、ぼんやりとした頭が次第にはっきりしていく。
私は肩の下まである栗色の髪の毛を耳にかけると、今どこにいるんだろうという現状確認を本能的に行っていた。
辺りを見渡すと木々が生い茂り、数メートル先さえ見渡す事も出来ない。空を仰いでも、密林の隙間から何とか目を凝らして見れるくらいだ。
私の手には湿気のある土が付着しており、それを払う。
私はさっきまで何をしていたんだろう。
長い時間眠っていたのか、さっきまでの行動が思い出せなかった。ただ、進藤美桜という名前もわかるし、どこの学校に通っていたのかもはっきり覚えている。
私の座り込んでいる位置から、一メートルほど離れた場所に、黒の革製のカバンが転がっている。学校に持っていくものだ。中身を確認するとちょうど水曜日のものだ。
そういえば、学校帰りに誰かに呼び止められ、振り返ったのを思い出した。
だが、振り返った私の背後には黒い空間が広がっていて、そこからの記憶がぷっつり途切れている。
「誘拐された?」
私の家は裕福でもないし、身代金なんて払えるわけでもない。
暴行目的だとしても、見たところ、私の手足には土がついているだけで何かされているようには思えない。身体で痛みを感じるところもない。考えれば考えるほど分からなくなっていく。
だいたいあの暗闇の空間は何だろう……。
遭難した時は動かないほうがいというが、もしかすると動けば見知った場所に出るかもしれない。人に会って現在地の把握をして、それから家に連絡を取って。今の私にできる状況の把握をする術を必死に考える。
動こうと決意して足に力を入れた時、キーの高く、あどけない声が私の耳に届く。
「こっちだよ」
私の視界に二つの影が現れた。
金の髪に、青の目をした二人の少女。肌の色は透き通るように白く、手足は無駄な贅肉がついていないのか、驚くほど細い。
西洋人のような顔立ちの二人組が流ちょうな日本語を話して寄ってきたのだ。
彼女たちは白い綿のワンピースのような洋服に身を包んでいた。
「起きたんだ。大丈夫ですか?」
そう髪の毛を肩まで垂らした少女が、にっこりと笑顔を浮かべ、私の顔を覗き込む。
その時、彼女の耳の上の部分が僅かにとがっているのに気付いたが、そんなことがどうでも良くなるくらいに可愛い。
その愛らしさに自ずと顔がにやけそうになる。
だが、私とその美少女の前に、細く長い手が差し出された。
髪の毛を後方で結った少女が鋭い目つきで私を睨んだ。
ふんわりとした優しい少女とは違う、きりっとした顔つきの少女だ。美少女には違いないが、彼女は可愛いというより美人だと思う。
「人間なんてろくなもんじゃないんだから、これ以上近づかないの」
「大丈夫だよ。優しそうな人じゃない」
「人間なんて残虐非道じゃない。髪を引っこ抜いたり、腕を切断したりするのよ。だからこれ以上近づくのは護衛としては見過ごせません」
「何の話?」
状況が呑み込めずに、彼女に問いかけようとするが、髪の毛を結った少女は、髪の毛を垂らした少女の肩をつかみ、私と引き離した。
「ちょっと待って。ここがどこか」
教えてくれと言おうとしたとき、彼女が何かを呟いた。
私の手足に冷たいものが絡みつく。体の動きを止め、びくりと肩越しに後方を見ると、背後の茂みから伸びてきた蔦が私の手足に巻き付いていた。私の両手両足はあっという間に縛られる。
何が起こっているの?
私はとっさのことで理解できずに、されるがままになっていた。
「リリー、またそんな攻撃的なことを」
少女が慌てて、私を睨む少女をなだめた。
「ローズは甘い。今まで私達が人間に何をされたか忘れたの?」
「分かっているよ。でも、いい人もいると思うの」
ローズと呼ばれた少女は目を潤ませる。
「本当、ローズはいつもそうだよね」
その少女は冷たいまなざしで私を見た。
「まあ、悪人には見えないわね。本当はこの場で氷漬けににして凍死させたいけど、一応女王様のところに連れていってあげる」
「ありがとう。でも、あらかじめお母様に状況を伝えるために、事情を聞いておきましょう。もう身動きもとれないもの」
「分かった。手短にね」
「あなたはどこの国の人?」
ローズは優しい笑みを浮かべ、私に近寄ってきた。
私不在で進んでいく状況が落ち着き、ほっと胸をなでおろす。
彼女たちは何か大きな勘違いをしている。だから、とりあえず今の私を分かってもらえば、誤解は解けるはず、と。
「日本です」
「ニッポン?」
ローズは不安そうな顔で私から目を逸らし、リリーを見る。
リリーは訝し気な顔で私を見る。
「嘘をついてごまかすなら、もっときつく縛ってもいいのよ」
リリーの目が怪しく光る。
私は殺気のようなものを生まれて初めて感じ、身震いする。
何でこの人達は何でそんなに怒っているんだろう。
日本語を使っているのに日本が分からない?
子供ならありえるかもしれないが、中学生か高校生に見える彼女たちなら、分かっても良さそうな気がする。
英語だと多くの国で通じるはず。だから、私は英語で習ったように言葉の後方にアクセントを置いて発音してみた。
「Japan」
「は? ジャ? 何?」
リリーの目じりが余計に上がる。
恥ずかしい思いをしたのに全く通じていない。
少し泣きたくなってきた。私の目元が僅かに熱を帯びてくる。
「言葉は通じるのに、何を言っているのか分からないのは問題ね。頭が錯乱しているのかしら」
さっきまで味方だと思っていた少女の突き放すような言葉に、私は肩を落とした。
日本が分からないのに、都市名を言っても通じるわけがない。私は自分がどこから来たのかを説明するのを諦めようとした。
「どうするの?」
「私はお母様に相談したほうがいいと思うわ。この木の茂みに隠して、お母様に事情を話に行きましょう」
だが、リリーは口元に手を当て、辺りを見渡した。
森の奥で草を踏みしめるのと枝が鳴る音がした。誰か来てくれたのかもしれない。
期待に胸を膨らませる。やっと話が通じる人が来てくれたのだ、と。
だが、ローズが私の手をつかんだ。
「茂みに隠れましょう。見つかると何をされるか分からないから、静かにしてください」
リリーが言葉を紡ぐと、私をしばっていた蔦が姿を消す。そして、彼女たちに連れられるまま、茂みに足を踏み入れた。
「こっちからあの女の話し声が聞こえてきたが」
野太い声とともに、大の大人よりも一回り程大きな男性が私達の目の前に現れる。彼は日に焼けた胸をはだけさせ、腰の部分で紐を縛っている。黒い目は獲物を刈るかのように鈍く輝き、唇は薄く血色が悪い。頬骨が張り、目鼻立ちがはっきりしていた。変な人だというのはその見た目だけで一目瞭然だ。彼の隣にはひょろりと背の高い、杖を持った黒のフードをかぶった男がいるが、顔は見えない。男の肌は逆に驚くほど白く、線も細い。
彼らは足を止めると、辺りを見渡した。
「こんな森、焼き払っちまえばいいのに」
フードの男が杖をぶらぶらと宙で動かすと、そうぼやく。
背丈の高い男が豪快な笑い声をしながらフードの男の背中を叩く。
「まあ、出来る限り被害を出さずに根絶やしにしていくのが一番いいのさ。妖精の国に被害を出さなければ、それだけ報酬も破格になる。気付かれたか? あいつらがいやしない」
「ちょこまかと、虫みたいな奴らですね」
がたいの良い男が背中に手を伸ばし、ゆっくりと手首を上方に逸らす。
そこには鈍く光る刀身があった。
私が声を出そうとすると、リリーが口を押えた。
「この剣の切れ味を試してみたい気はするがな。穏便にとは言われているが、一体か二体くらいなら殺しても構わんだろう。どうせあいつらを殺しても罪にはならない」
男は口元を歪ませると、剣を振る。私達のすぐ隣にある茂みの葉が刈られる。
私の背中に冷たいものが走る。
気づいたら知らない場所にいたどころじゃない。
リリーに口を押えられていなかったら、私は叫び声をあげ、その刃の餌食になっていた可能性もある。
「片っ端から草刈りでもしていくか。誤って刺してしまったら、それは事故だな」
男二人は愉快そうな笑みを浮かべる。男たちはこの辺りに何かいるのに気付いているのだ。
「このままだとまずい。この人間を連れて里に戻るよ」
リリーの言葉にローズが頷く。そして、リリーは目を瞑り、何か言葉を呟いた。私の目の前に白い光の壁が現れ、目の前の森をかき消した。