〈9〉
「雨、上がったね。」
色温度の低い空を見上げて誰にともなく呟くブリジット。
ひとしきり買い物を終えたぼくたちは、再び地下鉄に乗って市街中心部の駅まで戻って来た。
既に時計の針は夕刻を過ぎている。
西の空は燃えるような夕色に染まり、そこからやや仰ぎ見れば早くも深い藍色が広がっていた。
そしてそれらの境界をぼやかすように、オレンジとも紫ともつかない不思議な色合いが満ちている。
夏を思わせる質量感のある雲が空を赤く染める陽光を遮り、目を覆わんばかりの光と深いグレーに沈む雲のコントラストは何か不思議と心を駆り立てられるような気持ちになる。
ぼくらはずっと建物の中だったので気付かなかったが、午後早い時間帯の通り雨のあとも幾度か思い出したようににわか雨が降ったらしい。一日中陽の当たらない路地の端はまだじっとりと黒みを帯びており、微かに雨の残り香が漂う。
「阿部さん見て見てホラ!」
ブリジットが路地の先を指差す。
城下町であった頃の名残、また戦後の区画整理のためもあり、市内中心部は概ね垂直に道路が交差している。それは一方通行の細い路地も例外ではなく、ブリジットの差す指を追った先にはビルの隙間を貫くように光を零す、遠く西の稜線の彼方に沈みつつある夕陽が見えた。
ぼくの数歩先を歩いていたブリジットが不意にくるっと身を翻す。陽光に彩られたチュール生地のスカートがふわりと舞う。同じように風を含んで広がる髪は元々の色もあいまってそれ自体がぼんやりと発光しているのではないかと思わせる程にキラキラと輝き、僅かに濡れた街並みに乱反射する光を従えて不思議な程に幻想的だ。
しかしながら、
「まさに橙色の道だね!」
「元祖ツンデレかよ。Like or Loveかよ。」
如何せん発言が残念過ぎる。まぁ気まぐれプリンセスに似つかわしくはあるけれども。
ただしそう言う科白は丘の上の公園に続く階段のてっぺんで麦わら帽子を風に飛ばされながら言うべきだ。
「──阿部さん。」
ぼくに正対してブリジットが言う。
沈み行く夕日を背にしたブリジットの表情は、早くも暗がりに覆われ始めた路地では余り良く見えない。
ただ、その口元は穏和に微笑んでいるように見えた。
──そして、もしかしたら、少しだけ。
陽光や初夏の陽気とは違う理由で、その頬が、微かに赤みを帯びているようにも。
「阿部さん。今日はありがとね。楽しかったよ。」
ブリジットはニコッと笑って首を少し傾ける。
「──すっごくね。」
逆光で良く顔が見えなくて、多分良かった。
ぼくは、ブリジットの事を知らない。
彼女が何を好み、何を喜び、何を嬉しく思うのか、殆ど知らない。
──それでもきっと、彼女が今ぼくに見せているこの笑顔は、多分、彼女の本質だ。
つまり。簡単に言えば。
恐らく、ぼくは、彼女のこの微笑みに抗う術を持たない。
「そ・・・それは良かったよ・・・。」
視線を泳がせながら、確実にブリジットまで届いてないであろう程度のボリュームで独り言つように応える。
挙動不審なぼくにブリジットはちょっとクスッと笑って見せながら、
「これはぼくからのお礼だよ。」
自分のバッグから取り出した小さな包みを差し出した。
思いも寄らない出来事に目を見開く。きっと人生でトップ3に入るレベルのマヌケ面だったのだろうと思う。
「そんなにびっくりしないでよっ! ぼくだって日頃の・・・それに今日の感謝の気持ちを伝えたいってぐらいには思うんだよ?」
「あ・あぁ・・・うん・・・」
もう少し上手い切り返しも出来なかったか、と後で反省するのも止む無しなリアクションに終始するぼく。手渡されたCDケース大の包みを受け取ると、ブリジットが期待を込めた視線でこちらを見ている。開けてみろと言う事か。
丁寧に包装紙を剥いで箱を開ける。
中に入っていたのはタオル地のハンカチだった。黒とグレーのストライプに、赤い差し色が目を引く。
「紅茶で汚しちゃったしね。ゴメンね?」
紅茶・・・? 記憶を遡り切る前にブリジットが答えを提示した。
「ほら、さっきスタジオで。」
・・・あぁ、そう言えば。思い出した。
ブリジットがティースプーンを振った拍子に紅茶の雫がぼくの頬に跳ねて、それをぼくは呆れながら自分のハンカチで拭いた。
あんな些細な事を、気に掛けてくれていたのか・・・。
「阿部さんに似合うのってどんなんだろうな〜って色々考えて、結局それを選んでみた!」
「あ・ありがとう・・・」
ちょうどその時、まるで計ったかのようなタイミングで暗がりの路地に街灯の光が灯る。
「ちょっとは阿部さんにもオシャレ力アップして欲しいからね! 並んで歩いても恥ずかしくない程度には!」
灯りに照らされて露わになるブリジットの悪戯な笑顔。白い歯が零れる。薄桃に染まる頬。
──あぁ。だから言ったんだ。いや言ってないけど。
何て事をしてくれたんだ、市当局は。何てタイミングで街灯を点けてくれたんだ。
やっぱり、そうだった。
ぼくは──この微笑みに抗う術を持たない。
帰り掛け、モールで、花を摘みに行ってくると言って暫く帰って来なかったブリジット。
きっと彼女はその時に、ぼくへのこのプレゼントを買いに行ってくれていたのだ。
こう言うところがあるから、この子は、本当に・・・!
と、箱の中には何やら2つ折りの紙が入っているのに気付く。メッセージカードのようだ。
開いてみれば、
『お父さんありがとう』
「プレゼントだから包んで下さいってお願いしたらさ、店員さんが『父の日ですか?』って訊くから『ハイっ!』て。」
あー・・・。
・・・うん。
ですよねー。
ぼくはブリジットの事を知らない。
けれど、こう言うフリをされれば、100%確実に、ここぞとばかりに全力で、フリに応えるリアクションをするって事だけは確実に判る。
ムチャクチャ良い笑顔で店員さんに「ハイっ!」って応えた笑顔が目に浮かぶようだ。
「いつもありがとう! パパっ♪」
「ハイハイ。」
こう言うところがあるから、この子は本当に、油断ならない。