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【揺花草子。】(1)  作者: 篠木雪平
第4話『Your Mother Should Know.』
19/30

〈3〉

 瞬間、私の意識が薄暗い自室に戻って来る。

 ガタッと痙攣してしまったせいで、手に持っていたカップを取り落としてしまう。安物で助かった。

 そこらへんのタオルでフローリングの床を拭き、カップの破片を拾い集める。

「ママン・・・大丈夫?」

 カップの破片を新聞紙にくるんでキッチンの片隅に片付けていたら、ブリジットが顔を曇らせながらそう聞いて来た。

「あら、ごめん。起こしちゃった?」

「ううん、寝てなかったけど。すごい音したから・・・」

「ゴメンゴメン、大丈夫。ちょっと呆けててカップ落としただけだから。」

 私に似て宵っ張りのブリジットは、普段はこの時間まだ眠っていない。

「なんかこのところママン顔が疲れて見えるんだよね・・・。ちゃんと寝てるよね?」

「あはは、まさか子供に睡眠時間の心配されるなんてねぇ。」

 不安そうなブリジットの表情に、茶化すように返答する。せっかく人が心配してあげてるのに・・・とでも言いたそうな顔で、ブリジットが頬を膨らませた。

「でも、紅茶1杯ダメにしちゃったなぁ。良かったら新しいの淹れてくれない?」

「えぇ〜・・・」

「・・・あと、ちょっと寝付けない夜の話し相手になってくれると嬉しいな。」

 わざとらしくニコッと笑ってみせる。ブリジットの白い頬にさっと薄紅が差したのが暗がりの室内でも判る。

「・・・しょっ、しょうがないなぁ・・・深夜アニメ始まるまでの間だけだからね?」

 少しはにかむようにしてそう言うブリジット。実に良いデレ発言です。

 あとその深夜アニメは私も観るから。


「・・・ブリジット、日本は楽しい?」

 両手でカップを包み込むように持ち、カップから立ち上がる湯気のダンスに視線を落としたまま小さく訊いてみる。

 さすがに唐突すぎたようだ。ソファの左隣に座ったブリジットは私の質問の意図が掴み切れず、私の意思を値踏みするような表情で軽く首を傾げるだけだった。

 私たち母子が日本に移住して来て以来、父が──ブリジットにとっては祖父が存命中に帰郷する機会はついぞ無かった。

 なので、物心つく前だったブリジットには殆ど祖父の記憶は無い筈だ。

 父が亡くなってもう10年以上にもなる。母ももうかなり高齢だ。

 若かった頃の私と今のブリジットは(局所的な問題はさて置くとして)とても良く似ている。今の彼女の姿を見れば両親はきっと、まだうら若く穢れを知らなかった(笑)頃の私の姿と彼女を重ね合わせる事だろう。

 きっと父が健在なら、彼女の事をさぞ可愛がったに違いない。

「んー・・・。『毎日は楽しい?』って訊かれたら答えは『イエス』だけど、『日本は』って訊かれると、分かんないとしか言えないかなぁ。ぼくは日本以外の暮らしは知らないもん。」

「だよねぇ。」

 少しバツの悪そうな表情のブリジットに苦笑いを返す。

 カップを口に寄せる。紅茶の香りが心地良い。

「・・・おばあちゃんから、お手紙届いてたね。」

 カップに視点を落としたままの恰好のブリジットが呟いた。まるで鏡を見ているようだ。

「──うん。」

 一見関連の無さそうな断片的な情報を集め、繋ぎ合わせ、推論を構築する。これを膏薬貼りと称するのは実に巧い言い方だ。

 そう言う意味でブリジットはなかなか膏薬貼りの能力に長けている方と言える。さっきの私の質問が、もしかしたら母からの手紙に由来しているのかも知れないと敏感に感じ取ったようだ。

 尤も、母から手紙が届くのはそう稀な事ではない。年に何度か、季節の変わり目や収穫の時期などに、故郷の風景や家族たちの写真と一緒に母は手紙を送って来る。

 写真も文章も、今や世界中の何処にでもごく一瞬で送れる時代であるが、相応に時間を掛けて綴った手紙にはやはり電子メールには無い暖かみがあると言えるだろう。私だってなんだかんだ言ってアナログを信奉する世代である。

 そんな母からの手紙は、年を追うごとに筆圧が弱くなって来ているように思える。元々丁寧で繊細な字を書く人だったけれども、この数年の母の文字は、繊細と言うよりは儚げで力無さげな印象すら覚える。


「遠く離れていても、何処で暮らしていても、幸せならそれで良い。」


 私が故郷を離れた後、両親は良くこんな事を言うようになった。母からの手紙にもしばしば書かれて来る。

 両親を残して遠く異国の地で暮らし、ほとんど寄り付かない親不孝な娘。そう難詰されても反駁の余地も無い私を、それでも両親は責めはしない。

 その意味を、私はもっと重んじるべきなのではないだろうか?

 私は──もう少し、年老いた母に感謝を伝えるべきなのではないだろうか?

 そして、そのために、私がするべき事は──。


 しかし、そう思った時に、やはりブリジットの事を考えない訳には行かない。

 「異国からこの街に越して来た」私と、「この街で育った」ブリジット。

 彼女が「故郷」と言う言葉で思い浮かべるのは、煉瓦造りの家や庭に咲き乱れる草花の風景ではない。

 春の公園に満ちる新緑、夏の夜空を彩る花火、秋の街を包み込む音楽、冬の街路を照らす光の欠片たち。

 この、日本の片田舎の街の風景なのだ。


 ブリジットは、この街で育って。この街で暮らしていて。

 この街を愛しているから。

 この街のこの風景が、もう、彼女を構成する一部だから。

 この街で、ブリジットは、たくさんの大切なものを。たくさんの大好きなものを。

 手に入れているのだから。


 遠く離れていても。

 何処で暮らしていても。

 幸せなら。それで。


 そう遠くない未来に、もしかしたら。

 私は、選択をしなくちゃいけないかも知れない。

 

 幼い頃、兄が独立して家を出て行く時、私は兄が自分の世界から消え去ってしまうと思って泣き喚いた。

 あの頃と較べて、私は大分年齢を重ねた筈だけれども。

 ──それでも、きっと、「お別れ」は、すごく、辛いだろうなぁ。


「・・・ママン?」

 ブリジットに不意に声を掛けられて、はっと我に返る。

「あぁ・・・ご、ごめん。何?」

「何って・・・」

 驚いた表情のブリジット。ややもせずその理由が解った。

 いつの間にか頬を伝っていた一雫の涙。

 それは多分、いろんな感情が綯い交ぜになった私の心の発露。

 ──でも、娘には見せるべきじゃなかったね。

「あら、ごめん。ちょっと辛くって。」

「紅茶が?」

 歯を見せて笑ってみせる。呆れがちに零すブリジット。


 そう遠くない未来に、私に迫られるかも知れない選択。

 その日が来たら、きっと、私は。


 すごく、悲しいだろうなぁ。

 多分、泣いちゃうだろうなぁ。

 年甲斐も無く、身も世も無く、泣きじゃくっちゃうんだろうなぁ。


 ──だから、それまでは。

 今こうしてあなたと2人、積み重ねて行ける幸せな毎日を。日常の奇跡を。

 抱きしめながら、歩いて行きたい。


 私は今、心から、そう思っています。


「──来週の月曜、花火大会ね。」

「え? うん。」

「その日も収録あるのよね?」

「う・うん。確か午後から。」

 急に話が変わって戸惑いながらも首肯するブリジット。

「この前買った新しい浴衣着て行きなさいね。」

「なっ!?」

 びっくりして後ろに倒れそうになるブリジット。案の定手持ちのカップから紅茶が零れる。

「せっかく新調したんだから、阿部さんに見せびらかしてあげないとねっ!」

「べべべべ別に・・・そんな・・・!!」

 面白いぐらい猛烈なスピードで真っ赤になるブリジットの顔。

「特別にその日は帰り遅くなっても良いからね!」

「なっ・・・何言ってのもうっ!! やめてよ! 冗談にしても質が悪いよ!!」

 ぷんすこブリジット。可愛い。


 今は亡き父が病の床で、私に伝えて欲しいと言い残してくれた最期の言葉。

 先日届いた母からの手紙にも、同じ言葉が綴られていた。


 ──ねえ、ブリジット。

 私も、同じ気持ちよ。

 今はまだ、恥ずかしくて、言えないけれども。


 いつか、きっと。

 私の両親と同じ言葉を。

 あなたに伝えたいと思う。










 私は、あなたの親で、本当に幸せです。

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