〈2〉
例年なら梅雨明けしているはずのこの時期に、今年はまだ雨が続いている。しかもこの街の梅雨は肌寒い。油断すると風邪を引いてしまうのではないかと言う程に寒いのには閉口する。
温かい紅茶が疲れた身体にすうっと染み込んで行く。一瞬弛緩する意識。
いつもより少し部屋の照明を暗くしていたせいもあるのかも知れない。
浅い呼吸をほんの数回重ねる間に、私の精神は狭い自室の小さな身体を離れた。
私が幼い日々を過ごしたのは、緑が多い美しい所だった。
大都会パリからは遥か遠く、決して裕福な土地柄ではなかったけれども、その分人々は穏やかで優しく、良くも悪くも楽観的だった。
お屋敷、と言うにはかなりささやかではあるが、そこそこに広い煉瓦造りの家と様々な草花が広がる庭で過ごした日々。
小さな街ではあったが、幼い頃の私にとってはその見知った狭い空間が私の世界の全てであったし、私にとっての「花の都」は故郷の風景に他ならない。
だから、歳の離れた一番上の兄が独立し家を出ると言う段になった時には、まだ小学校に上がったかどうかぐらいだったその頃の私にとっては何なら今生の別れとすら思えた程で、酷く泣き叫んで相当家族を困らせたらしい(記憶は殆ど無いのだが)。
私は両親が年老いてから生まれた子供で、兄や姉たちとも歳が離れている。
私の前に4人の子供を育て上げた両親にとって私の扱いなど手慣れたもので、私は特段の不自由を感じる事も無く成長した。もちろんその背後には両親の苦労がそれなりにあったであろう事は今にして思えば容易に想像できるけれども、それでも、両親が私の事で思い悩む姿は殆ど覚えが無い。
──だからこそ、あの日の父親の顔が、今でも深く記憶に刻まれているのだ。
日本で暮らしたい。
小さな寝息を立てながら眠るブリジットを胸に抱きながらそう告げると、母は酷く嘆き悲しんだ。無理もないと思った。
極東の小国は年老いた両親にしてみれば余りにも遠い。何度も考え直すよう諭された。
父は──「そうか。」とだけ小さく呟くように言ったきり、何も言わなかった。母親の説得を頑強に聞き入れない私の態度に、もうどう言っても無駄だと思っていたのかも知れないし、もしかしたら私の人生にそれほど興味も無いのかも知れないとも思った。
──ただ、あの、僅かに悲しみの色を帯びたしょぼしょぼの眸で穏和に微笑むその表情が、強く深く、私の胸を穿ったのは確かだった。
私は親不孝者だ。
日本に越して来てから暫くの間は生活の基盤を安定させるのに精一杯で、故郷を顧みる余裕は全く無かった。
ネットの発達のおかげで連絡は取りやすくなったが、日々の忙しさやネットの力を理由にして、故郷に帰る意思と機会を逸し続けていた。
だから、父の最期の言葉を聞いたのは、それよりも余程後になってからの事だった。




