〈1〉
今日も遅くなってしまった。
疲れた身体を引きずるような帰り道。
路線バスの揺れが心地良く、思考が夢現の狭間にとろけて行く。
おかげで危うく寝過ごす所だった。
「──あっ、降ります!」
バス停を過ぎ去る直前に慌ててボタンを押し、席を立つ。
急ブレーキで止まる路線バス。運転手さんの冷ややかな視線が痛い。
「ただいま〜・・・」
呟くようにそう落としながらリビングのドアを開け、バッグを傍らに放り捨ててソファにゴロンと横になる。
日々の疲れに加えてこのところの天候不順、頭痛や倦怠感もあいまって、気分を向上させる要素に欠ける事この上無い。
「お帰り。・・・って言うか帰って来るなりソファに横にならないでよ〜。服シワになっちゃうよ?」
キッチンから顔を覗かせながらそうぼやくように言う少女。
途端に鼻腔をくすぐる香ばしい匂い。お腹の虫達が反応鋭くぐうと鬨の声を上げ出した。
「あれ、ブリジット、晩御飯まだだったの?」
菜箸を左手で持ちながら小さく頷く娘。
「うん、今日収録長引いちゃって。ぼくもさっき帰って来たばっかりで。」
「あんまり遅くならないようにしてもらいなさいね? あんたみたいなちっちゃい子が夜遅い時間まで出歩くなんてちょっと心配よ。」
「ちっちゃくないよ!」
いやちっちゃいわよ。なにナリアよ。
「て言うかそんなんだったらママンだってあんまり遅くならないでよ。ぼく心配だよ。」
「あらあら、随分と娘的にポイント高い事言ってくれるじゃないの。ママンはアナタと違って大人だから大丈夫なの。」
にっと笑って見せると、ブリジットは少しムッとした様子でキッチンに戻って行った。
私はカトリーヌ・バーキン。
今キッチンで晩御飯を拵えている少女は私の愛すべき一人娘だ。
容易に語り尽くせぬ種々様々な出来事や諸々の事情があり、ブリジットが物心つく前に私は彼女と2人で日本のこの地方都市に移住して来た。
外国人、しかもシングルマザーが女手ひとつで小さな娘を養いながら生活を営むのは、この片田舎の街ではそれほど容易な事ではない。
その意味では、今こうして慎ましいながらも2人で幸せに安定した暮らしを送れている現状はきっと幸運と言って良いだろう。
さっとシャワーを浴び、部屋着に着替える。ちょうどブリジットが食事の用意を終える所だった。
ダイニングテーブルに並ぶ色とりどりのお料理。
今日のメインはハンバーグとポテトサラダ。それに大根のお味噌汁にキュウリの浅漬けに白いご飯。
ハンバーグにご飯と言う節操の無い組み合わせが驚くほど日本的だ。
なので両手を合わせて頂きます。まぁ献立に関わらず両手は合わせるのだけれども。
「遅くなるんだったら阿部さんと晩御飯食べて来れば良かったのに?」
「そっ・・・そんなの・・・別に・・・」
目に見えて狼狽えている様子のブリジット。元から薄桃の頬が一層紅潮している。可愛い。
「だ、だって、今週はぼくが食事当番だし! ぼくが外で晩御飯済ませて来ちゃったらママンの晩御飯無くなっちゃうし!」
言い聞かせるようにそう言う。
「連絡くれれば自分で何とかするわよ。気にしなくても良いのに。」
「う・うん・・・」
ブリジットはもじもじしながら小さく頷く。我が娘ながら良い子に育ってくれたものだ、と嬉しくなる。
私は決して良い母親ではなかったと思う。
日々の忙しさを恃みに、小さな頃──もちろん今でも小さいけれども、もっともっと小さかった頃──のブリジットに余り構ってあげられなかったし、母親らしい事をしてやれていたとも思えない。
それでも、ちゃんと彼女は、まっすぐと、可愛らしく、素直に、明るく、元気に成長してくれた。局所的には致命的に成長が遅れている所はあるけれども、それはそれでちゃんと一定のニーズがあるから心配しなくて良いと思っている。
つくづく、彼女は、恵まれていると思う。
──そして、多分、私も。
私たちの毎日は苦労も多かったけれども、概ね楽しかった。
そしてそれはきっとこれからもずっとそうなのだろう。
使い古された表現をするならば、日々私たちが過ごしている日常と言うものは、実は奇跡の連続なのかも知れない。と。
メガネの面白お兄さんみたいな事を思ってもしまうわけだ。
それはもちろん、私たちがその日常の奇跡を信じ続け、日常の奇跡を愛おしく慈しみ続ける限りに於いて、と言う前提あっての事だ。




