〈1〉
「スーパースターになりたい。」
始まった・・・。
右手に握っていたペンをテーブルに置き、嘆息を漏らしながらコーヒーの注がれたマグカップを持ち上げ口に寄せる。
「・・・ちょっと阿部さん、聞いてる?」
やおら立ち上がって唐突な事を言い放った目の前の少女は、ぼくの反応が鈍いと見るや、苛立たしげにテーブルに手をつきながら身を乗り出した。
「うん・・・聞いてるよ。」
テーブルを乗り越えんばかりに前のめりになって顔を近づけてくる少女から少し距離を取るように背筋を伸ばしながらぼくは応える。
もう・・・と呆れがちに呟きながら少女は椅子に座り直した。
傍らに置かれたクッキーをひと欠片つまむ目の前の少女。
まだあどけなさを残す表情を強く印象付ける大きな翠玉の眸と長い睫毛。乳白色の肌が薄紅の唇と頬を際立たせる。
小柄で華奢な体つきながら、不思議と独特のやわらかな存在感がある。
そして最も目を引くのが背中まで伸びる長い亜麻色の髪を耳の後ろで束ねた髪型だ。
俗に言うツインテール。
10代半ばから後半に差し掛かる彼女ぐらいの年頃の少女には少し幼すぎる気もするが、端正な顔立ちやボリューム感のあるチュール生地のファッションと相まって、その髪型は良く似合っていると言って良い。
少女の名はブリジットと言う。
フルネームはブリジット・シャルロット・バーキン。
その名が明らかに示すように、彼女は日本人ではない。
いや、血統で言えば半分は日本人だ。だが法的にはそうではない。
彼女の母親はフランス人で、彼女もフランスで生まれたと言う。彼女の生まれた経緯はいつかどこかで詳しく言及する機会があるかも知れないから今は省くが、ともかく彼女はフランスで生まれ、物心つく前に母に連れられ日本のこの地方都市に越して来たらしい。
母親は自宅でも日本語で会話するらしく、なので彼女はその風貌とは裏腹に日本語以外の言語は扱えない。金髪碧眼詐欺もいいところだ。
「・・・で、なんだっけ?」
「もう! やっぱり聞いてないんじゃん!!」
そんな事はない。
これでも充分間を置いて、これから始まるきっと酷く面倒臭いであろう事態を受け容れる覚悟を1ミリほどしてから訊いたのだ。少しはぼくの覚悟の重さを慮って欲しい。
「だから、スーパースターになりたいんだよう!」
繰り返すブリジット。
聞くにつけ、悪い予感しかしない。
「◯◯したい。」「◯◯になりたい。」
事ある毎にブリジットは突然そう言い出す。
それも大概、目的はそれそのものではないのだ。
敬老乗車証でバスに乗ってみたいと言う願望のために「早くおばあちゃんになりたい」とか言い、たぶんその日の朝のニュースででも聞いたのだろう、その場のノリで「2億円を保留したい」などと言う。
以前など、「お酒はもうやめると反省したいから」と言う本末転倒な理由で「お酒を飲みたい」とか(バリバリ未成年なのに)言い放ったし、「サムシング4ってなんかカッコいい」と思い立って「結婚したい」などと言い出した事もあった。
とにかく、支離滅裂で気まぐれなのだ。彼女の『したがり』『なりたがり』は。大体に於いてどう転んでも面倒な話にしかならないのだ。
だから、話に乗るにはその面倒を負う覚悟が相応に必要だ。
「なに? 無数のフラッシュを浴びながらブロードウェイを悠然と闊歩したいわけ? それとも武道館を一杯にするような?」
「いやいや、そー言うんじゃないの。そう言うのは実際にスーパースターになってからの話じゃん? なんて言うか、もう少し概念的な。」
「概念?」
「宇宙の法則を変え人間に存在が知覚できないぐらい遍在した、でも魔法少女をずっと見守り続けるみたいな。」
「それはもう違う方の概念だろ。スーパースターどころかもうアルティメットな存在だろ。て言うか知覚できなきゃ意味ないじゃんか。」
「あ、そうか。女神ブリジットはちょっと早すぎたか。そこまでぼくの祈りはエントロピーを凌駕しなかったか。」
そうブリジットは悪戯っぽく笑う。早いとか言う話じゃない。
と言うかどこかに謝らなきゃいけないような事を軽々しく言わないで欲しい。人の事は言えないが。
「要するにね、ホントにワーキャー言われたいわけじゃないの。毎日のようにメディアに登場して一挙手一投足が人々の耳目を集めるみたいな、そんなセレ〜ブなカンジはちょっと理想とは違うんだよね。」
「はぁ・・・」
「スターになりたいって言ってもさ、スポットライトを売るほど浴びたいわけじゃないの。濡れ手に粟の素敵なお仕事がしたいわけじゃないの。なんたってこっちはホラ本質的には掃除好きの地味な女だし。」
「平凡無趣味では全く無いけどな。」
清純貞淑料理好きのできた女かどうかは判断材料がやや不足しているので評価を保留しておく。
「なんて言うか、さわやか笑顔で幸せ運ぶみんなのアイドルみたいなね。」
「どこの軽音部部長だよ。」
言ったそばからこれだ。いや言ってないか。
「でもさ、これは阿部さんのためでもあるんだよ?」
ティースプーンを人に向けながらそう言うブリジット。行儀が悪いからそう言うコトするんじゃないよ。
「ぼくの? なんでそうなるの?」
「そりゃもう、『揺花草子。』を盛り上げるためさ!」
また立ち上がった。今日もブリジットはムダに元気だ。
そしてスプーンの先から飛んだ紅茶の雫が地味にぼくの頬に掛かるぐらいムダな元気だ。
「あっ・・・ご・ごめんね、阿部さん? 熱くなかった?」
「いや、うん、平気だったけど。」
頬をハンカチで拭きながら応える。
少し申し訳なさそうな顔をしてるな、そんなに気にしなくて良いのに、と思ったのはほんの一瞬だった。
「どうせならもっと熱々のをブチ撒ければ良かったね? 二重の意味で美味しかったよね。」
「いやそんな美味しさいらんし。出来ればのんびりまったりティータイムと洒落込みたいですし。」
「放課後的なね?」
「だからもうっ!」
この『言ってやったぜ顔』がもう。
もう少し真摯な態度で謝意を表明してくれてもバチは当たらない気がする。
ぼくとブリジットは、2011年の夏から一緒に同じ仕事をしている。
いや・・・仕事と言うのは少し語弊があるかも知れない。何せ対価を得ているわけではないのだから。
恰好良く言うならばぼくらはパーソナリティーだ。本当に恰好良く言い過ぎだが、それ以上にイメージしやすい言葉も無いので仕方がない。
と言っても、媒体はラジオではない。無論TVでもない。
そこらへんは少し説明が難しい。
ぼくらは市内某所のスタジオ(と便宜上呼んでいる)に集まり、ぼくらが『中の人』と呼ぶ(一般的に言うところの)プロデューサー、あるいは構成作家的な人の指示のもと、あるテーマに沿ってトークを繰り広げる。これをぼくらは『収録』と呼んでいる。
その模様がテキストに起こされ、それが『揺花草子。』と言うネットの大海の片隅に淀みのように浮かぶ愚にもつかないコンテンツに展開されるのだ。
つまりぼくらの媒体はネット上のテキストと言う事になる。
トークのテーマは本当に様々で、大概そのときそのときの思い付きで決まるらしく、基本的にはぼくはブリジットが話し出した事に上手いこと乗っかって良いカンジにトークを回してやるだけのカンタンなお仕事だ。いや全然カンタンではないのだけれども。
『揺花草子。』は日刊が売りなので、ぼくとブリジットのトーク番組(と言うのは多少違和感があるが)も既に都合500回を越えている。
「つまり、どう言うコト?」
「あのね、いるじゃん? その人がいるだけで場が華やかになるみたいなさ。特に何するわけでもないんだけど、場の空気が不思議に幸せで満たされるみたいな。」
「はぁ・・・」
「そう言う空気みたいな存在になりたい。」
「それはなんか少し意味違う気がするけど・・・。」
・・・とは、言え。
ブリジットの言わんとしている事も分からないでもない。
確かに、その場にその人がいるだけで雰囲気が変わる、って言う空気を持ってる人はいる。
だが、そう言う意味では、ブリジットはそこそこそのラインに達してるようにも思う。
何せブリジットは見た目からして既に華やかだ。
ふわふわのブロンドツインテ、大きな碧眼、整った顔立ち、人懐っこい笑顔。掛け値なく美少女と呼ベるだろうし、世間一般の基準に照らし合わせてそれに異論が出る事もないだろう。
スターと言うのは少し大袈裟にしても、例えば学校だったらクラスの人気者ぐらいにはなれる素質は充分じゃないかと思える。
まぁ、尤も、
「そんで、ぼくがスーパースターみたいなオーラをまとえばさ、『揺花草子。』ももっと人気が出ると思うんだよね! そうすれば普段ぼくに隠れて目立たない阿部さんももう少し注目されるに違いないよ!」
「ずいぶんな物言いだな! 目立たないとか言わないでよ! ぼくらはいつも2人3脚でやって来てるじゃないか! 平等に注目浴びようよ!」
「イヤイヤそこはもう華の有る無しってどうしてもあるからね。光ある限り闇もまたあるって言うじゃん? ぼくには見えるんだよ。再び何者かが闇から現れるだろうって。」
「それは世界を闇に陥れた大魔王だよね!?」
「その頃には阿部さんは年老いて生きてはいないだろうしね。わはははは・・・ぐふっ!!」
「楽しそうだなその三文芝居!! て言うかぼくは死ぬまで華やかさとは無縁なの!?」
・・・この「そっち行っちゃダメだよ」ってとこに笑顔でガスガス踏み込んで行く無法さや1日5回はぼくの事を貶めなけりゃ気が済まない性格を除いて、の話だが。
「ニュアンスは分かるけどさ、具体的にどんなのかってのがあんまりピンと来ないんだけど。なんか『こういう人みたいになりたい!』みたいな目標と言うか憧れみたいな人はいないわけ?」
「そりゃもちろんいるよ! やっぱりブリジット・バルドーとかジェーン・バーキンとか憧れちゃうよね!」
「へえ、そうなんだ?」
そう言った往年の大スターたちの名前が少女の口から出て来たのは少しだけ意外だった。
「名前の元ネタだしね!」
そう言うメタい発言はいろんな世界を壊すからやめて頂けないだろうか。
「でも今のはちょっと分かり易かったかも。フレンチロリータ的なってコトだよね? でもそう言うのってなんてて言うかさ、ほのかに漂うセクシーさと言うかさ、オトコを惑わす小悪魔的なアレとかさ、そう言う要素もあるよね?」
「滲み出るエロスみたいな?」
「露骨な言い方するね・・・。まぁでもそんなん。その点きみは・・・」
言いながら少しだけブリジットの顔から視線を下げる。
「・・・」
「・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「痛った!!」
何かが猛スピードで飛んで来た。
「ちょっと! 食べ物を粗末にするんじゃないよ!!」
正確に眉間を襲ったクッキー(個別包装)を床から拾い上げながらそう非難すると、
「うっさいばか! エロ人間!!」
仄かに頬を赤くしたブリジットに実にシンプルかつ攻撃力の高い言葉の暴力を蒙ってしまった。
見目麗しき外国人金髪美少女の印象を唯一裏切る、どこまでも広がる大平原。いやもちろん彼女の名誉のために言うならば多少は小高い丘のようなものもあるが、ハイキングにもならない程度の標高でしかない。
「こう言うのが良いって人も一定数いるんだから! ちゃんとニーズがあるんだよ!!」
胸元に片手を置きながら声を荒らげるブリジット。その発言はどこまでもあざとい。
「でもさ、そうは言ってもぼくと言う人間はまだまだ不完全だ。正直まだまだ伸び代があるはずだし、何事においても切磋琢磨する向上心は必要不可欠だよ。」
「おっ・・・随分殊勝な心掛けじゃないのさ。」
「そりゃもう。ノブレスオブリージュ的なね。」
「なんで貴族の話になってるんですかね。」
話があっちこっち飛び回って落ち着かない。
そう言えばまだ言及していなかったが、ブリジットは専ら自分の事を「ぼく」と呼ぶ。所謂ボクっ娘と言うヤツだ。
これだけ聞くと属性プラスみたいなあざとさが感じられるが、これは必ずしもそう言うわけではないらしい。
小さかった頃の彼女の周りには男の子の友達しかいなかったらしく、それで自然にボクっ娘になったとかなんとか。まさに三つ子の魂百までと言ったところか。
「と言うわけで、女子力アップを試みるよ。」
「女子力とか!」
『ブリジット』と『女子力』。
こうも並び立たない言葉はそうはない。
背中まで伸びる長い髪が辛うじて押し留めているものの、小柄で華奢な体格や件の『ぼく』と言う一人称、生来の童顔もあいまって、もしショートカットだったらかなりの確率で小学男児に見間違えられかねない。そんなブリジットから『女子力』なんて言う女子力高めな単語を聞くとは思わなかった。
「・・・で、具体的にどうするの? ダイエットでも始めるつもり?」
「必要だと思う?」
思いません言ってみただけですごめんなさい。だからクッキーを掴むのはやめて下さい。
「じゃあ・・・なんか習い事とか?」
「うん、それも考えたんだけどねー。やっぱり外国語とか出来た方が将来的につぶし利きそうだしなーとか。」
「いやなんかそれ・・・いや、うん・・・まぁいいや。」
若干自虐的な発言な気がするがここは言わないでおくのが優しさのような気がする。
「でも、そう言うのってちょっと時間掛かっちゃうじゃん? 出来ればすぐに出来る女子力アップがいい。」
「拙速に結果を求めすぎだよ! 絶対失敗するパターンだよ! じっくり取り組む覚悟とか大事なんじゃないのこう言うのって?」
「それはモノによるでしょ? 今すぐ出来る自分の魅力向上とかってあるじゃん。例えば立ち居振る舞いとか言葉遣いとか表情とかさ。阿部さんは今日もお元気でらっしゃいますわね。ですが少々ツッコミがキツ過ぎるような気が致しますわ。」
「なんだよその取って付けたようなお嬢様キャラ。思い付き感ハンパないんだよ。」
「あらあらまあまあ、いやですわ阿部さん。そんなに眉間に皺を寄せていると幸せも怖がって寄り付きませんわよ。お茶のおかわりでもいかがです?」
「まだ続けるのかよ。」
たおやかに笑いながらティーポットを差し出すブリジット。どうこう言ってもこう言う可愛らしい仕草もそれなりに似合うところが実に小癪だ。
そうは言っても、
「ほんまは鹿苑寺って言うらしいわ〜」
「マジお嬢様じゃないか!! ネタがピンポイントすぎるんだよ!!」
この子は本当に女子力向上を目指してるんだろうか? 悪い方面の実力だけがうなぎ登りのような気がする。
と、今度は椅子に座り直し、急に真面目な顔をして語り始める。
「阿部さん知ってる? あのね、人の第一印象を決める要素の大部分は見た目なんだよ。表情とか立ち居振る舞いもそうだけど、やっぱり見た目の清潔感とか爽やかさとかも重要なわけ。阿部さんはそこらへん無頓着だからいつまで経ってもニートなんだよ。」
「だからニートじゃないって! 何そのバイトの面接ノウハウみたいなの!」
「そんなわけでね、今日は阿部さんに買い物に付き合ってもらおうと思ってね。」
「買い物?」
「うん! 女子即ちオシャレ。オシャレ即ち女子。オシャレが女子力向上のための必須スキルである事は最早疑いようも無い事です。掛かったお金はなんと経費で落として良いコトになってるよ! お金も『中の人』から預かっています!」
そう言いながら傍らから黒い財布を取り出すブリジット。
どうやら口からでまかせと言うわけではないらしい。『揺花草子。』を盛り上げるための必要経費って事なのか?
・・・いや、って言うか・・・
「ちょっ! それぼくのサイフ!! いつの間に!!」
「予算額は心許ないけど、まぁなんとかなるよね!」
「心許ないとか言わないで!! て言うかぼくの今月これからの生活に与える致命的ダメージは補填してくれないの!?」
ブースの外で自分の仕事をしていた『中の人』をガラス越しに振り返る。視線をノーパソに落としたまま微動だにせず黙ってキーを叩き続けている。
絶対聞こえてるはずだ。
だって小刻みに肩が震えてるしやけにニヤニヤしてるし。
「・・・はぁ・・・。」
息を1つ落とす。
この現場はあらゆる意味でぼくの精神力を削って行く方向らしい。
──知ってたけどな。
結局この日の『収録』は午後イチで切り上げて、ブリジットと2人連れ立って彼女の女子力アップのための買い物に出る事になった。
どんなに文句を言っても覆らない事は覆らない。予算がぼく持ちと言うのはどう考えてもおかしいとは思うけれども。
出掛けに『中の人』から声を掛けられた。
「デート代全額持つのは男の甲斐性だろ。」
うるさいですよ。少しだけ唇を尖らせる。
「その価値観少し古いですよ。」
と言うかそもそもデートじゃないですし。
ちょっと言いくるめられそうになってしまったのが何とも腹立たしい。