振られ男と男前な彼女。
「一番センチメンタル、か・・・」
帰宅する途中で寄ったコンビニで流れていた懐かしい歌のフレーズが頭の中で響いている。懐かしいといっても僕がまだ小さかったころの曲で、聴けばなんとなく思い出せる程度の曲だった。
今の自分の状況にこれほどまでにクリティカルな曲もほかにはないな、と思い少し笑ってしまった。すれ違ったスーツ姿の女性がばつが悪そうに早足になったけれど、今の僕はそれを気にすることもない。
そうこうしているうちにたどり着いたアパートの階段をおぼつかない足取りで登り、自分の部屋の前に立つ。ここで僕は重大なことに気がついた。鍵がない。どこかで落としてしまったのだろうか。
「ああぁぁぁ・・・・もう・・・」
言葉らしい言葉が出てこない。まさに脱力とはこういうことを言うのだろう。体の力が抜けた僕はドアにもたれかかって座り込んでしまった。
もういいや、このまま寝てしまおうかとさえ思ってしまう。今日はもう動きたくないし何もしたくないのだ。ふと携帯電話取り出して開いてみるとメールが一通。通販サイトからのものだった。何もこんなときに送ってこなくてもいいだろうに、とさらに体の力が抜けていく気がした。
今の時間は夜の10時。普段なら部屋でゲームに興じているかテレビを見るか、あるいは大学のレポートを作成しているか、といった時間だ。今日の僕はこうやってドアにもたれかかっているわけだけれど。
「こんなところで何をしているんだい神田君?」
そこに階段側から凛とした女性の声がした。隣の部屋の吉井さんだ。吉井さんは大学3回生の僕より5つか6つほど年上で、いかにも仕事が出来ますといった感じの大人の女性だ。ちなみに神田とは僕の名前である。
「いやぁ・・・鍵がなくて入れないんですぅ・・・」
我ながら情けない声が出たものだと思う。
「はぁ・・・君はそんなに情けない子だったかい?」
ため息をついてやれやれといった表情の吉井さん。そんな姿も様になっていて本当にかっこいい人だと思う。
「仕方ない。私の部屋に来るといい。お茶ぐらいなら用意させてもらうよ」
がばっと顔を上げる。しかし彼女は女性で僕は男だ。いろいろとまずいんじゃないだろうか。
「えっと、遠慮させ」
「遠慮することはないさ。まだ肌寒い。そんなところにいたら風邪をひいてしまっても知らないよ?」
それに、と吉井さんは続けた。
「君に私を襲う度胸があるとは思えないな」
にやり、と唇の片端を持ち上げる吉井さん。ごもっともです。
◇
「それで?なにがあったんだい?」
スーツからラフな部屋着に着替えた吉井さんが尋ねてくる。吉井さんがシャワーを浴びている間僕はいろいろと大変だったのだがそれはまた別の話。
「わかりますか・・・?」
それはもう、と吉井さんは言った。
「まさに女の子に振られました、といった顔だね」
図星だった。
「・・・」
黙りこむ僕に吉井さんが優しい笑顔を向ける。
「無理にとは言わないさ。君が話すというなら私が聞こう」
普段とは違った優しいまなざしに、僕はぽつり、ぽつりと話し始めた。
「実は、ですね・・・」
◇
僕と僕の恋人『だった』姫野美沙は幼馴染という関係で、小さい頃からずっと高校まで同じ学校、同じクラスだった。
僕自身、美沙とはずっと友達という関係でいつづけると思っていた。けれどそれは美沙にとっては違っていて、高校の卒業式の後、僕は美沙から告白されたのだ。
「本当は、ずっと好きだったの。小さい頃から、ずっと」
顔を真っ赤にしながら、目に涙を溜めながら精一杯僕に思いを告げた美沙を僕は受け入れた。僕たちは幼馴染という関係から恋人という関係に変わった。
それから2年間、僕たちは恋人として過ごした。二人でいる時間は本当に安らぎを得られる時間で、僕は本当に幸せだと、そう思っていた。
けれど、それは美沙の感じていたこと、求めていたこととは違っていたのかもしれない。
「ごめんなさい」
そう言った美沙は僕のことを振り返ることなく去っていった。バカだったのは僕。彼女の心に気づかないままだった僕だ。
「・・・」
吉井さんは黙って僕の話を聞いていた。
「思えば、僕たちは一度も喧嘩をすることがなかったんです」
喧嘩をしないというのは良い事ばかりではないのだ。お互いの気持ちを、心をぶつけ合うことがなければ互いに分かり合うことは難しい。美沙のことを一番理解していたつもりでいた僕は実のところ美沙のことをまったく理解していなかった。
「この間、駅で見かけたんです」
誰を、とは言わない。
「僕の知らない人と、僕と付き合っていた頃より素敵な笑顔で歩いていました」
女々しい、と思う。僕より美沙を理解して、そんな顔をさせるそいつに僕は嫉妬したのだ。
「初めて、お酒を飲みました」
忘れたかったのだ。なんでもよかった。美沙のことを頭の中から消してしまえたら。思い出の中の美沙を消してしまいたかったのだ。
自分でも何を言っているのかわからなくなってきたけれど、それでも吉井さんは僕の話を黙って聞いていてくれた。
「結局、僕はダメな男でした。振られて、女々しく嫉妬して、酒に逃げて、でもあまり酔えなくて、何も忘れられなくて、鍵を落として、吉井さんにこんな話までして」
もう最後のほうは涙が混じってまともに話せていない。
下を向いてしまった僕に吉井さんが近寄ってくる。頬でも張られるだろうか。しっかりしろと叱られるだろうか。
「辛かったな」
吉井さんはそっと僕の頭を胸に抱いた。
「辛かっただろう。でも、悪くない。君は悪くないんだ。」
頭を撫でてくれる。
「よく頑張ったな」
そう優しく微笑む吉井さん。僕はもう目から熱いものが溢れるのを抑えることが出来なかった。
◇
「目が覚めたかい?」
目を開けると、吉井さんの顔が目の前にあった。
「!?」
脳裏に昨日のことが思い出される。振られた子を偶然見かけて、嫉妬して、いてもたってもいられなくなって初めて酒を飲んで、アパートの自分の部屋の前で鍵を落としたことに気がついて。
「す、すすすすすみません!」
勢いよく頭を下げる僕。
「なに、かまわないよ」
そう言って笑う吉井さんはいつもどおり男前だ。
「とりあえず朝食が出来ているから食べるといい」
「あ、ありがとうございます」
席についた吉井さんの正面に座る。目玉焼きに、ご飯。味噌汁。そういえば昨日は結局夜は食べなかった。おいしそうな臭いにつられてお腹が鳴る。
「ハハハ!元気になったじゃないか!」
ひとしきり笑った後吉井さんはコーヒーを一口。
「どうだい、前は向けそうかい?」
どうだろうか。でもなんとなく気持ちはすごく楽になった気がする。全て目の前にいる男前な彼女のおかげだ。
「・・・はい」
「声が小さい!」
「はい!」
「よし!」
二人揃って笑顔がこぼれる。これだけ心が晴れやかなのは久しぶりだ。
ふと吉井さん宅の時計に目をやる。8時30分だ。
「あああぁぁぁ!!!」
思わず大きな声を出してしまう。
「じ、時間!」
吉井さんも時計を見る。
「ぬぁ!?」
吉井さんもこんな声を出すんだな・・・ではなく、冗談抜きでまずい時間だった。ここから学校までは30分程度だが、今日は1コマ目から講義が入っている。1コマ目の講義は9時からだ。
「や、やばいっす!俺今日1コマ目!」
これは本当にまずい。1コマ目は開始20分までは出席を認めてくれるが、それ以降は問答無用で欠席扱いだ。その上出席の有無が単位の取得に大きく関わってくるのだ。
服はもうこのままでいいか。かばんの中に財布もある。筆記用具もある。レジュメなどはないがなんとかなるだろう。
「まぁ落ち着きたまえよ神田君」
バタバタと必要なものを確認していると、吉井さんが声をかけてきた。
「お姉さんと一緒に遅刻しようではないか」
妙に色っぽい口調でそんなことを言ってきた。
「いやいやいやいや!」
何言ってんだアンタ!とはさすがに言えないが、こんなときに何を言い出すのだこの人は。
とりあえずは必要なものは揃っていそうだし、吉井さんには改めて礼をするとして今は大学へ急ごう。
「すいません吉井さん!今度お礼します!失礼します!」
そう言って走り出す。目指すは自室だ。さっき財布の中身を確認したがかなり心もとない状態だった。なにしろ諭吉様どころか太子様すらいないわけで、通帳とキャッシュカードを取りに行かないといけない。
「!?」
ガチャガチャとノブを回すが開かない。鍵を探す。ない。
「あぁ!」
そうだ。僕は昨日鍵をなくして部屋の前で座り込んでいたところを吉井さんに助けてもらったのだ。
しかし先立つものがなくては鍵をどうにかすることも出来ない。そうこうしているうちに時間はどんどん過ぎていく。
「すいません!吉井さん!」
たどり着いた先は再び吉井さん宅。格好が悪いにもほどがあるが今頼れるのは吉井さんしかいない。
「ぬあああぁぁぁ!!!」
相当驚かせてしまったようだ。
「ど、どうしたんだい・・・?」
しかしすぐに冷静に対応してくれるあたりさすが吉井さんだ。
「さ、財布の中にお金がなくて、通帳が家の中で・・・」
「そ、そうか、わかった。返すのはいつでもいいから」
僕が事情を説明すると財布から千円札を数枚渡してくれた。
「本当にすいません!助かります!」
礼を言った僕はそのまま吉井さんの家を出る。
今日一日でどれだけ格好の悪いところを見せたやら。泣いて、泊めてもらって、ご飯まで食べさせてもらって、お金まで借りて。
でも、今日一日でどれだけ吉井さんに救われただろう。みっともなく泣く僕を吉井さんは優しく抱きしめてくれた。年上で美人で何より格好いい人。でも、案外お茶目な一面も見ることが出来た。
走りながら、初めて見た吉井さんのあせった表情を思い出すと不意に笑みがこぼれた。それを昨日と同じスーツ姿の女性に見られ、再びばつが悪そうに目をそらされたが気にすることもない。
今日は帰りに鍵屋さんに寄って、それから吉井さんにお礼をしよう。
そう心に決めて走る僕の横を電車が駆け抜けていった。