其之四 大津へ
遅い夕食を済ませて寛いでいる時、急報を持ち、中岡が武市らの元へとやって来た。
急ぎ足で部屋へと顔を出し、皆の前に正座する中岡の表情は暗い。
「ほき、会合の件はどうなった」
「どうもこうもないですよ」
気の抜けた声でそう切り出した中岡は、一呼吸おいた後、一同を見回してから事の経緯を話し始めた。
西郷吉之助との面会がやっと叶い、長州との和睦なくして日本が日本として生き残る手段はないと、江戸や兵庫における西欧諸国の干渉を論説したが、大久保と違って西郷は幕府あっての政策が必要だと、考えあぐねる間もなく中岡の意見を突っぱねたのだ。
「長州の遣い方は過激過ぎう。あれでは幕府だけでなく、徳川家を支えてきた諸藩をも敵に回す事になりもそ。それでは駄目だ」
「確かに西郷さんの言う通りかも知れませんが、長州藩の立場もご理解頂きたい。ご存知の通り、長州藩が幕府に対して抱く不信感は、何も今に始まったことではないのです。関が原の合戦に於いて、敵対する東軍と内通していた一族の吉川家と徳川家は密約を交わしておりました。その密約ゆえ、広家殿は東軍に頼ったに過ぎません」
吉川広家は毛利家に対し東軍への加勢を提言していた。だが、石田三成の工作で輝元が西軍総大将として表舞台に担ぎ出された。
西軍として布陣する事を余儀なくされた広家は、従弟毛利秀元の出陣を妨害するように陣を敷き、再三に渡って戦への参加を拒否した。広家の強固な態度の裏には、名目上総大将として担ぎ上げられたに過ぎないとして、領土の安堵を約束した密約がある。しかし、いざ戦が終ってみると、徳川家との密約は無かったにも等しい扱いとなり、西軍の連判状に輝元の花押があったとして毛利家の所有する領土の没収され、長門と周防の二国を広家に与えるとの沙汰が出された。
広家は毛利の名を残すため、家康の申し出を辞退し、輝元が万が一徳川家に弓引くような事があればその首を差し出すと起請文を送り、それを受けた徳川家康は長門と周防を毛利宗家の安堵と、輝元達の身の安全を約束した。
長防に転封した毛利家は萩に本城を築き、本家と直系の盾として萩よりも遠方の東地を岩国領とし広家に与えた。
「二百万石とも言われた長州が三十七万石に減封され、本城を築くにあたっても、長府ではなく立地の悪い萩にと命じられた。だからと、長州がこれま徳川幕府に楯突いた事はありますまい。今日まで耐え忍んできた長州の心情もどうかご理解頂きたい」
薩摩も似たような境遇だと、西郷は漏らした。
「じゃっで幕府に盾突くとゆう理由にならんではあいもはんか」
「盾突くにはそれなりの理由があると言っているのです。京から追われる身となった長州が、薩摩との連携を考えているのは保身からくるものではありません。西郷さんなら、お判りいただけると俺は信じております」
「中岡くんの粘い強さは誰譲いだろうか」
「粘りたくもなります。薩長の連携が必要と思っているのは俺だけではないんですから」
「いけんしてそこまで、中岡くんが長州の為に走い回らなくてはならんですか」
中岡が公卿三條と懇意であり、京から落ちた公卿の下で暗躍しているのは大久保より聞いて知っていた。だからこそ、中岡は個人の枠を超えて動き回れるのだ。
「俺は長州に恩義があります。ですが、それだけの理由で動いているのではないことをご理解下さい。すべてはこの日の本の国のためなんです」
西郷はじっと中岡の顔を見据え、中岡も突き刺さる視線を真っ向から受け止めた。
「解いもした。長州の意見をいっど聞いてみもそや」
欲しかった答えを得たというのに、中岡は呆けた顔で西郷を見つめている。
「いけんしたんですか。会う、とゆとうんですよ」
「あ・・・ええ、はい。えっと、あ、ありがとうございます!」
西郷を説得し、桂との会合を長府で行うところまで漕ぎ着けた中岡は西郷と共に薩摩を出立した。これで万事上手く行くと思った中岡だったが、長府へ向かう途中、長州兵上洛の書簡が西郷の元に届けられ、事態は一変する。
西郷は大事だと、蒸気船の進路を大坂へと変更したのだ。
「西郷さん! 大坂へ向かうのは長府に居る桂さんと会ってからに願えませんか!?」
「そげん暇はあいもはん。直ぐに大坂へ上がってくわしか事態を聞かなくてはなりもはん」
「だからこそ、先に長州の真意を聞いた方が-」
「一蔵からも長州の動きは届いとう。長を止むうために、京中へ入っる前になんとか手を打たなくてはならん」
説得し続けたものの、結局西郷の意志は変わることなく、中岡は途中で下船を余儀なくされ、長府で待つ桂の所へと急いで戻った。
中岡が予想してた通り、西郷が来ないと知った桂は薩長との和解については是までと憤慨を見せた。
「我が長州を止めたいならば、ここへ来るべきだろう! 藩意を持ち、血気逸った者達を止める意外に手立はないと言うのが薩人には解らないんだ!」
「落ち着け小五郎」
部屋には高杉の姿もあった。久坂達が上洛してしまった事で藩政が乱れ、藩主敬親が高杉に事態の収拾を図るよう赦免を出したのだ。
「またそれか! 俺は至って冷静だ!」
桂が僕や私でなく俺と口にするのは珍しく、こうなった桂を止めるのは無理だと高杉は呆れかえってしまった。
「ここに桂さんと高杉さんが居るのは西郷さんも承知しています。それでも大坂へ向かうと決めたのは、戦の準備をするためではないんです。止めると、西郷さんは仰ってたんです」
「・・・・・」
「影響力を持つと言っても、西郷さんも一介の軍人に過ぎん。その立場で藩政を動かす困難さは、おまえが一番良く知って居るだろうが」
「だが・・・」
「中岡」
「はい」
「必ず西郷さんを俺達の前につれて来い。いいか、坂本さんではなく、おまえがだ」
「高杉さん・・・すいません、俺は・・・」
「中岡くん? まさか、君・・・」
俯いてしまった中岡に、憤怒の表情を見せる高杉を前にしては、桂も怒りを静めるしかなかった。
「阿呆が」
「それは駄目だ。君が長州の為と命を捨てる道理はない」
「誠に長州も土佐もありません。それに、まだ戦になると決まった訳ではありません」
「行かせてやれ、小五郎」
「しかし!」
「中岡。首だけになっても必ず西郷をつれて来い、いいな」
「無茶を言うんだから」
桂に詫びた中岡は西郷の許へ再び走ったが、何日待っても取り付く島などなく、会うのを断念して長州の情報と幕府側の状況を持って武市達の所へとやって来たのである。
「こりゃあ桂さんを宥めるがやき骨が折れるな」
「高杉さんもですよ」
話し終えた中岡は、和奈が置いた茶に手を伸ばし一気に飲み干す。
「長州軍はじきに京へ入ります。龍馬さんも早く京から出て下さい」
「中岡」
龍馬のその声は、これまで聞いた中で一番はっきりとした響きがある。
「行くのか?」
「そうするつもりです。長州に対する幕府の弾圧を、俺は黙って見ていられません」
「武力は怨恨しか残さん」
「解っています。だが、行かせて下さい」
すでに意を決している中岡に何を言っても無駄と判断した武市は、それ以上言うなと龍馬を遮った。
「死ぬなよ、慎太郎」
「すみません武市さん。中岡慎太郎、志を通させて頂きます」
正座に戻って深く一礼をした中岡は、障子を閉める間際にもう一度小さく頭をさげると、藩邸を後にした。
「京を出ると言ってものう」
龍馬は長いため息を吐いた後、気配を感じて障子を振り返る。と同時に少し戸が開き、出て来た手がさらに障子を開け、大久保がやれやれと言った顔で入って来た。
「ばたばたと五月蝿い音が聞こえて何事かとやって来てみれば、陰気な顔に揃って出迎えられるとは」
「慎太郎の馬鹿が飛び出して行ったがやか、陰気にもなるがでよ」
「ふん。吉之助から報せが届いている。屋敷を一つくれてやるから、君達は大津へ行け」
「大津?」
「生憎と他は埋まっておってな。いいか、私がいいと言うまで絶対に動くな。事が収まるまで京に戻って来るのも許さん」
「大久保さん」
「長州が退ぬとしたら戦になるのは必至。そうなれば吉之助も出ざるおえまい。君の推奨する和解にはまだ時間がかかるという事だ」
大久保は薩摩において精誠忠を西郷と造り上げ、推進派と共に攘夷を目指していた。しかし京の情勢を手に取るようになってから、過激を押して事を急いでは倒幕などできないと見解を反転させている。
「そこの小僧」
大久保の視線を辿って行くと、部屋の隅に座っている和奈にたどり着く。
「己を制し力を己の物と成せ。成せぬなら、おまえは人斬りで生涯を終えることになるぞ」
武市が何を言うのかと立ち上がり、龍馬も真剣な顔で大久保を睨み上げた。
「あれがこの小僧の持つ力と言うならば、武市くん、君には責任があるな?」
ならば最後まで役目を果たせと笑う。
「何ができるのか、まだ自分でもよく判ってません」
静かに語りだした和奈に、皆の視線が集まる。
「龍馬さん達が掲げる志というものも解っていません。ですが、知りたいと思ったんです。自分の事も、皆さんが目指す先も」
和奈は自分の内に、未来へ帰るという考えがないことに気づいていた。だからと、不思議に思う事もなく、今を受け入れている自分が居る。ならば成すべき事は一つと、この時代で生きる術を得る道を探そうと決めて以蔵のもとを訪ねた。
「それも志の一つだ。迷いがないのならば、己の人生を心行くまで紡いでみせろ」
大久保の言葉に、はいと答える和奈を見た武市は、ならば背負ってみせましょうと笑みを浮かべた。
「と、言う事だ坂本くん。この小僧がどういう素性の者で、何故君達と居を共にする事になったか今は聞くまい。だが、こ奴を抱えた君達には責任がある。それを忘れずにおくといい」
龍馬は無言のまま和奈へと顔を向けた。
時を超えて来たと言うのなら、和奈にはこの時代に身寄りも友人も全く居ない。もし自分達が見放せば路頭に迷うのは間違いないと解っている。大久保に言われるまでもなく、龍馬はそれを知る者の一人として責任を負うと決めていた。
「和太郎が腹を決めたっちゅうならそれでええ。わしらが成すべき事をしっかとその眼で観とうせ」
「ありがとうございます」
「時は動き出してしもうた。その中で己の道を見つけるのは一苦労ちや」
「坂本くんが案ずるまでもない、なあ武市くん」
意味深な笑いを浮かべた大久保から、武市は視線を外す。
(まったく、嫌な男だ)
ある意味桂と似通った種の人間、それだけに厄介と言える。
「おんしも行くとゆうかと思っちょったが」
武市も久坂とは懇意の間柄である。行くと言う中岡を見送った武市も、本当は出ると口にしたかっただろうと龍馬は思う。しかし武市は己の私情を殺し推し留まった。そうさせたのは、今死ぬことはできない理由があるからだろうと。
龍馬が察した通り、今すぐにでも中岡を追って行きたいのが武市の本音だった。だが、長州の行く末も、和奈の事も、幾多の紆余曲折を経た中から光明を見出さねばならないと、武市は逸る気持ちを抑えたのだ。
「色々とあるようだが後に回したまえ。すぐにここを発て。屋敷までの経路はここに書いておいた」
「忝い」
差し出しされた紙を、深く一礼して受け取ると、急いで旅支度を整えた一行は深夜になってから藩邸を出た。
日本でも有数の宿場町として知られる大津宿は、五条大橋を東へ抜けて西国街道から東海道を三里二十四町(十四.三キロ)を行った所に在る。
草鞋で長時間歩いたことなどない和奈にとって、大津宿までが果てしなく遠い場所に感じられた。
(これ、きついよ)
自分が旅に不慣れだと解った武市達が、歩く速度を緩めてくれているのが判っているだけにもう無理ですとは口に出せなかった。
「長州から籠ずくしで来たのか、あいつは」
後ろを振り返りながら以蔵がそうぼやく。
「桂さんの甥子だ。ならば上士の身分なのは間違いあるまい。そう思えば、旅に不慣れであるのは致し方あるまい」
以蔵は鼻を鳴らすと前を向き、背負った荷物を抱えなおした。
武士が旅路を行く歩速は速い。
山道や獣道が多ければ、速度も落ちて進める距離も少なくなるが、最小限の休息だけで一日十八里(六十キロ)を歩く者も少なくない。
半分の距離までやって来ると、道の両側に木立ちが目立ちはじめた。入り組む幹の葉で陽の光りが遮られ、太陽が昇っているにも関わらず辺りが薄暗くなっている。夕方となれば夜に近い暗さになる。
陽が地平線近くまで沈むと大気が一気に冷え、更に和奈の歩みが遅くなった。
「少し休むか」
立ち止まった武市は後ろを見やり、辛そうに歩いて来る和奈を見て言った。
「ほうじゃの。夜通し歩くのはきついじゃろう」
漸く追いついた和奈に、龍馬はここらで夜を明かすと告げた。
「た、助かった」
今にもへたり込みそうな和奈に、頑張れと言葉を掛けた龍馬が先頭となり、街道を外れて木立の中へと踏み入って行く。
「どこか座れる場所を探そう」
「先を見てきます」
そう言って以蔵が木立の中へと消えて行った。
「元気ですね、岡田さん」
「おまえが貧弱なだけだ」
そう言われては帰す言葉もない。
「まあまあ。体力もいるけんど、どう歩けばだれんか、旅を重ねれば判る事やき、そう気を落とす事はない」
「頑張ります」
少し先に開けた場所が在ると、以蔵が引き返して来た。
「さあ、もう少しだ」
以蔵は、木の根が地表を這っている場所へと三人を案内した。
「とりあえずここで休んで下さい。もう少しましな場所を探してきます」
「いや、ここでいい。完全に陽が沈めば更に冷える。以蔵、おまえは小枝を集めて来い」
「承知」
「僕も手伝います」
武市は不要だと、脇を通り過ぎようとした和奈の腕を掴んだ。
「うろちょろせず、明日のために体力を戻しておけ。おまえもだ、龍馬」
「ぬ?」
両袖に腕を仕舞い込んだ龍馬が、木の根を見ながら狭い空間を右に左にと動き回っていた。
「ここら辺りでいいじゃろ」
座るのに丁度良い場所を見つけ、早く来いと手招きする。
「ほら、どうだ。寝るには調度ええろう」
太目の根に頭を乗せ、根っこの間に上手く横たえ嬉しそうに龍馬が笑う。
「根っこも使いようぜよ」
辺りから拾い集めて来た小枝を山の様に盛り上げると、龍馬が懐から燐寸まっちを出し、丸めた懐紙で火種を作り枝の中へと押し込んだ。
「今怖いのは寒さと野犬やき」
(へえ。マッチってこの時代にもあったんだ)
龍馬が袖から取り出した燐寸は、大坂海軍塾生だった頃にオランダ海軍と交流の深かった勝海舟から譲り受けた物だった。貴重品だからと、龍馬は湿気ないよう紙に包んで野宿に限って使うようにしていた。
「晩めしがないとゆうのは淋しいものやき」
火を枝で突きながら、懐に手を差し入れて左右に摩る。
「僕が遅いせいでこんな所に野宿となってしまって、すみません」
「たかが一晩くらい飯が食えぬからと、騒ぐことではない」
「そうやか、一晩ばあなんともないがで、気にすることはないがでよ」
「龍馬が飯の話しをしたんだろうが」
以蔵がうっとうしそうに対面から龍馬を睨む。
「ほがな怖い顔はやめとうせ。余計に腹が減るき」
「なぜ俺の顔で腹が減る!?」
「五月蝿い」
武市に凄まれた以蔵は、乗り出した体を後ろへと引っ込めた。
「おまえもさっさと座れ」
窪みが出来た木の根元を指差された場所へと和奈は腰を下し、腰に刺してあった竹筒を取り水を口に含んでから、皆に見えないよう袴の裾から指を入れると鼻緒で擦れた親指の付け根を触る。
黒い足袋の間に血が滲んでいるのが、ねっとりとした感触で解った。
(バンドエイド・・・なんてもんはないか)
時間の経過と共に足に痛みを感じなくなっているが、また歩き出す事になればぶり返すだろう。
(野宿なんて生まれて初めてだよ)
疲労感と睡魔が思考を鈍らせていく。
今ここでこうしている事が不思議としか思えない。もしかしたらずっとこの世界で生きて来たのではないのか。
自分の考えにぞくりとして和奈は体を抱え込んだ。
(目が覚めたらベッドの中、だったりして)
一息ついた安堵感から、睡魔は和奈から意識を奪い眠りへと落とした。
「ほれ」
刀を杖にして寝入ってしまった和奈に気付いた龍馬が、にやけ顔で武市に顎を突き出した。
「そのしまらぬ顔をなんとかしろ」
「わしの顔がしまらのうても誰に迷惑かけるもがやき」
うつらうつらと船を漕ぐ和奈の肩に脱いだ羽織をかけた武市は、少し考えてから身を屈めると和奈の足に手を伸ばした。
「おいたはいかんぜよ」
「貴様と一緒にするな」
そっと鼻緒と指の間に小指を滑り込ませると、ねっとりとした感触がする。
「足を痛めているのに、痛いとも言わない」
「まっこと、気丈じゃ」
「馬鹿なだけだ」
「おんし、口まで武市に似てきちゅう」
顎を引いた以蔵は反論もせず、火に視線を戻した。
「数日の内に、長州は京に入るだろう」
武市の言葉に、龍馬も以蔵も無言で取り囲んでいる火を見た。
「戦にならなければいいが」
新撰組を抱える会津藩も江戸から兵を上洛させ、他藩とともに守護に就いている。長州が動き、最悪の状況にでもなれば大久保も言った通り西郷は幕府側で動くだろう。
「中岡にゃ困ったもやき」
腕は確かと言えるが、戦に出た経験は皆無である。一対一ならばともかく乱戦ともなれば、腕があっても多勢に無勢となるのは必至。そうなれば生き延びる確立は極端に低くなる。
「結果を待つ事しかできんとゆうのは、まっこと腹立たしいもんやか」
梟の鳴き声が夜の闇に木霊し、火の中でパチリと木が弾ける。
「大久保さんも気づいちょった様だな」
「和太郎の事か?」
「ああ」
「その様だな。まったく、隙も何もあったものではない」
抜刀術を己の力としろと、大久保から言われたその意味を恐らく和奈は理解できていないだろう。
「おんし、やはり変わったのう」
「変わってなどおらん」
「以前の武市さんなら、あがな事を口にゃしやーせんろう。どういう風の吹き回しなが」
「さて、何を口にしたのやらとんと思い当たらんが?」
「ほんにおんしはずるいぜよ」
「おまえに言われるとは、心外な」
「先生は弟子思いな方だ。龍馬ごときがあれこれ詮索するな」
「まっことおんしは武市一辺倒やき」
ああだこうだと言い合いを始めた二人を他所に、気持ちよく寝いいった和奈の横顔を見下ろす。
武市も、和奈の人生を背負うと口にした自分に驚いた。龍馬が気づいた自分の想いに間違いはないとも自覚している。
問題は今後である。このまま刀を持たしておくべきか否か、武市は思案に暮れていた。
「あのくそ狸め」
言い合いの果てに以蔵はその言葉にたどり着いたらしい。
「こりゃ、言葉に気をつけんか」
「あいつは狸で十分だ」
「そうだな、今回ばかりは以蔵に同意する」
武市の言葉に、以蔵は照れた顔付きで俯いた。
「あの太刀を意のままに使えたとしても、辿る道は一つしかない」
龍馬は危険な場所へ和奈を近づけたくはないと考えているはずだ。無論、武市も出来るなら避けたいと思っている。
行動を共にしたいと言い続ければ、いずれ命に関わる危険な場面に遭遇し、刀を扱えれば人を斬ることになるかも知れない。現に和奈は人を一人斬っているのだから、可能性がないとは武市も龍馬も断言はできない。
「しょうっこと困った」
「桂さんの許へ帰す手も考えるべきか」
それが一番良い方法にも思えた。
「和太郎に見定めさすと言ったのを忘れてはいまいな?」
「忘れてはいやーせん」
和奈が時を越えて来たと話すべきかと龍馬は迷った。
話せば武市は笑うだろうか、それとも桂の様に黙認してしまうだろうか。
(時を越えたとゆう言葉を信じるなら、その術をさなぐすしかぇい。けんど鈴の音しか手がかりが無いちゅうんじゃ、難しい事やか)
「自分の進む道を決めたと言ったんだ、ならば見守ってやるしかあるまい」
「覚悟をしたらしいがのう」
「あいつは、人を斬ったことで元には戻れぬと解ってる。ならば自分のしたいようにさせてやればいい。何かあれば俺が手助けに入ってやる」
以蔵の言葉に武市が目を見開いた。
「以蔵、まさかおまえ」
「はい?」
突然、龍馬が笑い声を上げた。
「なんなんだ!」
「五月蝿い。和太郎が眼を覚ます」
押し黙った以蔵は龍馬をじろりと睨みつける。
「武市もいらん心配をしな。以蔵にとって和太郎は弟みたいなもんやき」
「いらん心配とはなんだ」
「あんな弟が居たら苦労が絶えん」
同時に言われては首をすぼめるしかない龍馬の頭から、和奈の素性を話すべきかどうかという問題がきれいに消えてしまった。
地平線から太陽が光の腕を空へと放ち出す頃、寝静まっていた鳥達が巣穴から飛び立ち始めた。
鳥のさえずりと、地平線から延びてた太陽の光りで目を覚ました和奈は、目の前で火に背にして寝転んでいる以蔵と、刀に抱き付いて眠っている龍馬の姿を視界の中に見つけた。
「ん?」
ふと自分の左腕に暖かさを感じて横を向くと、静かな寝息を立てている武市の顔がある。
「うわっ」
思わずのけぞってしまい、武市の頭がカクンと前に揺れる。
「あわわわっ」
倒れないようにとそっと体を引き戻す。
(へえ、意外とまつげ長いんだ)
武市を起こさないように、そっと手を離した。
新鮮な空気を胸一杯に吸い込んでゆっくり吐き出しながら、鳥のさえずりに混じり、風にそよぐ葉の音にしばし耳を澄ます。
体が寒さに震え、両腕を摩りながら小さくなっている焚き火に小枝をくべようと立ち上がった瞬間、突き刺さるような痛みがつま先に走った。
「った!」
その声に武市がまず目を覚ました。
「お、おはようございます」
寝ぼけ眼で頭を擡げた龍馬は、上半身を起こすと大きく背を伸ばす。
「起こしてしまってすみません」
「気にしのうていいよ。それより、なにを喚いちょったが」
ざわざわとした気配に気づき、以蔵が寝返りをうちながら身を起した。
「足を痛めているのを忘れて立ち上がりでもしたのだろう」
「うっ・・・」
「足を痛めているならちゃんとそう言わんかえ」
和奈の前に膝をつき、
「早く草鞋を脱げ」
そう急かした。
草鞋を取り足袋を脱いだ和奈の足を手に取った武市は、指の間に固まった血の跡見てから、じろりとした目で和奈を見上げる。
「なぜこうなる前に言わない」
「えっと、その」
「迷惑かけまいと我慢しよったんじゃろ」
「怪我で歩けなくなる方が迷惑だと思うが?」
竹筒を手にした武市は、指の間へと水を滴らせる。
「っ」
「我慢しろ」
手ぬぐいを懐から出すと、小さく引き裂き指の間へと巻きつける。
「ありがとうございます」
「これで痛みも幾分はましになるだろう」
足袋を履いて草履を履きなおした和奈は立ち上がって少し歩いてみた。
「どうだ?」
布が鼻緒と皮膚の摩擦を軽減し、あまり痛みを感じずに歩くことができそうだった。
「はい、大丈夫です」
「無理をせず、のんびり行くとしよう」
結局、和奈の足を気にしながらの道中になったが、昼過ぎには大津宿へ着く事ができた。
「人が多いやか」
大津宿は、琵琶湖で取れる産物を集める港町として、東海道の宿場では一番の人口を有し賑わう宿場だったが、不穏な噂が広まる京を離れ大津へ逃れて来る者が多いのか、通りを行き交う人の数も多くなっていた。
武市達にとって人ごみに紛れられる利点もあるが、手配者を探す幕吏や捕方を見つけずらい欠点もある。
「腹が減りすぎて、わしははや歩けやーせん」
昨晩から空腹を抱えた龍馬が蕎麦屋を指差した途端、武市の横に立っていた和奈の腹の虫が悲鳴を上げた。
「い、いまのはなし!」
「なしもありもあるか」
先を急ぐに越した事はないが、京の情勢が緊迫している今、そうそう追手がつくものではないと武市は判断した。
「とっとと食べて先を急ぐぞ」
やっと飯にありつけるとなり、少し遅い昼食となった。
「あとどの位だ?」
「まだ一里はあるな。人気の少ない場所でなくても良かったんだが、大久保さんは気を利かせすぎだ」
蕎麦を啜りながら答える龍馬は、身元を悟られないよう土佐弁を控えていた。
「きっと、遊び呆けるだろうおまえを見越しての事だ」
汁を飲み干し、爪楊枝で歯の間をほじる龍馬が口を尖らせる。
「ごちそうさまでした」
「なんだ、和太郎はもう食べないのか」
「一つで十分ですよ」
「おまえ達が食べすぎなんだ」
昨晩から何も口にせず歩き詰めとなっていた龍馬と以蔵は、すでに三つの蕎麦を平らげている。
「さて、そろそろ行くぞ」
お茶を飲んでからだと、急須から空になった湯飲みにお茶を継ぎ足す龍馬。
「おまえの気が済むまでゆっくりしていたら日が暮れる」
勘定を済ませてくると武市はが立ち上がった。
「先に出てますね」
「おう」
店を出た和奈は、往来する人の波にため息を吐く。
「どうした?」
後ろから出て来た以蔵に尋ねられ、視線を通りへと戻す。
「人、多いなって」
「大津は西近江路、中山道、東海道の宿場だからな」
と説明されたところで、それらの街道が大津からどの方角へ伸びているのか和奈にはさっぱり検討がつかない。
「ゆっくり茶ばあ飲ませてくれ」
席に座って急ぐ風でもない龍馬を連れ出してきた武市は、道の方へとその背中を押し出した。
「着けばまた飲めるだろう」
「おんしはいられ過ぎでいかん」
「気を緩めすぎるのもな」
つい土佐弁を口にしてしまった龍馬を睨みながら、人ごみの中へと歩いて行く。
「きちっと過ぎる性格が苦にならんのかのう」
「きちっとした武市さんと、ゆるゆるの龍馬さんだから丁度いいんじゃないですか?」
くすくすと笑いながら、龍馬と並んで歩き出す。
「おんし、遠慮がないのう」
「いいバランスだって褒めてるんですよ」
「ばらんす? ああ、吊り合いか」
「あ・・・」
慌てて手で口を押さえる。
「聞こえちゃーせんよ。けんど、気をつけるに越したことはないき」
「気をつけます」
通りの両脇に、魚屋や干物を軒下に吊るした乾物屋、呉服屋、古着屋などが軒を連ね、魚を入れた半台を長い天秤棒の両端に付け、肩に担いだ男が通り過ぎていく。
(なんか、商店街を歩いてるみたい)
「さっさと町をでてしまおう」
「おう」
後ろを歩いていた和奈の足がいつの間にか速くなり、武市達を追い越して行く。
「あの阿呆が、道も知らんのだろうが」
「やき人を阿呆阿呆ゆうもがやないがで」
珍しそうに通りの両側を見ていく姿に、龍馬が口元をほころばせる。
「京案内もしてやれんかったからのう」
袴姿で通りを忙しそうに見回す素振りは男のそれではない。
くすり、と武市が笑う。
「龍馬、以蔵と先に行け」
「以蔵と? ほき、和太郎はどうする?」
「大久保さんは屋敷に人を置いていると言った。着くのが遅れてはいらぬ心配をかける」
「で、おんしと和太郎はどうする」
武市が何をしようとしているのか悟った龍馬がにやりと歪む。
こういう時は何時にも増してしつこい男になるのだと武市は知っている。
「本当に、おまえを斬ろうかと本気で考えることがある」
くわばらくわばらと言いながら、以蔵の腕を引っ張って行く龍馬は、手をひらひらさせて人ごみへと紛れて行った。
「和太郎」
名前を呼ばれた和奈は、龍馬と以蔵の姿がないことに慌てた。
「うわ! まさか、迷子になってました?」
「いや。龍馬達は先に行かせた」
「すみません、余所見し過ぎでしたよね」
「・・・暫くは町へ出てる機会もあまりなかろう。今のうちに見物しておくか?」
「いいんですか!?」
「長居しなければ問題はない」
嬉しそうに胸の前で手を組んだ和奈は飛び上がった。
「まるで女子だな」
笑う武市を見て胃の辺りがひやりとする。
「えっと、そのですね」
無鉄砲で思慮が浅い上に頑固ときた。これでは龍馬が二人いるようなものだと、武市は真顔で困って見せる。
「反省してもしきれません」
肩をすぼめた和奈の背中を軽く叩き、行くぞと歩き出す。
路地の片隅には出来合の食べ物を売る「振り売り」が出ている。振り売りは、今で言う屋台のようなものだ。
「萩の町も似たようなものだろう」
「あっ、そうですね」
萩について全く知識のない和奈は、何か聞かれては困ると口をつぐんだ。
「すまん。思い出させてしまったな」
「いえ、そんなんじゃないです」
「詫びの代わりに」
近くに在った茶屋を見つけた武市は、店先に設えてある長椅子へ和奈を座らせた。
「茶屋?」
中から出て来た女中に団子を注文し、
「少しここで待て」
と言い残し、武市は来た道を戻って行った。
「武市さんてば、団子好きなんだ」
大津へ来たのは身を潜めるためだ。必要の無い行動を一切しない武市が、屋敷へ急ぐでもなく寄り道をしているのが不思議だった。
「おまっとえさんです」
女中が団子串二本と緑茶の載ったお盆を手に店の奥から出て来た。
「あら、お連れ様は?」
「すぐ戻る」
女中が店の中へ戻ると、再び目の前の人通りに目を戻す。
簪かんざしを着けた女性に、飛脚、浪人に小さい子供の手を引く白髪頭の老人。服装や髪型を覗けば、昭和に生きる人と変わらない風景だ。
(変わらないんだなあ)
暫くして戻った武市は、団子も食べずにぼぅっと通りを眺めている和奈にため息を吐いた。
「待っていろとは言ったが、食べるなとは言ってないぞ」
蓬団子を頬張る和奈に、食べるかと自分の皿を差し出す。
「ふぁべないんれふか?」
「口に物を入れたまま喋るな」
「!」
恥ずかしい事この上なく、いつもの武市ではないのが悪いと他人のせいにしながらも、二人分を全部たいらげた和奈は満足顔になった。
腰を上げた武市は、土産にと龍馬達の分を注文することを忘れなかった。
「さすが武市さん」
(手土産の一つも持って帰らんと龍馬の事だ、根掘り葉掘り聞いてくるに違いない)
しかし団子を渡しても聞かれるだろうとも思う。
なにやら考え込んだ武市の顔を和奈が覗き込んだ。
「なんだ?」
「難しい顔でどうしたのかなって。あっ、もしかして、団子残すべきでした!?」
「おまえっ」
「食べ物の恨みは怖いとよく言うじゃないですか」
「断じて恨みなどせん!」
出て来た女中から持ち帰り用の団子を受取り、踵を返して歩き出した武市の後を慌てて追いかける。
「そうだ」
突然足を止めた武市の背中に顔からぶつかった和奈は、鼻を押さえて武市を見上げた。
「忘れる前に渡しておく」
袖から取り出した物を和奈に差し出した。
「根付? 僕にですか?」
「いいから、さっさと受取れ」
赤い紐先に、黒檀の四角い箱が付いている根付を受取る。
「その先の箱を開けて見ろ」
良く見ると箱に筋があった。
左右に引いて開けると、丁寧に彩色された彫り物が出て来た。
「鶴!?」
珍しそうに鶴を見ている横顔に、武市は微笑んだ。
「カラクリ根付を見るのは初めてか」
「はい!」
「それは良かった」
根付は差根付や形彫根付など様々な種類が作られ、印籠や煙草入れや皮袋等を紐で帯から吊るし持ち歩くのに用いられていた。
「ありがとうございます」
竹筒にでもつけておけと言われ、早速腰に差していた竹筒の先の穴に付け、帯の下へ通して根付を引き出す。
筒で窮屈となっていた腰周りがすっきりと楽になった。
(まさか、わざわざこれを買いに?)
和奈は小首を傾げる。
「なんだ?」
「いえ、その、明日からの稽古はもっと厳しくなるのかなって」
「なっ」
寄り道はするし根付を買ってくれるしと、腕を組んで首を傾げた和奈に顔を見られまいと、武市は歩調を速めた。