其之ニ 暗躍
幕府の勢力が落ち始めた時勢を見てとり、西本願寺第二十代宗主広如は、予てより懸案事項となっていた、新撰組への敷地・建物提供を打破すべく、堀川通りを南へ下った不動尊村への屯所移転を申し出た。西本願寺からの申し出に、交渉について近藤や土方は出ず、代わりに諸士取扱役兼監察方の吉村貫一郎が当たった。屯所の建築費、諸経費を全て西本願寺が負担するという内容を受け入れた新撰組は、不動尊村への屯所移転を決定した。
浄土真宗の大僧正でもある広如は、黒船来航後、尊皇攘夷の機運が高まりを見せる中、広如は勤皇僧として名を馳せるようになり、周防妙円寺の住職だった月性を西本願寺へ招いた後、宗派全体に「夫皇国に生をうけしもの、皇恩を蒙らざるはあらず、是によりて我が宗に於いては王法を本とし、仁義を先とし、神明を敬ひ、人倫を守る可きよし。かねて定めおかるる所なり」という尊皇攘夷の徹底を諭す「御遺訓御書」を提出した。禁門の変で、幕軍に追われ逃げ入って来た長州藩士らを門内に匿い、逃がせと指示した経緯を持つ。
不動尊村屯所は、その敷地三千坪を有し、高壁で敷地を囲み、馬屋、獄舎、幹部の部屋は勿論のこと、平隊士の部屋まで設えられ、一見すると大名屋敷の様相を成している。
慶応三年六月十五日。西本願寺から新撰組が不動尊村へと入った。
一番に喜んだのは局長の近藤だった。幕臣となった自分達に見合うだけの屋敷と、その顔は締まりのない顔になっている。
「気引き締めてくれよ。西本願寺がこの時期に動いたんだ。裏に何かあると思って間違いないんだ」
終始破顔の近藤に、そう土方は釘を刺した。
「気の回しすぎだと思うがなあ。長州擁護と言っても、擁護する長州は未だ京に入ることができんのだ」
「忘れるなよ、近藤さん。かつて坊主どもはその手に武力を持ち、幕府に楯突かんとしたことがあるって事をな」
「そりゃあ、宗派が違うだろう」
「んなこったぁ解ってる! 宗派が何処であれ、警戒しとくに越した事はねぇって言ってんだよ」
困った笑いを浮かべた近藤は、憤怒の形相を近づけてくる土方を宥めるように両手でその肩を叩く。
「そうそう! 今日、赤井くんがここへ来るぞ」
「赤井が? なんで?」
「昨日だったか、遊撃隊の伊庭くんが勝殿に掛け合ってくれ復帰を許可されたと、書簡が届いた」
「そんな報せが届いてたんたなら、もっと早くに教えてくれ!」
屯所移転や守護職屋敷での打ち合わせが続き、書簡の事を忘れていたのだと、笑みを消し慌てて言う。
「あんたの雑務は俺がやるから」
「んー、そうか。ならこれからは頼むよ。ああ、赤井くんが着いたら、道場の方でお手並み拝見といこうじゃないか」
四番隊組長の枠は代理も置く事無く土方が兼任している。何れ戻って来た時の配慮と、近藤が据え置いていたのだ。
「あの小天狗が指南してたんだ。腕に問題はないだろう」
「隊士の手前もあるだろう? 隻腕でも、組長格と渡り合えるってところを見てもらわねばならん」
赤井が新撰組を出てから入った隊士も多い。無論、四番隊にも新参者が居る。代理となっていた土方が退き、戻って来た赤井をすぐ隊長に就かせれても、疑問に思う者が出てくる可能性はある。隻腕ともなれば尚更だろう。
入らぬ火種を作る必要はないと、土方は手合わせを了承した。
「大石に向かえを頼んだ。夕刻までにはここへ着くだろう」
嬉々として出かけて行った大石を想像した土方が、自重気味に苦笑を浮かべた。
「ところで、総司の具合の程はどうなんだ?」
沖田は抱える病の悪化が目に見えて酷くなり、屯所移転の際、近藤の妾であるおわかの邸宅へと移り住んでいた。
おわかは、島原の置屋木津屋の技芸だった。深雪太夫の名で二十四歳になる。おわかを気に入ってしまった。しかし太夫ともなれば落籍には多額な費用が要る。土方が呆れるのもそのままに、借金を重ね、なんとか資金をかき集めて太夫だったおわかを落籍させてしまったのだ。
「咳がなあ」
日を増すごとに多くなって、吐血の回数も比例して増えていると、近藤は眉間を狭めた。
「大丈夫だと笑って、近所の子供たちと境内で遊んじゃいるが。帰ってきたら飯もそこそこに布団に潜り込んでる」
「出かけさすな・・・って言っても、無理か」
「処方された薬はちゃんと飲んでるし、差し入れた団子もちゃんと食ってる。食えて動けるうちは好きにさせてやりたい」
食が細くなれば、その分体力も落ちる。そうなれば外に出ることもままなくなり、起きるのも一苦労になるだろう。
「たまには顔を出してやってくれ」
労咳を患った者の末路は二つに一つ。高額な漢方薬を処方してもらい、空気の綺麗な土地で養生すれば治る例も僅かではある。が、養生しているとは言え、洛中に居る沖田の症状は悪化の一途を辿っている。言葉にださなくても、二人にはその行き着く先を容易に想像する事ができる。
「今夜にでも行ってみる。赤井が戻ったと報告してやらんとな」
「頼む」
「昨日も遅かったんだろう? 後は俺がやっとくから、あんたは少し休め」
「すまんな、隊の面倒までおまえに任せっきりで」
「仕事だからな。西国雄藩の重役がこぞって動き出している件、会津藩にちゃんと伺い出しといてくれよ」
最近、薩摩ばかりでなく土佐の動きも慌しくなりだした。他藩士達の出入りが増え、国許から重臣の京入りも多くなり、薩摩藩、土佐藩、安芸藩を中心に、人員を割き見張りと見廻の回数を増やしていた。
外ばかりでなく、内部の仕事も少なくはない。増員した隊士の監督や統括と、近藤が役目で飛び回り留守をしている中、土方が変わりに仕切らなくてはならない。
「嫌な雲行きになってなきゃいいが」
そう言って見上げた空は、雲一つ無い快晴だった。
赤井が大石と共に屯所へやって来たのは、太陽が天頂と地平線の間に傾く未の中刻(午後三時)を少し過ぎた頃だった。
「唯今戻りました!」
稽古を終えた隊士だちが剣道場から手で来る中に、土方の姿を見つけた赤井は、大急ぎで駆け寄るとそう言って頭を下げた。
「随分と遅い帰りだな」
「申し訳ありません」
口の端を上げ、もう一度頭を下げた赤井の襟元を鷲掴みにした土方は、ばらばらと出て行く隊士らに中へ戻れと大声を上げた。
「とっとと入れ!」
赤井の姿を土方の横に見つけた伊藤鉄五郎と近藤芳助が、道場へ戻る列の中から飛び出してきた。
「赤井さん!」
「うわっ!」
駆け寄ってきた勢いそのままに抱きつかれた赤井の体は後ろへとバランスを崩してしまう。
「ちょっ!」
慌てて掴んだのが土方の着物の袖だったものだから、不意打ちをくらった土方もその体を後ろへ浮かせ、地面に二人仲良く寝そべる羽目になってしまった。
「おまえらなぁ!」
上半身を起こし肩肘を地面につけて、二人重なって倒れている赤井と鉄五郎を睨みつけた。
「すみません!」
顔を引きつらせ気味で鉄五郎が赤いから離れ、その場で正座となる。
「ったく」
立ち上がった土方は着物についた土を払い落としながら、立ち止まってしまった隊士たちに再度大声を上げた。
「おのえらも早く中へ入れ」
「は、はい」
ぺこぺこと頭を下げる鉄五郎の脇腹を小突き、赤井も一団の後ろから道場へと足を踏み入れた。
壁に沿って立っている隊士たちのなかに見知った顔見もあるが、見知らぬ顔の方が多い。
なぜ土方が隊士を道場へ戻したのか察しがついた赤井は、横に立つ鉄五郎と芳助に行けと顎を振る。
「また、あとで」
そう笑って、二人は並ぶ隊士たちの中へと加わって行った。
「永倉!」
土方の顔が道場の隅へ向き、隊士の後ろから名を呼ばれた永倉が、鼻の下を擦りながら嬉しそうな顔で中央へと出て来る。
「うへっ。いきなり永倉さんですか?」
「ほう。随分と察しが良くなったもんだな」
木刀掛けから木太刀を取り、判って居るならさっさと行けと永倉に視線を向けた。
木太刀に視線を落とし、一呼吸の間をとった赤井は、両肩を上下に動かしている永倉に対峙する位置へと進み出た。
「四番隊の者の中には知ってる者も居るが、知らん者の方が多いので簡単に説明する。そいつは西本願寺に移転となった後に四番隊隊長に就いた赤井修吾郎だ。長州征伐の折、隻腕となったため、療養を兼ねて隊から離れていた。傷も癒え、この度新撰組に復帰することになり戻って来た。隊長に復帰するにあたり、それに見合うだけの腕を残しているかどうか、これから見極める。隊長全員が揃ってないが、永倉と渡り合える実力があれば問題なしとする。異存ある者は今名乗り出ておけ」
(鬼の副長に意見する奴が居たら見てみたいよ)
沖田が居たならそう言うだろうと、永倉と目を合わせて肩を揺らした。
「よし! おい、そこの二人!」
浮かべていた笑みを消し、二人は背筋をピンッと伸ばした。
「手ぇ抜いたらこの俺が変わりにてめぇらを殴り飛ばす。解ったら始めろ!」
「はい!」
息を吸い込み、ゆっくり、少しづつ吐き出し、赤井は手にしていた木太刀を握る手に力を込めた。
遊撃隊の稽古とは違った緊張感が、道場内に張り詰めた空気を漂わせて行く。
武士の中でも身分の高い者が多い遊撃隊とは違い、新撰組はその殆んどが武士の身分を持たない。凛とした空気の中に、チリチリと肌に突き刺さる緊張感がここにはある。
永倉の左足がすり足で下がり、両腕がゆっくり下りて下段の構えを取る。それに合わせる様に赤井も半身を取って片腕で木太刀を正眼に構えた。
ジリッっと双方の足が板床を踏みつける。
先に動いたのは赤井の体だった。
中腰で重心を落としたすぐ後に蹴り出し、永倉との間合いを詰めた赤井は、正眼から少し右上に上げた刀を左へと振り下ろす。
「っ!」
永倉の腕が動いた直後、赤井の腕は上へと持ち上げられた。
赤井は咄嗟に重心を右へと移動させ、振り下ろされて来た刃を避ける。
「それやばいっすよ」
相手の刀を下段から上段へ擦り上げた後切り落とす、切り上げとは反対の、永倉が得意とする太刀筋だ。
「へぇ、かわしたか。結構頑張ったんだなあ」
ニヤリと笑った永倉が前へと足を踏み出す。笑顔とは裏腹に、永倉は間合いを保ち剣気を放っている。
左下から振り上げられる刀を、刀を右上からの振り下ろし、鍔で受け止めると片腕を思いっきり突き出し、左へ回り込みながら手首を返し、永倉の横腹に切り込んだ。
「っとぉ」
踏み込みを浅くし、重心を後ろに引いた左足に乗せ、赤井は永倉の背後へ入る。
「!」
態勢を整えきれず、隙のできた背中に赤井の腕が振り下ろされる。
「っく!」
だが永倉は重心を移すよりも早く、上半身の重さでを利用して前へ倒れ込みながら右足をふんばり、振り返り様に赤井の脇腹に木太刀を走らせた。
永倉の背中を狙った刀は目標にとどく寸前、振られた木太刀を止めていた。
「だが!」
外へと木太刀を払い退け、構えに戻れていない永倉にむれて逆風突きに出る。
左手で木太刀の先を持ち、突き出されてきた木太刀を止めようとした永倉の腹に、赤井の木太刀が入った。
「ぐっ!」
防具と木太刀のぶつかる音が場内に響き、永倉の体が床の上に大の字を描いて倒れた。
「ったぁ。やられたなぁ」
「運が良かっただけです」
張り詰めていた気が緩み、全身から力が抜け落ちて行く。
「永倉相手に隻腕でそんだけできりゃ文句ねぇ。赤井、今から四番隊をおまえに預ける。気はって務めてくれ」
「はい!」
「大石に稽古つけてもらってた時分より、無駄に動きがなくなってるなぁ。いい師範についたか?」
起き上がる永倉の目は真剣になっている。
「ええ。笑顔で無理難題を言ってくる、すごーくいい師範でした」
「そりゃ沖田じゃないか」
一転して笑顔になった永倉の言葉で、赤井派その場に居るはずの姿がないことに気がついた。
「沖田さんは?」
「今、近藤さんの屋敷に居る。後でつれてってやる。大石! こいつを部屋に連れてってやれ」
「承知!」
軽快な足取りで出てきた大石は、嬉しそうに赤井の首へ腕を回すと、引きづるように道場から連れ出して行った。
肩を押さえ、血行の悪くなった部分を軽く揉みほぐしながら、小松は晴れない表情で茶を口に運んでいる大久保を見やった。
「やれやれと言ったところだが、安堵するには至らぬのが辛いのう」
徳川慶喜が大政奉還を否定した際、武力を以って幕府に大政を返上させる。その約束を後藤から取り付けたが、大久保、西郷、小松らにとってはこれで良しと手を叩いて喜ぶには至らなかった。土佐で動く乾や小笠原とは幾度となく話しを重ね、大筋に於いて双方とも意見の合致を見ているが、後藤との階段は数少ない上に、ガチガチの佐幕派だった男だ。容堂の意見一つで、再び相対する相手になるかも知れない。その危惧が薩摩藩だけでなく、長州や芸州にもある。実際に事を進め、その動向を注視しておく必要がある。
「しかし、公が長州者を引見してくれたのは幸いじゃ。これで両藩は同じ目的で歩みを進められる」
京都土佐藩低に於いて、後藤、乾、佐々木の意見を合わせ藩論が大政奉還へ転じ、島津久光は山縣と品川に、王政復古における両藩連合の必要があると、長州藩主への伝言を託した。薩摩、長州だけでなく、土佐までもが反幕路線へと歩みを進める中、再三に亘って帰藩を願い出ていた松平容保だが、中川宮朝彦親王から在京を要請する書簡が届けられ、会津は未だ幕府の手から逃れられないで居た。
「そうそう。新撰組の近藤と申す者が、建白書を提出しに正親町三条実愛殿の屋敷を訪れたそうじゃ」
獅子脅しの音が響く中庭を横手に、膝を向き合せていた小松が面白いと言いたげな顔で言った。
「見廻組格に取り立てられて、武士にでもなった気でいるのでしょう」
「僅かばかりの憂き目じゃ。今の内に心置きなく浸っておれば良い」
「如何にも。それより、此度の密約の内容の件ですが、在京している長州藩士に伝えた、桂くんに知らせてもらおうと思っていたのですが、中岡くんが自分が行きたいと申し出て参りましたので、その様に取り計らいましたがご不都合はございませんか?」
「構わぬ。土佐の内情に精通している者が直に説いた方が、又聞きするよりも良いであろう」
茶筅を回す手を止め、雫が落ちないよう裏返しに畳へと置いた大久保は、茶碗の絵柄を小松に見える様に回してからその膝の前へと差し出した。
「こうして落ち着いて茶を嗜むことが、いつまできようのう」
絵柄に口が当たらないよう、内側へ二度回してから、ゆっくりと抹茶を喉に流し込んだ。
「当分の間、心が休まる刻などなくなるでしょうが、茶の湯を点てるぐらいはできましょう」
「はっきりとそう申すそなたが、時々憎らしく思える」
初夏の匂いを含んだ風が中庭からそよいで来ると、大久保は口元をほころばせた。
新撰組の幕臣取立てを不服とし、茨木司ら十名が、脱退の嘆願に京都守護職屋敷へ嘆願に出向いたが聞き届けられず、茨木、中村五郎、富川十郎の三名が割腹したとの報せを受けた伊東は、青く晴れ渡った空とは反対に暗い表情を浮べていた。
「新撰組幹部は、どれだけ無益な血を流す行為を続ければ気が済むのか」
後ろに控えてい篠原は、伊東の放つ気に気圧され相槌を打つ事が出来なかった。
「幕府はその権威を失墜し、大政奉還に向け、薩長だけでなく土佐もようやく重い腰を上げた。西国四雄藩が結束し、一和同心を理念とした新政府を造り上げようという時になっても、幕府の恩恵に縋りたいのか」
「問題は副長でありましょう」
擦れた声色でそう言葉を口にした篠原は、僅かに向けられた伊東の横顔を見て再び口を閉じた。
「彼も馬鹿な男ではない。己が歩む道の先も見えているだろう」
それでも、あくまで新撰組という一組織に拘る理由が、伊東にはどうしても判らないのだ。
「恩義ある会津に尽くすというその心意気は汲めても、反幕派というだけで、腰に差した刀を抜くやり方を納得する事は出来ない。それでは武士とは言えない」
そこまで喋った後、伊東は庭に視線を外してから篠原に目配せをした。
「・・・席を外します」
篠原が部屋を出てからしばらくして、茂みの中に潜んでいた人影が辺りを伺いながら姿を見せると、廊下に立った伊東の足元へと膝をついた。
「市中の警備も厳しくなっている中、よく来れたものだ」
「ご報告申し上げたき事があり、馳せ参じました」
「火急とは、何事か?」
「先日、土佐藩参政の後藤象二郎殿が、大政奉還建白につき、前宇和島藩公に相談の儀を送りました」
「土佐藩が単独で?」
無言で頷いた男を静かに見下ろす。
「私は武力行使を、必ずしも良しとはしておらんが、公家中心の政については賛同致しておる。国家を整え、神戸以外の港を開き、国益を養わねばならん。富国強兵を考える貴藩らの力になろうと考えたのはそこだ。だが、土佐の意向は、薩長が進める改革の道筋から幾分離れている」
「危惧はよく承知しております」
「これは失礼した。私が考え及ぶ事など、あの方なら言わずとも考えられておられよう」
「先ずは近場の火にございます。新撰組が見廻り経路を変更し、薩摩のみならず土佐、宇和島、安芸など西国雄藩の藩邸に目を光らせております。今後の行動には十分な注意が必要との言伝にございます」
「相解った」
伊東は一言発してから敷居を跨いだ。
「京に三条卿の陪臣も居る。薩長間をうろうろとしている男も居るのであろう? ここで新撰組に騒がれては何かと面倒だ。そちらへは私から声を掛けると致そう」
「御意。では、某はこれで」
始終顔を伏せ居ていた男は、隠れていた茂みへ素早く走り、その中へと姿を消した。
慶応三年七月朔日。中岡は龍馬と共に、御所東の寺町御門から北、戸田屋敷の一角にある十津川屋敷を訪ねた。
御所の警護に二千石に対し、一名の出兵をせよとの命が各雄藩に下る。
紀伊藩で医学を学んだ上平主税が、十津川に居を移してから、黒船来航を向かえたのを機に時勢に目覚め、安政元年当時、尊王攘夷志士の間で名を広めていた梅田雲浜らと組み、大坂湾へ入港してきたロシアのディアナ号襲撃を企てるが失敗。そののち上平は、十津川郷士による御所警護を朝廷に願い出てて、文久三年八月に許が下り、郷士三百名が半年交代で京詰めとなった。
十津川郷は藩ではなく、石高も千石弱という山間に位置する小さな郷である。二千石以上という御触れから、出兵の必要はなかったのだが、無援助で警護の任を願い出たのだ。援助がなければ郷士の手当ても自前で賄わなくてはならない。財政を切り詰めるために十津川が屋敷建築にとった方法は、郷から必要となる木材を切り出し京へ運び、建てるというものだった。無論、京詰めとなる郷士三百名の宿舎も自前である。
勤王の志があるとは言っても、十津川郷士は倒幕派ではない。郷は大和五條代官所管理下にあり、反幕府派でもない。
「では、大樹公が政権返上を拒まれても、四藩はあくまでそれに対抗するのですね」
龍馬に詰め寄る形で膝を進める十津川郷士、中井庄五郎の顔は明るいというより、嬉々としたものがあった。
「対抗とゆうたち、なんちゃーじゃ武力で攻めて政権を返上させるとゆうがやない。幕府が文句なしと、すんなり行動してくれるのなら、敵対する理由はないがやき」
「ええ、もちろんです。ですが、あくまので朝廷中心の政にならねばならりません。それではなくては、幕府が政権を返上する意味がありません」
「将軍が将軍でなくなれば、ただの人だ。わしらとなんちゃーじゃ変わらん人間になるとゆう事やか」
「それはそうですが・・・夷国に対して我が国に不利な条約を締結したのは、幕府ではありませんか。その幕府の頂点に立つのは将軍です。その責は問われるべきだと思います」
困った顔で苦笑いを浮かべる龍馬の後ろで、中岡は真面目な顔で、相槌も打たず、話しに割って入る事もなくじっと話しを聞いている。
「我ら十津川郷士は桓武天皇の世よりこれまで、勤王の精神を貫いてきております。政権が再び朝廷に戻ることは、郷士一同、心から賛同するものであります。が、幕府の重鎮らを、幕府がなくなったからと、無罪放免にするのには賛同しかねます」
「ほんならなにか、牢獄へでも入れろとゆうのか?」
「罪状を明らかにし、必要であればそれも致し方ないことでしょう」
「んーむ・・・」
「徳川の世になってから、朝廷にたいする処遇は過酷を極めてきました。天皇ご自身ですら、食膳に上がった鮭の切り身を馳走だと喜び、半分を翌日に取られる。もちろん、公卿の方かだの大半も、武士より貧しい暮らしを強いられ、野良仕事や内職をしなければ食うに困る方も多い。神事にご参列する時も、古着屋で衣装道具一式を求められるという有様。それに比べ、幕臣となった武士どもの絢爛豪華な食事や衣装はどうです。永きにわたって朝廷にお仕えしてきた我らにとって、昨今の状態は喜べたものではないんです」
中井の言葉は大げさなものではない。事実、神武天皇が東征した際に、十津川卿の人間がその道案内をしている。それ以降、天武天皇元年(六七二年)に起きた壬申の乱で、天武天皇の吉野御軍に参加。南北朝時代、十津川へと落ちた後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王を匿って保護した事もあった。
十津川の勤王精神は、昨今の情勢で傾いたものではなく、そういう経緯かがあってのものなのである。
「ですから、我らにできることがあれば、なんなりと申しつけて下さい」
「ああ、ああ。よお解ったから、顔を近づけるのは止めとおせ」
「しかし土佐藩がなあ・・・さすが龍馬さん、と言わせて頂きます」
「わしの力だけじゃーないが。ここにおる中岡も十分走りまっわたお蔭やき」
「まだ両手放しで喜べないんですけどね」
「お二方がいらっしゃるのでしたら、心配はありません!」
中井の喜びは一方ならぬものである。顔中で喜んでいると言ってもいいほどに、終始その笑顔が絶える事はなかった。
万が一、幕府軍と戦になることになれば、十津川郷士の戦力は大きなものになる。
十津川には石高を出したくても出せる土地はない。山間にある郷村で米は作れず、年貢も赦免されているほどに貧しい村里だ。そこから無給・無支援で御所警備に人員を出している。それだけでも、勤王精神の強さを伺い知る事が出来る。
「あればあ喜ばれてはのう」
龍馬には幕府要人を政から排除する気など、この時すでになかった。それは中岡も薄々気付いている。その結果がどうなるのか。薩摩も長州も徳川慶喜を新体制に招き入れるつもりは毛頭ないだろう。
「薩長芸だけでなく、十津川も幕府はいらんと意思表示してるんです。あまり派手に動かないで下さい」
「わかっちゅう、わかっちゅう」
本当に解っているのかと、鼻歌交じりで前を歩く龍馬の背中を中岡はため息を吐いて見つめた。
「わしはちっくと土佐藩へ寄ってくるから、おんしは先に宿へいきとおせ」
「わかりました。新撰組に見つからないよう気をつけて下さい」
「ああ」
龍馬と別れた中岡は、辺りに気を配りながら加茂川を越え、三条へと足を向けた。