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幕末奇譚 『志士 狂桜の宴』  作者: 夏月左桜
奇譚二十一幕 鹿死誰手
82/89

其之一 薩土盟約成立

 薩土盟約の締結を前にして、京土佐藩は藩論を大政奉還と決定した。

 この決定に、拳を震わせていたのは乾である。大久保への接触を試み、藩主容堂が倒幕に動かない事態を想定し、不利にならぬよう水面下で下地を作って来たのが、悪くも功を奏したのである。

 参政福岡孝弟を抱き込み、後藤象二郎の懐柔に画策に走っていた訳だが、その後藤が確実に使えないと判った以上、土佐藩を薩長芸の足並みに乗せる事はことは叶わなくなった。

「忌々しい男だ」

 藩主に大政奉還を進言したのは後藤であるが、そう仕向けたのは坂本龍馬の工作があったからだと乾も承知している。

「大政奉還・・・か」

 薩長芸は、徳川慶喜が大政奉還を撥ね付けると踏んでいる。しかし、龍馬が勝海舟に接触し、小笠原長行との謁見を叶えたのであれば、幕府が大政奉還に踏み切る可能性は大きいと思えた。

 幕府がもし政権を返上すれば、倒幕を狙う緒藩の大義名分がなくなる。武力倒幕のために、京へ兵を集めている薩摩にとっては痛い出兵となる。大政奉還否定時の倒幕を視野に於いた薩土盟約が意味を成さなくなる。

「如何なさるおつもりで?」

 席を同じくしていた小笠原唯八は、青白い顔を上げた。

「何も・・・そう、心配せずともよい。万事を上手く進めるための策は練ってある。生き残る術を用意しておくのも我らの務めだからな。しかし、薩長芸の意に反した以上、土佐は三藩とともに歩く事は出来ぬだろう。それに、大久保と言う男はこれくらいの事で尻尾を巻いて逃げる人物ではない。何かしらの策を講じてくるのは必至。それを見越し、引き続き彼らと接触を続けるしかあるまい」

 握り締める乾の手が震えているのを、離れた位置に座る小笠原からもはっきりと見えた。



 二本松にある薩摩藩邸に、芸州の船越と小林が入ったのは、中岡が来る一刻ほど前のことだった。

 未だ土佐は約束で示した兵を上京させていない事が船越たちに疑心を抱かせ、薩長芸の連携に土佐を加える方針を今一度吟味したいと述べさせる要因となっていた。

「藩政に影響力のない坂本さんを介し、参政である後藤殿を引き込んだ。ここまではええ事です。だがしかし、土佐公の態度は煮えきらず、我らとの足並みも揃っていない」

「藩主斎粛(なりたか)殿のご様子は如何か?」

「推し留めるには、すでに刻が立ちすぎております。我が藩は直ちにでも大政を奉還させる旨の建白を幕府に出す所存であります」

 真っ向から自分を見る船越の視線を受け止め、大久保は小さく顔を動かした。

「致し方あるまい。我が藩も長もその懸念を拭い去るには至っておらぬ。安芸国が大政奉還を藩論とした刻よりな」

「では」

「建白について異論はない。これで土佐がどう動くかも見極められよう」

「承知仕りました」

「市中は以前よりも物騒となっておる。くれぐれも身辺の警護を怠るな」

「御意」

 大久保の意志を確認終えた船越と小林の両名は薩摩藩邸を辞去すると、加茂川を南下って二条河原の操錬場近くにある安芸藩邸へと戻って行った。

 芸州は西国一の雄藩だ。二度に亘る長州征伐で中立と不参加を通したことにより藩財政に大きな打撃は受けていない。豊富な財力は、藩論を討幕としてから近代兵器や火器などの購入にあてられている。薩長にとって、その芸州を徳川幕府に傾倒させる訳にはいかない。海路にしろ陸路にしろ、反対を唱えられれば、軍を進め上洛するにあたって大きな障害となるのは一目瞭然と言える。

「さて、後藤殿はどう出てこられるか」

 浅野長勲の気を逆撫でする土佐の曖昧な態度は、今の所では大久保や桂にとって利はあれど害はない。


 入れ替わるように中岡と龍馬が大久保の前に座ったのは、二人が出てから半刻後だった。

「さきほど後藤さんと会ってきました」

「で?」

「船越さんたちが危惧しておられる事は、確かに事実。土佐の同行が成せるのか否か龍馬さんも後藤さんに詰め寄り、その点について後藤さんは足並みを違えたくないとの所存であると」

 ふん、と大久保が鼻を鳴らし、両手を付いたまま顔だけを向けている中岡を睨み据えた。

「参政が確約したところで、土佐の実権を事実握っておられる公が動かねば、我らとて信用するに堪えぬ」

「そうゆわれるろうと思って、こうして来たき」

「君が一緒だと、益々不安になるのはどうしてだ?」

「相変わらず、容赦がないお人やき」

 しゅん、と肩を落とす龍馬に顔色を帰る事もなく、大久保は視線を中岡に戻した。

「坂本くんがこうして来ていると言うのは、何かしらの手土産がある、と見たが?」

「へへっ。さすが大久保さん」

「褒めても何も出んぞ」

「期待はしてませんから・・・これよりは後藤さんのお言葉です。薩摩と盟約を取り交わしたく、ついては日程を決したいので、我ら両名に伝えてほしい。との事」

「建白後、情勢が我らに傾いた時の布石を敷きたい。と堂々申し出手来たか」

「どう取って頂いても結構であると。大政奉還の必要性は後藤さんも十分承知しております。武力行使と相成った折、薩長土芸の西国雄藩が連立すれば、かならず他藩も動きます」

「だからこうして煮えきらぬ土佐の態度を我慢しているのではないか。今一番の忍耐者は安芸公だ。それを忘れてくれるな」

「久光公は?」

「土佐については匙を投げられておる」

「ですよね・・・四候会議の結果があれじゃあなあ」

「長州も然り。桂くんの落胆振りは、私以上だぞ? しかも、京には後藤殿を斬ろうとした小僧が居る」

「ちょっ! まさか大久保さん、和太郎に後藤殿を!?」

「馬鹿を言いたまえ。あ奴に頼らずとも手駒はここにある」

 そう言いながら、ちらりと視線を左の障子へと向けた。

「そうでした」

 人斬りと称される男が、自分たちが入ってからずっと座って居るのは気配で判っていた。それも二人。目の前の男が一言でも発したら、いくら龍馬が居るとは言え、首が胴より放れるのは必至と見ていいだろう。

「後藤殿との会見について、小松殿の屋敷にて三日後、そう伝えるがいい」

「はっ、ありがとうございます」

「貴殿もそれで良いな?」

 大久保の顔が今度は右手の襖へと向けられる。

「ほがな所に隠れちゃーせんで、こっちへ出て来たらいいがやないかね」

「誰も隠れてなどおらん」

 襖が開き、和奈を後ろにした武市がしかめっ面を覗かせた。

「まっこと、いつ見ても怖い顔をしちゅうな」

「五月蝿い」

 一礼を大久保へ送った武市は、敷居を跨いで入ってくると、上座に座る大久保に対する位置へと座を取った。

「和太郎もこがな奴と始終一緒におったら、窮屈でかなわないろう」

「いえ、そんなことはないです」

「おまえが奔放過ぎるんだ」

「龍馬さんの首に縄でもつけたい気分ですよね」

「中岡、おんしまで何を言い出すんなが」

「じっとしとけって大久保さんに言われて、我慢しきれず藩邸を出たのを忘れてませんか?」

 言葉に詰まった龍馬は、武市の少し後ろに座った和奈に眼を向ける。

「懲りない奴だな、貴様は」

 こほん、っと大久保は咳払いして一同を見回わす。

「積もる話もあるだろう。私はこれにて失礼する。中岡くん、くれぐれも宜しく頼むぞ」

「はっ」

 廊下を行く大久保の気配が消えると、左の廊下に控えていた気配も消えていた。

「やれやれ。あればあ殺気を出されては、出す話も出せんとゆうもんだ」

「仕方あるまい。土佐を組み入れる件、おまえが持ち出して来たんだ。それがこの時期になっても、参政ばかりが出て来るだけで、肝心要の藩主がまだ動く気配をみせん。策ありと思われても仕方あるまい」

「芸州が立てた建白にゃわしも同意しちゅう。が、武力による倒幕については、わしも大殿も、はい解っちゅうと首を縦に振ることはできやーせん」

「まだそんな甘いことを言っているのか? はっ、呆れるどころの話ではないぞ」

「おかしな事をゆうては駄目やか。武力は怨恨を残す。力で押して造り上げた政事になんの義があるちゅうんだ。後々の厄災の種を作るだけじゃーないがなが」

「龍馬さんは・・・薩摩と長州の味方ではないんですか?」

 武市の肩がピクリと動き、顔が少し後ろへと動いた。

「おまえは口を出すな」

「なんをゆうちゅう。和太郎にもしっかとした意見があるんじゃろう? 言わせてやったらいいがやないかね」

「貴様が口を出す事でもない」

「聞きたいんです。龍馬さんは薩摩と長州の同盟に力を入れてました。それは幕府に対抗する力を作るためではなかったんですか?」

「そうやか。長州と薩摩を繋げた理由は、幕府に対してこの両藩が結びつく必要があると考えたからやか」

「じゃあどうして武力倒幕に反対なんですか? 話し合いで解決できなければ、薩摩も長州も武力を以って幕府に政権を返上させるしかないじゃないですか」

 その為に多くの血を長州は流してきた。いや、長州だけではない。まだ倒幕などの意志はなかったにせよ、水戸藩や薩摩藩、武市が創設した土佐勤王党の在った土佐藩の者たちが、外国から日本という国を守りたいと言う思いでその命を懸けて来たのだ。

(龍馬さんだって解ってるはずなのに!)

「ゆうのはせわないことやか。けんど、その後の始末はどうつけるちゅうんだ? 力で押して、勝ち取った政権を薩長を中心とする緒藩が切り盛りこたうと思っちゅうんなが?」

「大久保さんも桂さんもいます。芸州の船越さんたちだって居る。土佐藩だって中岡さんも、龍馬さんもいるじゃないですか。幕府にできた事が出来ないとは思いません。これまでの幕府を見て下さい。黒船来航以来、内政を整え、夷狄に対抗する力を養わなくてはならぬ時に己が保身に走った幕臣は、不平等とも言える通商条約を締結するに至った。結果、徳川家安泰のためと井伊の圧政が起き、罪もない人々が死に追いやられた。それで何が変わりました? 長州が朝敵とされた以外、何も変わってはいない!」

「おんし・・・」

「幕府は討つべきです。新しい世で新しい政事を行なわなければ、この日本は夷狄の手に落ちる!」

「抑えろ、和奈」

 身を乗り出していた和奈の前に、武市の腕が伸びた。

「あっ・・・」

 我に返った和奈は、龍馬から視線を外し浮かしていた腰をストンと落とした。

「たまげた」

「俺も」

 中岡は止めいていた息をゆっくりと吐き出し、襟元を掴んでパタパタと手で仰ぐ。

「まったく。だから口を挟むなと言ったんだ、馬鹿ものめ」

「すいません」

「いや、和太郎の言い分もよお判っちゅう。けんど、方法が一つしか無いわけがやないろう? 武力で押さず、優れた人材を藩、幕府から集めて政事を行なえばきっと良策も生まれてくる。怨恨を残さず造り上げる政府こそ、民からも朝廷からも認められる政府になるというもんぜよ。内政が確固たるものとなれば、夷国もおいそれと手を出しちゃきやーせん」

 それが簡単にできる世の中でないと、さすがに和奈にも理解できた。だから龍馬の語る理想が理想としか思えないのだ。

「それでも・・・僕は納得できません」

「皆、志は持っちゅう。おんしの志がわりぃとは言いやーせん。けんど、わしも自分の意見を曲げるつもりはないがで。ほりゃあ覚えておいてほしいやか」

「・・・はい」

「そしたら、堅だらしぃ話はこれまでにして、どうだ、久々に一席やろうやか」

 にこにこ顔に戻った龍馬が、くいっと酒を飲む振りをする。

「ここが薩摩藩邸だと言うのを忘れてはいまいな?」

「ようわかっちゅう! 大久保さんは心のでかいお人やき、なんちゃー問題はありゃあせんよ」

「たぁっ。そう思える龍馬さんが素晴らしいですよ」

 顔を抑えて苦笑する中岡に、武市が同意をしたものだから、龍馬の口がツンっと尖る。

「ほんと、仲いいですよね」

 長州藩邸からここへ移る事になったあの日。和奈も含めてこんな日を迎えるとは露ほども想像すらできなかった。右も左も解らない場所に迷い込んだ和奈にとって、桂の言葉は指針であり、とりあえず進むしかない道だった。進み始めた道には幾つもの分岐があったはずだ。

 間違った道を選択してしまった、そんな後悔はない。人ほ殺めた事に対する自責の念もない。それが内にある別の魂の影響なのか、それとも元々そういう人間だったのかは知る由もなかった。

「和太郎のことをおんしから聞いたのは何時の事じゃったかぇ」

「高杉くんのところでだ」

 真剣に向けられた殺気を思い出した龍馬は、眼を細め、うろうろさせていた視線を武市に合わせる。

「あれから何か変わったがかぇ?」

「なにも・・・相も変わらず俺の肝を冷やしてくれている」

「うっ・・・」

 首をすぼめた和奈に、龍馬が笑顔を向け、中岡は口元を抑えて笑いを堪える。

「何一つ解決しちゃーせんとゆうこらぁ。おんしが側に居てなきこがなことになっちゅうんなが」

 大きなため息を漏らした武市は、簡単に片付けられるものではないとしかめっ面をさらに歪ませた。

「俺、全然話が見えないんですけど」

 一人蚊帳の外状態の中岡が、横目で武市を見ながら龍馬の側へにじり寄る。

「そうやき。中岡にも話しておいた方がええじゃろ。のう武市」

「これは和奈の問題だ。他人が良しと言うことでもあるまい」

「私は構いません。小五郎さんから、中岡さんは長州と縁が深い人だと聞いていますし」

「文久三年に起きた八月十八日の政変後、慎太は土佐を脱藩し、周防国の三田尻に亡命した。そこで七卿落ちの一人、三条卿と会いその陪臣となり、長州の庇護を受けていた。久坂くんとも昵懇の仲だ」

「長州藩への冤罪にも我慢なりません。そればかりか、一致団結しなければならない時だと言うのに、雄藩同士は無益な対立を続けている。尊攘を掲げる志士たちへの無慈悲な弾圧にも耐えれなかった。先ほど龍馬さんは武力による解決は何も生まないと言いましたが、俺はそうは思いません。確かに多くの血が流れるでしょう。でも、これまでにも失わなくていい血を数多流すことになったのは今の幕府が目先の事に囚われて行動している結果です。俺には和太郎の言う事の方が、道理に適った論だと思うんです。話し合いで事が住むならすでに世の中は変わっています。違いますか?」

「違やーせん。中岡の言う事も正しい。じゃが、わしはそれをええとは思わん。ああ、いかん。おんしがいらんことをゆうから話が逸れてしもうたやか」

 中岡の背筋が伸び、バツが悪そうに頭の後ろを掻いた。

「すんません、つい」

「慎太が熱くなるのも解らんではない」

「ほき、和太郎はどがなことになっておるんなが」

 すうっ、と息を吸い込んだ武市は、赤間関で対峙した後からの事を掻い摘んで龍馬と中岡に語って聞かせた。

 話が進むにつれ、話しを聞く二人の眼が大きく見開かれていく。

「大久保さんに対しても、その片鱗を見せている」

 苦渋に歪められた顔となった龍馬は、静かに話しを聞いていた和奈の側へにじり寄る。

「おんし」

「大丈夫ですよ、私。側に武市さんも小五郎さんも居てくれますし、望東尼様も時折文をくれていますから」

 浮んだ笑顔に困惑の色を読み取った龍馬は、さっ、と武市を見る。

「おんしが側におってなにをしちゅう」

 返す言葉などない。龍馬にそう責められなくても、その言葉が一番身に染みているのは武市なのだ。

「ここに残りたいと」

 和奈の言葉に、三人の視線が集る。

「そう龍馬さんに言ったこと、覚えていますか?」

「ああ。よお覚えちゅう」

「私がここへ来たのは、偶然などではなく必然なんだと、小五郎さんは言いました。私も、そう思うんです。だから、私がここへ来た理由を探さなくてはなりません。でも、ちっとも理由が見つけられない。小五郎さんに甘えて、高杉さんに叱咤されて、武市さんにまで迷惑をかけて・・・本当に理由を見つけられるのか、もし見つけられなかったら、私はどうするべきなのか・・・私は! 必然である理由を見つけたい! 偶然だったなんて・・・嫌なんです」

 両手で顔を覆ってしまった和奈の頭に、ポンッと大きな手が乗せられた。

「龍馬さん・・・」

 指の間から見える龍馬の顔は、初めて会った時に見たあの暖かい笑顔のままだった。

「おんしの側にゃほれ、そこの堅物が付いちゅうんやき、なんちゃーじゃ心配しのうていい。きっとおんしが望む答えを見つけてくれる」

「誰が堅物だ、誰が」

 拳を握って見せる武市から、龍馬が膝二つ分ほど離れると、和奈の口から笑い声が漏れた。

「ほれ、笑われてしもうたやか」

「俺のせいか!? えっ!?」

「おんしはじき怒るからいかん」

「ほっとけ!」

 いつか見た光景がそこに広がり、重くなっていた気持ちが少し和らいだ気がした。

 この人たちが居る限り、自分は自分で在り続ける事が出来る。そう和奈は確信したのだが、全てが丸く心の中に落ち着いた訳ではない。気掛かりになっている事柄が自分の意志に寄るものなのか、それとも稔麿の意志に寄るものなのか、まだ理解しきれていなかった。



 船越は、幕府に建白する書の作成に追われていた。

「右近は京に入っているのか?」

 文机に向かって筆を取っていた船越が、振り向きもせず背後に座った小林に尋ねた。

「山縣殿らと路は違えておりましょうが、恐らく」

「土佐は未だ兵を出してはおらん。薩摩の建都するところは大久保殿より聞いたが、長州の見解が如何なるものかがわからん。右近に接触できるなら、そっちを聞きだしてもらいたい」

 浅野右近は芸州藩家老で、軍備強化を中心とした藩政改革を推進する中、辻と共に西洋式軍制を採用、藩の防衛体制強化させた男である。第二次長州征伐の後は、幕府の強固な態度に辟易し、その戦より後は在京する長州藩士と行動を共にし、長州と京を往来する日々を送っている。

「幕府にとって芸州の位置は勝敗を喫する要所だ。出した建白の内容が如何様なものであれ、無下には扱えんだろう」 

 慶応ニ年(一八六六年)。第二次征長戦で、芸州藩は芸州口の先鋒を命ぜられたが、長州藩に同情的な見解を示したため、芸州藩家老野村帯刀と辻将曹に謹慎処分が言い渡された。

 この幕府の処分を横暴だと憤慨した芸州藩士は幕府に抗議。芸州を通過できないとなれば、長州侵攻の道を一つ失う事になる。わずかニ日後、幕府は止む無しとして両者を釈放し、芸州藩藩主浅野長勲に謝した。その上で改めて芸州藩に先鋒を命じたが、幕府の仕打ちもあり、長州征伐に義はないとして芸州藩はこれを拒絶。幕府は藩軍を出兵させるには至らなかった。芸州から兵を得られなくなった幕府は、代わって彦根藩、高田藩を芸州口へと出陣させたのだが、結果は幕府側の惨憺たる敗北に終った。

 薩長を相手にするとなると、瀬戸内の海路、西国街道の陸路を掌握しておかねばならない。 

 瀬戸内を挟んだ伊予藩は親藩だ。第二次長州征伐の際に先鋒を担い出兵した事により、財政難に陥っている。薩長が立ったと言えど、幕府側について兵を出す余力は残っていないだろう。それに、藩士が大島に於いて行なった村人への虐殺、略奪の醜聞も全国に広まってしまっている。ここで無理強いを推して薩長の敵として立ちはだかるには、幕府は権威を失墜させ過ぎていてた。

 大坂に近い讃岐国高松藩に、寛永十九年(一六四二年)、常陸下館藩より水戸徳川家初代藩主徳川頼房(とくがわ よりふさ)の長男松平頼重(まつだいら よりしげ)は、十二万石を以って入封した時、幕府より西国諸藩の動静を監察する役目を与えられている。宗家水戸藩が尊王に傾いた事は幕府にとっても高松藩にとっても頭痛の種となった。さらに安政の大獄で苦しい立場に追い込まれてしまった。現在の藩主松平頼聰(まつだいら よりとし)の正室に井伊直弼の娘を向かえ、事なきを得たと思った矢先に桜田門外のに事変が起こった。時勢が幕府から西国雄藩へと傾いて行く中で起きた長州征伐に出兵し、高松藩はさらに苦境へ追い込まれた。

 この両藩が、薩長と力を温存している芸州と、今更幕府寄りで事を交えるとは船越には考えられなかった。

「備後国も先の戦の痛手で、すぐに動ける状態ではあるまい」

 備後国福山藩は、長州征伐の折、藩主阿部正方が藩兵約六千人を率いて芸州に進軍したが、幕府と長州藩の間に和睦が成立した事を知り引き返している。しかし、第二次征伐では石見国益田で大村益次郎率いる長州軍と戦となったが、寛永十四年の島原の乱以来、二百三十年ぶりの戦ということもあり、最新の銃や洋式歩兵を調練した長州藩相手に敗走されられてしまっている。

「やはり土佐の出方が気になる」

「数日後に後藤殿が薩摩と会する。それを聞いてからから、今後の方針を如何に執るか考えればよい」

 そう言い、再び船越が筆を取ったので、小林はそれ以上なにも言わず部屋を後にした。

 


 六月二十二日になり、三本木にある吉田屋へ、西郷、小松、後藤、中岡と龍馬が顔を揃えた。

「お初に御目にかかります。某は西郷吉之助と申す。以後宜しく頼みます」

 巨躯を曲げて頭を下げる西郷を見て、後藤は喉を鳴らした。放たれる威圧は大久保とは質を違えるものだが、十分に出鼻を挫くに十分なものだった。

「土佐藩参政、後藤象二郎と申します」

 言葉を続けようとした後藤を、小松が手で制した。

「色々と申し述べる事柄多きところであれど、早急にでも事を確認しなければならぬゆえ、我らのからの挨拶は省かせて頂きとうございます」

 西郷の横から小松がそう申し出ると、後藤は無言で頷く事で了承を示した。

「先の会合の内容は、貴藩の坂本龍馬から聞き及んでおられる事と存じ上げる」

「しかと」

「その際、貴殿は土佐藩兵の上洛を確約された。しかし未だ以って京に土佐藩兵の入洛を見ておらぬ。安芸藩からも、その旨問うようにと」

「それにつきましては藩主豊信公より、公平に周旋するに兵の後ろ盾は不要であるとのお言葉を預かって来ております。ゆえに、お約束した入京については今暫くの猶予を頂きたいと申し上げるしかございません」

「何か勘違いをされているのではあるまいか。我らはなにも武力を以って幕府に政権返上を迫ろうなどとは申しておらぬ。建白を上げ、大樹公がそれを退けた後、禁裏を守護するための兵上洛である」

「勿論、それも十分承知しております。幣藩はご存知の通り、公武合体を国是として参りました。時勢を見極め、幕府の政権返上も止む無しと藩論を整えている最中。まだまだ幕府寄りの意見を掲げる家老も居りますれば、一気に事を進める事の至難もご考慮頂きたく存じます」

 藩論が二分しているのは何も土佐藩に限った事ではなかった。事実、薩摩藩内部でも慎重派と倒幕派が意見を対立させている現状がある。加え、薩摩も長州も確たる大義名分を掲げるには至っていない。

「兵の上洛は成せずとも、薩摩、安芸との足並みを揃える事に異論はございません。ただ」

 後藤が言葉を切り、小松を見てから西郷へと視線を移した。

「武力はさておき、話し合いを以っての大政奉還へと事を推進めたい」

「無論、我らとて同じである。先ほども述べた様に、平和的返上を成せるのであれば、それに越した事はない」

 小松の言葉を受け、後藤が一度頷いた。

「これに、貴藩と幣藩の間で取り交わしたい約定を記して参りました」

 懐から書状を取り出し、小松の方へと差し出した。

 目を通した書状を、小松は大久保に手渡す。その内容は、

一、国体を協正し、万世万国に亘て不耻、是を第一義とする。

一、王政復古は論なし、宜しく宇内の形勢を察し参酌協正するべし。

一、国に二王なし、家に二主なし。政刑唯一、君に帰すべし。

一、将軍職に居て政柄を執る。是天地間あるべからざるの理なり。宜しく侯列に帰し、翼戴を主とすべし。

 右方、今の急務にして天地間常に有之大條理なり。心力を協一にして、斃て後已ん。何ぞ成敗利鈍を顧るに暇あらむや。

 大久保が眉を顰めたのは四つ目の文言に差し掛かったときだった。

(この期に及んでまだ慶喜を持ち出すと言うのか)

 大政奉還後、将軍職にある慶喜が政務を執っては、幕府瓦解に力を注いできた意味がなくなってしまう。

「徳川幕府に政権を返上させる以上、大樹公の職を解き、新体制から除籍するのが妥当と思いますれば、この四条は必要ありますまい。大樹公にはその職を辞して頂いた上で、緒藩から秀逸と思われる人材を登用しなければ、政を返上して頂く意がありますまい」

 薩摩の反感を買うと知りながらも、後藤はこの書状に訂正を加えなかった。それは藩主の意向であるが、実質は実権を掌握している容堂の意向なのだ。兵の上洛も公平な周旋と名目しただけで、容堂には最初から兵を上洛させる意図などなかった。

「小松殿。ここはこの書状で良いではありますまいか。土佐は何も政権返上に反対するとは申しておられぬ。詳細については後日詰めて行けば良いかと存じますが」

「ふむ。西郷もそれで良いか?」

「私には難しい事は解りません。土佐が足並みを揃えると言うのであれば、政事の難しい所はお二方にお任せする次第であります」

「では、これで良しと言う事で、後藤殿も異存ありますまいな?」

「無論」

 こうして、薩摩と土佐は大政奉還へ向けて共に尽力すべく、薩摩土佐間の盟約を成立する運びとなった。

 しかし二日後の二十四日。大久保から届いた詳細を記した約定を受取った後藤は、四条に認めた、慶喜の将軍職持続の条項が、職を辞する内容とされているのを見てその手を震わせた。

「どうしても大樹公を政から遠ざけるつもりか」

「相手は薩長やか。これまでを考えれば、すんなりと将軍職を温存させる訳がないろう」

「しかし、徳川家が世を統治してから今日まで、天下泰平の世を続けられたのは事実だろう。その手腕を捨て、諸藩が治世を統べて上手くいくものか。貴様が薩長芸に土佐を加えたいと申し出て来たのではないか。何か策があっての事とわしも考えたが?」

「薩摩の誘いに乗ったがは後藤さんやき。土佐が立たのうては、到底幕府に政権を返上させるにゃ至りやーせん。幕府瓦解はわしもいると思いゆう。たが、薩長が考える武力倒幕については、わしも賛成はしちゃーせんき」

「龍馬さんてば、それ見越した上で後藤さんに薦めたんですか?」

「阿呆ゆうな。わしが考えのうても、後藤さんにゃ判っちょったと思いゆう。問題はこれから解決すればえいがやか」

 手酌で酒をあおる龍馬を、怒りの形相を浮かべた後藤は、銚子に手を伸ばしそれを取り上げた。

「ほがな怖い顔をしやーせんとおせ。ようは、大樹公に政権を返上するよう上奏したらえいがぜよ。小松殿も大久保さんも、まず武力ありとはゆうてなかったがやないかね」

「それで!」

「将軍職を辞したち、政に加わってはいかんちやとはこれに書かれちゃーせん。なら、将軍でもなんちゃーのおなった大樹公を政事に加える事はできるぜよ」

「なるほど。将軍という職に拘らなければ、大樹公を軸とした政権を作り上げる事も可能。そう言う事か」

 にひひ、と笑った龍馬は、後藤のてから銚子を奪い返し、手にした猪口へと酒を注ぎ入れた。

「薩長がそれを大人しく飲むとは思えませんけど」

 中岡は薩長の考えに近い。土佐藩へ復籍したとは言え、その方針に納得しての復藩ではない。

「おんしも、是が非でも武力行使したいと考えちゅうがやないやろう?」

「そりゃあ、そうですが」

 しかし中岡は後の言葉を続けず口を閉ざした。慶喜がそうすんなり政権を返上するとは考えられない。無論、大久保たちも桂も同じ考えでいる。その上で、兵上洛を進めているのだ。

「ともかく、政権返上を拒んだ場合の武力行使。それがなければ兵を上洛させる必要はない、とゆう事やき」

 龍馬の考えは容堂にも受け入れられるだろう。薩長を敵に回さず、それでいて幕府にも面目を立てれるのであれば、後藤にとっても土佐にとっても損はない。

 後藤はすぐさま大久保に合意の返事を出し、受取った約定書での盟約成立となったのである。

 

「薩土芸三藩約定書」

一、方今皇國の務、國体制度を糺正(きうせい)し、万國に臨て不耻(ふち)、是第一義とす。其要王制復古、宇内(うだい)之形勢を参酌して、下後世に至て猶其遺憾なきの大條理を以て処せむ。國に二王なし、家に二主なし。政刑一君に帰す。是れ大條理なり。我皇家綿々一系万古不易。然るに古郡県の政変して、今封建の体と成り、大政遂に幕府に帰す。上皇帝在を知らず。是を地球上に考るに、其國体制度、如此者あらんや。然|則ち制度一新、政権朝に帰し、諸侯會議、人民共和、然後庶幾ハ以て万國に臨て不耻。是以初て我皇國の國体特立する者と云ふべし。若二三の事件を執り喋々曲直を抗論し、朝幕諸侯、(とも)に相辨難し、枝葉に馳せ、小條理に止り、却て皇國の大基本を失す。(あに)に本志ならむや。爾後(じご)執心公平、所見万國に存すべし。此大條理を以て此大基本を立つ。今日堂々諸侯の責而已(まくのみ)。成否顧る所にあらず。斃而(へいじ)後已(のちやま)ん。今般更始一新、皇國の興復を謀り、奸邪(かんじゃ)を除き、明良を擧げ、治平を求天下萬民の為に寬仁明恕の政を爲んと欲し、其法則を定る事左の如し

一、天下の大政を議定する全權は朝廷にあり、我皇國の制度法則一切の万機議事室より出を要す

一、議事院を建立するは、宜しく諸侯より其の入費を貢獻すべし。

一、議事院上下を分ち、議事官は上公卿より下陪臣庶民に至るまで正義純粹の者を撰擧し、尚且諸侯も自分其職掌に因て上院の任に充つ。

一、將軍職を以て天下の萬機を掌握するの理なし。自今宜しく其職を辞して、諸侯の列に帰順し政權を朝廷へ帰すべきハ勿論なり。

一、各港外國の條約、兵庫港に於て、新に朝廷之大臣諸大夫と衆合し、道理明白に新約定を立て、誠實の商法を行ふべし。

一、朝廷の制度法則は往昔より律例ありといへども、當今の時勢に參し或は當らざる者あり。宜しく弊風を一新改革して、地球上に愧ざるの國本を建てむ。

一此皇國興復の議事に關係する士大夫は、私意を去り、公平に基き、術策を設けず、正實を貴び、既往の是非曲直を不問、人心一和を主として、此議論を定むべし。

右約定せる盟約ハ方今の急務。天下之大事之に如く者なし。故に一旦盟約決議之上は何ぞ其事の成敗利鈍を顧んや。唯一心協力、永く貫徹せむ事を要す。

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