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幕末奇譚 『志士 狂桜の宴』  作者: 夏月左桜
奇譚二十幕 破綻百出
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其之四 迷走する魂

 長州へと向かっているはずの和奈は、大久保が用意した薩摩藩邸の一室に居た。

「小五郎さん、今どの辺りかな」

 外へ出るに出られず暇を持て余していた和奈は、そっとつぶやいてみた。

 誰の返事もないのは、部屋に居るのが一人だからだ。朝から武市が中岡の所へ出かけてしまい、大久保の姿も昨日から見えない。

 長州へ戻る当日、朝から出立の用意と京を出る手筈の確認に追われていた和奈たちのもとへ、中岡が急報をもってやって来たのは二日前の十二日ことだ。

「木戸さんは無理でも、桂木さんには残って頂きたいんです」

「何があった?」

「後藤さんと龍馬さんが十四日に入京します。その後、薩摩と土佐ので会合を開く予定ですが、それに先立って桂さんは無理でも桂木さんを残しておけと大久保さんからの言伝で」

 ご機嫌を伺うような目つきをちらりと武市に向ける。案の定、そこには不機嫌と化した顔が眼を閉じていた。

「僕は無理でもとは。最初から判っているだろうに、本当に遠回しな言い方しか出来ない御仁だな」

 武市としては、和奈の件があるのでこのまま京に留まりたくはない。本音はそうでも、この難しい状況で優先すべき事ではないとも承知している。

 解ったと即答しなかった武市が、自分の事を危惧しているのは和奈にも良く解っている。不安定な心情を抱えて京に残る危険性もおのずと理解していた。しかし武市や桂は政事に携わる身であり、長州がこの先どうなるのかは倒幕を掲げた藩の動きが幕府に勝るかに懸かっている。

「ご迷惑をかけないと約束します」

 確信などない。そうするために自分の心を強く留めておくしかない。

「僕と帰れと言いたいが、生憎と和太郎に手間隙を割いている余裕がない。すまないが置いていく」

「・・・承知した」

 意に反して和奈が脱藩したとなれば村木家にも累が及ぶ。女子でありながら男装し、藩士として動き回っているのを承知で養子縁組をしてくれた恩を仇で返すことになってしまう。武市は承知せざるを得なかった。

「では後は任せる。逐一伝令は飛ばすように」

「ああ」

 そうして桂は何事もなく京を離れ長州へと発ち、今、和奈と武市は薩摩藩邸内に匿われていた。

「随分精気の無い面構えだな」

 聞いた事のある声が耳に届き、顔を上げた和奈は入って来た男をきょっとんした顔で出迎えた。

「なんでここに居るんです!?」

 部屋の真ん中にどかりと座りこんだのは、長州に居るはずの田中新兵衛だった。

「西郷さんの護衛も要るだろ? 半次郎一人でお二方を補佐できん。となれば、俺が大久保卿の護衛につけば事は済むってわけだ」

「護衛って、大丈夫なんですか、京に戻って来ちゃって」

「面が割れてると言っても、証拠が無い以上幕吏は俺を捕まえられん。現に半次郎は大手を振って歩いてるだろ?」

 新兵衛は笑って言うが、新撰組の存在は危険だと身にしみている和奈にしてみれば、笑うどころの話しではなかった。

「心配しなさんなって。数年前とは違うんだ。護衛につくだけで、天誅よろしく刀を振り回すはない」

 以蔵もなのだろうかと一瞬考え込んでから、

「岩村さんは?」

 と、問いかけた。

「来るとだだをこねられたが、桂木さんの同意がないから無理だと断わった」

 聞きたかったことの返答ではなかったが、出会ってからの以蔵が人斬りとして刀を振るった時はない以上、余計な詮索と思え聞きなおさなかった。

「あはは・・・部屋の隅でいじけてる姿が目に見えます」

「稽古をつけてもらう長州藩士がかわいそうだがな」

 以蔵の八つ当たりは経験済みだった和奈は、それはそれで困りますと苦笑いを浮かべた。

「桂木さんは出かけているのか?」

「中岡さんの所へ行っています」

「大人しく留守番か。それじゃ、外に出ようなんて気を起こさず、惰眠でも貪ってろ」

 長州に居た頃より、新兵衛は生き生きとした顔で居る。自分から望んだ事とはいえ、やはり薩摩藩から離れるに忍びなかったと見える。

 新兵衛が部屋から出て行くと、小鳥の囀りや木々の生む音が時折聞こえるだけの、静かな時間が戻って来た。

 昨日に土佐から上洛した後藤象二郎と会うため、武市は中岡と共に明保野亭に行っている。和奈を同行させなかったのは、長崎での一件があったためだ。

「今度刀を抜いたら、桂木さんが困るどころの話しじゃないしなぁ」

 だから大人しく留守番すると自分から申し出たのだ。とは言え、暇を持て余しすぎて困っては居たのだが、藩邸を出るわけにも行かず、ただ庭を眺めるしかない。

 頭に浮ぶのは、吉田稔麿という人物のことばかり。自分の意に反して言葉が紡ぎ、その状態の時は村木和奈という自分が凄く曖昧になってしまう。

 自分を失う喪失感。その冷めた感情が心を縛りつけ、恐怖を生み出す。

(吉田松陰さんは、もう居ないのかな?)

 桜山招魂社の木碑の立ち並ぶ場所で会った人物が吉田松陰その人だと確信をもってから、心のどこかに感じていた温もりが消えてしまっている。

 己の魂は吉田松陰のものではなかったのか。

 武市や桂だけでなく、高杉を驚かせた豹変もそれ以後は起こっていない。その代わりに、別人の魂が今は心の内に在る。

【私は誰なんでしょう】

 そう武市に問いかけた言葉を、自分に問いかけてみる。

「私は村木和奈。今は桂さんの甥で、村木家の養女で・・・」

 和奈は息を飲んだ。

「私・・・お父さんやお母さんを忘れてる・・・」

 この時代に紛れ込んだ当初は、帰るまでに必要だからとこの時代の習慣を覚えようと努力していた。薩摩藩邸に移り、我を忘れて以蔵に斬りかかって以降、父母の事を思い出したのはほんの数回に過ぎない。

 必至に父と母の顔を思い浮かべてみるのだが、顔の輪郭や髪型は浮んでくるのに、靄が掛かったように目鼻立ちといった肝心な部分が浮んでこない。

「私・・・」

 タイムスリップという在り得もしない現象で、この時代に紛れ込んだと思って居るだけではないのか。村木和奈という名前も自分の名前なのだろうか。

 幼い頃の記憶を手繰り寄せ、疑問として沸いてきた思いを打ち消す。

「練兵館で試合を見て、赤井くんに連れられて朔月さんに稽古してもらって、それで」

 庭に立ち、朔月の話しを聞いている途中、時を遡ってしまった。

「心を迷わせてはいけないよ」

 ふと、朔月の声が聞こえた気がした。

「剣を振るう身になったとしても、決して心を惑わすな。己の信じた想いを捨ててはいけない」

 朔月が語った言葉を声に出してみる。

「己の信じた道」

 それは武市たちと共にこの時代を歩むと決めた、その思いに他ならない。

「鈴の音。あれは、何なのかな」

 武市も聞こえたと言っていた。それならば、幻聴などではない。どういう理由か解らないが、その一回を除いては和奈にだけしか聞こえていない。

 鳥の羽ばたきが、和奈の思考を中断させた。



 長崎に軍艦を買い付けに行く途中だった紀州藩の軍艦明光丸(イギリス名アビソ号)と、伊予大洲藩から借りていたいろは丸が備中国笠岡諸島大島付近で衝突したのは、四月二十三日の亥の中刻(午後十一時)頃だ。

 いろは丸は四十五馬力、百六十トン、三本マストを備えた商船(蒸気船)で、対する明光丸は百五十馬力、八百八十トン、鉄製内車(スクリュー推進)型の蒸気船で積載量は百六十トン。いろは丸の約六倍近い巨型船だ。その船に二度も衝突されては、沈まない方がおかしい。

「明光丸に乗り移った時にゃ、山の頂から月が昇っちょったが」

「それでなぜ衝突することになったのか聞きたいものだ」

 真夜中近くとは言え、月明かりで海上は照らし出される。監視を欠かなければ、六倍近い明光丸を見つけられないはずがない。

「坂本から知らせを受け、芝田殿と交渉したわしの身にもなれ」

 後藤は、不服そうな顔を龍馬に向けた。

「後藤さんが高柳殿と喧嘩紛いの口論になってしもうたから、芝田殿が出で来たがやないかね」

 高柳は名を楠之助といい、紀州藩附家老で、明光丸の船将で、芝田は名を一次郎と言い、紀州藩勘定奉行職にある。

「交渉が長引いたのはわしの責任だと言うのか!」

「ほがな事、ゆうてやーせんよ」

 それでもと身を乗り出した後藤を制止、結果はどうなったのかと武市が先を促した。

「紀州藩が折れて、始めは八万三千両の賠償金を支払うと約束してくれたが、その後で減らしてほしいと後藤さんを訪ねて来てな、大負けに負けて七万両で決着が付いたんぜよ」

 この時だけは本当に嬉しいと言わんばかりの顔になる。

「徳川御三家の一つ相手に、七万両とは、よくも吹っ掛けたものだな」

 武市はその多額な賠償金請求にに呆れるのも仕方が無い。一両を四万として換算すると、二十八億円にもなるのだ。

「紀州が飲んだ理由は?」

 龍馬は意地の悪そうな笑みを浮かべ、ミニエー銃等の銃器約三万五千両、金塊約四万両、合わせて七万両近い荷物を積んでいたのだと説明した。

「肝をいつく潰したか知れん」

 いい気味だと内心武市はせせら笑った。その位の心労で済むなら、もっと龍馬に問題を引き起こせと言いたいのが本音だ。

「なんのためにミニエーを積んでいたとは聞かんが、危ない綱渡りは対外にしておけよ」

「おう」

「言うだけ無駄のような気もするけど」

 中岡にそう言われた龍馬は、口を尖らせて手に持っていた湯呑みを両手でくるくると回す。

「数日後には薩との会合です。ご助力頂いた五代殿への謝礼も考えねばなりますまい」

 芝田は交渉かせ難航してくると、薩摩藩御小納役の五代才助に仲介を依頼したのだ。

「案ずるな。公からもきつく言われて来ている」

 芝田に恨み言の一つでも言いたいが、事故解決を長引かせる訳にはいかない。霧も出ていない月明かりの中の衝突の上、浪士を含む海援隊の引き起こした事故に、薩摩が介入して来たのは土佐としては面白いはずがない。

「長い船旅でお疲れでしょう。今日はこのくらいで失礼させて頂きます」

 隙のない身のこなしで両手を付いて頭を下げた武市に、後藤はご苦労だったと小さな声を発した。

「おまえも在京の身だ。大人しくしていろよ」

 釘を刺された龍馬は笑みを浮かべ、見送ると共に部屋を出た。

「和太郎は元気なが」

「・・・ああ。萩へ帰る予定だったが、後藤殿が来ると慎太に連れ戻された」

 じっと龍馬が武市の顔を見入る。

「なんだ?」

「なんかあったが」

「なにもない」

「ほがな顔にゃ見えやーせん。おんしがほがな顔をするとゆう事は、和太郎に何かあったとゆう事じゃーないがなが」

「しつこい男だな」

「心配してゆうちゅうんだ。わしに出来る事があったら遠慮なくゆうとおせ」

「なにも、ない」

 龍馬に言ったところで、桂と同様、どうにもできぬと判っている。

「そうか。ならこれ以上は聞きやーせん。けんど、一人で背負うのは止めとおせ。和太郎のことは-」

「おいつの事は俺にまかせておけ。おまえは他にしなければならん事があるだろうが」

 それは武市も同じだと龍馬は言う。

「・・・明日、山縣くんと品川くんが京を発つ」

「芸州の方はおんしと中岡が?」

「そのつもりだ。大久保さんらと話しをした上で、船越くんらに後藤どのを引き合わせる」

「わかった」

「何か用があれば慎太に言伝を頼め」

 土佐藩邸を後にした武市は、雲間に見え隠れする月光の下、薩摩藩邸へと急いだ。



 後藤の京入りを聞いた大久保は、薩摩と土佐の盟約を推進める用意を整え、芸州の船越と小林へ二本松藩邸へ出向くよう、使いに新兵衛を出していた。

「新撰組が居るのに」

「居ようが居まいが、さして問題ではない。新兵衛は薩摩藩の者。手をだすにはそれ相応の覚悟をしなければならん」

 人斬りとして手配されているのに、問題にしない大久保もどうかと思う。

「数日後、土佐の後藤殿がここへ来る。おまえはどうする?」

 なぜそんな事を聞くのかと問わずとも、長崎の一件を知っていることは発せられた言葉で理解できた。

「僕は別室に居ます」

「懸命な判断だ、と言っておこう。それで、おまえはどうするのだ?」

「だから、後藤さんには-」

「それではない。おまえの素性は坂本くから聞いている。私が聞いているのは帰るか否かということだ」

「答えは、否、です」

「即答だな」

 迷いのない眼をむけてくる和奈に、ふん、と鼻を鳴らす。

「今、世の中がどう動いているか、おまえのその小さな頭でも大体は判っているはずだ。時勢が動くと言う事は、長州も動かねばならん。その時、おまえはどうする?」

「僕は僕が思うまま動くだけです」

「簡単過ぎるな」

「え?」

「長州藩士であるおまえが、この大切な時期に幕府に係わり合いを持てば、それは長州の足元を掬うことに繋がる」

 個人で動くなと釘を刺された和奈は、困惑の色を浮かべつつ畳みに視線を落とした。

「この京は政事の中心となった。その渦の中、藩に迷惑をかけず己が意志を貫いて、事を成すのは至極難しい。それだけは忘れるでないぞ」

 ゆっくりと顔を上げた和奈は、すうっと息を吸い込み、吹き出す息に声を乗せた。

「この時を迎える為、貴方は我が長州を陥れたのでしょうか」

 声色が和奈の物とは違い、顔付きも心なしか別人に見えた大久保の表情が硬くなった。

「かつて会津藩と共に長州を京より追い出したのは薩摩藩ではありますまいか。それは貴方が描いた顛末を迎えるためだったのかとお聞きしている」

「いきなりどうしたと言うのだ?」

 目の前に座って居るのは和奈のはずだった。それが一瞬の間の後、別人となってしまっている。

 右脇に置いた刀の柄を、和奈はそっと引き寄せた。

「!」

 組んでいた両腕を解き、一瞬驚いた表情を見せた大久保は、すぐさま嘲笑を浮かべ解いた腕を組みなおした。

「愚か者が。貴様は時の流れをなんと考えている。一端しか知らぬ者に大局を観ることなど不可能! 一時の気の迷いで導き出した策だと思っているのなら、それは貴様の無能が生んだ無知と心得よ」

「薩摩は政の主導を握るため、尊攘派の羨望を集めていた長州を邪魔とした。これは確かでありましょう?」

「否定はせん。長州が朝廷に取り入り、時勢を動かそうとしたのと同じことをしたまで」

「政を主導する藩が移り変わって行くのは、その時の流れでしかない」

「いかにも。それが解っているから、桂くんは耐えた。臆病者と罵られようとも、まだその時ではないと判っていたからだと私は思っている。ゆえに、私は彼を卑怯者呼ばわりはせん」

 視線を逸らすことなく見上げているその眼を真っ直ぐに見返し、

「子曰く、千乗の国を道びくに、事を敬して信、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす。事を焦り、民の心も汲まずに成した治世のどこに義がある。至誠を尽くし、一手一手確実に事を推し進めていかねば、変革はただの反乱にしかならん」

 静かな声で諭すように声を出した。

「千乗の国を導き造り上げる世が、良き世になりますか?」

「私にも志はある。怜悧冷徹を以って、それを貫く所存」

 すっ、と視線を逸らし、腿の上に置いていた左手を握り締める。

「徳川幕府は安穏とした刻を費やし過ぎた。外敵の存在を危惧するどころか、それに屈し、国を強くしなければならぬ時期に、幕臣は己が保身に走る。真剣に国の行く末を考えず、民の心を汲まぬ主導者は主導者とは言わぬ」

「あなたがその指導者になると?」

「私個人ができることなどたかが知れていよう。必要なのは志を共にできる存在だ」

「だから長州の力を必要とした」

「夷国を相手に戦ったのは薩摩と長州だけだからな。痛い目にあえば、犬でも同じ轍は踏まん」

「対馬も」

「脅威は身にしみているだろう。両藩が動けば、西国は動く。今が道の分かれ目と言う事だ」

 刀掴んでいたままの手が鞘から離れた。

「おまえが語った言葉、誰のものだ?」

「・・・無礼を致しました」

 和奈が両手を付いて頭を下げると、廊下をやって来る足音が大久保の耳にも届いた。

「ふん」

 足音が止まり、障子か少し開けられる。

「失礼します」

 空けた障子の中に見えたのは、頭を垂れたままの和奈と、振り向きもせず背中を向けている大久保の姿だ。嫌な予感を覚えた武市は、小走りに部屋へ入ると、和奈の脇に座り大久保に何事かと尋ねた。

「数日後には後藤殿がここへ来る。こやつには会わぬよう部屋で大人しくしていろと諭していただけだ、君が案ずる事はしておらん」

 頭を上げた和奈の顔から怒気は消え、元の何処か落ち着きの無い表情へと戻っていた。

 武市は、何事もないという大久保の言葉を鵜呑みに出来ず、縮こまっている和奈の前へと膝を寄せた。

「まさか、とは思うが」

「君もしつこい男だな。流せるものは流しておくのも手立ての一つだ」

 そう言われても、人と資質を異にしている和奈をそのままにはできない。何事があり、それに対して進むべき道を模索するしか武市にはなす術を見つけられないのだ。

「複雑な事情を抱えている様だが?」

「ええ。複雑すぎて困るばかりです」

「私に話してみると言うのはどうだ? 三人寄れば文殊の知恵、と言うではないか」

 ここで和奈の身におきている事象を話すのは得策でない気がした。芸州が薩摩と組み、政権転回への足掛かりを作ろうとしている時期だ。桂の行動に釘を刺される一手になるとは思わないが、大久保は私情を政に持ち込まない男だけに、絶対にないとは言い切れない。

「多忙な刻であります。大久保さんを煩わせるだけにしかならぬ事ゆえ、控えさせて頂きたい」

 武市の思慮深さは、初めて対した頃より知って得ている。こう出て来ては早々意見を違えない事も。

「ならば、無理強いはすまい。だがな、武市くん。政にそ奴の事を持ち出す気などミミズの心臓ほどの大きさもない。そう、約束したからな」

「約束?」

「小僧一人の為にこの命を差し出す気にはならん。そう言うことだ」

 誰かがすでに大久保に釘を刺している。桂ではないだろう。自分から手の内を見せるはずはない。高杉についても同様だ。

「! あの馬鹿か!」

 思い当たる人間など知れている。桂でも高杉でもないとすれば、残るは龍馬と本人しか居ない。

「全てを聞いているわけではない。そ奴の素性だけだ」

 時を越えた。それを龍馬は大久保に話してしまっている。

 苦い味が口の中に広がって行く。

(ここで斬るべきか)

 安易な考えだと自分でも解っている。薩摩を失えば芸州と長州だけで事を進めるのは艱難辛苦となろう。

「君をここまで狼狽させるとは。おい、小僧」

「あ、はい」

「女冥利に尽きると喜ぶがいい」

「はい??」

「大久保さん!」

 一点して顔を赤く染めてしまった武市を見下ろした大久保は、高らかな笑い声を上げ、話しもそのままに部屋を出て行ってしまった。

「くそっ! どこまでも遣りづらい男だ!」

「すいません、なんか僕のせいみたいで」

 キッ、と後ろを睨み返した武市は、また大きな吐息を吐き出し、自分が戻ってくるまでの顛末を和奈に説明させた。

「一つ聞くが」

「はい」

「なぜ今この刻になって松陰殿ではなく、吉田くんなんだ?」

「それは・・・私に聞かれても・・・」

「まあ、そうだろうな。だが、明らかに松陰殿の刻とは違う」

 和奈という固体と、吉田稔麿という固体の区別が曖昧になっている。

 同化。

 ぞくり、と、武市は背筋に嫌な寒気を感じた。

(切欠があっての豹変などではない。和奈の意思に稔麿の意識が自然に流れ込んでいる)

 出て来る。という表現も似つかわしくないように思える。和奈の意識と稔麿の意識が同調し始めている。

「馬鹿なことを!」

「!?」

「桂さんに頼み、おまえを野山獄へ放り込んでおくべきだったな」

「獄ぅ!? そ、そんな。私、刑務所に入れられるんですか!?」

「けいむしょ?」

「えっと、あの、悪い人が入れられる所です」

「罪人だけとは限らん。手に余る身内を、家の者が藩に頼んで獄に入れる所としても使われる」

「手に余り・・・ますよね」

 落ち込んでしまった和奈を見て、武市は顔を抑えた。

「おまえが手に余っている訳ではない。このくそ忙しい時に長州へ帰す事もままならず、大久保さん相手に論じる始末では、俺が戻るまで獄に閉じ込めて置いた方が良策と思えただけだ」

「すいません。厄介ごとだっかり起こしちゃって」

「引き受けたのは俺だ。それに、今更放り出すことなどせんから安心しろ。ただ、できれば時期を考えてくれれば助かる」

「努力してみます」

「いいか、自分の心でないモノに飲まれるな。己が心をしっかりと持っておけ。おまえは松陰殿でもなく、稔麿でもない。桂さんの甥で、村木殿のご息女だ」

 それは和奈自信も確かめた事だ。武市の言葉になかったのは、未来に居る家族の事だけ。

「私は私」

「それ以外にないだろう? どう言う理があって、おまえがそんな状態になってしまったのかは推測もつかん。だが、俺も桂さんもおまえを守りたいと思って居るのは確かだ。なんでも一人で背負い込まず、守ってもらいたいと思ってくれ」

「私・・・どうなるんでしょう・・・」

「どうもならん。自分で言っただろう、私は私だと。そう思う心がある限りおまえはおまえでしかない」

 そうあり続けて欲しいと、今にも泣き出しそうな顔で自分を見上げる和奈の肩を抱き寄せた。

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