其之ニ 御陵衛士
福岡孝弟と小笠原唯八の招きに応じ土佐へと入った西郷は、前藩主山内容堂との謁見の席で、京にて雄藩四侯会議を開き、長州藩の今後と兵庫開港を巡る問題を中心とした国事を議する必要があると説いた。
福岡だけでなく、後藤からもすでに四侯会議は是必要と注進を受けていた容堂は、薩摩藩藩父島津久光、前越前藩松平春嶽、前宇和島藩伊達宗城が上洛するのであれば、自分も上洛して良いと西郷に確約したのである。
西郷の土佐入りを受け、小松帯刀と京に戻った大久保も松平春嶽へ会議への出席を説き、許諾を得ていた。伊達宗城も、薩摩の藩父島津久光が上洛するのであればとこれを快諾している。
大宰府を後にした伊東は、大宰府の他を周る事なく筑前(福岡県)を後に小郡へ着くと、本陣のある津市ではなく、参勤交代の折に使われる脇本陣に宿を取った。
その後ろを追って来た影が二つ。
一つは新兵衛と、もう一つは以蔵だが、二人とも肩を並べての尾行ではない。
(さて、どうする?)
このまま新兵衛に悟らぬよう付けて回るか、それとも姿を見せて反応を見るべきか。
新兵衛の足が止まった。
(気付かれたか?)
左右に首を振り、何かを探しているようにも見える。
物陰に身を潜め、気配を悟られぬよう、目だけで新兵衛を追う。
新兵衛が路地へと消えた。
「!」
見失うまいと飛び出した以蔵は、新兵衛が消えた薄暗い路地へと駆け込んだ。
「っ!」
暗闇に気配を感じ、足を止める。
「付けられる覚えなどないんだが」
(ちっ!)
「腕が落ちたな、岡田くん」
「その名を口にするな」
「ああ、これは失礼。君が萩を出て来ていると言う事は、桂殿の指示か、それとも桂木殿かな?」
「俺の独断だ」
しっ、と新兵衛は口元に指を立てると、静かに以蔵の横へと立った。
「この街に土方が居る。ついでに言えば、沖田の名を使った赤井という男もな」
「なに?」
くいっと顎をしゃくり、表通りを見ろと促す。
羽織こそ纏っていないが、その顔は見紛うことなく土方だ。
「伊東と待ち合わせか?」
「それは無い」
即答した新兵衛は、後で説明すると小声で言い、通りを歩いて行く土方を視線で追った。
嫌な気が纏わり付いてくると、土方は気を苛立たせた。
まさか村木が、とも思ったが、それならばすでに出てきているはずだろう。小郡に居るのを知る者はあの場所に居た者だけだ。片目の男の様子から、尾行はないと考えられるし、もう一人の男もそれだけの技量を持っているとは考えにくい。
「気にしすぎか」
そう呟いた土方は、前から歩いて来る男の姿を見て、さらに苛立ちを増した。
相手もどうやら自分に気付いたらしく、一瞬止まった足を前へと出して歩み寄って来た。
「まさか、ここで君と会うとは思っていませんでしたよ」
「あんたの護衛を、近藤さんに頼まれてな」
「ほう。それで副長である君がわざわざ来てくれたのですか?」
疑う素振りも見せず、嬉しそうに両手を合わせた伊東は、土方を自分の宿所となる旅籠屋へ誘った。
「嬉しい誘いだが、怪我人を抱えてるんで遠慮させてもらう」
「怪我人? 隊士ですか?」
「赤井だ」
「赤井くんが? それはまたどうして」
街道を進む途中に出くわした長州人に、土方だと知られ斬り合いになったと、和奈や高杉達の名を伏せて事情を話した。
「ならばなおの事、私達の旅籠屋へ来た方がいい。帰るにしても君一人では大変でしょう?」
「まだ動かせる状態じゃない。俺達の事はいいから、あんたはさっさと京に戻ってくれ」
「そうは参りません。私は参謀ですよ? 隊士が怪我をしていると言うのに、放ってなど帰れるものですか。いいですか、土方くん。これは参謀としての命です」
それにと、帯に差してある刀を見下ろし、
「どうやら帰りの路銀にも困っているようですしね」
と、意味ありげに笑った。
斬りかかりたい衝動を押さえ、伊東の宿泊する旅籠屋へ赤井を移した土方は、窓から通りを眺めている伊東の背後へと座った。
「いけませんねぇ」
背中に向けて殺気を放っている土方に、顔を戻すことなく伊東は喋り始めた。
「一つお聞きしたい。赤井くんは勝安房守殿の許しを得て、新撰組に復帰し、君と同行して来たのですか?」
この問いに、土方はすぐさま返答する事ができなかった。
「君が私の護衛にと、京を出た。これは、良し、としましょう。だが、新撰組を脱退し、勝殿の預かりとなっている彼を連れて来たのは、悪い、としか言えませんよ。しかも、彼は手負いの身となってしまった。加えるなら、武士の命ともいえる腕を失ってね」
どんな言葉を伊東に向けたとしても、それは言い訳になる。だから土方はあえて答えなかった。
「勝殿もさぞやご心配なさっているでしょう。 急ぐ旅ではありませんが、明日の朝ここを発ち、次の宮市宿で、医術の心得がある者を雇います」
「あんた、それ本気って言ってんのか?」
「え? ええ。大真面目ですが、なにか問題でも?」
なぜ怒り顔になるのか解らないとでも言う様に、伊東は首を傾げて見せた。
「宮市天満宮内にある九社の一つは、長州藩鋭武隊の宿所の一つだ。それを知ってて言ってるのか?」
変名で水戸藩から手形を交付されている伊東はともかく、土方と沖田は名も変えず会津藩が出した手形で京を発っている。いくら休戦協定を結んでいるとは言え、新撰組と知れれば一騒動起こるのは間違いない。赤井を抱えての大立ち回りなど、さすがの土方でもおいそれとできたものではない。
「なにも脇本陣へ泊まろうと言うのではありませんし、私が医者を捜すのですから問題はありませんよ」
水戸藩は尊王攘夷を掲げ、井伊直弼を暗殺した浪人を生んでいる。その水戸藩ならば、会津藩よりも詮索される危険は低くなる。
伊東としては、ここで土方に恩の一つでも売っておきたい腹がある。
「医者を雇えたら、海路で大坂へ上ります。北前船に乗れるよう手配致しますね」
北前船の寄港する三田尻の中ノ関港には長州海軍局があると、土方は頭を抱え込みたい気分に襲われた。
翌朝、伊東の得意げな顔を我慢しつつ、赤井を抱えた土方は小郡宿を出立した。
宮市宿で医者を見つけ、三田尻へ出ると北前船の一つと交渉した伊東は、朝と変わらぬ満足気な顔で土方の前へと戻って来た。
「ほらね。何を危惧するものでもありませんよ。さあ、赤井くんも辛いでしょうから、さっさと船に乗ってしまいましょう」
そうして土方達は無事、海路で大坂への帰路についた。
船を見送るように、港が見える海岸の崖に立っていた以蔵は、後ろに立つ新兵衛を振り返った。
「君は相変わらずだな」
「なにがだ?」
「大方、俺が大久保卿の命を受け、伊東らの動向を探っていたと思っての尾行だったんだろ?」
「違うのか?」
くくっ、と新兵衛は笑う。
「俺の主は今でも大久保卿、それに変わりない」
以蔵の手が柄にかかる。
「桂殿と武市殿が心配するのも解るところなんだが、 長州に身を寄せているのは俺の意志だ。庇護を受けている以上、役に立たねばならん」
「・・・で?」
「命を出すのは、なにも桂殿だけではあるまい」
「なに?」
「俺が動いたのは高杉殿の意向によるものだ。貴殿が案ずることはない」
「高杉さんが?」
「目と耳となるのは俺の得意とするところ。その腕を買ってもらった、そう言うことだ」
それでも以蔵の目には殺気が宿ったままだ。
「やれやれ。いつまで経ってもそれではいずれ、死ぬことになるぞ」
「命を永らえようなどとは思ってはおらん」
武市のためと死ねるのであれば、以蔵にとってそれ以上の恩返しはない。
「武市殿がおまえを袂から離した意味を、もう少し足りないその頭で考えてみろ」
「足りないだと!?」
鯉口を切った以蔵に背を向けた新兵衛は、ふりふりと手を振りながら松林の中へと歩き出す。
「おまえは萩へ戻るんだろ? 俺は赤間関に戻らねばならんから、ここで斬り合いをしている時間はない」
「くそっ!」
柄を鞘へと押し、収まらない怒りを抱えたまま、松林の中へと走り出した。
伊東より遅れて大宰府を出た中岡は、陸路を使って京へと入っていた。
目的は公卿土御門晴雄と正親町三条実愛に、三條からの密書を届けるためである。
嘉元元年に、従三位参議として公卿に列した正親町三条実愛は、日米修好通商条約締結 の勅許阻止を実現させた廷臣八十八卿列参事件に加わった。薩摩藩の掲げる公武合体を支持し、尊王攘夷派により失脚となっていたが、八月十八日の政変で復帰を果たすと、再び薩摩藩と接触するようになる。大久保や岩倉具視らに加担する公卿の一人である。
土御門晴雄は、徳川家康によって朝廷への復帰を許された土御門家陰陽道の当主で、元治元年に従三位となり、正親町三条実愛を通じ、倒幕派公卿に接近している公卿である。土御門家は改暦の権限を巡り、幕府の天文方と対立していた経緯を持つ。現在、改暦の権限は幕府から土御門家に移り、土御門家は陰陽師頭として朝廷の主要な位置に座している。
土御門家は、新撰組の屯所となっている西本願寺の西側、七条大通を越えた梅小路 に大きな邸宅を構えている。
土御門晴雄に謁見が叶った中岡は、三條の書いた親書を差し出していた。
「ふむ」
書簡に目を通した土御門は御簾を潜り、様子を伺う目つきで座る中岡の前へと下りて来た。
「三條公の申し出はよぉ解った。私とて朝廷が政権を担うのは本意とするところ。過去のいざこざもあるさかいなぁ」
「それでは」
「中岡はん、そう急ぎなはんな」
土御門はさらに膝を中岡の方へと近づけて来た。
「正親町三条殿は以前、薩摩と繋がってはった。その薩摩は幕臣を抱える身や。それは解ってはるんやろ?」
声を小さくし、扇子で口を隠したまま、中岡の左耳へと囁いた。
「・・・・・」
何もかも知ってますと言わんばかりの眼差しを向けられ、中岡はごくりと喉を鳴らした。
「あかんなぁ。私がこうして御簾を出たんやで?」
顔を戻した土御門は、扇子を畳み、ニ三度手の平へと打ち付けた。
「・・・私から言えるのは、薩摩も現状を良しとしてはいない、と言う事だけです」
「せやから岩倉殿も、影でうろちょろしとりはりますんやろ?」
「うろちょろって・・・」
「吉凶を占い、天の意志を伝える事だけが陰陽師やおまへん。時の流れを見定める眼も持たなやっていけまへんのや」
「土御門公のお人柄は、三條卿よりお聞きしております」
「一緒に座り込みした仲やしなぁ」
けたけたと笑う土御門を、中岡は困り果てた顔で見上げた。
「薩摩が動き、長州も何かしら思う所ありて力を蓄えてるようやし、なにやら奇妙な星も二つ降とるし。それらの行く末も見とうなった」
「奇妙な星? 厄災とかですか!?」
これでもかと言うくらい大きな吐息をついた土御門は、中岡から座る距離を取った。
「厄災となるかどうかは、まだ私にもわからへんのや。まあ、とりあえず今は目先のことを片付けなあかん」
「はあ」
「三條殿の申されたこの件、この土御門晴雄が受けさせて頂くよって」
「あ、ありがとうございます」
何か納得しきれないのだが、こちら側で動いてくれるとの言葉に、中岡はとりあえず胸を撫で下ろした。
「そないな顔せんでもええ。私に助力をと申し出てくれたのは正解やで。なんせ、私は陰陽師やし」
「えっ・・・?」
「思惑通りに事が運ばんようなら、奥の手を出すさかい、安心しなはれ」
「奥の手ぇ!?」
血相を変えた中岡を見て、土御門の笑いは更に高くなった。
「冗談が通じんお人やなぁ。夭折を目的に呪詛など、平安の世ならいざしらず、できる思うてはりますのんか?」
「陰陽師頭に就く人の言葉です。って、平安ならできたんですか!?」
「奇特なお人やなぁ」
「ううっ、遊ばれてる感じがする」
「ほなら、正親町三条殿の所へ行きましょか」
「は?」
立ち上がった土御門は、閉じた扇子を開くと口を隠し目を細めた。
「なんや、中岡はん。まさか、つてもなく正親町三条殿にお会い出るきるなんて、思うておりましたんか?」
「えっと、その三條公からの親書もありますから」
「もう少しは三條殿の采配するところを考えなはれ。先にこの私へと中岡はんに命じたんは、親書だけでは正親町三条殿への目通りなど叶わぬと考えられたからやおまへんか」
「あ・・・」
くすくすと楽しそうに笑う背中を、中岡は呆然と見上げた。
「いけすかん男なら、この私がわざわざ骨を折ることもあらへんけど、中岡はんは面白い人や。気に入ったさかい、一緒に伺わさせて頂きましょ」
「そ、それはありがとうございます。あ、でも、いきなり出向いても宜しいのですか?」
「なに、すでに使いは出してあるし、心配いりまへん」
「いつ出したんですか!?」
親書を手にしてから、土御門は一度も席を立っていない。人を呼んで使いを出せとも言っていないのだ。
「中岡はんは陰陽師の前に座っていはりますのやろ?」
「あれ? えっ?」
混乱をきたした中岡は、土御門の言葉を考え纏めることなどできなかった。
「やはり奇特なお人や」
土御門の中岡に対する人物像は以後も、奇特な人、のままとなった。
「狸のように呆けた顔はやめて、さっさと用事を済ませてしまいましょ」
楽しげに歩いて行く土御門の後を、狸は酷いと、中岡は肩を落としたまま追いかけた。
正親町三条の邸宅は、堺町御門前を東に折れ、鷹司殿の壁伝いに寺町通りに面した三條西殿の一つ手前にある。通りを一つ南に隔てたところには、蟄居となっている岩倉の屋敷だ。
「遠路ご苦労であったな。余が正親町三条実愛である」
平伏する中岡を後ろにした土御門は、優雅な動きで前に手をついて頭を下げた。
「卒爾な謁見の申し出にお許し頂き、誠にありがたき所存にございます」
「して、余に用というのは?」
「は。後ろに控えますは、京より追放の身となった三條実美公の随臣にございます」
「三條殿の?」
中岡は顔を上げないまま、さらに頭を下げた。
「三條殿は 如何なる由があり、余の元にその者を遣わせたのだ?」
土御門は御簾の前に親書である書簡を置きに、膝を這わせて前へと進み出た。
「これに由が書かれておりまする」
そう言うと、前を向いたまま元の位置へと下がった。
側仕えの者が脇から進み出ると、書簡を取りそっと御簾の下から中へと滑り込ませる。
カサカサと、紙の音だけが響く。
「・・・むぅ」
沈黙のまま書簡に目を通していた正親町三条は、側仕えの者に下がるようにと命を出した。
「よもや、このような事に相なろうとはのぅ」
「如何にございましょう?」
「土御門、そなたがここにおると言う事は、この親書の内容を受け入れたからに他ならぬのだろう?」
「御意」
ふむ、っと正親町三条は御簾の奥で声を出した。
「時局を見誤るは、今後の朝廷にとってよろしゅうとは言えませぬ」
「占いで、退けるは凶とでも出たのか?」
「それに頼る必要はございまぜん。正親町三条殿も、時勢を見据えられておられるのではございませんか?」
土御門の言葉の裏に言わんとする意図を悟り、気配が動いた。
「洛北の御仁に、京落ちた御仁と来たか」
ほう、と土御門が吐息に似た声を出す。
御簾の下から扇子の先が出てくると、正親町三条がそれを潜り二人の前へと姿を見せた。
「近こう」
扇子を持った手で、土御門とその後ろに居る中岡を招く。
「土御門家も、幕府との因縁は多き事と承知している」
「左様。徳川幕府が栄華を誇っていた時代は、とうに失われております」
「言うのぅ」
「今の幕府は徳川の名を守り、権威を維持するために右往左往するばかり。その様な武家の集まりにこの国を任せてはおけませぬ」
「然り。その上で問う。そなたの発言、信じるに足る確証は何処に?」
「ございません」
あっさりと笑った土御門を前に、中岡だけでなく正親町三条までもが目を開いて首を後ろへ下げた。
「公卿の中には、幕府に対し遺憾の意を持つ者が多くおりまする。これらの者の意志を取り纏める必要もございますれば、手始めにこの件で動くのは道理と思った次第。それ以外、私の意を示すものはございません」
気が気でないのは中岡である。
「余が一言、否、と言えば土御門の立場は危ういものとなろう」
「ああ、そうでございますね」
今気付いた風で、土御門が眉間を狭める。
「まったく、しれっとしおって。わかった。そなたも同意しておるのであれば、朝廷のため、尽力致そうではないか」
その正親町三条の言葉で、中岡はつい安堵の息を漏してしまった。
「くっくっく。そなたの顔、なかなか見ものであったぞ。気苦労をかけた様ゆえ、この土御門がそなたを持成し致すと申しておる。甘んじて受けられるがよろかろう」
「いやですよぉ、正親町三条殿。それではまるで私がこの者を困らせていたみたいじゃありませんか」
「似たようなものであろう。ああ、そうそう。そなたの名を聞きそびれておったな。遠慮はいらぬがゆえ、名を置いて土御門の邸宅へ参られるがよい」
親書には三條の随臣として赴く中岡の名が記されていたのだが、それでも正親町三条は直に名を聞き、納得した後、二人を送り出した。
土御門と正親町三条は、中岡が辞去した翌日に朝議の場で御所守護の必要性を説き、反幕府の意ほ持つ者たちの賛同を得て、幕府側に立つ公卿達への説得を成功させた。そして京へ伊東が入るよりも早く、朝廷は御所を守護する組織として、御陵衛士設立の沙汰書を下したのである。
伊東が清華家西園寺家の猶子、戒光寺住職堪然と既知の間からと知った正親町三条は、沙汰書を戒光寺へと届けさせた。
清華家は最上位摂家に次いで大臣家の上に位置する家格で、三条家もこの清華家である。
伊東と一緒で気分が悪い上に、船酔いに悩まされた土方は、陸地に足を下しても、体が揺るている感覚から逃れられないで居た。
「やはり京の町はいいですねぇ」
そんな土方の心中を知ってか知らずか、伊東はうきうきとした足取りで洛中を歩いている。
「ところで赤井くん」
すがすがしい顔で振り返った伊東は、勝の逗留先はどこかと尋ねた。
「亀屋という旅籠屋です」
三田尻から船に乗ったその夜、漸く目を覚ました赤井は、土方から伊東がなぜ一緒に居るのか、小郡を出た経緯を聞かされる中、無くなった腕がもう二度と戻らない事も知った。
「このような事になったお詫びを申し上げに参らねばなりませんし、近藤くんに事情を話した後、私が伺おうと思うのですが、如何でしょう?」
後ろを歩いている赤井からは、土方の顔は見えなかった。が、その肩が一瞬緊張したのだけは見逃さなかった。
「俺も同行する。こうなった原因を作ったのはあんたじゃない、この俺だからな」
「ええ、勿論そのつもりでおりますとも」
西本願寺の山門を潜ると、土方達の姿を見つけた藤堂と原田が駆け足で近寄ってきた。
「帰りなさい!」
元気のいい声で出迎えた藤堂は、伊東の手荷物を受取ると、土方に抱えられるようにして立っている赤井に手を振った。
直後、その顔が強張る。
「近藤さんはいるか?」
「・・・・・」
「平助!」
「あ! はい、居ます!」
「原田、赤井を頼む」
「承知」
原田は赤井の腕を取り、うろたえている藤堂をそのままに屯所内へと入って行った。
伊東が居てはと、土方は近藤にも和奈や高杉の名を伏せ、事の経緯を説明した。
「困った事になったなぁ」
勝の預かりで新撰組を離れた赤井が、無断で土方に随行し、片腕を失って戻ったのだ。
「赤井くんを連れて行くなら行くで、なんで俺に知らせなかった」
「弁解の余地も無い」
「済んでしまった事を今更責めても仕方ありません。近藤さん、勝殿の所へは私と土方くんでご説明に上がりますので、ご許可頂けますか?」
苦渋顔の近藤は、自分が出向くと言った。
「私では役不足と?」
「いや、そうではありません。伊東さんには、他に出向いてもらわねばならん所があるのです」
戒光寺の堪然より、折り入って相談したい事があるから、京に戻ったらすぐに寄越して欲しいと、連絡が入っていると告げた。
「堪然殿が私に?」
「ですので、勝殿の所へは私と土方で参ります。そもそも、伊東さんが頭を下げに行かれることはありませんし」
近藤の言葉に、伊東が姿勢を正した。
「頭を下げるもなにも、隊の者が起こした不始末に対し、参謀である私も頭を下げに行くのは当然の事。それとも、近藤くんは私を名ばかりの参謀職だと言われるか?」
温和な態度を常としている伊東が、口調厳しく、その形相を一変させたものだから、近藤は冷や汗を浮かべ慌てた。
「いや、そういう意味ではありません。土方の浅はかな行動は私の責任でもあります。それに、局長である私が出向く方が、勝殿に対しても礼を欠く事はないと思っただけです」
「俺の不始末に、あんたも頭なんぞ下げたくはないだろう?」
「土方!」
「誤解してもらっては困ります。土方くんとは思想の点で違える所は多々ありますが、共に京の治安を守護する仲間と私は思っているんです。必要であればいくらでもこの頭を下げに駆け回りますよ」
「伊東さんもこう仰っているんだ。言葉を改めろ、土方」
感激屋でもある近藤が、伊東の言葉で少し潤んだ目になってしまっているのを、土方は横目に見ながら、わかったと口にした。
「伊東さんのお心は十分わかりました。しかし堪然殿からは火急の用と聞いておりますので、今回は私と土方に任せては貰えませんか」
「ふぅ。解りました。局長がそう仰るのでしたら、私は戒光寺へ伺う事に致します。勝殿にはくれぐれも宜しくお伝え下さい」
「ええ、それはもちろん」
伊東が部屋を出た後、膝を崩し不満げな顔で睨んでくる土方に、近藤はやれやれと肩を落とした。
翌日。赤井を伴い、土方と近藤は亀屋を訪ねた。
「まったく、とんでもねぇ馬鹿野郎だ」
片腕となった赤井を前に、勝は険しい顔を振った。
「おまえさんはどうして物事をもっと深く考えねぇんだ?」
「赤井くんのせいだけではございません。本来であれば、脱退している赤井くんを伴って行くなど、言語道断。新撰組副長としての思慮が足りなかったのは否めません」
「腕を斬られたのは、土方さんのせいじゃないです」
「そんなこったぁ解ってる。だが道理は違う。俺の許可も局長の許可もなく、土方さんはおまえさんを連れていっちまった。これが問題だと言ってるんだよ」
正座で座る近藤と土方を見た赤井は言葉をなくした。
「すまない、土方さん。馬鹿な奴のために恥かかせるような真似させちまって。こいつの馬鹿はおいらの責任だ。どうか許してやってもらえないかい」
頭を下げに来たのに、反対に勝に頭を下げられては堪らない。
「勝殿に謝罪申し上げなければならないのは我らの方。その様に勝殿に頭を下げさせたとあっては、天璋院様にも申し開きが立ちません。どうか、お顔を上げて頂ける様お願い致します」
「いや、指導の至らなさゆえ、おまえさん方に迷惑をかけることになっちまったんだ。頭を下げねぇと気がすまん。天璋院様へはおいらからちゃんと説明しておくんで、そっちは気にしなくていい」
そう言うやいなや、左前に座って縮こまっている赤井の頭に勝の拳骨が落ちた。
「ってぇ!」
「痛いと感じるのはおまえに命があるからだ、有り難く思え」
「はい・・・」
「近藤さん、土方さん。修吾郎が腕をなくしたのは、自分の行動をよくよく考えなかったからだ。この度の件についての謝罪は、これで終りとしてくれ」
「しかしそう申されましても、けじめを付ける必要はございます」
「仕方ねぇなあ・・・おまえさん達にも立てなけりゃならねぇ義がある。おいらにもある。どっちもが頭を下げあってたんじゃ話しは終らねぇ。けじめを付けたいと言いなさるんなら、修吾郎の新撰組復帰はなかったものとする。それでどうだい」
「勝さん!」
「おまえは黙ってろ。そもそもの原因はてめぇが作ったんだ。局長と副長が揃って謝罪に来てる意味をもっと考えろ」
勝の言い分が解らない訳ではない。勝に許可もとらずに無断で出たのは事実だ。腕をなくしたのも、和奈の太刀を捌けなかったからだ。
「しかし赤井くんは四番隊の隊士からも信頼を得ております。復帰が駄目とあれば、彼らも酷く残念がるに違いない」
「片腕となったこいつに、組長格は務まらねぇと思うよ」
「剣術ばかりが組長の資質ではございません」
「たが、けじめを付けたいと言ったのは近藤さん、あんたじゃないのかい?」
「それは・・・」
ちらりと横を見るが、土方は姿勢を崩ずじっと勝を見ているだけだった。
「わかりました。残念ではありますが、新撰組への復帰はなかった事とさせて頂きます」
近藤の言葉に、赤井はぎゅっと唇を結んだ。
「助かるよ。それじゃ、今回の件はこれまでだ。わざわざ出向いて来てくれてありがとうよ」
「それでは、これにて失礼仕ります」
近藤が腰を上げ、続いて立ち上がった土方は、赤井を見ないまま廊下へでると、静かに襖を閉めた。
土方と近藤を見送った伊東は、西本願寺から九条通りへ下ると、加茂川を越えた先の東下に在る戒光寺を訪ねていた。
「正親町三条様よりお話を伺った時は、それは驚きました。まさか伊東様が朝廷にも顔が広いとは思っておりませんでしたから」
「私ごとき者が公卿様とお知り合いなどと、とんでもない。堪然殿が西園寺家の方々にお引き合わせ下さり、勤王のお心を語り合えたからこその賜物でありましょう」
「なるほど。西園寺家の誰ぞが、交流のあった三条家の者に話したのかも知れませんね」
「私のような者が、御陵守護を拝命できるとは光栄の至り。謹んでお受けさせて頂くと、正親町三条様にお伝え下さい」
「ええ、ええ、お伝えさせて頂きますとも」
戒光寺を出た伊東は、青空に輝く太陽を眩しげに見上げ、口元に薄く笑いを浮かべ、西本願寺へと戻った。
玄関へ入ろうとしていた伊東は、近づいてくる足音に背後を振り返った。
「勝殿はおられましたか?」
「ええ。それについて、ご報告したいと思いますが?」
「結構ですよ、お伺いします。私も近藤さんにお話しすることがございますし」
伊東の横を通り過ぎた土方に、君もと言われた土方は、遠慮させてもらうと言うと、返事をまつこともなく奥へと消えて行った。
「なにかあったのですか?」
「ええ、まあ。ともかく、中へ」
前川邸の奥座敷に入ると、近藤は勝との話しを説明し、赤井の復帰はなくなったと告げた。
「勝殿のご心中も理解できるところ。致し方ありませんね」
「ええ」
「これを教訓に、もう少し柔軟な姿勢で隊士の面倒を見てくれるようになると嬉しいんですが」
「あいつはあいつになりに責任を感じてます。だから勝殿の申し出にも反対しなかった」
こくりと伊東は頷いた。
「で、伊東さんの話しと言うのは?」
「ああ、そうでした。実は、朝廷より私に沙汰書が下り、孝明天皇の御陵警護の拝命を賜ったのです」
「ちょ、朝廷から拝命を?」
「ええ。戒光寺住職の堪然殿からその沙汰書を頂いてきております」
懐から書簡を出した伊東は、丁寧に開くと畳みの上へ置いた。
「しかし、なぜ伊東さんに」
「京の治安守護に当たっている新撰組ならば、不逞な族から御陵を守れると、そう判断されたのではないでしょうか。勤王の心を持つ隊士も居ると、堪然殿にお話しした事がございますので、それでかと思いますが」
沙汰書をじっと見下ろす近藤の手は震えている。
「山陵奉行、戸田大和守忠至殿の配下となり、薩長の動向を探索する任も承っております」
戸田大和守忠至は下野国《しもつけのくに》宇都宮藩の重臣で、慶応二年に宇都宮藩藩主戸田忠友より一万石を分与され、高徳藩初代藩主に就いた。
「山陵奉行の」
土方を呼び止めておくべきだったと、近藤は後悔した。後でこの話しを聞いた土方が、伊東に食ってかかるのは間違いないと思えたのだ。
「新撰組から御陵警護の任に就く者が出たとあれば、町民の見方も変わりましょう。ならば私は喜んでこの任に就かせて頂きたいと思います。ご了承願えますか?」
「それは、もちろんです。こんな名誉はないでしょう。ああ、会津藩へは私からその旨を届けておきましょう」
「それには及びません。松平様には、正親町三条様より通達が行くとの事」
「なるほど、その方が話しも早いでしょうな」
「ええ。では明日、私と共に任に就きたいという者を募りたいと思います」
「わかりました。しかし、我が新撰組が朝廷より拝命を頂くとは、これほど嬉しいことはありません」
ええ、と笑った伊東は、祝い酒でもと誘われ、皆が寝静まるまで嬉々とした近藤を前に、酒の味を堪能した。
翌朝、近藤の別宅へ土方が怒鳴り込んで来た。
「朝から何んの騒ぎだ、歳」
「御陵警護に就きたい者は名乗り出ろと、伊東が隊士を集めてんだよ!」
「ああ、その件か。うん、昨日伊東さんから話しを聞いて許可を出した。歳、この新撰組に、朝廷からお声が掛かったんだ。すばらしいと思わないか?」
「その寝ぼけた頭をなんとかしろ! 幕府の下にいる俺達が、なんで朝廷の命を受けなくちゃならねぇんだ?」
布団から抜け出した近藤は、乱れた着物を治すと畳みに座りなおした。
「馬鹿をいっちゃあいかん。この度の拝命は会津藩も承知しているんだ。俺達がとやかく言うことじゃないだろう」
ちっ、と土方の舌打ちが響く。
「大宰府に行ったのは、その拝命とやらが下るよう、尊王攘夷派の公卿に頼みために違いない。朝廷のお墨付きとなれば、切腹せずに脱退できるじゃねぇか。違うってんなら、なんで大宰府に行って終りなんだ? おかしいじだろうがよ」
「勘ぐりすぎだぞ、それは。考えてもみろ。伊東さんが京へ戻るよりも早く朝廷からは沙汰書が出ているんだ。大宰府に居る公卿に渡りをつけ、京の公卿へ根回しを頼んだとしても、追放となった公卿からの依頼を、朝廷がすんなり受け入れると考えにくいだろう」
確かに、近藤の言う事には一理ある。だが、反幕府派の公卿達がこぞって足並みを揃えれば、不可能ではない事のようにも思える。
「とにかく、伊東さんは自分から警護をしたいと申し出た訳ではない。ちゃんと命あっての御陵警護だ。警護の他にも、薩摩と長州の動向を探るという任も帯びて居る。幕府にとっても俺達にとっても損はないだろう」
「薩長の?」
「ああ。御陵警護はともかく、両藩の動向なら、会津藩としても欲しいところだろう。おまえが腹を立てる道理はない。それから、隊士の引き抜きは今日一度限りだ。今後、新撰組と御陵警護に就く者との交流は禁止すると言う事で話しはつけてある」
近藤は采配は尽くしたと、本当に嬉しそうに笑いながら、怒りで肩を吊り上げた土方の背中をポンッと一つ叩いた。
伊東の呼びかけにより、三番隊組長斎藤一、同じく三番隊伍長中西昇、八番隊組長藤堂平助、諸士調役兼監察方篠原泰之進 、諸士調役兼監察新井忠雄、伍長橋本皆助、砲術師範清原清、伊東の実弟で九番隊伍長鈴木三樹三郎、隊士からは富山弥兵衛、阿部十郎、内海次郎、服部三郎兵衛、加納道之助、毛内有之助らが手を上げた。
伊東を含め十五名は、東山にある月真院を禁裏御陵衛士の屯所と掲げた。