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幕末奇譚 『志士 狂桜の宴』  作者: 夏月左桜
奇譚十七幕 会者定離
69/89

其之四 慟哭の刻

 太陽が地平線へと沈み、紫に染まり始めた空が広がっている。

 想いを託す相手を間違えてはいないか。障子を背に敷居の上へ腰を下ろし、その事を考えてかれこれ半刻は過ぎていた。

 高杉の想いとは志に他ならない。貫徹できない人生を託す相手は、覚悟を決め生きてきた者などではなく、時を越えてきたと言った和奈なのだ。

 酷だろうと思う。思うのだが、狂に狂ってしまう恐れがある以上、現実に繋ぎとめておく楔が要る。武市の存在もその一つだろうが、歯止めにならないのは幕府との戦いで明らかとなっている。

「ゴフッ!」

 激しい胸の痛みと共に、血の塊がベチャリと手に張り付く。

「桜か・・・」

 普賢象桜が満開となった夜、風に散る花びらに一つの願いを込め祈った。長州の行末が、この国の行く末が自らが望んだものとなるように。

「どうした?」

 気配を感じ、顔をむけることなく高杉は問いかけた。

「中へお入り下さい。夜風は体に悪うございます」

 衣桁に掛けてある羽織を手にし、高杉の側へとおのうが膝をついた。

「すまん」

「旦那さまらしくありませんね」

 羽織を被せようと腰を浮かせたおのうの腰を抱え込み、その膝に頭を乗せた。

「柔らかいなあ」

 さらさらとした髪を撫でながら、おのうが笑う。

「ああ、しまった」

「旦那さま?」

 腰に回した右腕を離し、目の前へ翳し見る。

「着物を汚した」

「洗えばいいだけですから」

「そうか・・・なら、いいか」

 高杉はもう一度右手を腰の後ろへ回すと、おのうを強く引き寄せた。

「高杉」

 障子のむこうから遠慮気味に声を出し、少し間をおいてから男が顔を覗かせた。


 赤間関の白石宅へ逗留を頼みに来た中岡は、玄関先で龍馬と顔を見合わせていた。

「こがな所で何をやっておるんなが」

「何って、龍馬さんこそ」

 戸が開いたまま、暖簾の向こう側に立つ中岡と龍馬を見つけた白石は、何時もと同じく笑顔で中へ招き入れると、快く部屋を用意してくれた。

 二人が部屋で落ち着いた頃、簡単な夜食と、女中が膳を運んで来た。

 チラチラと揺れる行灯の灯が壁に影を作る。

「どうじゃった、高杉くんの容態は」

 雄雄しく咲いていた男の精気が弱々しく感じられた。それが堪らなく辛かったと、中岡は涙を滲ませて声を絞り出した。

「ほがーにわりぃのか」

「新鮮な空気がいいって、寒いにも関わらず家中の戸が開いてました」

 新鮮な空気と日光。おのうが高杉のためにと出来るのは、それくらいしかないのだろう。

「で、龍馬さんはなんでここに?」

「新撰組幹部がこっちへ向かっちゅうらしくてな、何か判ればと来てみたがやか」

 寒そうに体を丸めて、串で小さな鍋を突いていた龍馬は、見つけた鶏をニコニコ顔で刺すと中岡に差し出した。

「はっ? 新撰組が京を離れて? なんで?」

 いらないと龍馬の手を押し返し、代わりに顔を突き出す。

「ほがな事、わしに判るはずがないろう」

「そりゃ、そうですね」

「ほれと、会津の大殿さんが辞職を願い出たらしい」

「あらま。あ、だから新撰組が?」

「大騒ぎとなっちゅうらしいが、幹部の動向が、必ずしも辞職と結びつくものとは思えやーせん」

 京の守護に当たる新撰組幹部が、そんな騒ぎの中でわざわざ西国へ出て来るのには、それなりの理由があるとしか思えない。

「あ・・・」

 薩摩藩邸で、新撰組が荒れるぞと言った大久保の言葉を思い出す。

「どうかしたがか」

「いやあ、まだはっきりとは・・・様子を見る必要はありますね」

「ほうじゃの」

 親指の爪を噛み、なにやら物思いに耽ってしまった中岡を横目に、龍馬は小鍋をまた突き始めた。


 伊東が西国へ立つ。

 そう近藤が隊士に告げたのは二日前だった。

「最初の目的地は大宰府だそうだ」

「大宰府?」

 そこには京を追われ、長州へと落ちた七公卿が居る。その内の三條実美は長州と深い繋がりのある公卿である。薩摩の動向が気になる中、長州びいきの公卿に会いに行く裏には必ずなにかあると、土方は追跡の許可を近藤に出していた。

「だがなあ」

 近藤はひたすら渋るばかりで、要領の得ない返事を先ほどから何度となく繰り返すばかりだ。

「局長であるあんたが、伊東に肩入れいてどうするよ」

「べつに肩入れなどしてはおらんさ。今回の遊説は、松平殿が許可を出されたんだ。脱退した訳ではないのだから-」

「その松平殿は辞職を申し出てんだろうが!」

「しっ! 声がでかいぞ、歳」

 隊士に動揺を与えるわけには行かない。

 辞職を取り下げてほしいと直訴へ出向いた時、近藤を幕臣へ取り立ててもらうよう働きかけると松平が申し出た。新撰組を抱え、京の守護を自分が京都守護職を辞しても、近藤が幕臣となれば新撰組の進退を危ぶむ恐れはなくなる。

「伊東さんの目的は西国の情勢を探る事だ。新撰組幹部が何かしらの情報を掴んだとあれば、幕府も功績を認めてくれると言うもんじゃないか」

「そんなに甘くねぇと思うけどな」

 土方の伊東嫌いは筋金いりで、近藤としては困る事が多い。会津藩へ伺い出るようになってから、近藤の顔は他の藩にも知られるようになった。夜、酒の席で時世を語る事もしばじばとなり、学問に傾倒した事のない近藤にとっては、伊東という学者肌の幹部の存在は迷惑どころか歓迎すべきものになっていたのである。

「歳よ。おまえももっと学問を習うべきだ。いいぞ、学問は。私も色々な方と論じる機会も増え、これまで知らなかった局面を見る事ができるようになってきた。伊東さんの学識があればこそ、私も堂々と出向いていけるんだ。そこをもう少し配慮してくれると助かる」

(なにが学問だ)

 武士には両腕があればいい。学問で志士が斬れるか。土方だけでなく、そう思っているのは沖田も同じだろう。その考えは山南を追い詰めるまでに至り、伊東を毛嫌いする動機ともなっている。

「あんた、いつから武士を辞めた?」

「辞めてなどおらん。今の武士には学問も必要なんだ、おい、歳、まて!」

 ピシャリと障子を閉めて出ていってしまった土方に、ため息をつく。

「あいつに、柔軟のかけらでもあればいいんだがな」

 翌日、土方の西国行きの許しを得た近藤は、護衛として伊東の後を追う許可を出した。


 京へ舞い戻った赤井は、勝が出歩いている隙を見て西本願寺の屯所へと足を運んた。無論、勝の承諾はない。

「あれ、土方さん?」

 もうすぐ屯所というてころで、旅装束となった土方を見つけ急いで駆け寄った。

「赤井? おまえ、戻って来たのか?」

「いや、その。勝さんのお供で・・・それより、どこへ行くんですか?」

「西へちょっとな」

 服装から、京の西、というのではなく、西国だと踏んだ赤井は同行を申し出た。

「勝殿と一緒なんだろ?」

「崩御だってあちこち走り回ってますよ。俺が居たってなんもできないし、勝さんだって西の情報は欲しいでしょうから」

「それはてめぇの道理だろ。唐街道の山崎に東屋って旅籠屋ある、そこで朝まで待っててやるから、ちゃんと勝殿の許可を取って来い」

 それを過ぎれば置いて行く。そうは言わなかったが、朝までと口にしたからには、宿場が開くと同時に発ってしまうだろう。

 急いで勝の所へ駆け戻ったが、許可を取る相手はまだ帰宅していなかった。

「すいません、勝さん」

 急いで旅支度を整えた赤井は、置手紙を書いて勝の部屋の障子の隙間から中へ落とした。


 山崎宿は摂津国と山城国の境に位置し、南北一五町ほどに、中小の旅籠屋が八軒ほどしかない。丹波街道の基点ともなっていて、東寺口から向かう道と、伏見宿から向かう道の二つがある。京から山崎宿までの道を唐街道と呼び、ここから西間宿までの九里二町を山崎街道と呼ぶ。

 正確に西国街道と称されるのは、尼ヶ崎を第一宿場とし、西宮を経て大里(だいり)へ至る道五十一次、百二十五里十八町(約489km)である。

 山崎宿の構え口で東屋の位置を尋ねた赤井が、土方の居る部屋へと入ったのは日が落ちてからのことだった。

「案外はやかったな」

 にやりと笑って口をでた声には棘がある。

「その顔じゃ、どうせ勝殿に内緒にして来たんだろうが、おまえ、手形あるのか?」

「あっ!」

「馬鹿が」

「まずいっすよね」

「これを使え」

 土方は懐から手形を一枚取り出すと、畳へ放り投げた。

「げっ」

「連れてく予定だったが、熱があってな」

 その熱が労咳によるものかどうかは不明だが、体調が芳しくないのは土方の顔を見れば聞かずとも知ることができる。

「今からおまえは沖田総司だ」

 うへっ、と声にならない声を発した赤井に、飲めと酒を差し出した。


 上洛し、乾との謁見を終えた小笠原は、福岡と行動を別にし、薩摩藩邸を訪れると大久保に面会を申し出ていた。

「あいにく、大久保様は所用にて藩邸を留守にされております」

 戻るのは何時かと尋ねたが、答えてはくれなかった。

(仕方あるまい)

 幕府の命に従わず長州征伐に参加しなかったあの時以来、土佐の者が表立って薩摩藩邸を訪れる事はない。倒幕にと駆け回る志士達の他は、であるが。

「日を改めて参ります」

 しかし、小笠原が以後訪れる事はなかった。

 薩摩を訪れた福岡によって、志すものが長州や薩摩の抱く思想に近いものであると容堂に注進され、小笠原は職を解かれてしまった。薩摩来訪の前に、上役に就く者が倒幕などに傾倒していると知られては、土佐に巣くう志士達を煽る羽目になる、そう考えての処置だった。

 また、龍馬と中岡の赦免を申し出てきた福岡は、その理由を「海援隊と陸援隊を土佐に取り込み利用する」とし、薩長に引けをとらない軍作りができるとした。容堂もそれ相応の力は必要だと考えていると知っての提案だった。たった二人の赦免で自軍の増強と、志士らの暴動回避ができるのならば益はあれど損はないと、脱藩罪恩赦の命が下った。

 数日後、「郷士御用人権平之弟坂本龍馬 北川郷大庄屋源平之倅中岡慎太郎之脱藩ニ於赦免申付」との報せが、周旋方の役に就けとの沙汰と共に届けられた。

 

【桂木さんには話しておきます】

 和奈から、高杉が告げた言葉を聞いた武市は、「志を受取る覚悟」の意味を、独りとなった家で考えていた。

 高杉の志は倒幕だ。無論、長州と薩摩の目的と同じである。それを和奈に受ける覚悟をしろと言った。つまり、意志を継げと言う事に繋がる。

 だが、と武市は苦渋を作る。

(今の世に生まれたのでないのならば、その必要などありはしない)

 それだけでは片付けられない。何しろ、和奈の魂は吉田松陰の魂かも知れないのである。それが真実ならば、どう説得しても言われたままに受けて入れてしまいそうな予感がする。

(だめだ。それは、絶対にさせられぬ)

 高杉が何と言おうと、刀を捨てさせ、女子としての人生を村木家で歩ませるより他に無い。

 武市の出した結論である。

「それが、あいつのためになる」

 行灯の明かりに照らされた室内がやけに寒く感じられた。

 京で和奈と出会い、剣術の指南を始め、大津から長州に逃れて来て数年。いつも近くに感じた気配が無い。

「先生」

 襖の向こうで畏まっているだろう以蔵を思い浮かべながら、武市は顔だけを向けた。

「田中さんから報せがきました」

「何と?」

「新撰組が京を発ち、小郡へ入りました」

「新撰組がか?」

 今頃なんの理由で。

「そのまま街道を西に向かうようですが」

「・・・それで、誰が出た」

「参謀の伊東甲子太郎と、諸士調役兼監察の新井忠雄の二名」

 どちらの名にも聞き覚えはなかった。

 幹部職に在る者が今の期、なにゆえ西国へと発つ必要があるのか。

「あと、その二人の後を追う様に、土方と沖田が京を出ています」

「なに?」

 おもむろに立ち上がった武市は、ゆっくりと襖を開けた。

「確かか?」

「はい」

 何かある、と思ってみたところで、その理由を知るには情報が少な過ぎる。

「田中さんが調べるてみると、先ほど萩を発ちました」

 自分は、と問いかける眼差しが武市を捉える。

「まずは桂さんに知らせて来い。おまえを出すかはそれからだ」

 頷いた以蔵は、師が背中を見せたと同時に襖を閉めると、足音もなくその場から消えた。

 土方が京を離れた。しかも沖田も一緒と来ては、騒ぐ心を落ち着けられはしない。

「村木殿に頼んでおくか」

 和奈が事を知る前に、足止めをしておかなくてはならない。

 キリキリと傷む胃の辺りを気にしながら、村木家へと出向いた武市は、出迎えてくれた栄太郎から和奈の不在を告げられた。

「佐世様がお見えになり、急な用にて和太郎を連れて行くので、桂殿か貴方様が来たらこれを渡してくれと」

「佐世くんが!?」

 差し出された紙を受取った武市の顔色が変わった。

「桂木殿?」

 武市の様子から、ただ事ではないと悟った栄太郎の顔色が変わる。

 急ぎ礼を述べ、不安そうな栄太郎をそのままに、慌てる素振りを見せず玄関から木門を潜り出る。

(くそっ!)

 門を曲がった武市の足は、次第に駆け足となって行った。


 怒り心頭と立ったまま拳を握る桂の足元で、おのうが泣き顔を隠して肩を震わせていた。

「井上様が火急の用と来られて、夕餉の材料を整えようと出ている間に・・・」

「あんな体で何処へ行ったんだ、阿呆が!」

 普段は動揺しない松子も、今ばかりはおのうの肩を抱いて、怒りに顔を染めている主を見上げている。

 申し訳ありませんと泣く女性に、これ以上罵声を発しても意味がない。

 握った拳から力を抜くと、桂は長い息を吐き出し、松子に頷いてからおのうの側へと座った。

 今、高杉の身を一番案じているのはおのうなのだ。

「声を荒げてすまなかった。おのうさんは家へ戻っておいで。ふらりと戻って来るかも知れない。その時あなたが居ないと、晋作はまた家を飛び出すだろうからね」

「私もご一緒致します」

 駕籠を呼び、おのうと松子を長府へ送り出した桂の所へ、今度は以蔵が姿を見せ、新撰組の一件を告げた。

「次から次へと、何の騒ぎなんだ?」

「俺に聞かれても困ります」

「その伊東とやらが、長州に入ったのは確かなのか?」

「はい」

 どうするべきか。

「田中くんは今どこに?」

「すでに小郡へ入り、伊東に張り付いているかと」

「そうか・・・」

 新兵衛が動いているなら、いずれ大久保の耳にも入る。

(岡田くんを出すべきか)

 腕は認めているが、大久保の忠臣を一人で嗅ぎ回らせるておくのはまずい。新兵衛が、得た情報を全てこちらに渡すとも思えない。

「君も向かってくれ。桂木くんには?」

「伝えてあります」

「解った」

 以蔵はペコリと頭を下げ、くるりと背を向け走り出して行った。

「まさか、これを知って出たんじゃないだろうな」

 新撰組の件を聞いたとしても、一人で自由に動ける体ではない。井上が手伝う以外に外へ出る事は叶わない。

 おのうには気休めを言ったが、ふらりと戻って来るはずなどなかった。

「桂さん!」

 部屋の中へ戻ろうと踵を返した所へ、血相を変えた武市が飛び込んで来た。

「今日は厄日なのか?」

 以蔵を出した事の苦情かと眉を顰めたが、それでけで息咳切って飛び込んでくる男ではない。咄嗟に何事かあったのだと判断した桂は、肩で息をする武市の元へと降り立った。

「なにかあったのか?」

「和太郎が・・・」

「え?」

「佐世くんと発った」

「はっ? 発ったって、なぜ佐世くんと?」

 また佐世かと、桂は奥歯を噛み締める。

「馬を、借りたい」

 そう言いながら、栄太郎から受取った紙を差し出す。

 鼓動の音が耳の内側に鳴り響いている。

 渡された紙に目を通した桂は、一瞬目の前が白くなり足元をふらつかせた。

「危ないっ!」

 崩れそうに鳴った体を武市に支えられた、腕を掴んだその手に力を込めた。

「まったく!」

 玄関の床に腰を落ち着かせ、頭を抱え込む桂の前に屈む。見るからに疲労が蓄積しているのが判る。

「新撰組の一件を知って出たのか?」

「私もそれを考えたが・・・晋作は動ける体ではないと知っているだろうに!」

 今すぐにでも飛び出して行きたいのだろうが、自分の立場を弁えている桂にそれは出来なかった。例えそれが友の生死に関わる事だとしても、感情を制するクセはおいそれと代えようがない。それがストレスという反動を呼び、体力と気力をそぎ落として行く。

「ともかく、桂さんは動かず、体を休めていてくれ」

 普段から青白い顔が、より一層青く見えた。

「二人を・・・頼む」

「承知している。新撰組の意図は掴めていないが、念のため、堀くんか佐々木くんの隊を山中宿で待機させておいてくれまいか」

「ああ、手配しておくよ」

 その言葉を聞き武市が駆け出して行くと、開けた離れたままの木門を、桂はしばしぼんやりと眺めていた。


 おのうの元から姿を消した高杉は、白石邸から小郡の草庵に居を移した望東尼の所へ行きたいと、なかば威し気味で訪ねて来た井上に頼んだ。

「今生最後の頼みだ。聞いてもらわねばこの場で腹を切る」

 そう笑顔で言われてしまった井上には、断る言葉など浮んでこない。

「ほんとに無茶な男だ」

 仕方ないと苦笑した井上は、半日を過ぎたら桂とおのうに連絡を入れる。そう了承させてから、馬の用意をと出たその足で桜山の調練場に寄り、萩に宿所を置く干城隊の佐世へ伝言を出した。佐世から報せをもらった桂が早馬を出しても、高杉の元に着くまでにたっぷりと時間がかかる。半日を過ぎたら知らせると言う約束を、違える事にはならないと考えた。そして言われたとおり高杉を通り連れ出したのだ。

「黙って出てこられるとは、困ったお方です。今頃、皆が大騒ぎしておりますよ」

「駄目なんです」

 望東尼は首を傾け、辛そうな顔で俯いている高杉の横顔に、何がと問いかけた。

「あいつの傍に居ると、俺はどうしても不甲斐ない男になってしまいます」

「つい、弱音を吐きたくなってしまうのでありましょう?」

「これは・・・あなたには敵いません」

 微笑を浮かべた尼僧は、井上から手渡された薬湯を溶いている。

「望東尼様、それはもうよい」

「なりませぬ。無茶をなさった上、投薬もせなんだとあっては、桂殿に顔向けできませぬ」

 しとしとと、一刻前から外は雨となっている。

「・・・・・皆が、普通に俺を訪ねて来てくれます。小五郎でさえ、いつもと変わりなく、政の話しをしに来てくれる」

「良き事ではありませぬか」

「ええ。だが、嬉しい反面、悔しい想いも募るばかりで・・・あいつの笑顔を見ていると、どうしようもない想いが湧き出て堪らなくなります」

 何を言うでもなく、望東尼は薬を溶いた湯を高杉に差し出す。

 母親を前にした子供の様に、高杉は受取った湯飲みを見下ろし一気に喉の奥へと流し込んだ。

「さあ、少しお休みになって下さいませ」

「その前に、そこの荷物から筆を取っては頂けませんか」

 指し示された荷物を振り返り、手許に引き寄せると中から道具箱を取り出し蓋を開ける。

「墨を磨りましょう」

 硯箱を取り出し、竹筒にはいった水を"海"に注ぎ入れると、ゆっくりと墨を磨り出す。

「この赤間硯は、ほんに良い品でございますね」

 墨を磨る手がなだらかに上下している。

「お気に召されたのなら、差し上げます」

「いいえ、結構です。まだお使いになられましょう」

 その言葉に対する答えは返ってこなかった。

 磨って行く墨が、水と交わり海の黒をさらに濃い黒へと染めて行く。

「不思議なものです」

「この世に不思議などございません」

「それこそ異な事です」

 そうでしょうか、と望東尼は笑った。

 筆の用意をし、床についた高杉に向き直るとその体を支え、ゆっくりと体を起こしてやった。

(随分と軽くなられたこと)

 剛毅盛んに駆け回っていた頃の凛々しさはすでになく、わずかに感じる重みがその生を確かなものと感じさせるばかりになっている。

「お手を煩わせます」

 硯の海から墨を筆に含ませ、陸で均すと、高杉は短冊の白い空間をしばし見つめた。

「真っ白な紙は、生まれたての赤子と同じです。如何様にも染められる」

「良き者たちと染め上げた人生です・・・何を迷うこともないのですが」

 ふと、師である松陰の言葉が声になり耳に聞こえた気がした。

 三十歳になる私の中には、四季がすでに備わり、花を咲かせ、実をつけていると信じている。それが単なる籾殻であるのか、成熟し終えた栗の実かは私の知る理ではない。

 もし、同志諸君の中に、私のささやかな真心を憐んで、受け継ごうという者が居たならば、蒔かれた種が絶えることなく、穀物へ実って行くのと同じく、収穫となった年に恥じない事であろうと想う。

 昨年末、白石邸で書いた上の句で、下の句が出てこないとそのままにしてあったのを思い出し、高杉は静かに筆を走らせた。

【おもしろき こともなき世に おもしろく】

 ふぅ、っと吐息を一つつき、高杉は短冊と筆を望東尼に手渡す。

「ずっと下の句を考えておりました」

「見つかりましたか?」

「いえ。しかし、我が志を託した者が、下の句を紡いでくれましょう」

「ならばそれまで、下の句は私が詠ませて頂いてもよろしゅうごいますか?」

「構いませんとも。いや、嬉しい事です」

 高杉が書いた上の句に続けて、望東尼は短冊に筆を走らせた。

【すみなすものは 心なりけり】

 人の時に生きる者すべて、心の在りようで面白くも辛くもなる。

「これはきつい」

 そう笑う高杉の顔は、望東尼のよく知る高杉晋作の顔だった。

「何事も心次第にございます」

「私は、この国の未来がどうなって行くのかと考えるのが楽しみでなりませんでした。現実は大変だというのに、です」

 過去形で一息ついた男は、穏やかな表情で望東尼を見返した。

「ええ。私も楽しみにしております」

 苦笑を浮べ、困ったと頭を掻く。

「おや?」

 二人は口を閉じて耳をそばだてた。人の声がかすかに聞こえた気がしたのだ。

「誰かおられませんか!」

 二人は顔を見合わせた。

「まさか、井上の奴、もう知らせたのか」

「それにしては、早くありませぬか?」

 望東尼は腰を上げると、廊下を静かに歩き玄関へと出て行く。

「どちら様にございましょう?」

 二人の男が、出てきた望東尼を見て頭を下げた。怪我をしているのか、片方の男は抱えられた状態で立っている。

「申し訳ありません。この辺りで民家らしき建物がこちらしかなく、不躾とは存じますが、休息させて頂けないでしょうか」

「そちらの方、怪我をなさっておいでなのでは?」

「はい。雨を避けようと街道から脇へ入ったんですが、道に迷ってしまって。どこかに民家はと、探す途中で小さな崖に気付かず、足を踏み外してしまったんです」

「それはお困りでしょう。一室をお貸し致しますゆえ、そちらで休まれると良いでしょう」

「ありがとうございます!」

「この家には病人が寝ておりますゆえ、この部屋からは出られぬようお願いします」

「あ、申し訳ありません」

「何をおっしゃいます、困った時はお互い様でありましょう。今手桶を用意して参りますので、お待ち下さい」


 佐世の駆る馬を目の前に、和奈は武市に無断で出て来た事をあれこれ考えていた。

(やっぱ、まずいよあ)

 桂にどやされる、で済めばいい方だろうと佐世は馬を走らせながら、戻った後の心配をしていた。

「なんでじっとしてないんだか!」

「あっ!? なんか言ったか!?」

 風が勢い良く後ろへ流れていくせいで、前を行く佐世には和奈の声がちゃんと届いていない。

「なんでもありません!」

 井上から報せを受けた佐世は、急いで桂に伝えなくてはと屋敷を出たのだが、武市の家へ向かっていた和奈とばったり出会い、どうしたのかと聞かれて、つい高杉の事を喋ってしまったのだ。

「桂さんは疲れてるんです、僕が行きます!」

「っても、桂さんに伝えんとまずいだろ」

「善は急げって言葉があるでしょう! 高杉さんは何処へ行ったんですか!?」

 そう迫られ小郡だと言うと、行くと走り出した和奈を一旦引き止め、共に出かけるとだけ栄太郎に伝えて萩を出た。

(桂さんに伝えるべきだったよな)

 後ろから付いてくる和奈を気にしながら、栄太郎が桂か武市へ知らせてくれる事を祈るしかなかった。

 雨雲が空を覆い始め、やがて小雨が地面をぬらし始めた。後から、桂の家を出た武市が追いかけて来ているとも知らず 、二人は休む事なく馬を走らせた


 足の手当てを済ませた望東尼は、体が温まると生姜湯を二人に差し出した。

「このような辺鄙な場所に迷い込まれる方も、珍しゅうございます」

「不慣れな道と言うのに、先を急いで注意を怠りました」

 淡々といた土方の言葉に、江戸なまりを感じた望東尼は、どちらからと尋ねた。

「京より参りました」

「京から・・・お言葉から江戸の方かと思いましたが」

「生まれは武蔵国です」

 赤井はちらりと土方を見てから、望東尼に視線を戻した。

「しばらく痛むと思いますが、歩くのに差し支えはないでしょう。雨が止みましたら、この近くの村までご案内させて頂きます」

「いえ、道を教えて頂くだけで十分です」

「では、その様に」

 望東尼が部屋から出て行くと、土方は湯気の立つ湯飲みに手を伸ばした。

「なんで殺気を出したんです?」

「どんな反応をするか、見たいと思ってな」

「試したんですか?」

「尼僧が殺気に気付くなんざねぇと思ったんだが・・・あの尼僧、只者じゃねぇな」

 土方の殺気を受けて動揺どころか、眉一つ動かさなかった。

「気にし過ぎじゃないですか? 本当に解らなかったんですよ」

「いや・・・病人が居ると言ってたが、俺が殺気を出したた途端、向こうから気配が伝わってきた。だからあの尼僧は質問を止めて出てったんだ」

 気の一つでそこまで推測を立てられるものなのかと、赤井は驚くしかない。

「長州に入ってるんです。道に迷ったなんて、警戒されてもおかしくないですよ」

「本気で迷ったんだがな」

 癪に障ると顔を顰める。

「このまま大人しく出ていくべきか、それとも・・・」

 部屋の奥に居るという病人が気になって仕方がない。

「駄目ですよ、その足なんです。もし・・・」

 桂が居たら。と、赤井は続けそうになった。

(あの人なら気配を殺して、こちらの様子を伺うなんか朝飯前だろうな)

 万に一つの可能性であるが、怪我をしている土方では到底隊討ちなどできたものではない。無論、赤井は桂が居るなら討ちに出るつもりだった。桂も人間だ、一矢報いる隙は必ずあるはずである。


 廊下の向こうを気にしつつ、障子をしめた望東尼は、布団の上で胡坐を組んで座って居る高杉を見て、駄目ですと肩に手を置いた。

「こちらへは通しませぬゆえ」

「この距離で俺に気付く程の男です。望東尼様では敵いますまい」

「剣ばかりが武器ではございませんよ?」

 高杉の意識は二部屋隔てた先へと跳んでいる。

 一つの気に覚えがあった。

(この気は厳島で・・・)

 勝ではない。とすれば、残るは赤井しか居ない。

 死を目前にした必然の巡り合わせならば、隠された意図を探す必要がある。

「会うてみたい」

「いけませぬ」

 半着に紋はなかったが、大小を帯びているなら武士に違いない。それにあの身も凍るような殺気を放つ男は危険だと、望東尼の直感は判断している。

「返して下さらぬか」

 高杉の大小を袖に包んで抱え込んでいる望東尼に手を差し出す。

「なりませぬ」

 刀を持ったまま立ち上がった望東尼が、部屋を出ようと背中を見せる。

「戻って」

 高杉の声と同時に襖が開けられた。

「!」

 目の前に大きな胸があり、望東尼はゆっくりと上へと顔を上げる。

「邪魔をする」

「奥へは来られぬよう申し上げたはずです!」

 望東尼を押しのけた土方は、片足を引き摺るようにして中へと入る。その後ろから顔を出した赤井は、布団の上で座る男を見て息を飲んだ。

(高杉さん・・・だよな?)

 骨と皮ばかりとなった男は紛れもなく、高杉晋作だ。間違うはずがないのだが、その変貌振りに驚愕するしかない。

「無礼を、まずお詫び致します」

 形式上の言葉に、高杉が口端を上げて鼻を鳴らした。

「他人の家を勝手に歩きまわっておいて、無礼を詫びるもないだろう」

 病人とは思えない気迫を纏う男に興味を覚えた土方は、刀を腰から抜くとその場へ座り、刃を内側にして右手へと置いた。

「改めて、無礼をお詫びしたい」

 手を付いて頭を下げるその後ろに、赤井も腰を落ち着ける。

「望東尼様。その様に立っておられず、座れるといい」

「しかし、谷様」

 首を振った高杉にため息を零す。

「ほんに困ったお方です」

 ただ座って居るのも辛いはずなのに、そんなことはおくびにも見せず、まっすぐ自分を見据える土方を笑みを浮かべ見つめている。

「俺は谷梅之助だ。あんたは誰だ?」

「土方歳三と申す」

「ちよっと!」

 変名でなく、実の名を口にした土方に赤井が慌てた。

 この小郡を含む周防国は毛利家の両国である。萩往還も近くに縦断しており、長門と周防の国境ということもあり、諸隊による警備の目も厳しくなっている所だ。いわば敵陣のど真ん中に、たった二人で乗り込んでいる形であり、そこで名を晒すと言う事は危険極まりない行為と言える。

「あんたが土方か、変わった奴だな」

 奇想天外な行動を看板にしている男に、変わっていると言われたくもないだろうが、土方はまだ目の前の男が高杉だとは気付いていない。

 ただ、高杉の後ろにすわる望東尼だけは、その名を聞いて顔色を変えていた。

「で、これから何処へ?」

「それは申し上げられん」

「京都を守護する新撰組がお家を出てきたんだ。それ相応の事があるんじゃないのか?」

(高杉さん、何考えてんだよ)

 職務質問じみたやり取りに、肝をひやひやさせているのは、自分と高杉の後ろに居る尼僧の二人だけらしいのは、当事者二人の落ち着き払った態度を見ればわかる。

「俺も随分と有名になったもんだ」

「謙遜はいらん。あれだけ京で空き放題人を斬っている集団だ。しかも、芸州では幕府側で暴れてくれたんだ。嫌でも覚えるだろう」

「そう言う貴方は、誰なんだ? 谷梅之助って名も、どうせ変名だろう?」

「悪いが、答えてやる義理はない」

 膝を一つ叩き、破顔一笑する男に、土方は不思議と怒りを覚えなかった。それよりも、豪胆にして豪快な態度に半ば呆れ返ってしまった。

「まあいい。足は崩せ、怪我をしてたんじゃあ、正座は辛いだろう。そこの後ろに座ってるおまえも、ここで取って食おうと考えてないんだ、気を楽にしとけ」

「谷様、後生ですから-」

「望東尼様も、抱えている物を刀掛けへ」

「しかし・・・」

 土方の右手には太刀がある。

「怪我の手当てをして頂いた恩もあります、ここでこれを抜く事はありません」

 望東尼は諦めたように吐息を吐き、床の間に置かれている刀掛けへと大小を乗せた。

「では、私は軽い食事でも拵えてまいりましょう」

「ならば、酒も少し」

 嬉しそうに、クイッと飲むまねをしてみせる高杉に、それはダメですと真顔で答え、望東尼はくすくすと笑いながら部屋を出て行った。

「やれやれ。酒の一つも自由に飲ませてもらえん」

「病、と聞いたが」

「ああ。見ての通り、食事もままならん体だ」

 縁側から入る風は冷たい。降る雨のしぶきも廊下を塗らしていると言うのに、雨戸を閉めてもいない。

 土方の脳裏に沖田の顔が浮かぶ。

「労咳を患っているのか」

 新鮮な空気とたっぷりの栄養。この時代、労咳を患ったもの者に良しとされている療法だ。

 高杉はただ笑っているだけで、答えない。

「寝てた方がいいですよ」

 厳島で咳に苦しむ高杉の姿を思い起こし、つい赤井はそう言ってしまった。

 怪訝そうに顔を向けた土方は、赤井と視線が合うと眉を寄せた。

「てめぇ」

「実は、その谷さんとは厳島で・・・」

 なに? と顔を戻す土方。

「勝殿がおまえを護衛と連れて行ったってのは、厳島か」

「ええ、まあ」

「・・・勝安房守殿と面識がある・・・才谷梅太郎に、谷梅之助ね・・・どうやら俺は、敵陣の大将を前に胡坐をかいてるらしいな」

 チリッと肌に殺気を感じた赤井は、自分の迂闊さを叱咤した。ここに居るのが桂なら、土方が刀を抜いたとしても止めはしないが、高杉となれば話しは変わる。

「幕府はもうすぐぶっ潰れる」

 いきなりの言葉に、土方の殺気がさらに強まった。

「おまえら新撰組も、命を懸けて幕府を守ろうなんて思ってはおらんだろう」

「俺が守るのは新撰組だ」

「ならとっとと田舎へ引っ込め。武士が武士たる時代は戦国の世で終っている。この時代に"侍"は不要だ」

「まだ終っちゃあいねぇよ。刀を持つ手がある限り、俺は俺の武士道を貫くまでだ。あんたも、己の志を捨てろといわれたら、できねぇと答えるんだろうがよ」

「ああ、その通り!」

(ほんと無茶苦茶な人だよなあ、高杉さんて)

「俺は御国の為に-」

 言葉の途中で口を押さえた高杉は、片手をつき、肩を振るわせ始めた。

「高杉さん!」

 腰を上げて一歩踏み出した赤井は、しまったと手で口を塞いだ。

「やっぱり、あんたが高杉晋作か」

 見るうちに咳が酷くなり、ぼとりと赤い塊が布団の上に落ちた。

 枕元に湯飲みと急須を見つけた赤井は、それに駆け寄ると白湯を注ぎ、高杉の肩を抱き起こし口へと湯飲みを近づける。

「飲んでください!」

「ゴフッ・・・」

 だが、咳の勢いが激しすぎて白湯を飲む事もままならず、咳と一緒に吐き出された血が湯飲みとそれを握る赤井の手を染めた。

「ど・・・け・・・」

 高杉の手が赤井を押しのけた。

 収まりを見せない咳に、土方もどう対処すべきか思案に暮れてた。沖田が労咳だと言っても、ここまで悪化している訳ではない。

 吐き出される血が着物や布団を染めていく。

「このままじゃ・・・あの人を呼んで来ます!」

 望東尼なら、この状況をどすればいいのか判るはずだと立ち上がった。

 その時、襖がいきなり開け放たれた。

「!」

「!?」

 開けたままの格好で立っているのは和奈だった。

「てめぇ」

 和奈は現状が解らず、赤井とその後ろで憤怒の表情を見せる土方を交互に見た。

「なんで赤井くんがここに・・・」

 そう言いながら土方に視線を戻した和奈の眼に、布団の上に倒れている高杉の体が映った。「た・・・かすぎ・・・さん?」

 血が布団を染めている。

 後ず去った赤井の動きに誘われ、その視線が血に染まった赤井の手を捉える。

「貴様ぁ!」

 ざわりっと、気が揺れた所で和奈は己の意識を手放した。

 抜刀と同時に赤井の体が不自然な形で後方へと流れた。和奈の殺気を感じた直後、土方が赤井の背中を掴み思いっきり引き戻したのだ。

「落ち着きやがれ!」

 ゆらりと体を揺らした和奈には、土方の怒声は届いていない。

「ちいっ!」

 刀に手を伸ばそうとした土方の足に激痛が走った。

「ぐあっ!」

 和奈の足が、土方の痛んでいる足首を力いっぱい踏んだのだ。

「くっ・・・そ」

 刀を両手で持ちなおし、庭へと逃れた赤井の方へ一歩一歩と足を進めて行く。

「おい! ちょっと待て!」

 あの時と同じだと、背筋が凍る思いで歩いてくる和奈を見据える。

「またかよ!」

 腰の刀を抜き、晴眼の構えを取る。

「よせ、赤井!」

 そう叫んだ背中に波形を感じ、土方は振り向く。

「なんだ?」

 馬を繋いでいたため、遅れて入って来た佐世は、状況を把握できず立ち尽す。その背後から、騒ぎを聞きつけた望東尼が入って来た。

「これは・・・なんとした事にごい゛ます?」

「止めろ!」

「え?」

「村木を止めろっつってんだ!」

 その直後、刃のぶつかり合う音が響いた。

「ちっ!」

 土方は刀を手を取ったが、踏まれた足首は動かそうにも言う事を聞かない。

「高杉!?」

 目の端で動いた影に目を向けた佐世は、それが高杉だと判り慌てて側に寄った。

「佐世・・・止めてくれ・・・」

 目を庭へと戻す。

「冗談だろう・・・あれを止めるなんて・・・」

 俺には出来ない。

 太刀捌きもそうだが、なによりこの殺気を放つ相手の懐に飛び込み、その剣を止める技など、佐世にはなかった。

 室内の動揺に我を取り戻すこともなく、和奈はただひたすら刀を振り続けている。

「こっ・・・」

 止めるのが精一杯だった。

 強くなりたいと、稽古を欠かした日はない。沖田を相手に、斉藤を相手にしてきたと言うのに、玖波で刀を交えた時となんら変わっていない。

 足捌きが数段速くなった。それに合わせて振られてくる刀の切り返しも速くなっている。

「冗談だろ!?」

 顔面に振り下ろされた刀を受け止め、鍔迫り合いとなって対峙する先に、なんの感情も浮かべていない和奈の顔がある。

(なんだ?)

 あの時とは様子が少し違う。赤井はそう感じた。

「佐世!」

 高杉が渾身の力を込め、立ち上がろうとその腕を掴む。その反対側から望東尼が高杉の体を支えた。

「無理だ、高杉!」

 この時、止めてでも桂に報せに走るべきだったと佐世は後悔した。いつ栄太郎に託した伝言が桂の所へ届くか知れたものではない。となれば、和奈を止める手立ては自分にも高杉にもない。

「あんた・・・動けないか」

 足を抑えていた土方は、刀を杖に立ち上がった。

「無茶を言ってくれる。この足で、村木を止めるなんざ、この俺でも難題としか言えねぇ」

「誰も居ないのか!」

 佐世が和奈だけを連れて来てしまっているなら、その問いは無意味に終る。

 再び咳き込み始めた高杉は、掴んでいた手から力を失い、その場へ倒れこんだ。

「高杉!」

 体を抱え込んだ佐世の耳に、大きな足音が聞こえた。

「!」

 振り返ると、隻眼の男が戸口に立っていた。

「桂木さん!」

 駆けつけてきた武市は、我が目を疑った。

 なぜ和奈が庭で赤井と斬りあって居るのか。そして、なぜ新撰組の副長がこの場に居るのか。ただ読み取れるのは、どんな経緯でこうなっているのか、問質す余裕はないということだけだった。

「村木を止めて下さい!」

 佐世の言葉で我に返った武市は、縁側へと走った。

 和奈の肩越しに、武市の姿を見つけた赤井は、一瞬、和奈の存在を忘れてしまった。

「馬鹿! 気を殺ぐな!」

 土方の声が耳に届くと共に、左腕に熱さを感じる。

「赤井っ!」

 よろけた赤井の体に、刀を振りおろさんとする和奈の姿が、やけに大きく見えた。

(斬られる)

 死を覚悟した瞬間、黒い影が飛び込んできた。

「あぐっ!」

 苦悶のうめき声と共に、和奈の体は武市の腕に沈んだ。

 九死に一生を得るとはこの事だと安堵した赤井は、熱さと傷みで疼く左肩へと顔を向けた。

「な・・・なんで・・・」

 上げた腕に付いていたはずの腕は上腕だけとなり、肘から下の下腕がごっそり無くなってしまっていた。

「う・・・うがあぁぁぁぁぁ!」

 刀を落とし、左腕を抑える赤井は、激痛に耐えかね地面へと転がり体をくねらせた。

「布を!」

 庭先に飛び降りた土方は、赤井の上に馬乗りになり、痛みで暴れる体を押さえ込む。

「早く!」

 部屋の片隅に置かれた船箪笥へと望東尼が走る。

 左肘で赤井の右肩を抑えその顎を掴むと、懐から出した手拭を丸めて押し込んだ。

「湯を持ってまいります」

 庭へと下りて来た望東尼からさらしを受取った土方は、肩口に巻き、一度強く引き絞ってから何度も巻きつけた。

「気を確り持てよ!」

 上半身を抱き起こし、腕を心臓より上へと持ち上げる。

 幕医である松本良順から、隊士が負傷した時の応急処置にと教え込まれていたのが、役に立った。

 (かまど)にかけてあったお湯を運んできた望東尼は、斬られた赤井の腕へとゆっくり掛けた。

「うぐっ!」

「我慢しろ、男だろうが!」

 血を止めても、傷口を殺菌しなければそこから膿み、やがで組織が壊死を起こす。そうなれば人体そのものにも影響が及び死に至る。

「無名異と蒲を混ぜた血止め薬です」

 小さな壺から手に取った膏薬を、傷口へと塗りこみ、さらしで包み再び縛った。

「近くに医者は!?」

「俺の馬を使え。小郡宿へ行けば医者がいる」

「小郡へは?」

「前の道を右に進めば街道に出る。それを左へ走ればいい」

 無駄だと思ったが、切り落とされた赤井の腕をもう一枚のさらしに包み、体を担ぎ上げた土方は、庭から玄関へと体を向けた。

「待て、忘れ物だ」

 武市が置きっ放しとなっていた土方の大小を持って、背後に立った。

「その首、ここで落とされたくなければとっとと失せろ」

「馬の礼だけは、言わせて貰う」

 片足を引きずりながら、土方は建物の影へと消えた。

「首とるって・・・えっ?」

「佐世くんが馬を貸したのは、新撰組副長だ」

「えっ・・・えええっ!?」

 武市は振り返り、気を失ったまま縁側で横になって居る和奈と、大量の吐血で意識を失っている高杉を交互に見てから、佐世の肩を叩いき、家の中へと入って行った。

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