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幕末奇譚 『志士 狂桜の宴』  作者: 夏月左桜
奇譚十七幕 会者定離
68/89

其之三 波乱の幕開け

 御所内侍所に於いて行なわれた国風歌舞(雅楽)に不調ながら出席した孝明天皇が、その夜から体調を崩し、翌日になって高熱を発し倒れてしまったのである。

 慌てたのは朝廷だけではない。

 第二次長州征伐で長州に大敗を記した幕府も、天皇の罹病(りびょう)の報せに血相を変え、急遽御所へ駆けつける騒ぎとなった。

「このような事態になって、長州どころではあらしまへん」

 御機嫌伺いと出向いてきた慶喜、松平容保を前に、二条斉敬は額を押さえた。

 藤原北家摂関家の二条家当主 である斉敬は、国事扶助として孝明天皇の補佐を行なっている公卿である。岩倉具視らとは敵対する位置におり、長州の処分問題を期に政務を取り仕切り、徳川宗家の相続に尽力するなど、親幕派公卿の筆頭ともいえる人物だ。

「ご心中お察しします」

「余の事はええ。問題は噂や」

 診察を行なった侍医は、発熱の原因は未だ不明だが、体に出だした発疹の広がりが早く、熱もそれに伴い高熱となっていると告げた。

「発疹、にございますか」

「宮内至る処で、不遜な噂がまことしやかに囁かれていると、ここへ来る途中耳にしました」

「ほんまに難儀な事でな。病床にお臥せにならはった御門の耳に届いてあかんと、侍医と信頼のおける女官だけしか配してまへんけど、悪い噂ゆうもんはすぐに広がってしまいます」

 ストレスを溜めていたのか、斉敬はその夜遅くまで二人を前に愚痴を零し捲くったのである。

 夜が明け、噂が駆け巡る中、再度の往診を行なった侍医は、数日前から腰痛や頭痛を訴えていた事と、雅楽に出席した時にも微熱を伴っていた事実から、孝明天皇が罹った病を疱瘡(天然痘)と診断した。

 回復の兆しを見せ、朝廷幕府が安堵したのもつかの間、慶応二年十二月二十五日、在位二十一年、三十六歳の若さで急死した。

 慶喜だけでなく、斉敬もこの訃報に耳を疑った。処方された薬で病状は落ち着いており、投薬を続ければ痘痕は残るが命には別状無いと侍医は告げていたのだ。

 言葉通り、熱も下がり始めた矢先の崩御に、毒殺でないかとの疑いが持ち上がり、食事を毒見した者すべてが取調べを受けたが確たる証拠は出て来なかった。噂だけが確かなものとして、公卿や幕臣らの口々を伝い広まって行った。

 噂は噂でしかなく、これ以上の混乱は無用と、崩御から四日後の二十九日、朝廷は大喪の礼を発した。


 慶応三年元旦の深夜。天皇崩御により暗い空気となっていた京の町に雪が降った。

 縁側に座り、肌を刺す寒気に白い吐息を吐き出した伊東甲子太郎は、雪が降り積もって行く庭を眺めていた。

「凍死でもする気ですか?」

 座敷の奥から声をかけたのは斉藤一である。

「困ったものですね。君には風流と言うものが全く解っていない」

 日本人にしては彫が深い面貌を持つ伊東は、美丈夫という言葉が似合う男の一人である。

 常陸志筑藩の藩士の子として生まれ、十三歳で水戸遊学に出た。そこで水戸藩士の金子健四郎より神道無念流を学ぶ傍ら、藩独特の水戸学に浸り勤王へと思想を傾倒させて行く。

 水戸から遊学期間を終え帰郷した伊東はその思想を持って江戸へ入と、深川佐賀町に在る、北辰一刀流伊東道場の門を叩いた。

 場主は伊東精一と言い、伊東はここで剣の才覚を現し免許皆伝を得るに至った。

 精一が没すると、遺言により伊東は娘婿として迎え入れられ、名実ともに伊東道場の道場主となった。

 道場を継いだ伊東の門下として通っていたのが、藤堂平助である。その藤堂からの誘いで新撰組へと入ったが、勤王派である伊東にとってそのあり方が頭痛の種となって来ていた。

「斉藤くんは」

 黒い丹後縮緬の羽織の肩越しに、顔だけ振り返らせた伊東は、新撰組きっての暗殺者を涼しげな目元で捉えた。

「人を斬るだけの人生に、己の生涯を費やせますか?」

 斉藤は動じもせず、剣士に似つかわしくない容貌の男を見つめ返した。

 明石藩で足軽の身分にあった斉藤の父山口祐助は、江戸の旗本の足軽として仕えた後、御家人の身分を金で買った。それ以来斉藤家は江戸に住んでいる。

 武士が元服するのは十五歳。斉藤も十五歳になる頃には大小を帯び、人並みの剣術を納めていた。その運が変わったのは十九歳になった時だ。旗本の一人を口論の末、斬る騒ぎを起こしたのである。息子の身を案じた祐助は、京で道場を開く友垣の吉田勝見に匿ってもらえるよう頼み込み、斉藤は江戸を離れた。この時より、山口一から斉藤一を名乗る。

 隠れ住み家となった吉田道場で、斉藤は剣術の腕を磨く事になった。元々運動神経は良い。教えればそれも教えた以上の事を修得する斉藤の腕を買った勝見は、道場の師範代に据えた。一刀技法や薙刀等の剣術に留まらず、軍法も吸収して行った斉藤は、江戸に戻り土方達と出会う事になる。

「俺には、剣の腕にしか頼るものがありません」

 ふっ、と柔らかな伊東の顔が更に緩む。

「君ならば、剣以外に生きる術も掴めるだろうに」

 斉藤はよく喋る男ではない。口は災いを呼ぶ種になると知っているのだ。

「いずれ武士が刀を振るう時代は終る」

 ピクリと斉藤の眉尻が動く。

「西洋列国を見たまえ。腰に差すサーベルは儀礼的な代物へと成り下がり、動かずとも相手を殺傷できる銃を幾万もの兵が手にしている。英吉利や露西亜は周辺諸国を植民地化し、その精気を吸い尽くし、魂までも蹂躙し文化を変えている。日本を日本として在らしめるには、藩だ幕府だと言う小さな囲いの中で、同属同士がいがみ合って居る場合ではないのだよ」

 伊東が勤王思想を持っている事は斉藤も知っていた。新撰組内で、近藤を慕う派と、伊東を慕う派が二分し始めている事実もある。新撰組当初からの隊士であるならば、新参者の伊東より近藤をとるべきであるのだが。

(尽忠報国の志あっての新撰組であるはずだ)

 君主に忠義を尽くして国家に報いる。国家とはすなわち日本であり、その日本の君主は会津藩主でも将軍でもなく、天皇である。

 だが、と斉藤は内心呟く。

(今の新撰組は闇雲に人を斬る)

 その相手の殆んどは幕府転覆を目論む志士である。

「君にも想う所があるようだね」

 俯いてしまった斉藤の顔から、伊東は瞬時に当惑を読み取ったのだ。

「一つだけ心得ていてほしい。私は何も新撰組が悪いと言っているのではない。その在り方に少し疑問を抱いているだけなんだ」

「在り方・・・」

「京守護職守松平殿の庇護を受け、新撰組は幕府の組織として成り立っている。徳川家に仕える会津藩が主である以上、新撰組が京の治安維持にと駆け回るのは至極当然の事。何故芹沢くんを粛清せねばならなかったのか、考えてもみたまえ。会津藩に捨てられれば、脱藩者や農民の身分である者達は路頭に迷う事になる。それを恐れ、狼藉の限りを尽くしていた芹沢くんの粛清であったはずだ。それがどうだい。今の新撰組は、芹沢くんそのものではないかね?」

「お言葉が過ぎる様に思います」

「おいおい。先程も申した通り、在り方について憂いているだけなんだよ。そこを取り間違えないでくれたまえ」

「・・・何故俺に?」

 そんな話しをするのか。

「剣のみに生きる末路は悲惨だからね。才ありと思えばこそ、君には多くを見、多くを知る術を学んでほしいんだよ」

 剣客としての斉藤一ではなく、一個の人間として接してくる伊東に、斉藤は言いようのない不安を覚えた。

「さて、と。明日も早い。今宵は是までとしよう」

 伊東は明日から、西国を巡る遊説に出る。

 第二次長州征伐後、薩摩と長州が不穏な動きを見せる中、偵察という名目で近藤が会津藩に届けを出し、許可されていた。

 しかし伊東の腹のうちはこれだけではない。

 このまま佐幕を貫く新撰組と袂を同じにしていては、身を滅ぼすのではないかという危惧を抱き始めている。また、伊東の根本には勤王思想がある。会津藩預かりであるにも関わらず日々志士狩りに明け暮れている近藤らに、失墜の念も感じている。

(所詮は烏合の衆に他ならない)

 武士たる者と、そうでない者とでは士道の捉え方が異なるのだと伊東は思っている。

 武士道は、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」と言われるように、忠義の為ならは死をも厭わない覚悟を持つことであり、士道は、いつ死ぬ解らないと覚悟して一時一時を懸命に生きる覚悟を持つことである。

 戦国時代の武士は、まさに前者の如く戦場を駆け抜けた。が、徳川が天下を取り乱世の世が終ると、山鹿素行により朱子学の儒教的な道徳観・倫理が武士には必要とされるようになった。仁・義・忠・孝の士道が主流となり、剣術のみならず、様々な学問の知識修得も欠かせなくなったのである。

 士道を重んずる伊東が、士道と武士道を取り違えている近藤や土方に相違を見るのは仕方のない事と言えた。

「では、これで」

 結局、何故呼ばれたのか解らないまま、寒気を体に纏わりつけ庭を眺める伊東をそのままに、斉藤は部屋を後にした。


 薩摩から帰国してからというもの、和奈は時間があれば書物を手にして縁側に居座る事が多くなっていた。

 朝の稽古を終え、朝食をさっさと平らげると自室にとって返し、桂から借りた本を手に一階へと下りてくる。そして武市が声をかけるまで、一心不乱に本へ目を走らせるのが日課となっていた。

 その姿を廊下の影から見つめていた武市は、背後に気配を感じて振り返った。

 剣豪の名にそぐわない仕草で歩み寄ってきた桂に、軽く頭を下げた。

 顔色が心なしか悪いように見える。

「少しは体を休めては如何か」 

 薩摩から戻って来て以来、桂は多忙な仕事の合間を見つけては、菊が浜にある武市の家に惜しげもなく通って来ていた。

「気遣ってくれるのは嬉しいんだが、色々とね」

「何かあれば直ぐに知らせる」

 肩越しに縁側を見た桂が言わんとする事を悟った武市も、ついと和奈へ顔を向ける。

「どうやら心配事は一緒のようだね」

 視線を戻した先で桂の目と合い、心の動揺を知られまいと、背を丸くして本を読みふける和奈の方へとまた顔を戻した。

「何の書物を読んでいるんだい?」

「山鹿素行の武教全書だ」

「孟子の次は山鹿素行か」

 桂の重いため息が耳に届く。

【君には責任があるな】

 大久保の声が脳裏に蘇る。

 確かに剣術の技を磨かせたのは自分である。そのせいで和奈が狂気を発する事になったとの自覚もある。だからと、何かができたわけではない。それが自分を苛立たせるようになってどの位経ったのだろうか。

「和太郎に字の手解きをしたのか?」

「いや」

 大津で手形を覗き込んできた和奈は、字は苦手だと首を引っ込めた。和歌や詩などの文字とは違い、楷書書きに近いそれすら読めなかった。

 字を読み解けなれば学問に携われないと、時々ではあったが、自分の読む書物を教材に読み方を説いた事がある。が、和奈の根気は半刻ともたなかった。

 読めるようになった理由は判っているだろうにと思いながら、武市も桂も沈黙しつつ、お互いの気を探り合う。

 ふいに和奈が顔を上げて、二人の方へ顔を向けた。

「小五郎さん」

 開いた書物に、笹で作った栞を挟んだ和奈は、バタバタと音を立てて駆けて来た。

「随分と熱心だね」

「佐世さんが、山鹿流なら山鹿素行だと、この本を貸してくれたんです」

 和奈は忙しく書の初頁を捲り、二人に差し出して見せる。

(余計な事を)

 表紙の左上に「武教全書」と書かれているのを見て、桂は泣き出したい衝動に駆られた。

 内題にも武教全書とあり、次ぎの行に「自序」と二文字の副題、「孫子曰兵者國大事死生之地存亡之道也不可不察也是千歳不易之格言也(孫子曰く、兵は国の大事にして死生の地存亡の道、察せざるべからず。この格言は永遠のものなり)」との書き出しで本文が続く。

 和奈が手にするのは安政五年に写本されたものを、さらに写本した複製品だ。紙も新しく字体が崩れていないため読むのには苦労はなかった。

「山鹿流は兵法だ。軍師でもないおまえが読み解く必要はない」

 素行は、九歳の頃から朱子学を学んでいたが、他の学問に触れるにあたり、朱子学に対し厳しい見解を示すようになった。その言動により、朱子学批判者として会津藩から締め出されるに至り、赤穂(あこう)藩預かりになった。ここで素行は赤穂藩士達に山鹿流を教えている。

 山鹿流兵法が実戦兵法と呼ばれるようになったのは、山鹿流を学んだ赤穂藩士達と家老大石内蔵助良雄らによる、吉良上野介襲撃事件からだ。主君浅野内匠頭長矩の仇と討ち入った事件である。

「面白いのかい?」

 この問いに和奈は眉を顰めて返答に詰まった。

「兵学におけるいわば教本だ。面白いと笑顔を見せられても困るんだけどね」

「どちらかと言えば、吉田先生の講義された物が好きです。あの、獄で書かれたあれです」

 松陰が獄中に在った時、囚人達を門下として講じ書いた「講孟余話」を言っているのだろう。

 筆まめ。その一言に尽きるほど、松陰は何でもかんでも書き留める癖があった。家に居ようが旅に出ようがその癖は収まらず、自分の抱いた感動や些細な事柄を丹念に記していた。

「文学に興味を持つのは良いと思うが、本来のおまえが身に付けなくてはならない教養もあるんじゃないか?」

 どういう意味かと首を傾げてしまう和奈から、桂は本を取り上げる。

「ねぇ、桂木くん?」

 そうして意味深な笑みを浮かべ、本を差し出した。

「私に振られても困る。和太郎に刀を渡したのは他でもない、貴方ではないか」

「反論はしないよ」

 和奈が狂に狂うと解っていたら、刀など持たせるものか。

 和奈が剣術を学んでいた。それが桂の見解を見誤らせたのは確かだ。

「ともあれ、おまえには女子としての教養も必要不可欠だ。書物ばかり読んでいないで、茶道の一つでも身につけなさい」

 と言われても、「女子としての教養」である、茶道や花道といったものが苦手なのだ。武市も無理強いすることはなかったので、自ら進んでやろうと考えないまま今日に至っている。

「やれやれ、困った。津和野から村木殿が戻られるというのに、さて、どうしたものか」

「あ・・・」

 落ち着いたら津和野に連れて行くと、以前言われた事があると思い出す。

「御船倉の近くに空き家があり、そこへ戻られると便りが来た」

 御船倉は藩主の御座船を格納した倉で、毛利家所有となっており、他に三槽の水軍船倉も並んで建てられている。松本川に面しているので、船の出し入れには難儀がない。

 倉の他、廻船問屋や船主の屋敷が立ち並んでいるこの一角は、河口と海が接する立地というのもあって、魚市場も多く、京さながらの賑わいを見せている。

「粗相をせぬよう」

 礼儀作法は剣術同様に必要だと武市から仕込まれているが、自信など端からない和奈にとっては、その言葉が恐怖となった。

「どうしましょう、桂木さん」

 半泣きの形相で詰め寄られても、武市にはどうしてやる事もできないのだが。

「四日後に伺うから、それまでにそんな顔をしなくて済むようにしておきなさい」

 桂の指示通り、それから三日の間、松子の元に預けられた和奈は袴を脱ぎ、立ち振る舞いや武士の子としての礼儀作法を教え込まれることになった。

 松子は、小浜藩町奉行の右筆木崎市兵衛の次女として、若狭の町に生まれていたが、藩で起こった事件に巻き込まれ閉門の処罰を受けた。その後、後摂家の一つ一条家の次男難波恒次郎養女となる。だが、難波家の家計は逼迫しており、加えて母と姉弟も養わなければならなかい松子を、三本木吉田屋から舞妓として出す事に決めた。難波の妻が元芸妓であったのも、芸妓への道へ進ませると決心させた要因だったかも知れない。

 京の町で有名な芸妓となった幾松は、桂と出会う。暫くは芸妓を続けたが、桂の懇願もあり土手町にある桂の別邸に、留守居役として母姉妹と共に移り住んだ。

「旦那さまは、あなたの事が心配でならないんですよ」

 大小の刀を袖の上から持ち、刀掛へと納める。

「人には得手不得手があるんです」

 歩きにくい。胸の下辺りが窮屈である。なによりも帯刀できない。頬を膨らませて何度そう愚痴ったか知れない。その度に松子に笑われたが、叱られはしなかった。

「やっぱり、袴で行きます」

「そしたら、私が叱られますね」

「松子さんは悪くないです。聞かなかったことにして下さい」

 慌てたのは和奈だけだ。松子は多少の事で動じはしない。新撰組から付狙われていた桂を匿った事もしばしばあり、抜刀した近藤を相手に啖呵を切れる度胸も持っている。

「桂木さまも、きっとそちらの方がお気に召されると思いますよ」

 その言葉に閉口してしまった和奈は、赤くなった顔を見られまいと顔を背けた。

 そして四日目の朝、菊が浜へと戻って来た和奈を、桂は渋面で見つめていた。その後ろで武市はやはりという顔付きで座って居る。

「こっちのほうが僕らしいと思うんです」

 自信満々と言う和奈に悪気はなかった。

「言い出したらきかぬ性質だ」

「まったく、おまえには敵わないよ」

「良いのではないか? 和太郎はすでに男として皆の前に出ている。村木殿が萩へ戻ってこられた以上、遅かれ早かれその耳に届く」

「段取り、というものがあるだろう? 養子の話しを持ちかけたのは晋作が挙兵する前なんだから」

 村木家当主栄太郎には、藩籍を剥奪された摂州の武家の息女で、養子縁組を受け入れてくれる家を探して欲しいと知人から頼まれた、としか伝えていない。京から出たら男装をさせる必要もなくなると考え、あえて告げなかった。まさか高杉が挙げた戦に参加する事になるなど予想できなかったのだから仕方がない。

 どう説明すればいいかと、着くまでの道で桂は悩むことになった。

 村木家の家は、建華寺、龍昌院など寺社が点在する寺町の東、下五間町に在る。武市の住む塩屋町とは同じ通りで行き来できる距離である。

「わざわざお越しいただいて申し訳ありません」

 客室で和奈達を出迎えた村木栄太郎は、加判役支配船手組士で役高三六石の藩士である。長州が内乱で騒然となっている中、妻を津和野の実家に戻し、御船倉の警護と管理に当たっていた。

 袴姿で現れた武士が、養女となる和奈と聞かされた栄太郎は、別段驚くでもなく、そうですかと笑った。

「失礼致します」

 栄太郎の妻、妙は入ってくると、皆にお茶を差し出し、主人の右手より下に座った。

「妻の妙です」

 何も言わず、微かな笑みを浮かべ、妙は手を付いて頭を下げた。

 まず桂は和奈の男装について侘びを述べた。

「桂殿が謝られる事はございません。高杉殿より事情はお聞きしておりますので」

「晋作から?」

 初耳だった。

「お聞きになっておられませんか」

「ええ・・・申し訳ありません」

 栄太郎は、妙との間に生まれた嫡子を幼子で亡くしている。それ以後、子宝に恵まれる事はなく、家督を継ぐ養子をと考えていたところに、和奈の養子縁組が舞い込んできた。

「家督を継ぐのは、なにも息子でなければならないとは思うておりません。婿でも良いのです。ですからお断りせずお受け致しました。妻も、息子と娘が一度にできたと喜んでくれております」

 呆気にとられ言葉を失っている桂の顔を、和奈は一生忘れる事ができないだろう。

「そう言って頂けると助かります。和太郎は小姓役を頂いておりますゆえ、村木殿も寄組から手廻頭支配の役について頂きます。沙汰はおって届けさせます」

 慌てて気を取り戻した桂は、儀礼的な言葉で誤魔化した。

 小姓役には役高百五十石が支給される。いわば昇進である。それに伴い、武市の家から村木家へ移り住む事になった。

「あなたが桂木殿ですか」

 話しが纏まり、たわいもない談笑の途中、栄太郎は隻眼の男に問いかけた。

「ご挨拶が遅れました。記録所役支配表番頭を務めさせて頂いております、桂木宗次郎と申します」

 そう名乗ったのはこれで二回目だと、内心おかしくなる。

 白札だった頃の自分はもうどこにも居ない。

「文武、どちらの才もある方と、佐世殿よりお聞きしております」

 また佐世かと苦笑するしかない。

 村木と佐世が既知であるのは、屋敷が近いせいもあるのだろうが、桂としては訝しまずにはいられなかった。

「今後も宜しくお願い致します」

 栄太郎は深く頭を下げた。


「元気そうだな」

 布団の中から、そう笑う高杉の顔はやせ細り、豪快な面影はなくなっていた。

(ここまでとは・・・)

 心中を察したのか、高杉の顔から笑みが消えた。 

「そんな顔するな、馬鹿が」

「高杉さん!」

「お、おう!?」

 眉を上げて半分起こり気味の中岡に焦る。

「高杉晋作ともあろう人が、何やってんですか!」

「何って・・・寝てる」

「見れば解ります!」

「おまえ、なんでそんなに怒ってるんだ!?」

 怒りは高杉に向かってはいない。高杉の体に巣食い、命を削っている病魔に向けられたものだ。

「怒りたくもなりますよ、まったく。お役御免になったって聞いて、暴れもせずこんな山中に引っ込んでるなんて、高杉さんらしくありませんよ」

「無茶言うな」

 十分無茶な事だと中岡にも解っている。いるのだが、どうしても我慢ならなかった。

「中岡」

「なんですか!?」

「・・・怒るなって」

「怒ってません!」

「一々怒鳴るな! 相変わらず五月蝿い奴だな、おまえは!」

 互いに怒り顔で睨みあっていたが、どちらともなく噴出し大声で笑い出す。

「俺の事なんぞ気にしなくていい。暴れたいだけ暴れさせてもらったからな。後はだ」

 片肘をついて上半身を起こした高杉は、中岡の鼻先を指差した。

「おまえが頑張れ」

「・・・・・」

「これから大変となるのは俺じゃない、小五郎だ。武市さんが居ると言っても、おまけがくっついていては、あいつの気苦労も堪えんだろうしな」

「おまけって・・・」

「それで十分だ。いいか、土佐の出方次第で時局は変わる。変転の鍵は坂本さんだ。あの人は俺たちと違って武力倒幕に必ずしも賛成ではない」

 言われるまでもなく、龍馬が平和的解決を模索しているのは知っている。幕府を見限っている点では同じだったが、根本にある志は違う。

 龍馬は幕府という檻を壊し、開国をなして日本を強くするための策を常に考えている。その新しい舞台で海外に目を向けようしているのも、海援隊の創設から伺い知れる。

 桂や大久保達とは、富国強兵という点で龍馬と意見を一致させているが、幕府の在り方については意見のすれ違いがある。薩長が望むのは、幕府を解体し、朝廷を頂点とした諸藩連立による新政の樹立である。

「俺も小五郎も、徳川家とその家臣らの参政はないものと考えている。が、坂本さんは違う。あの人にとって薩長同盟は、ただ単に幕府の崩壊に必要だったから手を貸したに過ぎん。それ以上は望んでないだろう。そこが問題となる」

「承知してます。俺としても、幕府を討つのは必要と考えてます。しかし、龍馬さんが語る未来図もまた、納得できるんです」

 やはり中岡は土佐人なのである。長州や薩摩が、戦国の世の終わりから耐え忍んできた歴史があると知ってはいるが、高杉や桂、大久保と西郷とでは根本的に異なるにのだ。

「だから頑張れと言った。坂本さんが敵に回れば、小五郎や大久保さんはそれを良しと見過ごす事はせんだろうからな」

 中岡の頬が引きつった。

「和太郎が居る居ないは別として、武市さんも小五郎と同じ方向へと進むのは間違いない」

「難題です」

「俺は中岡慎太郎という男を信頼してる。薩摩との同盟が成ったのも、おまえが存分に駆け回ったお陰でもある。ならば、最後まで駆け回ってみろ」

「高杉さん・・・」

「そんな顔をするなって。俺は十分暴れたと言ってるだろうが。ここに至って悔いはない」

 あるとすれば、桂の側で支えてゆけない不甲斐なさだけだ。

「先生は言われた。人の生死には、十年には十年の、三十年には三十年の四季がある。人は、生を受ければいずれ死する定めにある。だから短い命と嘆くのではなく、その時が何時来ても悔いがないよう一瞬一瞬を懸命に生きる覚悟と、いつでも死ねる覚悟を持ったねばならんと。俺はその言葉通りに生きてきたんだ、何を悔いることがあるものか」

 聖人君子であるはずもなく、辛い想いであるには違いないのだ。だが語る言葉には躊躇の欠片も感じられない。ここが高杉と言う男の凄さなのかも知れない。

「敵わないなぁ」

「この高杉晋作さまを越えようなんざ、十年早い!」

「百年でも無理そうです」

「おまっ・・・ったく」

 珍しく照れた様子で視線を外した高杉が、胸を押さえた。

「・・・っ」

「!」

 片手を突き出し中岡を制する。次の瞬間、激しい咳が口を出て来た。

「た、高杉さん!」

 呼吸も出来ないのではと思える姿に歯を食い縛りながら、後へ回るとその背中を摩り始めた。

「・・・・っる」

「え?」

「すぐ・・・収まる・・・」

 中岡の目に、布団に落ちた赤い点が映り、背中を摩っている手に力がこもる。

 咳が収まりだすと、枕元にあった薬湯に手を伸ばし、こぼさないよう喉の奥へと流し込んだ高杉は、見られまいと口を拭った後、後ろにいた中岡を手で遠ざけた。

「この薬が不味くてな」

 その言葉を和奈にも言った事があると、高杉は口端を上げて薄ら笑いを見せた。

「おまえに頼みがある」

 長い吐息の後、いつになく真剣な顔が中岡を捉えた。


 孝明天皇の崩御を受け、徳川慶喜が征長軍の解兵を朝廷に奏請した。解兵を決めたのは、長州に対する処罰を速やかにし、占拠された領地を解放させよと評議の場で詰め寄られためである。

 敗戦によって徳川幕府の権威は失墜し、負けたのだから長州軍門に下るべきだとの意見まで出る始末であった。各藩からの批判は相次ぐ一方で、結論を先延ばしにしていた慶喜は、喪に服すためとの理由をつけて解兵を奏請したのである。

 同じ頃、会津藩主松平容保が辞職したいと幕府に申し出て、これも騒ぎになった。容保が京守護職の解任を願ったのには、大火によって会津城下の半分を焼失した上、例年にない凶作で飢饉に民が喘いでいる。そんな状態で藩主が不在を続ければ、如何なる事態が起こるか判らぬという危機感を抱いたからであった。

 容保が辞職を申し出たと、顔面蒼白となった近藤が土方に告げに来ていた。

 血の気を失うのも無理はないだろう。新撰組は会津藩預かりの組織であり、正式な幕府の組織としては認められていない。容保が辞職すれば、後に就く守護職がどう新撰組を扱うのか判らないのだ。

「見廻組は幕臣で作られた治安組織だ。守護職に誰が就こうと進退を憂う事もない」

 新撰組を取り潰して困る事はない。その分だけ幕臣の数を増やせばいいだけの話しなのである。しかも、京市中においての評判は新撰組よりも良い。騒動を嫌う幕府が自分達を切り捨てるだろう事は目に見えている。

「なんとしても容保殿には現職に在って頂かねばならん」

「だからと、どうするって言うんだ」

 土方は半ば投げやり気味に返す。

「おまえは心配にならんのか?」

「何をだ? 隊士の保身か? 武士の身分を奪われることか?」

「ここが取り壊しとなってみろ、隊士の殆んどは職を失うばかりか、路頭に迷う。そんな事はさせられん」

 ふん、と鼻を鳴らした土方は、この世の終わりだとも言わんばかりに暗い顔で座る近藤に刀を突き出した。

「俺は副長だ。局長が無理難題を通すと言うなら止める権利がある」

「なにも無理難題を言ってる訳じゃないだろう」

「大方、容保殿の屋敷に出向き、辞職を止めるために腹を斬るとでも言うつもりだろうが」

 近藤は黙るしかない。まさに言われる通りの事をしようと考えていたのだ。

「馬鹿な考えで出向く前に、頭を使うんだよ」

「と、言うと?」

「その為に伊東がいるんだろうが」

 ああ、と近藤の顔が明るく輝いた。

「まさかおまえが伊東さんを頼りにするとはなあ」

「冗談言わんでくれ。俺は、利用できるんなら仇でもなんでも使えと言ってるだけだ」

 しかし便りとなる伊東は西国遊説にと京を離れている。

「辞職を申し出たと言うだけで、幕府がそれを認めた訳じゃない。この混乱だ、幕府が容認するとは考えにくい」

 土方の言う通り、天皇崩御と幕軍解体に騒然となる中での辞職は、朝廷にとっても幕府にとってもそうですかと首を縦に触れるものではなく、よって容保の辞職願いは議論されぬまま破却となったのである。

 近藤は胸を撫で下ろし、土方も伊東に頼らずに済んだと喜ぶ。

「しかし、なんでまた西国なんざ出かける必要があるんだ?」

「伊東さんの話しでは、薩摩の動向が今後鍵となってくる。幕府にとって薩摩の反乱は大きな痛手だからな。その視察を目的として、容保公も許可を出されたんだ、文句は言えまい」

「面白くねぇ」

 伊東が色々な方面で顔を売り、公卿の中にまで入り込んでいる。新撰組を語る時の席に、局長である近藤の姿はない。参謀の位置でありながらと、土方はその態度が気に入らない。

「伊東さんも新撰組を思って行動しているんだ。そう躍起になるな」

「・・・やっぱりあんたは甘いよ」

 だから自分が縄を締めなければならない。ここを守るために、近藤を守るために。

「赤井くんは元気でやってるのかなあ」

 人の気も知らずにと、土方は、どうだろうなと答えた。


 その赤井は、孝明天皇の葬儀に出席する勝に同行し、京の地を踏んでいた。

「すぐにでも西本願寺へ行かせてやりたいが、もうしばらくおいらに付き合ってもらうよ」

「俺が居てもできる事はないと思うんですが」

 けらけらと勝は笑う。江戸の男は笑う時も爽快である。

「おまえさんを預かると言ったんだ、それなりの箔はつけてやらねぇとな」

「箔、ですか?」

「多くの人と知り合うのは、多くの学問を習うのと同義だ。政に関われる相手と、既知になるのも必要なこった。おまえさんには、その両方をもって先を見定める力を養ってもらいてぇのよ」

 先を見定める。その言葉には桂の事も含まれているのだろう。

「荒れるな」

 京の青い空を見上げて、勝は悲哀の篭った声で呟いた。

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