其之三 流れの中
慶応二年十一月。
帰藩した後藤の命を受け、土佐藩士溝渕広之丞が龍馬を尋ね長崎へとやって来た。
「土佐は戦でも始めるとゆうがか?」
溝渕が来訪したのは小銃の購入の為である。その斡旋を海援隊に頼みたいと、渋々顔の龍馬を前に真剣な溝渕が土佐の実情を語った。
「長州征伐後、薩摩が長州に肩入れし武器や軍艦の購入を行なっちゅうじゃろ。両藩が蓄えておるんだ、陸援隊に武器を配備させ、土佐も追従せねばと乾殿が考えるのも無理はないろう」
溝渕はそう言うが、一橋派に組したとして安政の大獄に於いて謹慎の身となってから、容堂は幕府寄りを貫いてきたのだ。乾と後藤、佐々木も藩政の転換に乗り出しただけで、正面切って侯武論を退けた訳ではない。
「それがよお解らんき。もし乾殿が失脚となれば、藩政転換そのものがのうなる。そうなれば、回した銃が薩長に向けられる危険も出てくるがやないかね。幕府が強気に出て、薩長相手に戦でも射掛ける事になれば、イギリス、フランスも介入して来る恐れがある。そうなったら日本は終りぜよ」
「おまさんの言いたい事はよおく解っちゅう。けんど、土佐勤王党が壊滅し、厳しい執政下に置かれた郷士達の不満は溜まる一方やか。薩摩ばあでなく長州との関係を修復せんと動かす事で、乾殿は内乱勃発を避けようと考えちゅう。長州の様に挙兵を成功させるにゃ経験が足りん。知識も足りん。やき、両藩と交流のある陸援隊を軸に強兵を敷く必要があるんやか」
「内乱を避ける事は賛成やか。けんど、銃がいる事なんなが? 後藤殿が出たんだ。容堂公を説き伏せ、いずれ薩長と肩を並べる日も近いと考えちゅうが、強兵して土佐も幕府に喧嘩を売ろうちゅうつもりなんなが」
武力による倒幕に消極的であるにも関わらず、薩長に対して武器の輸送を行なっているのは溝渕も知っている。
「おんし、長州にも武器を手配してやっちゅうんろう。土佐へ回すのが駄目とはゆわせやーせん!」
そこを突かれては、追求をのらりくらりと交わしてしまう龍馬と言えど反論のしようがなかった。
「むさ苦しい顔をほがーに近づけるな。銃の斡旋、引き受けるから、ほきかまんろう」
説得に成功したと見た溝渕は、乗り出した身を下げると膝を一つ叩いた。
「ほれと合わせてな、乾殿は洋式兵団を土佐に作るつもりでおるぜよ」
「洋式兵団!? それみろ。やはり土佐は戦をするつもりながやないがか」
「阿呆を言え。薩摩も長州も精鋭部隊を抱えちゅうやか。土佐にもいると乾殿が考えてもおかしくはないろーう。」
「現に藩もその方向で動いちゅう。驚け龍馬。これについて側役の福岡殿が是要ると容堂公に注進したがだ」
「福岡殿がか!? こりゃあーたまげた! 今日は長崎に雪が降るがで」
福岡藤次は吉田東洋に師事し、参政として復帰すると大監察となった男である。
東洋が暗殺されるとお役御免を願い出て藩政かん離れていたが、武市の失脚により復帰すると、容堂の側役として藩政に従事していた。その男が藩内でも過激派とされる乾に同調を示したのだ、龍馬が驚くのも無理はなかった。
その福岡は、藩命を受け小笠原唯八と共に情勢探索のため上洛している。
「ほき公はどうしたがだ?」
「許可したちや。そればあがやない。おんしと中岡の脱藩赦免についても、後藤殿と走りまいゆうとの事だ 」
「慎太郎が復藩となるがはいいやか、わしはこのままでも不自由はないき必要ないぜよ」
「ほがなもん、わしにゆうな。とにかく、銃購入については正式に依頼書を書きゆうから、手配の方を宜しく頼むぜよ」
わずかに二年が過ぎただけなのに、剣術の試合で京都を訪れたのがもう何十年も昔の事の様に思えた。
縁側に腰掛け、赤井はどうしているんだろうかと、厳島で会った顔を思い出す。
大津で別れてから、龍馬の所で過ごして居るものとばかり思っていたのに、新撰組に入ったと知った時は本当に驚いた。
羽織を着て目の前に現われた時の赤井は、どこか落ち着かなく迷いが有る様に見えた。しかし、第二次長州征伐において芸州口で再会した時の顔には、一片の曇りも見受けられなかった。
赤井なりに考え、志というものを見つけたのかも知れない。
志はなんだと聞かれても、和奈にはこうだと確り答えられる言葉があるわけではない。ただ、この国の未来を変えようと言う人達の役に立ちたい、そう答える事は出来る。
だから、赤井を本気で斬るつもりでいた。多分、その思いは赤井も同じだろう。剣を交えた時に見た眼差しがそう語っていたのだ。
そして桂が赤井を殺すために刺客を送った事を知った。驚きはしたが、桂に憎しみや怨みを抱くことは無かった。心に沸きあがったのは、新撰組へ行ってしまった赤井に対する憤りだけだったのだ。
どうしてこうなってしまったのか、和奈には解らなかった。
「どうした?」
肩膝を立てた上に腕を組み、そんな事を考えていた背中に武市の声が届いた。
振り返り、ちょっと困った顔を見せてから、
「空、綺麗だなあと思って」
と、答えた。
「地面を見ていて、空の様子が判るのか?」
どうやら考えに耽っていたのを見られていたらしい。
「そろそろ、ここを発つ」
「用意はもうできてます」
「手早いな」
「さっき、高杉さんからも早く帰れって言われたところなんです」
「邪魔者は早々に退散しろと言う事だ」
高杉に許された時間はもうない。
招魂場で男性が語った言葉を幾度も繰り返し、志半ばで去らねばならない者に自分を重ねてみた。自分なら運命を呪うかも知れない。なぜ自分がと泣く毎日を過すかも知れない。しかし高杉はいつも最大限の努力を積み重ねて来た。死ぬ間際になって、悔いのない人生を送れたと笑って逝けるようにと、無意識に心の中で望んでいる。そう思えて来た。
そうして、高杉の死を受け入れている自分に気が付いた時、あの男性は松陰なのではないかと考えた。もしそうなら幽霊を見た訳だが、避けて通れない道を前に、一歩を踏み出すきっかけをくれた事に感謝しなければならない。
「桜が咲く頃、また来たいな」
「桜か」
苦笑しながら、また春に来ようと武市は言った。
「じゃあ、高杉さんに花見の約束をさせとかないと」
側に居て、その時が来るまで一緒に居たいとも思うが、その役目はおのうのものだ。邪魔をする権利は和奈に無い。
無意識に、腰に差した剣の絵に手をかける。その異物を見下ろし、上げかけた体を元の位置に戻して武市を見る。
「これから先も、この剣を振るって行こうと決めました」
武市は眉を顰めながら隣に腰を下し、剣を手にした和奈に、そうか、と答えた。
「何かを悟ったか?」
「そんな大袈裟な事じゃないです。長州の、小五郎さんの役に立ちたいだけです。ほら、僕は長州藩士ですから」
「無茶をしでかす前に止めなければならぬ俺の身も、少しは考えてくれると有り難いがな」
「う・・・はい。気をつけます」
「頼む」
愉快そうに笑みを浮かべた武市は、ああ、と言葉を続けた。
「ここへ来る前、白石さんの所へ伺った。望東尼殿がおまえに会いたいと仰っておられた」
「萩へ戻る前にでも、白石さんの所へ寄ってもいいですか?」
「萩には戻らん。桂さんより、そこで待てと言われている」
「そうなんだ。良かった」
武市は、以前よりも肩肘を張らず自然な態度を見せる姿に、変わったなと感じた。
高杉に対する態度も変わっていた。これまでは笑顔を作って接していたのが伺えたが、今を見る限り、腫れ物を触るような気遣いはなくなっている。自分が来るまでに、二人の間で何事があったのかは確かと思えたが、あえて聞きはしなかった。必要ならばどちらかが持ち出すだろう。言わないのであれば、知る必要はないと言う事なのだ。
「おかしなものだな」
和奈の顔が武市へと向く。
「帰らずにいてくれたと嬉しく思う心と、帰った方が良かったのではと思う心が、ここで喧嘩をしている」
トントンっと、武市は自分の胸を突いた。
武市の気遣いが、桂が見せる気遣いと違う事は、和奈にもさすがに判るようになっていた。
「ここに居て良かったと、私も思っています」
「帰るのが本来の筋、と言うものなんだが」
「人を殺めた私が、その罪を償わないまま帰ってしまうのは、その人の死を無駄にする事と同じです。戻っていたとしても、どう生きて行けばいいのか解りません」
「生きる術を見出すのは言うより容易いものではない。だが、どんな時代に在ろうと、十の内八つは辛さや苦しみだ。残りの二つに幸せと喜びを見出し生きる活力を得なくてはならぬのが人生と言うものだ。ここで経たものは、おまえが言う通り一生消える事は無い。何人たりとも、自分に課せられた罪から逃れられぬ。ゆえに、悩む葦となり生きて行かねばならぬ」
「悩む葦・・・か」
「どんなに惨めな境遇であろうと、死にも等しい辛さを味わおうと、生きる努力を惜しまず立ち上がって前を見続けなければならぬ。それが、人を死に追いやった事への供養ともなろう」
儚げに笑いながら紡いだ言葉は、自らを諭しているのだろうか。
「話しは尽きぬが、そろそろ高杉くんに挨拶をして来い」
「はい!」
謁見を終えた三日後、敬親は薩摩に答礼使を贈ると決定し桂に命が下った。
それを受けて桂は二つ、願いを敬親に申し出た。その返答の是非を聞いてから、薩摩行きを承諾したいと添えて。
渋りも、思案に暮れもせず、敬親はいつものように「そうせい」と一言で許可を出した。
赤間関行きの用意を整えていた桂の所へ、広沢兵助が尋ねて来た。
「敬親公はご許可くださいましたか?」
薩摩藩と同盟を組むに当たり芸州とも連携を図りたいと相談を持ちかけられ、桂も必要で有ると考えた。
敬親に申請した願いの一つは、芸州との同盟に動く許可だった。
「そうせい、と仰せられた」
「有り難い。では早速出立の用意をします。桂さんも、道中お気をつけて」
広沢の危惧は、長州藩士の危惧である。
裏で密約を取れ交わしているとは言え、気の荒い薩摩藩士だ。桂と知られれば事情を良く知らず、太刀を抜かぬとも限らないのである。
「それは心配ない。ちゃんと護衛は連れて行く」
桂小五郎に護衛ですか、と笑う広沢には、誰が護衛に付くのかはすぐに解った。
長州諸藩の間で、和奈と武市の存在は暗黙の内に広まっていた。
奇兵隊の山縣を始め、各隊の総監に一目置かれ、桂や高杉の所へも頻繁に出入りしている。その存在を疑問視する者は多く居たが、役職を与えられた武市の事を問質す者は居なかった。
小倉口での戦以後、剣術指南役として藩に仕えている以蔵と新兵衛についても同様である。
間者の可能性が皆無ならば、あえてその素性を調べる必要もないと広沢も思っている。
「では、某はここで」
広沢を見送り、脚袢で四肢を固めた桂は、紺手甲をはめた手で被り笠を持ち、空を振り仰いだ。
よく晴れた、雲ひとつ無い空が広がっている。
「薩摩か」
感慨深いものがあるのは確かだった。
長州が京より追われた頃、敵となった相手と手を取り合い、倒幕へ歩みを進める事になろうと 誰が予想し得ただろうか。
無念に消えた命の重さは、桂とて十分に感じている。その死を無駄にしてはならないと思うからこそ、恨みを飲み込んででも、明日を切り開いて行く必要があるのだ。
ふと、高杉の事を思い出した。
笑ってはいたが、痩せ細った体で、立つ事もままならなくなった男を見た時、泣きそうになったのを必死で堪えた。高杉が自分の死を受けていているのなら、、自分が泣く事は許されない。
「おまえの生があるうちに、幕府を潰してみせる」
その一念が、桂にとっての原動力だった。
暮れも押し迫った十二月五日。
この日、昨年八月に徳川宗家を相続したが、将軍職就任は頑なに拒み続けていた慶喜が、江戸幕府第十五代征夷大将軍へと就いた。
「圧されて就いたか、それとも何か心に秘めるものが有るゆえか」
大久保はいつもより増した冷淡な眼差しで、庭に落ちる月の陰を見下ろした。
長州との正式な同盟締結は目前となっている。薩長の軍を強いて幕府に対抗する姿勢を見せ付ければ、江戸幕府の瓦解は早まるものとの算段をつけていた。
問題は土佐藩の動きだ。
後藤が、龍馬の仲介で長州筆頭である桂と密かに会見を行い、公武合体であった藩政の転換に乗り出した。しかし、藩主山内容堂の考えは掴めていない。
この後、倒幕を推進める上で土佐の存在は如何様にも転ぶ。懸案となる前に、有る程度想定を立てて置かなければならないと、大久保は心中穏やかではなかった。これについては桂も同意見であるとも見ている。
「悩むよい、先ず長州の件を片付けうのが先決だ」
西郷が後ろから声を掛けてきた。
縁側に立ち、何事か思案している友の後姿を見ながら酒を飲んでいる。
「片付けるも何も、桂くん達は数日後にここへ来るではないか」
「そげん事は判っとう。同盟後の事をゆとうんだ」
「それについては悩むところではない。吉之助、土佐だよ、問題は」
西郷も馬鹿ではない。
大久保が懸念している土佐の動向は同じく気になるところなのである。だが、因縁の深い長州との間を公にする事は、藩の反応にも気を配らなければならない大事なのだ。
「下の者は良か。問題は上だ」
「案ずる事はあるまい。おまえが一言申せば良いだけだ」
西郷の人望は家臣の間でも大きなものだ。大久保が藩主の側役であろうと、薩摩藩の精鋭を御する力は無い。その事は大久保自身もよく解っている。だから西郷の言葉は絶対に欠かせないものなのである。
「時代が動くぞ、吉之助」
「そう仕向けたのは、おはんじゃなかか。何を悩む事もあうまい」
縁側から室内に戻り、西郷の前に座った大久保は、西郷の手から盃を取り上げ突き出した。
「長かったな」
注がれた酒を見下ろし、口端に笑みを浮かべて一気に盃を空ける。
「酒は今宵限りだ。私は、維新を成し終えるまで一滴たちりとも酒は口にせん」
心に決めた志を新たに、大久保は友の前でそう断言した。
その日から四日後、長州を発っていた桂が、答礼使として薩摩へと入った。