其之二 遠翠楼の夜
『廟堂原野評論を解く、勇功と智名とを称歎す、
勝ち易きに勝つは孫呉の術、秋豪名月は是れ精兵』
高杉晋作
「出できてもらって助かったよ」
止戦締結を約束した書状を、丁寧に懐へ仕舞い込んだ桂は、その言葉ににっこりと笑みを返した。
「頴敏の才をお持ちである方に対して、襖越しに隠れたまま、というのは無礼と思ったまでです」
そんな大層な男じゃないよと勝も笑う。
「どうだい、一席」
酒を飲むまねをして見せた勝に、井上がずいっと膝を前に出した。
「駄目ですよ、桂さん」
理由があって桂を引き止めようとしていると、井上は桂に注意を促しのだ。
止戦協定を結んだとは言え、まだ幕府は兵を引いていないのに、それでは仲良く酒を飲むには至らない。今回の戦争が終ったとしても、幕府対長州の図式は変わりはしない。
「おいらも数日後には戻らないといけない身だし、そちらさんもゆっくりしておられんのは判っているんだがね。帰りが一日延びたところで、日本がひっくり返る訳じゃないだろう?」
「有り難くお受けさせて致します」
龍馬が勝に赤井の素性を話したのではないか。そう疑念を抱いている。
もし勝が、龍馬から未来から来たと聞いて、何かしら思惑があり、京へ帰ったはずの赤井を連れて来たのだとしたら、その意図を知る必要があると、勝の誘いに乗る事にしたのだ。
「桂さん!」
腰を浮かし、半分怒った口調で井上が叫ぶ。
「桂木くんが居るから心配はないだろう?」
「ですが・・・」
桂木の腕も、桂の腕前も井上は十二分に知っている。が、幕臣がたった一人で敵陣に乗り込んで来るなど、到底考えられるものではない。だから井上は数日前から、山縣に頼んで奇兵隊数名を先行させ、桂の逗留する料亭の周囲を見張らせて居たのだ。結果、幕兵が随行している様子はなかったが、念には念を入れるに越したことはないと考えている。
「この二人も一緒で宜しければ、同行させて頂きます」
縁側に近い場所で殺気を放つ赤井に、緊張を崩せず座って居た和奈と武市の方へと、顔を傾げる。
「断る理由はないさ」
渋る井上と広沢に先に戻っるよう言い、和奈達は勝の逗留する遠翠楼へと場を移した。
厳島には、潮が満ちると社殿下部が海水に浸かる厳島神社が在り、台地から隔絶されたその光景は、最も幻想的なものとなる。
平安時代に建てられた厳島神社は、平清盛の援助を受け、かなりの信仰を集めていた。戦国時代に、厳島の合戦で毛利元就が勝利を手中に納めた時から、この島は長門・周防国の宝となった。
厳島の合戦でも、長州が少数でも戦へと赴く歴史を伺う事が出来る。
防長両国大名を暗殺した家臣、陶晴賢配下の兵三万名対し、元就は五千名の兵を持って知策を巡らし、最後には勝利を得た。
農兵こそ参加していないが、彼らの原動力が兵の数ではなく、その胸に抱く信念であるのは否定できない。集団指導体制を敷いた元就の手腕が、今日に受け継がれ、独裁体制を敷く藩との違いとなっていた。
桂と勝は、背後でそれぞれの想いを持って座る和奈と赤井の気配を知りつつも、緊迫した空気の中、平然と酒に手を伸ばしている。
「落ち着かねぇから、いい加減にその気をなんとかしたどうだい」
「和太郎も、出された物はちゃんと食べなさい」
出された膳に一つも箸を付けていないのは二人だけである。
「この状況では無理があるだろう」
武市はそう苦笑する。
「やれやれ。話しをする前からこれでは、その内鞘の中身を抜きかねないね」
そう言われても、桂に向けて殺気を放っている赤井を前にして、頂きますと箸を持てたものではない。
「あはははっ。こりゃあ飲むより先に話しちまった方が楽かも知れないねぇ」
勝は二本目の銚子に手を伸ばした。
「その様ですね」
「何とお呼びしたらいいかな」
「広戸孝助で結構です」
広戸は桂の変名の一つである。この他にも、臼田幸助や新堀松輔といった名を十種以上使い分けている。
「広戸さん、だね。色々と忙しい方の様だが、ここでその話しはやめとこうかい」
「ご配慮、痛み入ります」
国内とは言え、今は長州藩筆頭として藩政に携わる身だ。その桂が幕臣と仲良く酒を共にしていたなどと噂が流れては、今後の藩政にも影響がでるだろう。桂の名前は口に出来ないと勝は思ったのだ。
「さて、何から話したらいいかねぇ」
「話しの前に、一つ確かめておきたい事があります。勝殿は今、幕臣の身でここに居られるのですか?」
「そっちの用は済んだんだ、おいらは勝海舟として話していると言っとくよ」
それを受けて、桂は二人の事をどこまで知っているのかと問うた。
「修吾郎から聞いた話しは全部じゃないだろうが、ここへやって来て新撰組に入った経緯だけさ」
龍馬ではなく、赤井本人が口にした。と、桂は自分が抱いていた不安が、現実のものとなっている事に悲哀を覚えた。
(やはりこのまま幕府側に置くのはまずい)
そう改めて思ったのも無理はない。
「なぜ勝殿とその男がご一緒に?」
「修吾郎とは梅太郎を介してね。ここへ来る途中、京へ帰るこいつを捕まえたんだよ。話しを聞き始めたら何か様子がおかしい。だから話してみるかい、と聞いたんだ。なにせ、おいらはあいつから預かったとだけ聞いたただけで、複雑な身の上話しなんざ聞いちゃいなかったからね。正直、驚いたよ。ここは一つ、連れて行くがいいと、来たわけだ」
「それだけの理由で?」
「そう言うが、おまえさんはどうしてなんだい?」
そっちもだろう、と勝の目が和奈を捉えたが、そう返されても桂は答えられない。
やりにくい相手なのは確かだった。
「含んでちゃあ、先に進まないよ」
「本当に、貴方には適いません」
単身で敵国へ乗り込んでくるだけの度量も、知才も持ち合わせている。
「おまえさん、こいつを狙ったんだろ?」
論点を変えられた桂は表情を強張らせた。和奈には刺客を差し向けたとは話していないのだ。
「狙った?」
和奈が口を開いて桂を見たので、急ぎすぎたと勝は笑みを消した。
「今、俺は四番隊組長の任に就かせて頂いてます」
赤井の声に視線が集まる。
「俺がそれを受けたのは、前組長が切腹となったからです。その原因となったのは、楠という長州の間者が、貴方の命令で俺の命を狙った事です」
楠が松原の息子であり、我が子が赤井を狙って、新撰組内部の情報を聞き出し、見廻り中に襲撃して来たからだと告げる。
自分のせいで仲間が切腹となってしまった。だから赤井はその責任を感じ、桂に対していつでも斬る覚悟のまま、殺気を放っているのだろう。
「赤井くんを・・・狙った・・・」
桂を知る和奈には信じられない事だった。
「長州だけが懸念を抱いているのではない」
補足、という形で武市が言う。
「他にもいると?」
この武市の発言には桂も驚いた。
勝だけではなく、他にも知る人物が居る、と武市は言ったも同然なのだ。
「まさかとは思うが・・・」
それが誰なのかは、安易に推測できる。そしてその者に話した人物も。
「桂木さんも知ってたんですか?」
「・・・ああ」
知らされなかった事への悲しみは強いが、それが桂と武市なりの思いやりだとよく判る。
「世知辛い世の中だ。暗殺なんざ京では至極当たり前の行動になっちゃいるが、それを良しとする風潮は否めたもんじゃない」
「そう想ったからこそ、これまで自らの剣を抜くまいとして来ました。無論、他人にそれを命ずるのも、同じです。だが、この件は違う、事が大きすぎる」
「信じたんだね、時を超えて来たと」
「・・・そんなもの、信じるに堪えません。ですが万が一、二人の語る事が事実ならば、世の中が大きく変わる事になりかねない。良くとも悪くとも、それは自然の成り行きではないのです」
「だがあんたは、そこのお嬢さんを巻き込んでいるじゃないか」
痛いところを突かれ、あまり表情を崩さない桂の顔が苦悶に歪む。
「和太郎の持つ情報というものが、どれ程のものかは判りません。が、この子は話さない、そう信じています」
一度は疑った。なじりもした。が、今はその言葉に嘘偽りなどない。
「この世で私達と生きて行くと決めたこの子を、ただ受け入れているに過ぎません」
狂気については口にしなかった。話したとて、勝もその理の意味するところを説明できない、と思ったからだ。
「修吾郎は話す、そう考えなさった」
「はい」
肯定したのだ、赤井の命を狙った事を。
「だから俺は、あんたを斬る!」
赤井の体が動き、勝の脇を走り、抜いた剣を振り下ろした。
「っ!」
その剣を止めたのは、抜刀した和奈だ。
「おまえ・・・」
「手を、出すな!」
ぎりぎりと鍔迫り合いしたまま、二人は立ち上がる。
「剣を引け、修吾郎」
「できません!」
腕をつっぱり、赤井から離れた和奈は逆袈裟斬りで打ちかかり、袈裟返しで赤井はその剣を止める。
再び間合いを取り、打ちかかろうとした二人を止めたのは、勝と武市の剣だった。
「勝さん!」
赤井は手を思い切り打ち下ろされ、持った剣を畳に落とした。
「人を斬らせるために連れて来たんじゃねぇ」
落ちた剣を拾い上げた勝は、すっと柄を赤井に差し出す。
「じっとしてろと言ったはずだぜ?」
「おまえも下がれ、和太郎」
諭された和奈は、綾鷹を鞘へと戻した。
「おまえも聞き分けな」
友重の柄を持ち、きっ、と視線を桂に向けつつ、鞘へと納める。
「若いもんは、すぐ血気に逸っていけねぇ」
「その心も解らぬではありません」
新撰組でどのような生活を経て、赤井がその志にどこまで染まったのかは計る由もない。が、ただ命を狙われたからの暴挙とは考えがたい。
先ほど赤井の口から出た前四番隊組長の切腹と、なんらか関係があるのだろうと桂は推測した。でなければ、楠の話しだけで良いはずなのだ。
「人生、生きてりゃ理不尽な事に多々直面するもんだ。だが、その度に剣を抜いて片付けようとするのは、馬鹿者のするこった。まずはちゃんと話しをしてからにしな」
【それでも斬る必要が有ると思ったなら、そうすりゃあいい】
「だが、おいらの居るここではさせねぇよ」
「なぜですか!」
「言ったろ? おいらは個人としてここに居るんだ、話しをただするために。だのに斬り合いなんざさせたとあっちゃあ、後生の恥とならぁね」
「君が僕を斬りたい、そう言うのなら、止めてくれとは言わない。君にはそれを貫く理由があるのだろうからね。だが、勝殿の言われた事も至極最も。互いに居るべき場所に戻ってからにしてはどうかな?」
「許可してどうするんです!」
和奈が真剣に叫ぶ。
「もし、奴が広戸さんか谷くんを斬ったら、お前はどうする? 仇討ちと、駆け出してしまうだろう?」
武市はきっぱりと言い切った。
「・・・はい・・・そうすると思います」
「嬉しい言葉だが、僕としては仇討ちなど本意ではない。いいね、絶対にしてはいけないよ」
はい、とは答えられない。
「殺されるつもりなんかない。覚悟を受取るだけだから、心配なく。おまえに黙って、彼を狙ったのは事実だしね」
はっきりそう言葉にされた赤井は、ギリッと歯を噛み締めた。
「だが、途中から気が変わった。だから、彼を手負いにし、長州へ・・・おまえの所へ連れ帰ろうと考えた」
それで首を落とさず、背中を斬ったのだ。
「そちらさんも、何か事情があるようだねぇ」
「・・・ええ。かなり困っています。話したところで解決できる事ではないと思う故、控えさせて頂きますが」
狂気について赤井は何も知らないだろう。話せばなにか糸口が見つかるかと考えたが、勝にこれ以上、和奈の事を知られるのは良くないと思った。
武市の顔が襖に向き、桂と勝の視線も同じ方向を向いた。