其之四 厳島
矢掛を出た赤井と勝は、早籠で西国街道を備後国から安芸国廿日市宿へと向かっていた。
この辺りの西国街道は山が海岸へと大きくせり出しているため湾曲しており、海岸を通ることが出来ず山間の峠を越えなくてはならない。
芸州口へ征長軍が進行した道であり、地形的に戦略的に重要な地であったのだが、玖波まで後退した軍は、この地形を利用して巻き返しを図る事はせず、休戦を申し出ていた。
芸州口に待機していた遊撃隊の石川は、宿場に幕臣が来ているとの報告を受け、廿日市宿場へとやって来た。
「残念ですが、長州へお連れすることはできません」
勝と赤井を前にして、石川はそう告げた。
止戦について談義をするため、一橋慶喜の内命を受けて来たのだと言っても、長州へ入るのは容易ではない。 まして大勢を連れて来ては警戒されるばかりで、話しどころではないだろうと、勝は一人で大坂を発ったのだ。
「今藩は大事にて藩主共々多忙を極めております。申し訳ございませんが、日を改めては頂けませんか」
「某が幕府代表としてこちらへ来ると、報せは出しておいたよ」
勝は襖の向こうに居る気配に気付いた。
「今回の戦はおいらも良しとはしてねぇ。が、おまえさん達に非がない訳じゃない」
石川の顔色が変わる。
「幕府も長州もこのままいがみ合ってる時じゃないのは、よぉく解っていなさるだろう?」
勝は石川へではなく、置くに隠れている人物にそう言った。
「石川」
声が動いた。
「少し失礼します」
石川は襖ではなく、廊下側から出て行った。
襖の向こうに居る人物が誰なのかは解らなかったが、応対に出て来た石川が常に横を気にしていたのは確かだ。となれば、それ相応の役職に就いている人間だろうとの推測は立つ。だから、その人物に話しかけたのだ。
(解ってくれたらしいが、どう出るかねぇ)
直ぐに戻って来た石川は、勝に厳島へ渡ってくれるように言った。
「急ぎ旅じゃない、そうさせてもらうよ」
石川が部屋を後にすると、勝は脇で怪訝な顔付きのまま座って居る赤井を見て笑った。
「それじゃあ、戦が起こるのも無理はないねぇ」
その言葉の意味が赤井には解らない。
「話しの出来る人間が、襖の向こうに居たんですよ?」
解ってたさ、と勝は言った。
「引っ張り出したらいいじゃないですか」
「おまえさんは何も解っちゃいねぇ。そんな事をしてみな、長州はおいらの話しに耳なんざ傾けねぇで剣を抜くさね」
そんな事になったら来た意味がないと、勝は険しい顔を見せた。
「こちらが動けば剣を抜く用意で戻って来た、と言う事はあの人にとったら大事な人だろう。直に話しができる相手なんだろうが、そうだと襖を開ける訳にはいかねぇ。それじゃあ話しに来た意味がないってもんよ」
だからおまえさんはもっと多くを学ばなければだめだと、また勝は言った。
その夜、勝はなかなか寝付けないため、縁側に座っていた。
「多くの血が流れちまった」
カサリ、と草が揺れた。
「本意ではありません」
「そうだろうよ。本意だなんて言われたら、おいらも本腰を上げておまえさん達を叩きにかからねぇといけなくなる」
月の光りを背にして、男が現われた。
「多くの友の志を背負い、それが志の支えとなっております。後悔はしておりませぬ」
「・・・おまえさんは、どこへ行きなさると言うんだい?」
「幕府に信義を見れぬ以上、このまま進む所存にございます」
「いつからだろうねぇ、こんな頼りねぇ国になっちまったのは・・・おいらは幕臣だ。幕府には恩義がある身だから、おまえさんの志を受け入れても、その立場は変わらねぇ。そこを解ってくれると助かる」
「・・・・・」
「名を聞かせちゃくんねぇかい?」
「谷梅之助と申します」
「ありがとよ、谷さん・・・おまえさんは、あいつとおんなじ目をしてるねぇ」
あいつ? と高杉が首を傾げる。
「おいらを斬りに来た時とおんなじ目だ」
その言葉で、誰のことなのか解った。
「生き急いだらいけねぇよ。生きてこその命だ、粗末に使ったらお天とうさんに顔向けできねぇ」
「・・・・心しておきます」
勝は知らなかった。労咳という病に高杉が冒され、余命少ないものだと。
「いい月じゃないか」
高杉が消えた後、勝はそう言って夜空を見上げた。
翌日、勝と赤井は用意された船で厳島へと渡った。
厳島は【安芸の宮島】とも呼ばれる廿日市の沖に浮かぶ小島で、松島・天橋立と並んで日本三景の一つであり、海上に浮かぶ朱の厳島神社大鳥居でよく知られている。厳島神社は、平安時代末期に平清盛が厚く庇護したことでも有名である。
松岡文右衛門の料亭遠翠楼に宿を取ると、長州側の代表を待った。
夕刻になると夏の日差しが幾分和らぎ、開け放たれた部屋へと涼風が通る。
「待たせてしまったね」
屋敷に着いて半刻ほど経った頃、桂が姿を見せた。
「忙しいのに申し訳ありません」
「いや、薩摩からの客人だ、時間を割くのを憚る訳にはいかないじゃないか」
伊集院は丁寧に自分の名前を告げると、早速話しを切り出した。
「京都詰めの大目付一人が動いただけに過ぎず、まだ土佐藩総意での申し出てではないと、大久保さんは土佐の動きに懸念を示しておいでです」
それは桂も抱く疑問だった。
何しろ乾の後ろに居るのはあの後藤象二郎である。公武合体を推進め、山内容堂を拝して土佐勤王党への弾圧を行った張本人とも言える人物なのだ。その男が、乾に説得されて倒幕へと鞍替えしたなどと、そう簡単に受け入れられるものではない。
「西郷さんは納得してしまい、土佐が動くと乾殿が確約したと言って、四侯会議の実現に動き出してしまっています」
伊集院は書面を畳に開いて置いた。
「これがその四侯です」
松平春嶽、島津久光、山内容堂、伊達宗城の名が記されている。
「幕府からは一橋慶喜公をを列席させます」
「ここまでお膳立てができているとは、驚き以外にないね」
と言うが、唖然とするでもなく、驚くでもなく、へぇ、と言い出しそうな顔で紙を覗き込んでいる。
「しかし、見れば見るほど膝を付き合わせたくない面々だ」
そう笑いながら桂が言う。
「笑えないと思うですんけど・・・」
中岡が笑えないのも無理はない。容堂を除く三名と慶喜の因縁は深いのだ。
島津久光は、尊王攘夷を掲げ井伊直弼を失脚させるため上洛しようとし頓挫し、藩内において同士討ちとなる事件を起こしている。
山内容堂は公武合体を持って幕府寄りを進め、後藤と共に藩内の志士の弾圧を経て来た。
伊達宗城は、藩政に及ぼす影響が強く、安政の大獄で隠居を余儀なくされた身でありながら西欧化を推し進め、長州の大村を招いて富国強兵政策を取っている。
松平春嶽は龍馬に勝を紹介した人物で、徳川家定の死去により将軍跡継ぎに慶喜をと推進めたが、井伊の策略で頓挫、不登城の罪で隠居されられていた。だが井伊暗殺によって幕府政策が転換したため、再び幕政へ参加していた。
八月十八日の政変後、参預会議体制を敷いたものの、参預諸侯間で意見の不一致が多く、それに危惧した朝廷側は賀陽宮に事態の打開を申し渡した。
賀陽宮は参預諸侯を自邸に招いて一席設けた。だがこの席で泥酔した慶喜は、島津・松平・伊達に対して、「天下の大愚物・大奸物であり、この三名と後見職である自分とを一緒にしないでもらいたい」と言い放ったのだ。
これにより久光は参預会議を見限ってしまい、慌てた春嶽と薩摩藩家老の小松帯刀は慶喜との関係修復を計る中、ついに容堂も呆れてしまい京を退去する事態となってしまう。
対立を招いた慶喜自身も、参預を辞任してしまったので、参預会議は体制が機能する以前に崩壊してしまったのだ。
「この面子を考えたのは西郷さんじゃなくて、大久保さんですよ」
その顔から笑みが途絶える事がない、どうやら桂は楽しくて仕方がないらしい。
「これで本当に四侯会議が功を奏すなら、大したものだ」
「桂さん、それ本気で言ってます?」
おや? と、中岡を見た桂は満笑を浮かべて、勿論、と言った。
「残念なのは、この席に僕が立ち会えない事なんだ」
やっと笑みが消え、今度は本当に残念だと言わんばかりに眉間を狭めた。
「長州はまだ朝敵のままですから・・・」
「ん? ああ、長州の列席がないのを残念だと言った訳ではない。是非とも、この五人の会談を見てみたいじゃないか。さぞかし面白い会議となるだろうからね。多分、大久保さんも同じ気持ちでいるんじゃないかな?」
伊集院へ視線を向けると、その顔が頷いて、同じことを言われた、と答えた。
「・・・俺、絶対桂さんにも楯突かない」
「あははっ。それは結構。そうして頂くと、僕も色々とやり易くなる」
しまったと、言った後に後悔しても始まらなかった。
話しが途切れた頃合を見計らったのか、和奈と武市が姿を見せた。
「白石さんの所に世話になると、晋作から聞いていたが?」
小倉から戻った武市は、高杉が芸州に出かけた事と、中岡が薩摩の者と長州入りした事を聞き、望東尼の許可を得て和奈を連れ急いで来たと告げた。
「岩村くん達は?」
「山縣くんの手伝いをすると残った」
「それは助かる」
「おまえがなぜ薩摩の者とここへ?」
中岡に問いかけ、土佐が動くと伝えられた武市の表情は堅くなる。
「山内公が・・・」
「思うところはあると思うが、土佐が倒幕へと動くなら僕は反対するべきではないと考えている」
細部は違えど、敵対とした薩摩を手を取り合った経緯があるのだ、武市の心情は桂もよく解る。
「勿論、私とて馬鹿ではない。が、心から喜べるものではないのは確かだ」
多くの同士が志半ばで死した。その原因を作ったのは己の手腕の至らぬせいだと、武市は今も悔いている。
「土佐が動くのであれば、俺は表に出ない方がいいだろう」
片目となったとは言え、身近な者が見れば武市半平太と言わずとも判ってしまう。
「君はすでにこの長州の人間。それだけは覚えておいてほしい」
「承知している」
で、と和奈を見る。
「晋作には僕から言伝を出しておこう。戻った晋作が怒り出すのは明白だからね」
「ですよね・・・後が怖くなってきた・・・」
伊集院は水を差してはと、用意してもらった部屋へと下がってしまったので、その夜、久しぶりに伴食の席を広間で過ごすことができた。
「そう、望東尼様がそんな事を」
桂と武市に白石邸での会話を伝えたが、自分に関わる内容だけに留めた。
「狂気の理、か」
中岡は一切の事情を知らないので、三人の話しに疑問符を浮かべるしかない。
武市は掻い摘んで、和奈の身に起きたことを話して聞かせた。
「なんなんですかそれ!?」
「聞きたいのは俺の方だから、怒鳴るな」
「すまないね、中岡くん。伝えるべきだと思ったんだが、なかなか機会が得られなかった」
「それはいいんですけど、和太郎がややこしい事になってるのに、龍馬さんは何やってんだか」
「あいつは頼りにならんから、放っておけ」
「そんな事ないです! 龍馬さんは優いですし、判らない事を沢山教えてくれました。頼りになる人ですよ」
ぶんぶんと顔を振り、そう弁護する。
「それはおまえが女子だからだ。くそっ龍馬め」
「は・・・?」
あんぐりと口を開いたまま、和奈を見る。
「あ・・・」
「そうか、中岡くんだけだったね、和太郎が女子だと知らなかったのは」
これはしまったと思いつつも、この後のやり取りが想像できたので、苦笑せずにはいられなかった。
「はあぁっ!? 皆知ってたんですか!? いつから!?」
「本当に五月蝿い奴だなおまえは。始めからに決まっているだろう」
「酷いですよ武市さん。以蔵くんも知ってたんすよね? うわ、なんか俺一人だけ蚊帳の外に置かれた気分だ」
その名を使うなと、頭に拳が落ちる。
「たっぁ! もう! 俺飲みます!」
置かれた銚子をそのまま口にすると、ぐいっと一気に飲み干してしまった。
「もっとお酒が要りそうだなこれは」
そう言い、桂は自分の分を中岡に差し出した。
「黙っててすみません」
「いいよいいよ、謝んなくて。事情があったのは分かるし、和太郎と一緒に居る時間も少なかったんだ、仕方ないさ」
あっ、と中岡が背筋を伸ばした。
「てことは!? ちょっと! 俺が和太郎を長州に連れて帰るって言って怒ったの、それでですか!?」
武市に睨まれてしまったので、それ以上の詮索は中止となった。
「桂木くん、急で申し訳ないが、明日厳島へ一緒に行ってくれないか」
「厳島?」
「ああ。実は幕府から和議交渉に勝安房守殿が来ているんだよ」
「勝さんが?」
中岡の顔が明るくなる。
「君は残念ながらお留守番だ」
ですよね、と肩を落として調子に手を伸ばす。
「勝海舟殿か」
勝と言えば家茂公のお気に入りだ。その勝が和議交渉に出て来た。
「何かあるか」
土佐が動き出した事といい、勝が動く事といい、ただ長州征伐で幕府が連敗した理由だけではないと思えた。
「おまえも一緒においで」
「僕も?」
「面白い人物がいるらしいからね」
高杉から、赤井が勝に同行しているとの言伝が来ていた。和奈と同じく、赤井もなにかの理によってこの時代へと来たのならば、二人を会わせる機会を多く作る方がいいと桂は考えた。
翌朝早く、和奈達は勝に会うべく厳島へと渡った。