其之三 鈴の音
病室で桂からの伝言を受取った武市は、傷もまだ塞がっていない事を理由に、山口行きできないと返事を書くつもりでいた。
「行きます」
そう言うだろうと解っていたが、今回は和奈を推し留めねばならない。
「裂傷が悪化すれば、その腕切り落とす事にもなり兼ねん。承諾はできん」
「行かないと駄目なんです」
「なぜだ?」
「え・・と、どうしても、そうしなければならないんです。僕がここに来た意味を知るために」
これには武市も首を捻った。
「ここに来た?」
「・・・理由は、小五郎さんの処へ着いたら話します。だから、お願いです。山口へ行かせて下さい」
だからと、了解できるものではない。
「止められても、行きます」
「・・・足を斬ってでも止める。と、言ったら?」
「這ってでも行きます」
「なぜ、そこまでして・・・薩摩はこの度の戦に参戦しておらぬし、芸州も優勢のまま落ち着きつつある。石州口からの伝令がここに来ていないところを見ると、援軍が必要な状態ではない・・・小倉は要だ、それが気になるか?」
俯いていていた和奈の顔が上げられ、その双眸が武市を捉えた。
ぞくり、と武市の背筋に冷たいものが走る。
ほんの今し方まで人の感情を顔に浮かべていた和奈の顔は、あの戦場で見た人なるモノに近い面立ちとなっている。
「暢夫の夫れ死生命あり」
「なにっ?」
「見届けねばならぬ、守らなければならぬ」
「和太郎?」
「それが吾に与えられた使命なれば、何者も行く手を阻む事は叶わぬ」
枕元に置かれた綾鷹へと、手が伸びて行く。
「和太郎!」
武市の怒声に手が止まる。
「行ってどうすると言う? また、戦にでるのか?」
「各々と心を心として以って相交わった吾が戦に出るのは理なり。八百万の神々の采配によりて死した心は活きたり、活きる心は機を求める。機を求める心は動くもの也」
「八百万の神? なんだ? 何を言っている?」
「問うが良い、吾が心の片割れに。聞くが良い、吾が何者なるかを」
りぃーん。
鈴の音が武市の耳に聞こえた。
「鈴?」
だが、病室の何処にも鈴の音の元になるものなのど無い。
「武市さん」
いつもの声色だった。
「解っているのか? 今、おまえが何を口にしたのか」
「・・・眠っている時に見た夢を何度も観るんです。夢と、思っていた。でも私は確かにあの人に逢った」
「あの人?」
「山口へ、行きます」
訳が解らないとごろではない。
「桂さんに会ったら、話してくれるのだな?」
「はい」
そうして、二人は直ぐに三田尻を発ち、山口へとやって来たのだ。
「心の片割れ?」
武市の話しを聞いても思い当たる節など一つもない。
「桂さん」
武市が聞きたいだろう事をもっと早くに、そう、あの京で龍馬に和奈を任せた時に話しておくべきだったのだと後悔の念に顔を歪めた。
「僕だって、本当だとは今でも信じていない。自然の摂理を超えたものだ、それは・・・だから、考えないようにして居た。和太郎は僕の家族だと、ずっと、そうこの先もそう思いたかったんだ」
「それでは、まるで要領を得ていない。和太郎は桂さんの親戚では・・・・ない・・・?」
「あの日、池田屋に遅れたのは、和太郎を見つけたからだ」
「見つけた?」
桂は、竹林で和奈に会った時の事を語った。
「今でも信じれるものではない。だが、彼女の語る世界はどれも聞いた事のないモノばかりだった。身元を調査してみても、痕跡が一つも無いんだ。和太郎がこの世界の何処で生まれ、生きて来たのか・・・何一つ掴めなかった」
時を越えて来るなど、武市とて到底信じきれる内容ではない。
「貴方ほどの方が、この私に謀り事を?」
「君を謀って、僕になんの得があるんだい?」
桂は和奈に視線を投げた。
「本当に、この時代の人間ではないんです。もっともっと後の日本で生まれました。どうやって来たのかも解りません。左も右も判らない私を、小五郎さんは受け入れてくれたんです」
「本当に不思議に思うよ。普段の僕なら、頭のいかれた者の世迷言、それで片付けていただろう。だが、僕はそうしなかった」
「待て、待ってくれ」
頭が混乱し、桂の言葉が頭の中で形を成さなくなり、武市はそう制した。
(何を言っている? 和太郎は何を口にしたのだ?)
「武市さん・・・」
「君の混乱はよく判る。僕もそうだったからね」
ぐるぐると回る言葉の羅列を一旦追い払うことで、武市はなんとか自制心を取り戻した。
「それを・・・龍馬も知っているのか?」
ああ、と短く桂は答えた。
「あの野郎・・・」
知っていて黙ってた共に腹が立った。最初から知っていれば、和奈に剣を持たせる事もなかったのだ。
「拳骨一つでは済まぬぞ」
「初めから話していればと、悔やむばかりだ」
「済んだ事を悔いるのは止めて頂きたい」
そう、これからが大事なのだ。既に和奈は剣を手に人を殺めてしまっている。
「これは、桂さんに会えば解ると言った」
そして武市は、芸州での戦場での和奈の事を語った。
勿論、当の本人も知らない事だ。だが、真実を聞かされた以上話さなくてはならいないと武市は考えた。
「どう言う事なんだ? さっき心の片割れと、おまえは言ったね? あの人とは誰なんだ?」
「私が長州藩邸で、なぜか落ち着くと言った事を覚えていますか?」
「ああ・・・動揺するでもなく、不安に泣くでもなく平然としているおまえを訝しんだ。だから、間者ではないかと、疑った」
「七たびも生きかえりつつ、夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや」
「!」
「理とは夢の如く幻の如し。継ぐ志の道は友の傍らに、吾の心あらん事を」
「桂さん?」
目を見開いて和奈を見ている桂に、武市の声は届かなかった。
「・・・和太郎の太刀筋に山鹿流を見たのは・・・そうか・・・だからなのか? まさか! そんな事があるはずもない!」
怜悧冷徹を通す桂が、人前で動揺を見せる事は多々あるものではない。そうさせるほど、和奈の言葉が心を揺さぶったのだ。
「死する運命にある人の願いが、月の夜に響いたんです」
夢を見るようになってから、その音が鈴の音なのだと、和奈は知る事が出来たのだ。
武市には会話の意味するところが理解できなかった。
和奈が未来から来た事を、桂同様信じれたものではない。本人がそう言っても、世迷言にしか聞こえないのだ。もう限界だった。
「あの人とは?」
「僕の友であり、晋作が一番と慕った師、吉田松陰だよ」
「なっ!?」
松陰が明倫館で山鹿流兵学の講義を始めた嘉永二年、桂はその兵学を学ぶため松陰の下を訪れた。これが松陰との出会いである。
松陰を師と仰ぐ高杉と違うのは、桂は松下塾の塾生ではなく、明倫館で兵学を学ぶ先生と学生の関係であるという点だ。
この出会いを境に、松陰はよく桂の処へ出向くようになった。
江戸へ松陰が出向いた時は、斎藤道場に居る桂を訪ねては頼み事をしたり、話し相手になってもらったりしていた。
桂は人の世話をするのが好きな性質だったので、やって来る松陰を疎んじる事も、毛嫌いする事もせず、よく世話を焼いた。
世間の俗事や習慣に長けた桂にとって、そんな松陰は子供じみた男であり、やがて放っておけない男となって行ったのである。
そして、安政の大獄が起こり、松陰は斬首された。
その遺体を引き取りに行った桂だったが叶わず、松陰は小塚原回向院に埋葬された。なんとか忠烈の士として埋葬したいと言う高杉達門下生が動き回り、やっとの事で遺髪を大夫山に埋葬する事が叶った。
その松陰の魂を持つ者が居る。
「生まれ変わり? それを僕に信じろと? はっ! 冗談も大概にしてくれ」
「そうですと、言う事ができません。でも、夢の中でその心に触れたと感じたんです。私が勝手に観た夢だと言われれば、確かだと言い切れる理由はありませんけど」
「・・・・・」
「小五郎さんは、私がここに来た理由が必ずあると言いました。偶然などではなく、必然であると」
「それは・・・確かにそう言った」
「あの夢がただの夢なのか、それとも誰かの記憶なのか知りたいんです・・・どうしてこの手で、沢山の人を平気で殺める事になったかも」
その口は小刻みに震え、今にも泣き出しそうな和奈の目が、脇に置かれている剣に落とされる。
そっと、手が頭に伸びてくると、暖かい胸に抱え込まれた。
「帰る事は、考えなかったのか?」
「・・・皆と居たい、そう思って」
「そこは、皆ではなく、俺と、だと嬉しいところなんだがな」
震える体を抱く手に力が入る。
「どうする? 桂さん?」
「どうするもこうするも、和太郎に言える状況ではない」
未来から来たと言われた挙句に、松陰の生まれ変わりだと言われたのだ。桂の動揺は武市のそれよりも大きいのだろう。
【心を迷わせてはいけないよ。剣を振るう身になったとしても、決して心を惑わすな。己の信じた想いを捨ててはいけない】
朔月の声が聞こえた気がした。
「私が聞いた鈴の音は、その松陰さんて人の心ではないかと思うんです」
「鈴の音・・・俺にも聞こえたが」
「えっ?」
「病室で・・・一瞬だったから空耳かと思った。あの音がおまえをここへ連れて来たと、そう言いたいのか?」
「武市くんは信じたのか?」
龍馬がしたと同じ問いかけだった。
「信じきれるものではない。かと、言って、こいつが嘘を並べ立てているとは思えない。現に、何度かあの太刀を振るっているんだ。最後は・・・惨殺に近いものだったがな。何の理か知らぬが、俺の側にこいつは居る。それも理の一部ならば・・・俺の役目はそれを止める事だ」
武市も桂同様、この事象を自然と受け入れてしまっている事に気づいてはいない。
「でも・・・帰るべきなんですよね?」
帰る方法があればの話しなのだが。
「っ!」
「帰れるなら、それに越した事は無い」
言い放った桂の声は冷たく和奈の心に響いた。
「私の存在がおかしいのは解っています。自然の摂理から飛び出してしまっているんですから! 桂さんが疑問に思うのも当然です。なのに、勝手に観た夢かも知れないのに・・・言うべきじゃなかったんです・・・早く、帰るべきだったんです!」
しゃくり上げながら泣いている和奈に、武市は掛ける言葉を見つけられなかった。
「帰れる方法があるなら・・・帰ろうと思います」
それが一番自然な事なのだろうと、和奈は今頃になって気付いた自分を馬鹿だと思った。赤井に怒鳴られたように、剣士になったつもりで、桂と本当の家族になれたつもりで居た自分が、酷く恥ずかしくなった。
「一番辛い思いでいるのは、こいつだと思いませんか?」
はっ、として桂は身を引き、肩を震わせている背中を見て顔を歪めた。
「未来から来たなどと、すんなり受け入れる度量など俺にはない。それを証明して見せる事もままならん。だが、確かにこいつは今ここに居る。それは事実ではないのか?」
「それは・・・そうだ」
「俺が今ここに在るのは、失うはずだった命を助けられた。ならば、己が進むべき道を行くと言う和太郎を守ってやる事はできる。桂さんも、守ってやりたいと思ったから、手を差し伸べたのではないのか?」
ああ、と小さく桂は言った。
【そう考えてるってのはなぁ、あいつを本当に受け入れてないって事じゃないか】
また高杉に怒鳴られてしまうと桂は苦笑する。前にそう高杉に言われ、家族として側に置くと決めたのに、今の自分の動揺した無様な姿はどうだ。
動揺するなら、知らぬ世界に来てしまったばかりではなく、松陰の影に不安を感じている和奈自身だろう。
「和太郎」
きっと自分を信じて、和奈は話してくれたのだ。
「家族だと、言ってくれたのにね」
武市から奪うように、和奈の腕を引き寄せた桂は、まだ震えている和奈の髪を撫でた。
「本当に、すまない。おまえを受け入れると言ったのはこの僕自身なのに・・・それが運命とも感じた・・・一瞬でもおまえを拒もうとした自分が恥ずかしいよ」
腕の中で泣く体のなんと細い事か。
「武市くんも居る。僕も側に居るから・・・だから共に探そう。おまえが帰る道ではなく、ここに居るべき理由を」
作戦を一通り組めた高杉は、「待ちくたびれでいるので、そろそろ攻めて来たらどうですか」という、挑発的な内容を書き記した文を小倉へと送っていた。
あくまで攻めはせず、迎撃姿勢であると誇示したのである。
「新田藩、安志藩に長州へ上陸が命をば出しやれ!」
先日とは打って変って、意気揚々とした小笠原は、集まっていた各隊の指揮官にそう告げた。
「識衛隊と一番備は、大里に急行して、船にて対岸が壇の浦より上陸し、一気に赤間関を攻め落とす。小倉湾に駐留する艦隊へも、大筒にて援護を伝え願いたもうぞ!」
「これほどの強気を見せているのです、何かしらの策を講じているのは間違いありません。まずは敵情視察をする事を提言致しまする」
島村の意見に、二番備大将渋田見も同意を見せる。
「先手必勝じゃ! 芸州にての戦も数にて先に押し込みておらば、負け戦になどならなかったのだ!」
「・・・承知致しました。 新田藩、安志藩に伝令を走らせるよう言いつけて参ります」
こうして激怒した小笠原は、長州へ攻める日を六月十八日と決めたのだった。
高杉が桂に頼んで発行させた漁船の往来手形は、漁師に身をやつした奇兵隊員に手渡されていた。この手形を使って漁船で海に出ていた奇兵隊隊士達は、対岸に集まりつつある征長軍の動向を探るべく、海、陸双方で情報の収集活動を二ヶ月間行い、征長軍の行動は筒抜けとなっていた。
密偵から征長軍攻撃の日を聞いた高杉は、全員に出撃の命を出した。
「戦いというものは、一日早ければ一日の利がある」
「策は手はず通りに、だな。失敗した後の事は?」
「今は気にするな! まずは飛びだす事だけだ。あれこれと思案するのはその後でもでいい」
「動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし」
山縣の言葉に高杉はふん、と鼻を鳴らす。
「猪の次は雷に雨ときたか」
「根に持つなよ・・・」
そこに一人の男が駆け込んできた。
「中岡やか。どうしておんしこがな所におるんだ?」
「龍馬さん??」
芸州で征長軍艦へ攻撃を加えた中岡は、長府にとって返した後、高杉の指示を待つまでもなく弾薬を補充して戻って来たのである。
「って、聞きたいのはこっちですよ! なんで龍馬さんがさも当然の様にいるんですか!? 手は? 養生はどうしたんです!?」
「ああもう! 中岡は本当に五月蝿い奴だな!」
「高杉さんには負けますよ!」
そして山縣が間に入る羽目になる。
「戦艦一隻持って来た所を、高杉が捕まえて参戦、という運びになった」
「あれをですか!?」
「おお。ちくたあ役に立つと思いゆう」
「はぁ~。龍馬さん開戦術を勉強したのいつなんですか、ったく」
勝の所で一通りの訓練は受けているだろうが、付け焼刃で参戦できるものではないと中岡は思ったのだが、高杉からの要請だと言うので、その件は突っ込まないことにした。
「芸州からやけに遅かったな」
「薩摩からの横流しだから時間がかかって」
小さな声で高杉と龍馬にそう言う。
「征長軍の艦をぶんどったがか? なんとゆう無茶をするがだ」
「それが、成り行きでそうなったんですよ」
へへっと頭の後ろを掻く中岡。
「それと、乾さんが薩摩に入りました」
耳打ちすると、龍馬の顔色が変わった。
「向こうは向こうで今後の事を考えちゅう、とゆう訳か。桂さんは知っちゅうかえ?」
「はい。京を発つ時に報せは出してます」
「そうか。いずれ動こうとは思っちょったがが。けんど乾さんが動いたとなると、後藤さんの事もこはよぅ手を打たないといかんな」
「それは後ですよ。まずは征長軍をなんとかする方が先です。と言う事で、高杉さん、俺達はどこへ加わればいいですか?」
「海は坂本さんに任せたからな、陸へ回ってくれ。陸援隊の働き、見せてもらうぞ」
龍馬は複雑な気持ちで二人を見ていた。
中岡は武市と同じく武力倒幕派だ。武力を持って事を成すのに躊躇はない。事実、禁門の変でも久坂の処へ馳せ参じている。
話し合いで片付けようと薩摩は出兵を拒み、諸藩も不満の声を上げたにも関わらず開戦を唱えたのは幕府だ。
薩摩と長州の連合を成すのに尽力した龍馬が意味するものは兵を挙げての武力倒幕ではなく、朝廷からの勅許を得て、徳川幕府に政権を返上させる倒幕に重きを置いている。ここで長州に倒れられては、倒幕が遠のいてしまうと、その助力をしているだけなのだ。
武力で勝ち取った新時代に、未来などないと考える、龍馬の腹の内だった。