其之三 時越えの後
翌朝早く、桂の声が藩邸に響き渡った。
「門を閉ざすなら、なぜ見張りを置かなかった!」
乃美を前に、憤怒の形相の桂が仁王立ちになっている。
「一度閉じた門は開けられませぬ。お分かりでありましょう? 留守居役として、私の責任で門を閉ざしました。これも長州のためを思えばこそ・・・」
「っ!」
桂の背後に座る高杉の傍らには、朝になって発見された稔麿と望月の遺体が横たえられている。その周りに、武市、以蔵、中岡、龍馬も座って居た。
「幕吏が居たならともかく、追っ手もなく逃げて来た者を入れる事くらいできようが!」
「某は止めた! 会合に出るなと忠告もした! だが出たのは-」
「やめんか!」
一声を上げたのは高杉だ。
「小五郎も引け」
「しかし!」
「しつこい!」
「くっ・・・」
下げた目に、眠るように横たわっている稔麿の顔が映る。
「くっ・・そっ!」
桂の気持ちは武市達にも十分理解できる。同じ様に、門を開けていればと叫び出したいのは山々だった。
藩邸は治外法権とされ、幕府と言えど許可なく簡単に踏み込めない。池田屋に集まった面々が逃れる先に藩邸を選ぶのは至極当然と言えた。また、池田屋からはこの長州藩邸が一番近い位置にある。そのため負傷した志士達が一番多く逃げ込んで来た。
池田屋で行なわれた会合は非公式のものだ。
藩邸が一度閉ざせば、おいそれとその門を開ける事はない。士達を助けるために門を開くのは、会合を藩が認めたものになり兼ねず、開けたのを幕吏にでも見られれば、それこそ藩の一大事となる。
京都守護職に付いている会津藩から、罪人を匿った咎を詮議されれば、幕府から睨まれるのは必至。そうなれば最悪藩御取潰しとなる可能性もある。それだけは何としても避けねばと対応した乃美を、それ以上責める事はできなかった。
「武市さん」
高杉は桂が落ち着いたと見ると、膝を対面に座る武市へと向ける。
「申し訳ない」
頭を布団に擦り付けるように下げた。
「高杉くんが頭を下げる必要はない。宮部くん達を説ききれなかった私にも責任はある」
「だが、門が開いていれば望月は逃げ込めたかも知れん。それだけは、どうしても謝っておきたい」
「逃げた先が土佐藩であっても、同じ事態となっていただろう。藩の大事は、どこも同じだ」
今、土佐藩邸留守居役に付いているのは、公武合体派の乾退助だ。長州が門を閉ざすよりも早くその門を閉じている事だろう。それが実情であると判るだけに、武市達も逃げ込んだ者の無事が気掛かりになっていた。
「ともかく、斥候は出した。潜伏している者を見つけたらここへ連れて帰れと命令している。乃美殿もそれでいいですな?」
高杉の言葉に、乃美は頷き返した。
部屋を出て行った高杉の後を追い、付いて来てくれと桂は小声で囁いた。
「どうした?」
「いいから来てくれ」
高杉を伴って藩邸の一番端にある部屋の前へ立った桂は、一度高杉を見てから障子に顔を戻した。
「?」
「入るよ?」
その声に、何をするでもなく、ただ部屋の中で座っていた和奈は慌てて姿勢を正した。
「はい」
すっ、と障子を開けて桂が中へ入って行くと、その後から室内を見た高杉の顔が不思議そうな表情を浮かべる。
「誰だ?」
和奈の前に座った桂は、いいから座れと畳を指差した。
ぶつぶつ言いながら障子を閉め、借りてきた猫のように行儀よく桂の隣に座る。
「池田屋に行けなかったのは・・・絡まれていたこの子を助けに入っていたためだ」
高杉は驚いた顔を桂に向けた。
「得にもならない人助けをしたのか?」
「失礼な。損得などで人助けなどしないさ。時間もあって川辺を歩いていたのは本当だ。対馬藩邸にでも行こうかと考えて歩いていたら、争う声が聞こえて来た。気になって足を向けると、真剣を手にした男三人を相手に、木太刀で渡り合おうとしてたこの子が居た」
今度は和奈を見てびっくり顔の高杉は、
「おまえすごいな」
と嬉しそうに笑った。
「褒めてどうする。一つ間違えば死体となっていたんだぞ?」
「すまん、すまん。で?」
頭を掻きながら桂の顔を覗き込む。
「話しを聞けば、大坂から剣術の試合をしに練兵館へ来たと言う。京での宿は加茂川館だそうだ。おまえ、知っているか?」
「うーん」
顎を押さえて考える高杉にも、心当たりがないのだ。
「僕も知らない。しかも練兵館で試合があるなど聞いていないし、大坂から江戸へ出るなどこの時期に考えにくいだろ? 話しをしても会話が噛みあわず困って、仕方ないと一緒に連れ行ったんだ」
高杉の顔から笑みが消え、真剣だが後悔の色を混じらせた表情の横顔に見入る。
着いた時にはすでに新撰組が池田屋を取り囲み、これ以上は連れて行けないと考えた桂は慌てて帰って来たのだろう。冷静で滅多に慌てる事のない男が、走りこんできて、人の目も気にせず取り乱した様子で藩士を集めていた理由なのだ。
「おまえは誰なんだ?」
桂にされた同じ問いかけに、名前を口にする以外に和奈には出来ず俯くことしかできない。
(やれやれ)
外に人の気配に気づいた桂は、戸口へ顔を向けると静かに声を発した。
「入って来ていいよ」
「ん?」
高杉が後ろを振り返ると同時に障子が開いた。
「いや、まっことすまん。立ち聞きするつもりはなかったがじゃ」
ばつが悪そうに頭を掻きながら入って来た龍馬は、高杉の横へと腰を落ち着けた。
「君にも話を聞いてもらった方が良いかも知れない」
高杉はこの状況を楽しんでいるのは間違いない。
見も知らぬ人間が語る言葉をそのまま鵜呑みにするきらいがあり、接した相手を直感的に良し悪しと判断してしまう男だ。理由を聞いて良しとすれば、何をどう言っても受け入れてしまうと解っている。
龍馬の登場は益もないが損ではないと考えた。
「お-」
口を開きかけた高杉を制し、和奈に初めから話しをしてほしいと頼んだ。
「はい」
竹林で男達に絡まれた所から話せばいいのか、それとも錬兵館で起きた事から話せばいいのか、和奈は迷ってしまい、ちらりと桂へ視線を送る。
顔には笑みが浮んでいるが、目は真剣である。隠し事などできる相手ではないと和奈は直感した。
ゆっくりと息を吸い、言葉を選びながら、練兵館に行った所から竹林に至る経緯を話した。
「その、自分でもよく判らなくて・・・」
桂は言葉もなく、呆然とした顔で和奈を見ている。ちょっとやそっとの事で驚かない高杉も、この時ばかりはそうもしていられないと、桂と龍馬の顔を交互に見た。龍馬ですら何をどう言えばいいのか困惑している様子だ。
自分の連れて来た娘が、突拍子も無い事を口にしたのだから、一番に困ったと思ったのは桂だろう。
「私が知ってる京都の町とは全然似てなくて・・・それに在るはずの物がここには見当たらないんです」
「・・・なにが似ず、なにが見当たらないのかな?」
自制心をフル稼働させた桂が言葉を紡ぐ。
「何もかもなんです・・・そりゃ、木造の家くらいあります、日本なんですから。でも造りが微妙に違うし、どこを見てもビルなんかないし、車も走ってない。ネオンとか街灯もないなんて、在り得ないんです」
「びる? くるま? ねおん?」
桂には何をどう聞けばいいのかすら思い浮かばなかったが、高杉は新しい言葉に即座に反応を示した。
普段は気にもせず使う言葉がここでは通用しない。それは、時を越えたのではないかという答えを肯定し得るものだ。
「ビルはその、コンクリートでできた四角い建物です。ネオンって言うのは、電球が一杯付いてる看板で、車は道を走る物です」
和奈は両手で長方形を形作って見せた。
「こんくりーとの四角い家!? でんきゅう?? 道を走るくるま??」
これでは堂々巡りになると、桂は前のめりになり始めた高杉の襟を持つと後ろへ引き戻した。
「晋作、話しの腰を折るな」
桂に諌められ、仕方なさそうに高杉は黙った。
「それで?」
「私達が普段着る服は洋服で、和服なんてほんと浴衣くらいしか着ませんし、髪型もみんな結っていなくて・・・」
説明して行く間に、気持ちが段々と沈んできた。
「ようふくは、夷人が着ちゅうあれなが?」
桂がため息を吐いたので、龍馬はさっと首を引っ込めた。
「山奥なんかに行けば、ビルとかネオンがなくても不思議じゃないと思うんですけど・・・それでも電気くらいあると思うんですよね」
確かめに行った事もないのだから、はっきりそうだと肯定できるものではない。
「それに、機械だと判る物がここには一つも見当たらないんです」
「機械は解りますが、でんき、が解りませんね」
「えっと、機械を動かす為のエネルギー? と言えばいいのかな?」
説明していると言うより、自問自答になってしまってる。
疲れたように肩を落としている桂を見て、やはり時を越えたのだと確信した。
さすがの高杉も簡単に突っ込めなくなっているようだ。
「何が違うのか聞いたが、何もかもが違う、そう言う事か」
「はい、そうです」
有るべき物がない代わりに、在っては行けない物がある。
刀だ。
現代でも居合抜きでは真剣を使うが、それは人を斬るための道具としてではなく、技を競い合うためだけに用いられる物だ。決して人の体に走らるものではない。万が一人を斬ったりすれば犯罪で、相手が死に至れば殺人者として裁きを受ける事になる。
唐突に、右手に持った刀の重みが蘇ってくる。
桂に渡された剣の重みは真剣のものだ。そして、三人の男が手にしていたのも間違いなく真剣だろう。
目の前で困り果てた様子で座る桂は、人に剣を振るった。
ぞくりと体を震わせた和奈は、自分の腕を抱いて側に置いてある脇差に視線を落とした。
「どうかしたのかい?」
桂が助けに来てくれなければ、斬られて死んでいたかも知れないのだと、やっと考える事ができた。
手が、体が震えるのが判る。
「おやおや」
桂の声と共に、大きな手がポンッと頭に乗せられた。
見上げると、そこにはにこにこと笑う男の顔が在った。
「恐ろしかったんじゃのう」
「今頃か、と言いたいところだ」
【君は、馬鹿か】
今感じたのが死の恐怖で、それを判っていなかった自分に発せられた言葉なのだ。
「それで、現状をどう考えているのか聞かせてくれないか? 残念だが、僕達には想像もつかない話しだから、こうだろうと示唆してあげる術がないんだよ」
「解ります・・・」
タイムスリップしたかも知れない。その言葉を口にして、果たして桂達が理解できるだろうか。しかし話さなければ、何も前には進まない。
自分の身に起きた事を話し、なぜこんな事になってしまったのかその原因を探さす必要が在る。一人で考えても、この時代の事を知らないのでは到底原因など探れるはずもないたろう。ならば正直に全てを語るしか方法はない。そして自分の出した答えが正しいかを確かめなければならない。
「あの、今は何時なんでしょうか」
「いつ?」
三人は顔を見合わせた。
「何時代でも、年号でも日付でもなんでも。今が何時なのか知りたいんです」
「・・・元治元年六月六日ですよ」
明治以降に元治の年号はない。
覚悟を決めたつもりだったが、実際に聞くと動揺は隠せない。やはり時を遡ってしまったのだ。違うと否定しても、現実は今目の前に広がっている。
「信じてもらえるとは思えないんですけど」
「信じるか信じまいかは、君の考えを聞いてからしか言えないね」
「そうですよね。その、私は」
ごくりと唾を飲み、意を決して声を出した。
「タイムスリップしてしまったんだと思います」
きょとんとした顔が三つ、和奈をただ見つめている。
「夢じゃないとしたら、それしか考えられないんです」
「たいむすりっぷ?」
漸く三人が声を上げ、同時に問いかけた。
桂はちょっと考える仕草をしてから、ああ、と言った。
「亜米利加の言葉だね。たいむは、時間」
「すりっぷは、滑るじゃのう」
桂は長府での戦争の折、龍馬は神戸に居た時に英語を習っている。単語程度の簡単な英語なら訳すことができる。
「おまえ、時間を滑ったのか!?」
直訳し過ぎだったが、あながち間違いではない。
「時間を越えるって事です」
「時間を越えれるのか!? どうやってだ!? なにかカラクリを使ったのか!?」
もう和奈がどこの誰で、なぜ時間を越えて来たのかという問題は、高杉にとって関係がなくなってしまっていた。
「話の矛先を変えるな、晋作」
頭痛の種を一つでも取り除いておかないと、増えるばかりで収集が付けられなくなる。ここで高杉の好奇心を満足させてやる訳にはいかない。
「到底信じてあげれるものではないね」
「私もそう思います」
「さて、どうしたものやら。正直、間者という線は捨て切れない。そう、何か、君の話しを裏付ける物などはないかな?」
着替えや持ち物は全部ロッカーに入れてある。唯一こっちへ持ってきたのは木太刀だが、江戸時代に無い物ではない。
「持ち物はありません」
桂は、和奈が持っていた木太刀の事を思い出した。
「君が持っていた木太刀だが、見ればすばらしい造りだった。刃と峯(棟)の削り方、切先の切り様も申し分ない。しのぎ(鎬)は柞の木のスヌケ(老木の芯の部分)だろうか。柄から刃先にかけての反りの滑らかさといい角度といい、かなり腕の立つ木刀匠が手がけた物と思うが」
「父から譲り受けた物です。若い頃に知り合った刀工の方に造ってもらったと言ってました」
「ほう。さぞ名の有る方なんだろうね」
「詳しい事は良く解りません」
「皆、あの様な立派な木太刀を持っているのかい?」
「いえ、道場に通う人の半分は既製品の木太刀を使ってます。自分に合う物が欲しいと、自分で作る人も居ますが、職人が作った木太刀を持ってるのは、私と師範くらいだと思います」
「きせいひん?」
「機械で大量生産された物を既製品と言います」
話しは通じるのだが、言葉の所々で聞いた事もない単語が出てくる。
しかし、返えされる答えに戸惑いは見受けられない。
(そんな事があるはずもないだろう)
納得しかけた自分を、桂は否定した。
「おい。今着ている物も機械で作ってるのか?」
考えを巡らせていた間に、高杉が和奈の近くに擦り寄ってしまっている。
「あ、はい。これも既製品です」
すまん、と断ってから袴の裾を手に取った。
「見てみろ、小五郎」
振り返られ、側まで膝で寄った桂は、高杉が掴み上げている袴の裾へと顔を近づけた。
「人の技でこの細かさは無理だぞ」
「確かにそうだが・・・」
「英吉利人の着ている着物でも、こう正確に測って縫うのは無理だろ」
確かに布の合わせ部分はしっかりと、計ったように縫い合わせられている。
「やっぱり時を越えて来たんた、こいつは!」
ここで納得してはこの男を調子に乗せてしまうと、桂はこめかみを押さえた。
「縫い目だけで決めつけてどうする。夷人ならばこの手の仕事は得意だろうが。英吉利の貴族り着物は-」
「こいつは日本語を喋ってる!」
「そんなの、おまえに怒鳴られなくても解っている」
桂は泣きたい心境になった。
「そのたいむすりっぷとかで、おまさんがここへ来てしもうたとして、その理由は判るがか?」
やれやれと、桂はこの二人の男が有る意味似た者同士であると知った瞬間となってしまった。
「それは・・・判りません」
また高杉がうずうずしてるのを見て、桂は半目で睨みつけた。
「そう怒るな」
「おまえが口を出さなければ怒らずにすむ」
厳しい口調で言われた高杉は、和奈から離れると元の位置に座りなおした。
「鈴の音が聞こえたと言ったね?」
「はい。でも、鈴なんて持ってませんでした。聞こえたのも、こう、耳の内側で聞こえた感じで」
長いため息がまた喉の奥からついて出た。それだけでは何の意味も汲み取れない。
「ずっと先の世界から来たちゅう事は、これから起こる事を知っちゅう、と言う事か」
はっとした桂が龍馬を見た。
龍馬は胡坐をかいたまま、体を少し和奈の方に傾ける。
「おんし、名前はなんと言うんじゃ?」
「村木和奈といいます」
桂から逃れるように龍馬の横へ落ち着いた高杉は、女なのかと嬉しそうに身を乗り出した。
「一応・・・」
髪は短いし声も低い。化粧もしていない上に袴姿では間違われても仕方ないと言うところだか、女性としては喜ばしいものではない。
「わしは-」
コホンと、桂が一つ咳払いをする。
「大丈夫じゃ、桂さん」
しかし、と続けようとした桂を他所に、龍馬は自分の名前を語った。
桂は、龍馬の自信がどこから来るものなのか知りたくなった。
「・・・さかもと・・・りょうま?」
坂本龍馬と言えば、幕末で偉業を成した人物だ。それくらいの知識しかなかったが、和奈にとっては驚くべき事である。歴史の中に紹介される人間が目の前で動いているのだから。
「なんじゃ、知らんがか」
落ち込んでしまった龍馬は頭を垂れ、代わって高杉が身を乗り出してきた。
「俺は高杉晋作だ!」
と嬉しそうにそう叫ばれても、和奈の記憶の中には幕末に生きた人すべてが入っている訳ではない。
「俺も知らないのか」
落ち込んでいる二人を目の前に、桂は突っ込む気力を削がれた。
「僕は、長州藩藩士桂小五郎と言います」
「え!? 桂さん? あの、剣豪の桂小五郎さんですか?」
この反応で二人は更に落ち込んだ。
「未来じゃー桂さんのが有名なのか」
「俺を知らないのに、小五郎を知っているのは納得いかん!」
「いえ、坂本龍馬さんも名前は知ってます」
手を振りながら慌ててそう言うと、龍馬は嬉しそうに、ほうか、と笑った。
やはり俺は知らんのかと膨れっ面になる高杉に慌てると、いい薬ですから放っておいていいですよと桂が言った。
「私、剣術を習っているんです。だから剣豪と言われた方の名前を知ってただけで・・・・その、すみません」
「気にしなくていい。僕達を知っているのなら、君はこれから起こる事も、知っているのかな?」
「これから起こる事、ですか?」
うん、と桂は頷いた。
「すいません。歴史は苦手で、坂本龍馬さんも何かを成した人、という程度しか分からなくて。ってことは、ここって江戸時代後半!?」
後の言葉は自問だった。そうだとしたら、幕末の動乱期に来てしまったことになる。
「江戸時代、ね」
嘘を並べたてている様には見えない。着物も夷人ならばと言ったが、実際に袴を作っているのかまでは判らない。
持っていた木太刀の素材となっている柞の木は、そこら辺で簡単に手に入れられる代物でもない。スヌケとなれば尚更希少となる。高価な代物であるから、武士と言えど易々と手に入れるのは難しい。
「剣術を習っているんだったね。どこの流派なんだい?」
「心形刀流です」
「ほう、心形刀流ねえ。どうだ、晋作。やはり幕府の手の者の線はあるだろう?」
「幕府の者?」
「心形刀流の後継者、伊庭八郎は幕府の人間だ。その流派を習っていると言うなら、幕府の者という可能性が高くなる」
「ちょっと待て小五郎! こいつは時を越えたと言っただろうが!」
「そんな事、信じられるものではないだろう」
「俺達を騙そうと嘘を並べて、ここに座って居るなら大したもんだ」
「だから褒めてどうする」
「正直に、ただ自分の身に起きた事を話したにすぎん。それをくどくど考え否定しても仕方ないと言ってるんだよ、頭の堅い小五郎くんにな」
「堅いは余計だ。否定するもなにも、物事には必ず理由がある。必然はあっても偶然はないじゃないか」
「なら、認めろ。こいつが時を越えたとな」
「どうしてそうなるんだ。確証など有りはしないんだぞ?」
困ったと言わんばかりの顔で、和奈の話しを既に受け入れてしまっている高杉に面と向かう。
「ちっくと待っとおせ」
龍馬は相変わらずにこにこ顔である。
「わしらが揉めても仕方ないじゃろ。困ちゅうのは、この和奈さんじゃろからのう」
龍馬は和奈の見て笑った。
「困るというか、なぜこんな事になったのか判らなくて」
「おんしがどうやってここへ来たのか、調べる必要もあるじゃろう」
龍馬も高杉と同様、話しを受け入れてしまっていると、桂は苦笑する。
「それにしても、突拍子もない状況に置かれているのに、えらく落ち着いているね、君は」
「えっと・・・」
自分でも思った事だ。確かに最初は不安を感じていたが、この屋敷に案内されから不安を感じるどころか、むしろ安堵感を抱いている。考えを巡らせていた時も奇妙に思ったのだ。それを改めて指摘されて和奈は答えに困ってしまった。
「不思議なんですが、なんか来た事がある様な無い様な感じがして」
「前にも来た事があるのか!?」
「全くありません! ただ、懐かしというかなんというか・・・変ですよね?」
体を縮こまらせ、俯いた和奈から視線を桂へと向けて龍馬が聞く。
「桂さんはどう考えちゅう?」
「何度も言わせないでほしい。時を越えたなど、確たる証拠もなしに受け入れる道理はない。しかも池田屋の件が起こった日に現れたんだ。僕らの動向を探るべく送り込まれた間者の可能性を捨て切れない。もし間者ならばお粗末だと言えるが、それも一手だと考えると-」
「ああもう! 小五郎は細かい事を気にし過ぎる!」
「それが僕だから仕方ないだろう!」
結局、和奈も含め皆が判らない、と言う状況なのは確かだっだ。
「どうじゃろ、桂さん。ここは一つ、時を越えたちゅうのはおいといて、今後を考えてやりゃあせんか?」
「置いておけるものではないんですが・・・」
視線を高杉に向けるが、拗ねてしまった高杉は後ろでゴロンと寝っ転がってしまっている。
「・・・分かりました。取り合えず話しを進めましょう」
「その方がいいき」
うな垂れている和奈に、優しい口調で桂は話しかける。
「君は今、身を置く所がないんだね?」
「身を置く?」
「宿だよ、寝起きする」
「あ!」
そんなものある筈もなかった。
「君の言う加茂川館という旅籠屋だが、残念ながらこの辺りにはない」
「そうですか・・・」
時間を越えているなら、加茂川館が在ったとしても赤井達が居るとは限らない。そう思った途端、家族の心配そうな顔が浮かんできた。
(連絡したくても、伝達手段がないよね、これじゃ)
「ここで面倒を見てあげると言いたい所だが、慌しくなりそうなのでまずは拠り所を探すことにしよう」
できれば手元に置いて、間者として送り込まれたのでないのか探りたいのが本音だった。
「のう、桂さん。この子んこと、わしに任せてはくれんか?」
これには難色を示さざるを得ない。
「坂本くんと居る方が危険だと思うが?」
「なぁに、ちっくといい処を知っちゅうき。しばらく武市と以蔵をつれて行こうと考えちょったから心配はいらん。それにいい足掛りになりそうやきのう」
何か考えあっての事だと言う事だ。
「・・・解った。和奈さんもそれでいいね?」
「お断りできる立場じゃないので、言われた通りにします」
いい子だと桂は笑みを零した。
「ああ、そうそう。一つして貰わなければならない事がある」
皆の視線が桂に集まった。
「君にはこれより男になってもらう」
「はい!?」
「女子になんちゅうことを言うんじゃ」
「この子は竹林で浪士相手に剣気を出したんだ。京に居るなら町に出る事もあるかも知れない。万が一、新撰組に出くわして剣気など出したら・・・無作法者も居るんだ。斬られるならまだしも、捕縛され責め苦を受けた後に何をされるかくらい、坂本くんにも察しがつくんじゃないか? そんな事になるより、その場で斬り捨てられる方がましだと思うが」
女とばれてされる事ぐらい、和奈にも想像はつく。斬り捨てられるのも嫌だし、そんな事になるのも御免こうむりたい。
「そういう事か」
寝そべって背中を向けていた高杉も、話をちゃんと聞いていたようだ。
「そうじゃのう。なんちゃーじゃ知らん、で通る相手でもないき」
「なら決まりだ。それと、剣術の指南を武市くんにお願いできるかな。どう見ても剣術に長けているとは言いがたい」
「優しいのう、桂さんは」
「えっ?」
久しくそんな言葉など聞いた事はなかった。
「理論的に考えて、得策な事を指示しただけですよ、坂本くん」
ほうかほうかと龍馬は笑った。
「剣は君の背丈に合ったものを用意するので、男らしく皆の前に出るように」
「えっと、男らしくって、どうすりればいいんでしょうか・・・」
「そんなもの、なんとかなる!」
「だそうだよ」
笑った桂は楽しそうだった。
「名前は、そう、村木和太郎でいいね。僕の甥と言う事にしておこう。晋作、解ったか?」
「村木和太郎だな、解った!」
「おまえが一番口を滑らしそうだから、気をつけるように」
思わず和奈は笑ってしまった。
「ん、笑えるならなんちゃーないがじゃ」
「ありがとうございます」
とりあえず落ち着く所がでた様だ。なら、なぜ時を越えてこの時代に来たのかゆっくり考える時間ができる。それに、感じた安堵感がどこから来るものなのか、和奈は知りたいと思った。