其之二 芸州口の戦い・前編
一年以上過ぎて、征伐戦を開始した徳川||家茂であったが、屋代島の敗退は予想外のものとなった。
前回の征伐とは打って変り、戦端を担うはずの諸藩からは反対の意見が続出し、征長軍との意見一致が困難となりつつあったのである。
援軍を要請した安芸浅野藩からも、友誼関係にある長門国との戦争には参加せずと出兵を拒否されていた。
第二次長州征伐軍総督徳川茂承(前和歌山藩藩主)、彦根藩、高田・与板藩・紀州藩・大垣藩・宮津藩と旗本軍の総勢五万からなる征長軍は、大竹口に彦根藩を正面からの追手(敵の正面を攻撃する軍勢)として置き、小方へは高田・与板藩を背面からの攻撃を行う搦め手(陣地などの後ろ側)として配置させた。
岩国港には、長州軍の侵攻を威嚇攻撃するための幕艦三隻を停泊させている。
だが、芸州へ進軍した征長軍は、岩国領の強固な防衛陣の前に、長州への侵攻を阻まれていた。
岩国領当主吉川経幹は、長州藩名代として参じた家老宍戸親基に対する小笠原の仕打ちと、屋代島と安下庄での松山藩の所業を聞き、親藩(萩藩)に対し全力で征長軍と交戦をする事を誓うと親書を送っていた。
「よもや、吉川殿が参戦下さるとは思いも寄りませなんだ」
瀬田口に到着した石川ら長州軍は、本陣を籌勝院に置くと、吉川の元を訪れた。
「前回の征伐回避に関して、我の行動がそなたらの反感を買っておるのは知っておる。しかし、此度の征伐は幕府に義などあらぬ所業と、宍戸殿への仕打ちでそれを知れた。よって、敬親公へは参戦を持し、死を持して征長軍と相対する旨誓っておる故、どうか怨恨なく共に征長軍を退けたい所存であると申す」
「吉川殿のご決意は既に承知しております」
「総指揮はそなたに任す。我が岩国領を好きに動かして見せい」
「はっ。そう言って頂けるならば、我らは臆する事無く戦場へと赴けましょう」
籌勝院に戻った石川らは、休む時間も取らず作戦会議を開いた。
「岩国領兵が関戸へ至る小瀬峠の関門に重柵を作っている。ここだ。その内側に大砲が配置され、征長軍を足止めしてくれている」
「岩国領は軍の主力を集めているのか」
石川は広げた地図を指差しながら、征長軍と岩国領軍の現況を説明して行く。
「小瀬川下流の土橋はすでに落とされ、渡河を困難にしている。妙見山・寺ヶ原村・八幡山、この三箇所にも大砲が設置されいて、地雷火も進軍経路に埋めてあるそうだ」
「これはこれは。吉川殿のお怒りは相当と見えますね」
徹底抗戦を踏まえた布陣に、品川は苦笑を隠せない。
「第一次征伐の時は、斬り殺してやろうと思っていたがな」
伊藤がそれを真剣に考えていたのは堀も知っていた。三家老の切腹で事をすませようとしたのが吉川なのだ、石川達が憤慨するのも仕方が無かった。
「情勢を見てどちらに義があるか、それで行動されるのが吉川殿だと言う事だ」
そう言ったのは佐々木である。
「それは解るが。やはり今回手を貸して来たからと、すんなり納得はできんさ」
「一つ言える事は」
後ろからそう声を上げた武市に皆の視線が向けられる。
「大なるか小なるかの違いだけで、薩摩と長州の関係と同じと言う事だ。過去を引きづり大局を見定める眼を曇らせると、この戦に勝ちは無い」
言葉を詰まらせた石川に、武市は笑いを浮かべた。
「使えるものがあるならば、敵でも上手く使い分けねばならん」
「確かに桂木さんの言う通りだ。伊藤も私怨はしばし捨て置いてくれ」
「ああ。石川さんに言われるまでもない、心得ているつもりだ」
「新撰組も出で来るだろうな?」
それに即座に反応したのは新兵衛だった。
「京に引き返したと言う情報は入ってない。可能性は大いに在る」
石川が怪訝そうに新兵衛を見る。情報を得ていると言う事は、裏で新兵衛が何かしらの動きを取っていたと言う事に繋がるのだ。
「情報収集は俺の得意とするところ。ご心配には及びません」
心情を悟ったのか、新兵衛は事も無げに言った。
「その若さで気苦労ばかりしていると、顔に皺ばかりでき女子に持てなくなるぞ」
武市の一言でそれは困ると顔に手をやる石川。
「桂木さんが保証するなら、俺としては言う事は無い。新撰組の方は征長軍本体と行動していると見ていいか」
石川は再び地図を見下ろし言った。
「ああ。会津藩からの命で動いている。ならば本陣に居ると考えるのが妥当だ」
この戦の規模を知ってもなお武市は動揺していない。この新兵衛と言う男とて同じだった。
「奴らは統制された軍ではない。その動きは新撰組独自のものと念頭においてくれ」
武市の顰められた顔から、幕兵を想像して交戦するのはままならぬものだと理解する。
「独自?」
「台頭するのは近藤勇だが、隊への実質的な指示は副長の土方歳三が出すだろう。土方を筆頭に、正義と決めたら人を斬る事になんの躊躇も示さん。命を賭して勝ちに走る奴らは手ごわいぞ」
伊藤は高杉の言葉を思い出した。
「桂木さんが、うじゃうじゃ集まってるんだ・・・それが新撰組だ」
「はい??」
品川が突然何を言い出すのかと伊藤を見る。山田も大丈夫かと、その額に手を当てるものだから、伊藤は五月蝿そうに手払いした。
「以前に高杉さんに言われたんだよ。品川。桂木さんと村木みたいなのが二百も居たら、どうする?」
「二人が二百!? ごめん。俺、死んでも絶対そっちには行かない!」
「そう言う事だ。ま、死んだら行きたくとも行んだろうがな」
二人の太刀捌きを知る者にはそれで十分な説明だった。
「二百は大げさだ。各隊の組長格と伍長格に数名手練れがいると言うだけで、他は幕兵の腕と大差はない」
そして新撰組を見つけたら知らせて欲しいと付け加えた。
「恋しい相手か。厄介な連中を相手にしたもんだな」
「色々と因縁があってな。向こうも我々が居ると知れば、こちらへ来ると見ている」
「手合わせして見たい気もするんだが、戦争だからな。すまんが、そちらは桂木さんに任せる」
「そうしてくれ」
赤井も居るだろうか、と話しを聞いていた和奈は思った。今からちゃんと覚悟をしておかないと、いざという時動けなくなる。
「これ、村木のな」
石川がそう言いながら、考え込んだ和奈の処へ大きな風呂敷を抱えて持って来た。
「なんですか?」
「服! 桂さんに礼を言っとけよ、士官位の品なんだからな」
「服ですか?」
「さっさと着替えて来い。袴なんぞ履いて出て、撃たれたくはないだろう?」
受取った風呂敷を開いて見る。そこには薄手のフロックコートにシャツ、ズボン、革ベルト、靴紐のないサイドゴアの短靴が入っていた。
(うわぁ。なんか現代っぽい・・・)
「村木は銃兵じゃないから、剣ベルトに垂直差ししておけ」
士官以外は筒袖の上着と立付袴になり、銃兵は剣を横差しにしできるよう銃剣差しがベルトに付けられていた。腰にある大きい鞄は早合(薬莢)入れで、小さいカ鞄は管打ち(雷管)入れになっている。
「で、全部真っ黒なんだ」
「阿呆。夜襲奇襲やるのに白や赤なんか着れるか」
ああ、なるほど。と和奈が納得すると、俺はおまえがよく解らんと石川に言われてしまった。
(赤井くんにも言われたっけ)
「すぐ支度してこいってば! いつ号令が出るかわからんのだからな」
「あ、はい!」
「あ、村木」
部屋を出ようとした和奈を、にやけ顔の山田が呼び止めた。
「着方が解らんかったら、桂木さんに手伝ってもらえよ」
「え!」
よく解ってますとも言えないし、桂木は慌てる事もなく座って居るし、皆はどんな返事が返ってくるのかと言う顔で見てるし。
「ならば手間を省くとしよう」
返答に困っていると武市がそう出たものだから、山田はそれ以上突っ込めなくなり、視線を向けられた石川達もそそくさと顔を逸らせてしまった。
「行くぞ」
和奈の腕を掴んだ武市は部屋を出て行った。
「・・・はぁ~。市之允、変な事振るな!」
「いや、すまん。まさか桂木さんがああ出るとは思わんかったから」
「とにかく、着替えて戻って来るまでは絶対行くな!」
「行けと言われても断らせてもらう!」
ちょっかいを出しに行って、見てはいけない場面になっていたら絶対斬られると、品川が補足する。
「その位にしとけ。あまり二人をからかうな」
堀は真剣にそう言った。
「山田達は直接見てないから解らんだろうが、桂木さんの腕は桂さんにも引けをとらん。優男となめてたら痛い目見るぞ」
加えて今回は得体の知れない新兵衛まで居るのだ。まだ太刀振舞を見たわけではないが、かなりの腕前だと言う事は身のこなしで判る。以蔵とて同じだ。剣道場で稽古をつけていた時には出さなかった気を、出陣してからというもの常に体に纏わせている。
「うじゃうじゃ二百か」
大揉めになるどころの話しではないないと石川は思った。
六月十四日未明。小瀬川河口付近で砲撃戦が始まった。
石川は隊を三つに分けると、各隊に指示を出して行く。
「右隊は中津原から小瀬から川の対岸を進んで大竹へ入れ。中・左隊は山陽道沿いに立戸へ向かい、途中で左隊が立石山を越え、敵の側面へと出る。中隊はそのまま苦ノ坂を直進し、小方から高田藩後方へ出て奇襲を掛ける」
左隊指揮は石川・伊藤が、中隊指揮は堀・品川、右隊指揮は佐々木・山田が指揮を執る。
「高田藩を抜けたら彦根藩に討って出る。隊の進退は逐一伝令を走らせるから、各隊も伝令を出すのを絶対に怠るなよ」
「岩国領兵は?」
「瀬田ではそのまま防戦してもらうつもりだ。右隊が立戸へ向かったら状況をみて加勢に回れ。落ち着いたら油見村へ回り、左・中隊と合流する。その際、岩国領の砲台は生きたままで、最低限で小瀬川渡河を防ぐよう伝えてくれ」
「解った」
海を壁にして逃げ場を失くす、屋代島でも執った方法だ。
「沖に停泊する幕艦も、まさか自軍に砲撃はするまい」
地の利はやはり我らにあると、堀達は受け持ちの隊へと向かった。
「征長軍は玖波に本陣を置いている。桂木さんら四人は右隊に加わってくれ」
「承知した」
洋装の武市は一つ束ねていた髪を斬り、隻眼を隠していた前髪も短くし革の眼帯を付けていた。
「やっぱ色男ですよね、桂木さん」
品川がこそっと堀に耳打ちする。
「惚れるなよ」
「ないない、それはない!」
「五月蝿い!」
佐々木に怒鳴られ、ほれ、と堀に小突かれた品川は黙って頭を下げた。
「進軍したら各個それぞれに指揮は任す。皆、死ぬなよ」
互いに頷き合うと隊を引き連れ、籌勝院を出立した。
関戸から小瀬川を超えた中津原で右隊と左・中隊の二手に分かれるた。さらに木野村の枝村に着くと左隊は中隊から離れ、山間部へと足を進めた。
「山を越える間休憩を取らん。そのつもで付いて来てくれ」
石川は足を進めながら、後ろから来る和奈達に言った。
「はい」
山の夜は足元から寒気が体を伝い上って来る。洋装に着替えたとは言え、シャツの中にもう一枚着込むんだったと和奈は後悔した。
「なぜ洋装なんですか?」
「こんな山ん中、袴なんぞで動き回れると思うか?」
「地形に合わせてか」
「それだけじゃない。戦闘中に指揮官の位置を把握しながら兵士は動く、フロックコートは指揮官を識別させる為だ。それに、甲冑なんぞ着てたら走り回れん。あの派手な陣羽織もそうだ。どうぞ狙って下さいと、自分から的になりに行くようなもんだ」
「なるほど。でも、僕は指揮官じゃないですよ?」
「陣頭で指揮を執る俺が死んだら、桂木さんに隊の指揮を執ってもらうつもりだ。おまえはいつも桂木さんの近くに居るから目印になるんだよ」
「目印ぃ!? 僕目印役なんだ・・・って、それは置いといて、縁起でもない事言わないで下さい!」
「縁起もなにも、それが戦だ。銃を持っているのは征長軍だって同じなんだぞ? いつ何処から狙い撃ちされるか解らんだろうが。不測の事態で指揮官を欠いた隊はじきに崩れる。その為の予防策だと思ってくれ」
戦術を論じて見せた武市は、一度でも隊の指揮を執った事が有るはずだ。以蔵と新兵衛の二人とも連携を取りながら動ける男だと石川は考えたのだ。
「そうならん事を祈っておいてくれ」
不安気にしている和奈の頭をポンと叩いた。
苦の坂峠へと進み、小方村へと出た中隊は、大小砲を配置させ、銃撃隊を本隊から離して高台へと向かわせた。
配置完了の合図が届くと、堀の号令で、高田藩軍陣の背後へと攻撃が開始しされた。
高地と小方の兵地に配置した山砲も、征長軍目掛けて挾撃を始める。銃撃隊は本隊が交戦に入ると両脇樹間より一斉射撃に移った。
高田藩軍は、足回りの速い長州軍に翻弄される形となった。歩兵からの攻撃と、頭上から降り注ぐ銃弾になす術もなかった。
石川の言った通りだった。甲冑を来た兵士と、筒袖の上着に立付袴という軽装の長州軍では、立ち回る速さが違う。道がなくとも林間を駆け巡るのも容易ならば、乱戦となった戦場を縫うように駆け回るのも容易なのだ。おかげで幕兵は攻め込まれる方角を定められず、高田藩は応戦とごろの騒ぎではなくなっていた。
麓と海辺での戦闘に苦戦を強いられた高田藩軍は、退窮まり陣を守備するどころか、戦意を喪失し始めると、戦況を劣勢と取って本陣への撤退を決定した。だが後退するのも命からがらであり、小方から玖波へと敗走した時には、無傷の者が誰一人として居なかったと言う状況だったのである。
こうして、中隊の戦闘はあっけなく長州軍に軍配が上がってしまった。
高田藩の敗走の原因の一つは、幕艦からの援護が無かった事だ。征長軍艦隊は海上より砲撃を行い、歩兵部隊を上陸させる手筈となっていた。しかし、その砲塔は一度も火を吹く事は無く歩兵部隊の上陸も行われず、援軍を欠いての撤退となってしまったのである。
「えへへ」
中岡は甲板で満円の笑みを浮かべながら、戦火が見える陸地を眺めていた。
「三隻くらいなら、この艦一隻でも十分奇襲は可能だ!」
高杉から、奪取した幕艦の指揮を任された中岡はその進路を長州軍に合わせ、岩国領を望める海域へと入っていた。萩本藩と岩国領の離間工作を征長軍が行っていると、間者からの知らせが中岡の元に届き、その不意を付かれ攻撃された幕府艦隊は陸地への援護を逸したのだ。
「まっこと、こけばああっけなく行くと怖いものがあるなあ」
谷も信じられないと言った顔で視線を中岡に合わせている。
「頭の古い征長軍には、俺達の行動なんて予測すら立てられないだろうな」
「おんしも凄いが、たった千やそこらの軍勢で、数万の幕兵を相手にするっちゅう長州軍のが凄いぜよ」
「倒幕のために戦の一字があるのみ。ここで負ける訳には行かないんだ、長州も俺達も」
中岡は動ける幕艦への砲撃を再び命じた。
右隊が目指す大竹では、小瀬川を渡らせまいと岩国領隊が彦根藩軍と攻防を展開していた。
佐々木が川沿いに岩国領軍が戦闘を展開する一帯にやって来ると、すでに地獄絵図と化していた戦場が広がっていたのである。
地雷火が所々で爆音を轟かせ黒煙を上げる中、数百人という人間が煙に咽せながら烈火から逃れようと右往左往して居る。
通る地面には、腕を失った者や足を無くした者が、呻き声を上げながらのた打ち回っていた。
設置された地雷火の位置は、すでに岩国領軍から来た伝令によって把握している。味方が巻き込まれる事はないが、注意は怠れない。
この地雷火の設置は、岩国城下にて徴募された農商兵神機団が敷設を担っていた。吉川の怒りはそれほど大きいものなのだと、佐々木は眉を顰めるしかない。
身の毛もよだつとはこの事だと、山田は嗚咽を堪えた。
「佐々木さん! 降伏して来る者が居るんだが、どうしたらいい!?」
いつもは優しい表情をしている品川も、今はその顔を強張らせている。
「無闇に殺すな。捕虜として捕らえるだけにしろ。但し、戦に駆り出された諸藩の兵士だけだ。幕兵に容赦はいらん」
全隊へ、降伏してきた敵兵は殺さず捕虜にしろと伝え、負傷者は自軍の陣に誘導して手当てを行えと付け加えた。
岩国領軍の援軍に加わった右隊は僅か三百四十名。その三十名が銃隊だ。
右隊は側面から彦根藩軍へと前進しながら、五十名をその場に置き残りは前進する。そしてまた一定間隔の位置で五十名を置は進む。それを五回続け最後の五十名を置くと、残り六十名が突撃する。四刻半経つと先陣を切った隊は最後尾へと戻り、次の隊が配置に付く。それを繰り返しながら戦線を上げて行ったのである。
側面から右隊の奇襲を受けると彦根藩軍勢は乱れ始めた。
大竹村に在る千もの家屋から火の手が上り、その中を逃げ惑う様に彦根藩軍勢が新開へと逃れ始めた。
勢い付いた長州・岩国領軍の追撃は止まなかった。
逃げ切れないと判断した兵は、陸地の撤退を諦め船で海へ逃げようと海岸へ殺到する。だが、我先にと船に乗り込み、定員を超えた船は次々と転覆してしまった。
逃げ場を無くし、地雷火を避けようと海に飛び込む者や、火で熱くなった甲冑を脱ぎ捨て山へと逃れる敵兵の姿も在った。
大竹口での戦闘は凄惨を極める中、征長軍が敗北を喫した。
木野村から立戸に入った左隊は、小方から油見村の彦根藩へ逃れて来た高田藩と交戦になった。
敵を分断するつもりで隊を二つに分けたのだが、石川が思っていたより戦線が小方よりになっているらしい。
「中隊は上手く後方に付けたようだな」
右隊側には岩国領軍が居る。未だ小瀬川を敵兵が越えたという伝令は来ていない。持ち堪えている以上、このまま進んでも問題はないと隊を進める。
「固まらず、三十名ずつで進め。先発は無理せず駄目だと思ったら後退しろ」
堀が執ったのと同じ戦法である。ここが平地と山岳という立地ならば、散開戦術の方が地の利に適う。
和奈は先の挙兵の時よりも壮絶な光景を見て、やっとの思い出喉の奥に唾を飲み込んだ。もう喉はからからに乾ききっている。血の匂いと硝煙で、目も耳も利かなくなっていた。
「気を散らすな。相手も銃は持っているからな」
「解ってます」
声がかさつき、枯れ声になっている。
「石川さん! 敵兵が小方へ後退します!」
後退して行く先には堀の中隊が居る。そしてその先には征長軍の本陣が在る。
「石川、幕兵の姿が見当たらないぞ」
武市が辺りを見回し、そう石川に告げる。
「藩兵に任せっきりで、高見の見物か」
「堀隊と合流する事を勧める。幕兵まだ無傷だ」
石川は伝令をすぐさま中隊へと走らせた。
足を進めて行く道や、その脇の木立にはおびただしい数の甲冑が脱ぎ捨てられている。そればかりか大砲もそのまま置き捨てられ、小銃や槍も散乱していた。なりふり構わず逃げ出した様子がありありと残っている。
陣を構えていた場所では兵粮も残されていたが、石川は手を付けさせず歩兵に回収を命じた。
中隊と合流した左隊は、征長軍の本陣がある小方の先の玖波へと入り陣地を構えた。
後から大竹口より右隊・岩国領軍が到着すると、作戦を練るため石川は各隊の頭を集めた。
竹筒に入ったわずかな水と握飯が一つ、皆に配られている。
「幕艦からの砲撃や動きが無いのが気になるが」
佐々木は疲れた顔を火に向けたまま言った。
「海からの砲撃は無謀だと解ってるんだろうさ」
自軍を巻き込み兼ねないのだ。本当に馬鹿でもない限り、それはないだろうと堀が笑う。
「だろうな。今そっちの様子を探らせている。伝令から届く報告如何では、さらに幕兵が増えると覚悟しておいてくれ」
後は銃隊の配置だな、と色々な方向を検討して行く石川達を、和奈は座って眺めていた。
戦の知識も戦術も無いのだ、武市の様にその輪へ加わって行く勇気など沸くはずもなかった。
だから大人しく手にした握飯を口に運んだ。お腹は空いてなかったが、桂の言葉を思い出して口に詰め込んでいるのだ。
【無理してでも、食べれる時にはちゃんと食べておきなさい】
あの時は食べる事を放棄したが、今はそな事をしている場合ではない。体はそれを解っているようで、握飯を手にした手が自然に口へと動く。
「疲れたか?」
側に戻って来た武市が心配そうに顔を覗き込んだ。
「平気・・・とは言えませんが、平気です」
「おかしな事を言う。食べれているならば、心配いらぬな」
以蔵と新兵衛も輪から抜け、二人の所へとやって来た。
「おまえは桂木さんから離れるな。新撰組を見つけても、絶対一人で飛び出すな」
そう釘を刺す以蔵に、おまえもだと武市が言う。
「いえ。この四人、です」
そう言って苦笑する新兵衛に、武市も苦笑を返す。
「幕兵は長州軍と岩国領軍に任せる。我らは新撰組隊長格を捜す。一班の隊士はさして問題とはならぬだろうから相手にしなくていい」
「言いますね」
「大方、土方くんもそう思っているさ」
だが土方とて、自分達がこの戦闘に加わっているとは知らないはずだ。長州軍に習い、不意を仕掛ける為にはこちらから見つけねばならない。
「それが出来れば、ですが」
数万の軍勢の中で、数人の人間を探し出すのは至極至難であろう。
「いや、すぐ見つかる。奴らは羽織を着ているだろうからな」
「こんな時までですか?」
「こんな時だからこそだ」
そういうものなのか? と和奈は不思議に思った。
「誰が居るか解ればよいのだが。土方くんの事だ。事後を考え組長格を全員つれて来ず、数人は京に残しているだろう。各組頭中で出て来るならば・・・土方には和太郎、沖田には私、新之助は永倉、田中さんは斉藤を頼む」
「人斬りの方はどうしますか?」
「四人のうち誰かが相手を仕留められれば」
それも困難だろうがと、考え込む。
「今言った四人の内、誰かが欠けていればその時また指示を出す」
「はい」
「いい子だ。飯を食べたら少しでも寝ておけ。いつ戦闘になるかわからんのだからな」
ごろんとその場に寝転ぶ以蔵、それもそうだと新兵衛も体を横にする。
「野生児だ・・・」
「おまえな!」
寝転んだ以蔵が上半身を上げたが、武市に一瞥されてしまい、ぶつぶつ言いながら自分の腕を枕に背を向けてしまう。
剣を抱え、近くの木の下に場所を確保すると和奈は目を閉じた。
京から大津へ行った時も、こうして木の根元で寝たなと過去を振り返る。
(過去?)
一年以上も前の事を過去だと振り返る自分に、今更ながら驚いた。
なぜ家族が恋しいと思わないのか。その理由は和奈自身にも解らなかった。