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幕末奇譚 『志士 狂桜の宴』  作者: 夏月左桜
奇譚八幕 縷縷綿綿
33/89

其之四 寺田屋事件

 鈴の音。

 あの月夜の日を最後に聞くことのなかった音。

「和太郎?」

 なぜ、今聞こえたのだろう。

「いえ・・・なんでもありません」

 あの時と同じく、鈴の音の元はどこを見てもなかったし、武市らには聞こえなかったようだ。

 そこにドタドタと駆けてくる足音が聞こえた。

「誰じゃ、ほたえとうのは」

 いきなり障子が開き、お龍が袷一枚の姿で飛び込んできた。

「なにんちゅうかっこで入ってくるがか」

「龍さん! 役人が外に!」

 その言葉で武市は脇に置いていた剣を腰に差し、龍馬は行灯の火を消すとお龍の手を取り後ろへやった。

「足を掴まれたか」

 そっと障子を少し開けると、伏見奉行と書かれたいくつもの提灯が見えた。

「まずいな」

 幾つもの足音が部屋へと近づいて来る。

「ああ、まずいのう」

「暢気に構えるな!」

 以蔵の言葉に和奈も鞘に手をやった。

 開いた障子がさらに大きく開け放たれ、捕方が戸口に立ち中を見回した。

「伏見奉行所である。坂本龍馬だな? 幕府への不逞行為によりおまえ達を召捕る!」

 捕方が足を動かした瞬間、武市の剣が一閃し、相手の体に食い込んで赤い線を刻んだ。

「下がれ!」

 間髪入れず出した右腕を返し、左へと薙ぎ払う。

「こやつ!」

 戸の影から一人が上段に構えて武市へと斬りかかる。

「くっ!」

 その腰から肩へと和奈の剣が振り上げられた。

「退かねば斬って捨てる!」

 武市の怒声に数人が階段を転げ落ちて行くが、そこにはまだ十数人の捕方が居る。

 多勢に四人では突破して階段を下りるのは難しい。たとえ降りれたとしても上下で挟まれれば退路を絶たれる。

 一斉に捕方が動き、部屋へと雪崩れこんで来た。

 以蔵は先頭に出ると必至で捕方を押さえに掛かる。

 和奈も対峙する相手を斬りながら、なんとか部屋から追い出そうと足を進める。その横で武市は鍔迫り合いをしていた捕方の腹を蹴った。

 ガァーン!

 いきなり耳を(ろう)する音が寺田屋全ての物音を消した。

「こりゃあたまげたぜよ」

 後ろを見ると、手に小さな銃を持った龍馬が耳に指を入れていた。

「なぜそんな物を持ってる!」

 武市が怒鳴り、進み出て来た龍馬は和奈との間をゆっくりと出て行くと、以蔵を後ろへ押しやった。

「わしはこれの扱いになれちゃーせんから、どこに当たるか解らんき。怪我しとうなかったら、ここを通してくれんか?」

 だが捕方達は我を取り戻し、止まった動きを再開させた。

「出るな龍馬!」

 以蔵はその肩を掴んで引き戻そうとしたが、龍馬はもう一発、階段に向けていた銃の引き金を引いた。

「うわぁ!」

 体には当たらなかったものの、闘志を損なわすには十分だった。

「耳が壊れるから止めろ!」

 左手で耳を塞ぐ以蔵。

 武市は止まっている捕方の腕を切り落としながら、龍馬の背に自分の背をくっつけた。

「そんなもん役にたつか!」

 連射できない手銃では、せいぜい数名を殺れるだけだ。弾がなくなれば事態は元に戻ってしまう。

 それは捕方達も解ったのか、包囲する距離を詰め始めた。

「いらん事をゆうがやないぜよ」

 一度は階段近くまで進めたが、気を取り戻した捕方に再び部屋へと押し戻される。

「ここは一旦退く!」

「おう! それしかないみたいぜよ」

 ザクッ!

 視線を一瞬そらした龍馬に、捕方の振った剣が下ろされる。

「!」

「阿呆が!」

 咄嗟の事に、龍馬は剣でなく手にしていた銃で受け止めたのだ。

「龍馬さん!」

 和奈は背後から捕方の背中に剣を振るい、手を抑えている龍馬の前に立つ。

「ここから下へ行け!」

 武市が部屋の隅の壁を蹴り飛ばすと、黒い空間が現れた。

「急げ!」

 以蔵は壁に出来た穴を背に捕方へと剣を向ける。

「ここは俺が食い止める! さっさとその馬鹿を連れて下へ行け!」

 手から血を滴らせている龍馬を抱えるように、まずお龍が穴へと入って行く。

「おまえも来い!」

 和奈の手を握り、無理矢理に穴へと連れ込む。

「行ってくれ!」

 以蔵は穴の入口で出て来る捕方を斬り捨てて行く。

 階段を急いで下りた武市は上を見上げた。

「来い!」

 武市の声で、剣を薙ぎに払った以蔵が階段へと滑り降りて来た。

「落とせ!」

 以蔵の声と同時に、武市は階段の一段目へと足を思いっきり踏み下ろし、階段が蛇腹の様に落ちた。

 巻き込まれた数名の捕方が地面へと落ちて来た。その腹に剣を突き差した以蔵は、崩れた階段を脇へやると、引き戸を閉めて閂を下ろした。

「下へ!」

 座り込んだ武市が地面に置かれた木の板を持ち上げると、ぽっかり地面に穴が開いているのが見えた。

 そこへ龍馬とお龍が滑り込む。

「俺はここから外に出て奴らを引き付けます」

「頼む」

「一人で!?」

「問答する気はないぞ!」

 半ば落とされるように背中を押された和奈の後を、武市が降りて行く。

 以蔵は板を戻すと上に土を被せ、寺田屋の裏へ出る戸から外へと踊り出した。


 穴を降りると、人一人が通れる空間が横にずっと続いていた。

「ここから川の欄干下に出る。小船が在るから、お龍さんはそれに龍馬を乗せて行け。濠川と合流したら左へ上らねばならんが、櫂はつかえるか?」

「使えずとも、やります」

 穴の出口の簾を潜ると真上に欄干が在った。目の前に縄で手結われた小船が流れに揺れていた。

「流れはきつくないはずだ。伏見藩邸の横に着いたら大久保さんに庇護を頼め」

 二人が乗り込むと、そこに寝かせて上から茣蓙(ござ)を掛け、紐を解いて足で押し出した。

「行くぞ」

 欄干は寺田屋から一軒ほど離れた処に在った。

 土手を西へと進み、一つ目の通りの処で登ると右手に視線をやる。

 まだ幾人かの捕方が見えたが、まだこちらには気付いていない。

「岩村さん大丈夫でしょうか?」

「今はその心配より、早くここから離れるのが先決だ」

 路地へと走った処で、目の前に人影が現れ武市が足を止めた。

 薄っすらと月の光りで口元を隠した顔が浮かび上がる。

「田中さん?」

 くいっ、と首を振り走り出す新兵衛の後を、二人は急いで追いかけた。

「なぜ?」

「戻ったら幕府が動いているからと監視を頼まれました。まさか奉行所がこんなに早く出てくるとは思わず、先手を打てず申し訳ない」

「いや、俺達も注意を怠った。手を煩わせて済まぬのはこちらだ。我々より龍馬を頼みたい」

「舟には半次郎が付きましたからご心配なく」

 油掛通に突き当って左へと折れ濠川に出ると、橋を渡り右へと方向を変えた。

「ちっ!」

 武市は腕を上げて和奈を止めた。

 その腕から前を見た先に、水浅葱色の羽織が在った。

 向こうもこちらに気付いたらしく、歩みを進めて来る。

「こんな時に厄介な相手と出くわすとは」

「一番隊だ」

 見知った顔が三つ。土方と沖田、それに赤井が居る。

「こんな夜更けにどうした?」

 腕を組んで居るが、いつでも斬り込める気迫を土方は漂わせていた。

「なに、道に迷うてしまっただけです」

 さらりと返答した武市に目を細める。

「ほう。山道でもない京で道に迷うとは、また珍しい人間も居たもんだ。なあ、村木よ」

 武市の横に居るた和奈を見て、自分の推測は当たっていたと笑いを浮かべた。

「お久しぶりです土方さん。いつぞやは、ありがとうございました」

「ちゃんと礼が言えるようになったか、大したもんだ。で、少しは腕も上げたのか?」

 沖田が土方の横に出て来る。

「残念だけど、甘味屋仲間が減っちゃいますね」

 隊士は五人。土方と沖田だけならばなんとか逃げ切れる数だが、隊士の内一人は人斬りと異名を持つ大石だ。すんなりと通してはくれないだろう。

「他の奴はどうでもいい。沖田は俺が、新兵衛さん、申し訳ないが大石を頼みます。和太郎は土方、できるか?」

 小声で武市は言った。

「はい」

 できる、とは思えなかったがやるしかない。

「賢明な振り当てだが、沖田の三段突きにはご注意を」

「承知している」

 土方が利き足を出して半身になる。

「こそこそ逃げる算段かい?」

「さて、なんの事やら」

「おいおい。返り血浴びた格好でなにを寝惚けてやがる」

「さしずめ、寝込みを奉行所に襲われて逃げて来た、ってところですかね」

「おまえ、誰だ?」

 手配書の人相書きに片目の男は居ない。横に立つ男も見知らぬ奴だったが、発する剣気は並ではない。

「通してもらえぬなら、無理を強いて通るまで」

 和奈はまた、土方と沖田の放つ剣気に当てられていた。

 一呼吸ついて腰の剣に意識を向ける。

 ここで臆する訳にはいかない、なんとしても無事に藩邸へ戻らなくてはならないのだから。

 鞘に手を当て、剣に心を重ねる。

「下がってろ、邪魔すんじゃねぇぞおまえら」

 土方が後ろの隊士に言うと、顔を見合わせながら隊士達は遠巻きに距離を取った。

「!」

 その瞬間、和奈の足が地面を蹴り、振り向いた土方の懐に飛び込んでいた。

「なっ!」

 脇差を抜いて和奈の剣を止める。

「おまえ・・・」

 見下ろした和奈の目にぞくりとする。

 和奈が出たと同時に、武市も沖田との間合いを詰めていた。

「得意の突きも間合いがなければ出せまい」

 顔の前で剣を受けた沖田の顔が歪んだ。

 キン!

 新兵衛も大石と打ち合いになっている。

 幾つもの剣戟音が辺りに響き渡る。

 時間を費やせば捕方に見つかる可能性は増えてしまう。そうなれば形勢は不利となり、ますますこの場から逃げおおせる機会が無くなる。

 土方は平突きを和奈の胸に向けて出すが、紙一重で交わされ背後を取られた。

「ちっ!」

 たった一年でか?

 人を斬って震えていた男とはまるで別人になっているその姿に、土方は驚愕を隠せなかった。

「なんの冗談だ?」

 振り向き様に受けた剣越しに、土方は呟いた。

「この俺がてめぇなんざに後ろ取られるとはよ!」

 振り上げた手を即座に振り下ろす。

「くっ!」

 上体を反り交わすと、後ろに出した足から重心を前に移し、剣を鞘に納めて間合いを取った土方に飛び出した。

 平突きの構えを取って、迫って来る和奈に狙いを定めて突き出すが、その剣は姿勢を低く取った和奈の髪の毛を掠っただけに終った。

「ぐあっ!」

 抜刀と同時に土方が後ろへ飛び退いた。

「土方さん!」

 赤井の声が聞こえ、座り込んでいる土方との間に立った赤井を睨む。

「ったく! なんだってんだ!」

 土方は利き足の脛を斬られ、覚束ない足で剣先を地面に刺し立ち上がった。

「出てくんじゃねぇって言ったろ!」

 赤井に怒鳴りつける。

「その足じゃ無理です!」

 剣を抜いて構えると、和奈を睨みつけた。

「どけ」

 発せられた声はいつもの和奈の声ではない。

「どかないなら、斬る」

 大津で見た、あの時の和奈だと赤井は悟る。

 次の瞬間、和奈の顔が目の前に在った。

「赤井!」

 腕を引っ張り、土方は和奈の横薙ぎを止めた。

「てめぇにゃ無理だ!」

「土方さん!」

 腕を払われて体がよろけ、上げた視線の先に膝を付いて座り込んでいる沖田が見えた。その前には武市が立っている。

「ちくしょう!」

 走り出す足に力が入らない。

 和奈に恐怖したのではなく、その場を包んでいるいくつもの剣気を感じ取り、体が萎縮し始めているのだ。

「沖田さん!」

 傍らに駆け寄り、ただ立っているだけなのに斬り出す隙がない武市に、振るえる手で持った剣を構えた。

 武市は赤井に感心を向けることなく、蹲った沖田に聞いた。

「その咳、労咳か?」

「!」

 沖田は、口の周りにべっとりと血の付いた顔を武市に向けた。

「なんだその目は・・・なにが言いたいんだ!」

 赤井を横へ突き飛ばし、立ち上がり様に武市へと斬りかかる掛かる沖田。

「僕はまだ戦える! 戦えるんだ!」

 何度も打ちに掛かる沖田から、普段の冷静さは失われていた。

「剣で戦う事だけが武士ではあるまい」

 鍔を交えていた沖田の顔が驚き、剣を振る手が止まる。

【剣がなくても、武士は武士である事ができるんだよ】

 山南の声が耳元で聞こえた気がした。

「五月蝿い!!」

 なぜ山南さんもこの男もそんな事を僕に言うんだ!

「がはっ!」

 一瞬できた隙を見て、武市の左手が沖田の胸を打った。

「ごふっ! ごほっ、ごほごほっ!」

 胸を抑えてその場に座り込み、激しい咳を繰り返す。その手の間から血が地面に滴り落ちた。

「沖田!」

 それを見た大石は、新兵衛の剣を避けながら近寄って来ると、肩を抱かかえて武市から離す。

「しっかりしろ!」

 注意が逸れた瞬間を逃さず、武市は新兵衛の腕を叩くと土方と対峙している和奈へと駆け寄った。

 ギン!

 土方は、利き足を斬られているせいで思うように動けていない。

 二人が距離を取ったところに、武市が割って入った。

「和太郎、退け」

 左手で和奈の体を後ろへ押す。

「邪魔すんじゃねぇ!」

 立っている土方の足には血が付いている。

「土方くん。その足では十分に戦えぬだろう」

「余計な心配なんざいらねぇよ」

 足元に流れ落ちた血が溜まっている。強がっているが、傷は深そうだ。

「すまないが、我々もゆっくりしておられぬのだ」

 そう言った武市は、利き足を使えない土方の懐へ入ると剣の柄で突いた。

「ぐっ!」

 腹を押さえて土方が座り込むと、和奈の腕を取って武市は路地へ駆け込んで行く。

 大石と対峙していた新兵衛も、間合いを一気に空けてから、別の路地へと駆け込んで行った。

「待て!」

「お・・・いし! 追わなくていい!」

 息も絶え絶えに、土方がそれを制止する。

「死に急ぐ必要はねぇ」

 追わせたところで、返り討ちにされ死体になることはあっても、あの三人を大石が一人で止めきれるとは思わなかった。

「俺がこの様か・・・」

 和奈の抜刀の早さは並ではなかった。一年やそこら稽古しただけで、あれほどの剣速を出せるとは信じ難い事ではあった。

「沖田は?」

 胸の打撲と咳のせいで気を失っている、と大石が言う。

「坂本も見つけられず手負いにされるとは、土方って男も情けないな」

 腹立たしそうに土方は言い捨てた。

「あの二人、かなりの剣客だ」

「馬鹿野郎、三人だ」

 病を押して出て来た沖田を責めるつもりは無かったが、常人であったなら捕縛は出来ていたはずだ。

 土方は拳を握り締める赤井を見た。

「まだまだ稽古はいるよな?」

「は・・・い」

 弁解できない言葉だった。太刀打ちするどころか、なにも出来なかったのだから。

「戻るぞ」

 足の傷を縛り、土方は大石に沖田を担がせると屯所へと戻って行った。


 半次郎によって藩邸へと担ぎ込まれた龍馬は、西郷が派遣した医者の治療を受けていた。

「もう少しで指がなくなるところだったぞ」

 布団に寝かされた龍馬は、出血のために意識を失っている。

「ありがとうございました、大久保様」

 お龍が手を付き頭を下げる。

「礼などいらん。半次郎、木戸殿に事を報せて来い。この大久保が責任を持つから動くなと添えてな」

「はっ」

 新兵衛を和奈達に付けたのは正解だったらしい。ただ新撰組とかち合えば、新兵衛の顔を知られる事になるのだが。

「そうなると、薩摩に戻さねばならんな」

 手ごまが減るのは痛いが、ここで和奈達を斬らせる訳には行かなかった。

 それから半刻(一時間)後、和奈達は藩邸へと着いた。さらに半刻経って後、以蔵も無事に姿を見せた。

「皆、無事でなによりだ」

 武市は横に眠る龍馬の具合を聞き、一命を取り留めたことを聞かされ安堵に肩を下ろした。

「しかし時間がかかったな、新兵衛」

 新撰組に出くわし、念のため迂回して来たので時間がかかったと説明した。

「そうか。一番隊に土方くんとは、運が悪かったな」

「伏見奉行の動きに合わせていたのでしょう」

「だろうな。先に掴んでいたら、君達は寺田屋で死体になってたやも知れぬからな」

 血に塗れている和奈の前に座り、にっと口元を上げる。

「おまえは私の忠告をちゃんと聞いていたのだな」

「忠告?」

 大久保は腰にある剣を指差した。

「あ、あれですか」

「他に忠告なぞした覚えはない」

「まだまだ心もとないが、自分なりに解釈したようです」

 武市が代わりに答えた。

「ふん。君や木戸くんの助力も大きかろう。いずれにせよ、私の言葉をちゃんと聞く子には褒美を出さねばならんな」

「はい?」

「風呂を沸かさせているから、とっとと行って着替えて来ぬか。ついでに着物も用意させた、有り難く思え」

 はい! と答えて慌てて飛び出した。

「何から何まで忝い」

「気にするな。で、桂木くん。赤井という男、どうだった?」

「今のところは何も喋ってはおりますまい。私を見ても何も口にしませんでした。ただ、今回の件でどう動くかは予想だにしておりません」

「斬らなかったのか」

「相手が土方と沖田では、私とてそう容易くは斬れません」

 斬る機会はあったが、とそれは言わないでおいた。

 質問の意味を説明するまでもなく答える男を見て、やはり先の襲撃には桂が絡んでいたと確信を得た。

「そうか」

 これでまた手を打たねばならない。

「一先ず、君も風呂場へ行き、その格好をなんとかしたまえ。ああ、岩村くん、もちろん君もだ」

 しっしっ、と手を振り二人を追い出すと、大久保は寝息を立てている龍馬に視線を落とした。


 布団の上で、土方は薩摩藩邸に出してた密偵の死亡を聞いた。

「今日の朝、宇治川に浮かんでいたそうです」

 赤井は近藤に命ぜられて土方の看護に付いていた。

「二本松の方は?」

「未だ連絡はありません。近藤さんは、賀茂川か高野川にでも上がるんじゃないかと言ってました」

 怪我をした右足を摩っていた形相が、般若の如く変わる。

「で、捕方の連中は?」

「それが、藩籍不明の浪士四十人と斬り合いになり、追跡してた男を逃がしてます」

「なんだそれは!」

「戦闘があった場所に八番隊が到着した時には、すでに捕方の大半は斬られてたそうです。藤堂くんが言うには、統制された一団だったって」

「統制? おい、藤堂を呼んで来てくれ」

 浪士四十人が夜中に徘徊し、役人相手に乱闘などこれまでに無かった事だ。統制されたというのも気になった。

 藤堂が部屋へ来ると、早速話しを聞き出した。

「捕方相手に、扇状の陣形を幾列も構えてました。そこらへんの浪士なら、俺達を見たら斬りかかって来るでしょう?」

「力量も測れない馬鹿が多いからな」

「なのに動じもせず、俺達が加わろうと駆け出したら、後ろに居た一人の号令であっという間に逃げられた。引き際を心得てるってか、あれはただの浪士じゃないっすよ」

「・・・薩摩」

「うわっ、それありっすか?」

 薩摩なら伏見奉行の動きくらい手に入れるのは容易だろう。

「てか、なんで薩摩が坂本のために動く必要がある?」

 いや、村木か?

「で、薩摩藩邸には誰が付いてる?」

「それが、近藤さんは出したいって言ったらしいっすけど、これ以上の犠牲は出したくないって、伊東さんが近藤さんに噛み付いて。仕方なく同意して誰も出てないっすよ」

「また伊東かよ!」

 うろうろと動き回る男に腸が煮えくり返る。

「捕方を襲ったのが薩摩という根拠がないって。それ言われたら、近藤さんは何も言えないっすよ」

 確かに根拠も確証もなかった。だからと言って、監視させない手はないのだ。

「すんません。俺、伊東さんの腕を買って新撰組に紹介したのに、土方さんの邪魔する羽目になって申し訳ないっす」

「おまえのせいじゃない。いらんこと気にすんな。それより、伊東を説き伏せて見張りつけねぇと、坂本に逃げられるぞ」

 もう手遅れかも知れない。

「ああ、坂本ですが、負傷したらしいっす」

「手負いか」

「はい。両手斬られたみたいっすね。寺田屋を改めた役人は、血の量からかなりの重症と見てます」

「部屋まで押し込んどいて逃がすたぁな」

「坂本含め、たった四人だけだったらしいっすから、面目丸つぶれでしょう」

「俺達に報せとけば、今頃河原に坂本の首が乗ってたってぇのに・・・・・ちょっとまて、四人だと?」

 昨夜の三人と坂本で四人。そして捕方が逃した男。

「ええ。捕方が確認してます。三人の志士と坂本の女らしいのが居たって」

「数が合わねぇ。逃走を手引きした奴が捕方を曳きつけたか、あの三人の誰かがそうなのか、か」

 そこに意外な事を告げに沖田が現れた。

「なんだ、手配書じゃないか。どした?」

 差し出された紙を見て訝しむ。

「岡田以蔵ですよ」

「んなこたぁ解ってる!」 

「奉行所が寺田屋に居た奴の似顔絵を作ったんです」

 もう一枚の紙を畳に置く。

「髪型と服装は変わってますが、間違いないですよこれ」

 ばつ印のついた手配書を横に並べる。書き手は違うが、特徴は確かに一致していた。

「岡田が居たなら、捕方十数人くらいだと逃げられても仕方ないですね」

「土佐で打首獄門になったんじゃなかったか?」

「ええ、ちゃんと首も晒されてます」

 煮えたぎらない湯のように苛々が募っていく。

「土佐まで絡んでるってか!」

「それは無くなりました、一応。奉行所が土佐藩邸に確認に行ってます」

「で?」

「岡田以蔵の斬首は藩主山内殿も確認しており、紛う事なき事実、と突っぱねられたそうです」

「くそっ! ここまでくりゃ、西国の諸藩は敵だろと考えるしかねぇな」

「そんな強引な・・・九州五藩も四国四藩も幕軍に付いてますし、浜田藩藩主は慶喜殿の実弟、松平武聰殿が藩主なんですよ? 滅多なこと言わないで下さい」

「薩摩は違うだろう」

「ただ出兵を拒否しているってだけです。今のところは」

 手詰まりだった。とにかく、伊東を解いて薩摩に監視の目を置かなければと、土方は痛む足で伊東の処へと向かった。


 昼を過ぎて目を覚ました龍馬の処に、大久保を始め和奈達が集まっていた。

「大久保さんには迷惑を掛けてしもうて、まっことすまん事この上ない」

 起き上がる体力がないので、布団の中で頭だけを動かす。

「心からそう思っているなら、銃なんぞで剣を受けるな」

 呆れた表情を浮かべるしかない大久保に、もっと言ってやってほしいと武市が言う。

「しかし医者の用意をしとったちゅうのは驚いたぜよ」

「まあ、いろいろとな。木戸くんにはちゃんと伝えてあるから、桂木くんも心配なきよう」

 大久保が桂を木戸と呼んだことに、龍馬はお龍を見て声をかけた。

「お龍、すまんけんど喉が乾いてしもうたから、茶を頼めるかのう。ああ、腹も空いたぜよ」

「へぇ、よろしおす。お粥でも作ってきますさかい」

 お龍が出て行くと龍馬が大久保に視線を戻した。

「ほがーに心配しのうていいぜよ」

「私は、君ほど簡単に他人を信用なぞせん。軽々しく桂くんの名など口にできるか」

「木戸さんって、桂さんなんだ」

 その名を使ったのは、お龍が居たからだなのだろう。

「木戸考允、桂さんの本名だ。あまり知られていないからな」

 武市が小さく耳打ちする。

「医者を用意したの私ではなく、吉之助が寄越したものだ。捕方に横槍を入れたのも、あいつが抱える一個小隊だ」

「通りで展開が速いわけだ」

 以蔵は突然出で来た浪士に驚きつつ、どさくさに紛れて身を隠したのだ。

「伏見の動向を知っての事だろう。二本松から吉之助は動いていないから、奉行所の目も向いてない」

「さすがじゃのう。機動力と情報力、いやまっこと薩摩は手際が良いぜよ」

「馬鹿を言いたまえ。長州の機動力は薩摩とて油断ならぬものなんだぞ? 京に居るから情報を掴めているだけで、長州が洛中より追放されていなければ、動いていたのは長州が先だ」

「機動力は高杉くんで、情報力は桂さんか、上手いこと言うのう大久保さんは」

 大久保が西郷と長州を近づけたのも、その軍事力だけではなく情報収集力にも目を付けていたからであるのは間違いない。

「赤井という男だが、どうするのだ?」

 武市が(おもむろ)に切り出した。

「どうするもこうするもないぜよ」

 ちらりと和奈を見る。

「僕のことは気にしないで下さい」

 赤井はすでに新撰組の人間になっている。対峙した時に向けられた眼差しから、もう、進むべき道を違えていると知る事ができたのだ。

「迷う剣を手に、これからの世生きて行くのは至難の業だぞ」

 剣を向けて来た手は震えおり、躊躇が一瞬垣間見えた。あれでは、いずれ自分から身を滅ぼすことになる。

「それに、俺達との関係も少なからずあるんだ、解っているのか?」

「心配いらんぜよ。あれも男やき、あれやこれやと悩んで生きておるんじゃろう」

「本当に君は物事を軽く考える男だな。危険があると武市くんは言っているのだぞ?」

「大久保さんを気に掛けさせちゅうとは、大した男やか」

 嬉しそうに龍馬が笑うものだから、大久保の眉が吊りあがり冷淡な顔が浮かび上がってしまう。

「冗談は程々にしたまえ坂本くん。私が気に掛けているのはあやつ自体ではあらぬ。それを十分承知していてくれなければ困る」

「大久保さん!」

 和奈は気にしないでくれと言ったが、大久保が何を考えているのか悟った龍馬は、その後に続くだろう言葉を止められずにはいられなかった。

「目的を達成するためには、人対人のうじうじした関係に沈みこんでいたら物事は進まんのだ」

 大久保が冷徹に徹するのは、自分が志す目的のためなのだ。

「わしは議論はしやーせん。ここで議論に勝っても、人の生き方は変えられん。人の世に道は一つと言うことはないき。道は百も千も万もあるがよ。その一つを選び取って誠と走るならば、わしはいいと思っちゅう」

「ならば私は、そういうものを振り切って前に進むだけ、と言っておくぞ」

 しゅんと肩を(すぼ)ませても大久保には通用しない。

「ふん! ともかく、坂本くんは小松殿の処へ移れ。落ち着いたら薩摩へ行ってもらう。桂木くん達は直ぐ京を発て」

「なにか?」

 武市が問うと、以蔵の手配書が再度交付されたと答えた。

「岩村くんは岡田以蔵とばれている。武市くんだけでなく、そこの小僧のもあるぞ」

 バン! と手配書を畳に置く。

「僕、載っちゃったんですか・・・」

 土方と出くわしたのだ、手配されない訳がない。その証拠にちゃんと名前まで入っている。

「田中くんとは知れていないか」

「知れたとて構わんがな。護衛に付けると決めた時に諦めている。念のため君達と長州に同行させ、そのまま薩摩に戻すつもりだ」

「もし田中くんと解っていたら、薩摩と土佐の繋がりを露呈することになったんですよ?」

「そんなもの、脱藩した人斬りの行動ではないか。新兵衛と言うのなら、薩摩藩からも討手を出すと言えば済む」

 それで通せるのは大久保だからだろうと、武市は笑うしかない。

「となると、関所を通るのは無理じゃのう」

 手配書が出回って直ぐだと、京から出るだけでも一苦労となる。

「ああ。だから骨を折ってやるのだ。京を出たら大坂へ向かえ、蒸気船で長府まで送らせる」

「何から何まで忝い」

「いずれ借りは返してもらう。おまえもだぞ、小僧」

「覚えておきます」

 手配書を手にした武市は、自分の名前が【片目の男】で、新兵衛が【覆面の男】なのに苦笑した。

「和太郎が載ったのなら、新撰組がここへ聞きに来るのも時間の問題だな」

 武市の心配を他所に、大久保は腕を組んで言った。

「薩摩者かどうか判らん者の不始末など、私の知った事ではない」

 きっとそのまま新撰組にそう答えるのだろう。

 お龍が人数分のお茶と、龍馬のお粥を手に持って戻って来る。

 大久保は話しをそこで終え、龍馬の腹ごしらえが終りお龍と共に小松邸へと移し、和奈達に新兵衛を付き添わせて京から出した。

 道中、すでに京を出ている桂達とは大坂で合流すると、新兵衛から教えられた。

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■登場人物前半 ■登場人物後半 ■役職 ■参考資料 ■本小説と史実の相違

  幕末奇譚 『志士 狂桜の宴』 イメージソング
『Recollection』ambition song by Alternative Letter
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