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幕末奇譚 『志士 狂桜の宴』  作者: 夏月左桜
奇譚八幕 縷縷綿綿
32/89

其之三 因果

 安政五年。江戸幕府大老井伊直弼が日米修好通商条約の調印を無勅許で行い、徳川家茂を将軍継嗣に決定した。

 これを受けて、水戸老公は尾張藩主、福井藩主と連合体制を執る形で無勅許調印は不敬と、不時登城(定式登城日以外の登城)し詰問に訪れた。

 これが井伊にとっては良い口実となり、不時登城をして御政道を乱した罪は重いとして、彼らを隠居謹慎の処分を下したのである。

 攘夷論者である自分の考えを無視するように、朝廷の許可もなく締結した事に激怒した孝明天皇は、水戸藩に対して井伊を糾弾するよう勅令を下す。

 井伊はこの勅命が関白の裁可を経ずの下賜であると知り、勅許が下されないのは尊攘派の工作によるものだとして、十月十八日、水戸藩士の打首を皮切りに尊王攘夷派(主に長州藩の尊攘派)、一橋派大名や公卿、志士に対し弾圧を始めたのである。

 捕縛された志士は江戸へ送くられ詮議を受けた後、切腹または死罪の酷刑に処せられ、幕府の閣僚内でも、非門閥(ひもんばつ)の幕臣などが謹慎等に処罰の対象となった。

 安政七年三月、水戸藩と薩摩藩の脱藩浪士達が、桜田門外において彦根藩の行列を襲撃、井伊を討った。

 安政の大獄は、言いの死と共に幕を下した。


 京へ来た桂達を訪問した後、大久保は洛北の岩倉村を訪れていた。

「かような処へ、そなたが直に来ようとは思いもよらなんだ」

 小ぶりな初老の男が大久保を出迎えた。

「岩倉卿におかれましては、ご健勝で在られます事、なによりと存じます」

「近頃、世俗が騒がしゅうて蟄居(ちっきょ)の身ではあるが、気になり申しておった処じゃ 」

「禁門の変にて攘夷強行派は一掃、岩倉殿の冤罪が明らやに成り申しますに、赦免も下りず洛中への帰参許可も有りませぬとは、遺憾をば覚えて止みませぬ」

 安政の大獄が皇室や公家にまで及ぶと危惧し、そうなれば更に朝幕関係の悪化を招いてしまうと、京都所司代や伏見奉行などを周り、双方の対立が如何にこの国にとって大過であるかを解いたのが岩倉具視である。

「ただに、かような事を言いに参ったのではあるまい?」

 西郷と共に薩摩藩の実権を掌握していると言っていい男が、自分の身を案じて行動するとは岩倉には思えなかった。

「此処へ参る薩人が増えておる故、そろそろと思うておった処じゃ」

 大久保がにこりと笑みを浮かべた。

「ここよりは失礼仕り、建前御口上無しにてお話ししたい所存、宜しゅうございますか岩倉殿」

「もとより其のつもりで、貴殿に手紙を出した。遠慮はいらぬと申し上げる」

「卿が、政局と薩長の動向を探っておられたのは承知致しております」

「ならば話し易いと云うものよ。今世は混乱に充ち、京市中に居る市井の臣達が先を憂いておる。確固不抜にして天下の人心を収攬するには、施政の大綱を起す前に諸藩主を京に召集し、沿海五カ国である薩摩・長州・土佐・仙台・佐賀を五大老として、政に参与さすべしであろう」

 朝敵である長州との和解を、薩摩から動いて成せと言っているのだ。

 長州が三條を抱き込むというのであれば、岩倉を抱き込み朝廷への関与を図るのが、今自分のすべき事と大久保は考えたのだ。

「公のご想察の深さ、感服致します」

「動くか、大久保よ」

「は。僭越至極ながら、今が天命の時と思いますれば」

「政が決定は朝廷、執行は幕府が当たる体裁をば構築すべき也と思うておった。其れ無くして、洛中へ戻っても致し方ない事であると。だが、もはや幕府は独走を始めておる。このまま大患を煩っていては、国家転覆の危地に陥りかねぬ」

「公武合体の意を持っておられた卿が、倒幕を、と申されるのですか?」

「皆まで言わせるか。そなたら薩人が動くのであらば、意を違える必要はあるまい」

 倒幕に傾くとの言葉を岩倉から引き出した大久保は、西郷が兵を上洛させた事を告げると共に、長州との連携についても推進める事を約束した。


 朝敵とされた長州。

 戦国時代(十五世紀末から十六世紀末)、毛利元就が一代にして国人領土から戦国大名へと成長した。

 最盛期には安芸・周防・長門・備中半国・備後・伯耆(ほうき)半国・出雲・石見・隠岐、北九州の一部を領国に置いていた。

 しかし、豊臣秀吉に仕えていた毛利輝元の時代、一族が東軍(関ヶ原の合戦で西軍の総大将として出陣)に内通していることが露見し、輝元の戦争責任が問われ所領安堵を反故し、毛利家は減封処分になってしまう。

 輝元は隠居し、毛利秀就には周防・長門の二国が与えられ、大国としての時を終える。

 領土を四分の一にまで減らされながらも、検地によって五十三万九千二百六十八石余もの結果を出す。しかし幕閣は、敗軍となった西軍の総大将をとなった毛利五十万石の分限を過ぎる上、御前帳の石高から急増も理にそぐわないと考え高石高を命じた。

 これにより幕府は高石高は毛利家の因果を考え、高普請役負担を強いられても仕方がないと、七割の三十六万九千四百十一石のみ表高しか認めなかった。

 その裏で、新田開発など八十一万石にまでのぼり百万石を超える石高をはじき出した長州は勢いを付けた。

 さらに新しい居城地を築くため、防府・山口・萩の三つに絞り幕府に提示した。だがここでも防府・山口についてはその分限ではなく、萩に居城を置くことを幕府は命令したのだ。

 度重なる幕府からの仕打ちに、長州は国是を倒幕へと推進めていったのである。


 薩摩は領土の多くがシラス台地という土壌であるため土地は貧しかった。加えて台風や火山活動などの天災も多く、財政は藩政初期から窮迫状態だった。

 追討ちをかけるように、幕府は御手伝普請を申し付け、木曽三川改修工事を命ぜられ莫大な出費を被った藩財政は危地に瀕してしまう。

 家老平田靱負は、幕府の命令とは言え、この工事で多くの犠牲を出した上、藩財政を疲弊させたとその責任を感じて工事完了後に自宅で自害してしまう。

 八代目藩主島津重豪はこれらの苦境に屈することなく、藩政の改革を推進め幕府との繋がりを強固にしようと奔走した。

 三女の茂姫を十一代将軍徳川家斉へ嫁がせ、嘉永四年には十三代目となる徳川家定に篤姫を嫁がせることで、薩摩藩の政治的影響力を拡大させて行ったのである。

 また琉球との貿易や藩債整理に着手、砂糖専売制を打ち出し財政は好転を記し、公武合体派として幕政にさらなる影響力を持つようになり、第十一代藩主島津斉彬は、下士だった西郷隆盛と大久保一蔵を政に加え、朝廷へも関わりを持とうとした。

 藩政とは逆に、幕府からの圧力を良しとしない尊攘派は後を経たず、やがて藩論を尊攘派志士らが台頭し始めた。

 井伊直政により本領を安堵されたが、直弼が行った安政の大獄により多くの薩摩藩士が捕縛・処分されてしまった。

 直弼と将軍継嗣問題で対立していた斉彬は、井伊のこの所業は幕府の弾圧であると反感を持ち、兵を率いて上洛を決意。 だが出兵前に斉彬が急死することになり、藩政を斉彬の父斉興が握る事になってしまい、藩論は覆され出兵は頓挫することになってしまった。


 大獄最後の処刑者は長州尊攘派吉田松陰となり、井伊を薩摩の者が討った。

「似て似ぬ者だが心は同じ、小ならんことを欲し、胆は大ならん事を欲すものだ」

 長州と薩摩の歴史は違うものの、幕府に対する憤りは一つの道へ繋がり出している。と、大久保は長州との間に垂れた繋属する長久の鏈に、因縁の深さを感ぜざるを得なかった。


 薩摩との密約が締結した翌日の朝、新撰組が龍馬の足取りを必死で追いかけていた。

「幕府の連中に先越されるんじゃねぇぞ!」

 見廻りに入っていない隊が捜索に当たる事になった一番隊、三番隊と八番隊は土方の怒声と共に屯所を出た。無論、見廻り組みも情報を掴めば知らせる事になっている。

「こうちょくちょく京に出て来るったぁな」

 沖田はどうしても行くと言い張り、仕方なく土方が同行する事で近藤は許可を出した。

「寝てりゃいいのに」

 久々の羽織姿だった沖田は、こんな時に寝てたら武士の名折れだと言う。

 龍馬だけではなく、薩摩藩の動きも気になっていた土方は、見張りを伏見と二本松の両藩邸に隊士を数名向かわせていた。

「どっちで釣れるか、幕府が先に坂本を見つけるか」

「必死ですもんねえ、奴さん」

「だろうな。長州には出した手を噛み付かれて、薩摩まで足並みを乱したんだ。そりゃあ躍起になるさ」

 後ろを小走りでついて行く赤井は、必死で記憶を探っていた。

(慶応二年? 坂本龍馬が暗殺されたのはいつだった? 寺田屋。そう、寺田屋だ。いや、違う。暗殺はまだ先だったよな?)

「どうした赤井? まだ傷が痛むってんじゃないだろうな?」

 足が遅くなっていたのか、土方が遅れている赤井に声をかける。

「いえ、もう大丈夫です」

 寺田屋の名前を出す訳にはいかなかった。龍馬に約束したからではなく、寺田屋を名指しできる根拠がなにもないからだ。疑いが完全に晴れない身で潜伏先を告げたら最後、間者扱いは必至だ。とは言え、新撰組隊士として黙っているべきかと心で葛藤を繰り返した。

「やっぱり何か隠してますよね」

 沖田は土方の肩越しにそう言った。

「まだ言ってんのか」

「だって、あの顔ですよ? 女恋しさに思案に暮れてるとは思えません」

「自分の隊士ぐらい、少しは信じてやったらどうだ?」

「そうしたいのは山々なんですよ」

 狐と狸の化かし合い。

 屯所に間者が居ると同じく、新撰組も町人や商人に身を変え各藩の同行を探っているが、薩摩や長州、会津などの大きな藩になると警戒が厳しく欲しい情報の収集に追いついていない。だから藩と繋がりがある宿所や庄屋、問屋界隈に潜ませ、志士の動きを監察している。

「こっちの動きが漏れ過ぎるのが気にくわねぇ」

 定期的に見廻りの順路を変えても、間者を警戒して身元を調べても、藩の正式な後押しがある者の入隊をすべて防ぎ切るのは難題だった。

「伏見奉行所に行きましょうか?」

「それができてたら苦労してないぞ」

 会津藩の後ろ盾があると言うだけで、幕府の役人と同じ待遇を与えられている訳ではないのだ。

「とにかく足使うしか今んところは手立てがないんだ」

 土方は進める足を早めた。


 小松から滞在を許可された桂の処へと、中岡が陸援隊の報告をしにやって来た。

 結成した陸援隊に高杉は驚いたが、桂は土佐藩の乾が動いたという方に驚嘆する。

「よもや土佐がこの時期に動くとは・・・信じられないな」

「俺も吃驚です。裏で誰かが糸引いた感じですけど、実際に名指しで言われた訳じゃないんで、なんとも言えませんが」

「それが誰かなんて察しが付きすぎるよ。京から追い出されたのは本当に痛手だ」

 政策の裏を縫うのは京に居なくても可能だが、直接関与できる事は限られてくる。

 今回の陸援隊創設も、土佐を巻き込みたい薩摩の動きが在ると考えていい。幕府寄りの土佐がこちらへ付けば、一気に形勢は倒幕派に傾くのだ。

「小五郎さん」

 茶室に顔を出した和奈は、そこに居た中岡にどうしたのかと聞いた。

「土佐藩詰めじゃなかったんですか?」

 そう含み笑いをしながら意味深な顔の和奈に、中岡は片目を瞑って胸の前で片手を立てた。

 高杉がが疑問を持てば、龍馬以上に根掘り葉掘り聞かれるのは解っている。まして桂にまでばれたら、乾と同じく勝手に話しを進めてしまいそうな予感がしたのだ。

「奇兵隊との連携が面白そうだが、中岡個人の問題も面白そうだな」

 中岡の懇願も徒労に終り、すぐに何事か察した高杉の手が背中を叩く。

「駄目だよ晋作。おまえが首を突っ込むと碌な事にならないんだ。中岡くんが可哀想だから詮索はなしだ」

 和奈もその話題にはそれ以上触れないでおいた。以蔵の件で高杉がどれだけ追及されたか、ここへ来る途中に確認済みなのだ。

「寺田屋へ行ってきます。龍馬さんが祝いをするから来いって。桂木さんと岩村さんも行きますが、皆さんどうされますか?」

「僕達は遠慮しておくよ。中岡くんは行ったらどうだい?」

「いえ。まだやる事があるんで土佐藩に戻ります。和太郎、龍馬さんにはそう言っといて」

「はい、解りました。じゃあ、行ってきます」

「ああ、楽しんでおいで」

 小松邸から伏見までは二里(約八キロ)の距離がある。

 新撰組が多く出ていると新兵衛が知らせに訪れ、そのまま護衛をすると一行に加わってくれた。

 見廻りの順路を事前に調べてあるのだろう。新兵衛は躊躇いもせず路地や小通りを蛇行しながら進んで行く。

 以蔵と新兵衛の背を、距離を開けて和奈と武市が追い掛ける。

「もし、あの男にまた会ったらどうする?」

「赤井くんですか?」

「ああ。おまえは・・・斬れるのか?」

 酷な質問だと解っている。だが、もし剣を交える事になったらと武市は不安になっていた。斬らなければ和奈が斬られる事になるかも知れないのだ。

「そうですね。剣を抜いたら、僕も抜きます」

 少し躊躇った様だったが、後の言葉はしっかりした口調になっていた。

「それならばいい。左はおまえに任せているんだ、迷うなよ」

「はい」


 幕府の動きが慌しいとの報告で、大久保は二本松藩邸から寺田屋に近い伏見藩邸へと移って来た。

 西郷が京に滞在する間は、どちらかが伏見に来る必要がある。まだ事実上佐幕の西郷と居を共にしていては、要らぬ注意を幕府に与える事になるのだ。

「坂本くんの情報が知れているか」

「恐らく。居場所を特定しているかは不明ですが」

「小松邸に入ったのを知られてなければいいがな。まったく、吉之助がさっさと話しを終えていたら厄介は増えなかったというのに」

「私はどうしましょう」

 新兵衛は小松邸にやっている。半次郎を動かして寺田屋を見張らせるか、それとも幕府の動きを探らせるか大久保は一瞬迷った。

「新兵衛は武市くん達と寺田屋に向かう、としておこう。おまえは幕府の動きを探れ。もし、坂本くんの居場所が知れていると解ったらすぐ知らせろ」

「御意」

 新撰組の方も気になっていた。

 幕府の騒ぎはおのずと伝わるだろう。そうなればあの土方も動く。

「桂くん達が京を出るまでに、なんとかせねばな」

 小松邸に居る間は良しとしても、その後が問題となる。

 万が一龍馬が捕縛されたら武市が動く、となると和奈も動く。それは桂と高杉が動くも同然なのだ。

「やれやれ。本当に気が休まる間もない」

 大久保はそれでも、何か楽しんでいる様に微笑んだ。


 会津藩から使いが来たのは、一番隊が見廻りから戻ったのとほぼ同時だった。

 伏見奉行所で捕縛の用意が行われているとのことだった。

「先こされちゃいましたね」

「すぐ出るぞ。伏見が動くなら範囲は狭くなる」

 こうなれば伏見にある宿所を片っ端から回るしかない。

「後手後手ですね」

 沖田の言葉に睨み返す。

「役人と連携が取れるなんて思っちゃいないが、報せの一本もないのはさすがに腹が立つ」

「ええ」

 伏見奉行所より捕方が出た頃、市中を駆け回っている新撰組のどの隊もまだ龍馬達の居所をつかめずにいた。

「南に行くぞ。あとは伏見奉行所の近辺だけだ」


 陽がすっかり暮れてしまった頃、寺田屋へと着いた。


 大久保の紹介により、龍馬が定宿としていた寺田屋は、尊王派や過激派志士達が謀議を行う場所として利用していた旅籠屋だ。


 新兵衛はここでと脇の道へと消え、和奈達は女将の案内で龍馬の部屋に顔を出した。

「おう、よう来たな。遠慮しやーせんと入れ入れ」

 女性を傍らに、既にいい気分の龍馬が手招きをする。

「和太郎は初めてじゃったな。お龍って言てのう、わしのいい人じゃき」

 日本髪を結い、薄化粧の綺麗な人が恥ずかしそうに笑う。

「お龍と言います、よろしゅうに。桂木はんはお久しぶりどすなぁ」

「ご無沙汰してます。馬鹿を相手に、いつもご苦労が耐えないと思いますが、元気そうでなにより」

 以蔵もぺこりと頭を下げ部屋に入る。

「村木和太郎と言います」

 お龍は寺田屋の女将、お登勢の娘だと武市が教えてくる。

「初めまして。龍はんからお話はよお聞いとりますんよ。岡田はんに負けへん腕を持ってるって、そら自慢気に話しはるさかい、一度会うてみたいと思ってたんどす」

「とんでもないです、まだまだです」

 頬笑んでいるのだが、なにか違和感を和奈は覚えた。桂の笑顔も数種類意味を持つが、このお龍の笑みの下にははまた違うものを感じたのだ。

「寒いから鍋にしたぜよ。寒い時は軍鶏が一番やき」

 確かに部屋は火鉢の熱と鍋の湯気で暖かかった。

 剣を抜いて左に置くと、龍馬が猪口を差し出してきた。

「ほれほれ、今日は無礼講やき、和太郎も遠慮せずに飲みいーや」

「いつも無礼講だろう」

 なぜおまえはいつも一言多いんだと、口を尖らせる。

「和太郎さんはどこの生まれおすの?」

 お龍に銚子を差し出され、仕方なく猪口を持った手を上げる。

「萩という処です」

「えろう遠い処から来はったんおすなぁ 」

 京都弁に加茂川館の女将を思い出した。いつもは記憶の底に静んでいる思い出を掘り起こされているようで、落ち着かない気分になる。

「せやけど、これだけいい殿方に囲まれるのも悪くあらへんおすなぁ」

 ころころとよく笑う人だ。

「おんし浮気はいかんぜよ」

「なんをいきなり言いはるんやろ、この人は」

「特に和太郎にゃ手を出したらいかんぜよ。おんしでも斬るという奴がおるき」

「手を出すって・・・」

 この女性が自分に?

「放っておけ。酒に酔い出した龍馬を相手にするだけ疲れるぞ」

「はあ」

 龍馬とお龍を他所に、以蔵は酒には手を出さず鍋をつついて、武市は手酌で酒を飲んでいる。

「うち、そろそろ湯を頂てきますさかい、皆はんはゆっくり食べてておくれやす」

 五月蝿かった龍馬はお龍がいなくなると急に静かになり、とろんとした目で鍋に箸を運んだ。

「解り易いですね、龍馬さんて」

「んー? いいんじゃいいんじゃ。わしは淋しく一人で鍋を食べちゅうから、おんしらは楽しゅう喋っちょったらええき」

「いじけた・・・」

 そう言う姿を見ると、本当にこの人が時代を動かしたあの坂本龍馬なのだろうかと、和奈は疑心を抱いてしまう。

「で、これからおまえはどうする?」

「ほうじゃのう。薩長が手を組んだき、後は幕府の動き次第ぜよ。このまま西郷さんが抑えてくれたらえいんけんど」

「そうだな。俺達は明日、桂さんと長州へ戻る」

「ほうか。そんならわしは長崎へ行くき、また何事かあったら知らせとおせ」

「早く京を出ろ。新撰組も躍起になっておまえを捜しているだろうからな」

「あの・・・」

 ん? と二人が顔を向ける。

「新撰組が皆を狙うのは、倒幕をしようとしているからですよね?」

「ああ。幕府に反旗を翻す志士は排除の対象だからな。だが龍馬は少し違う。以蔵が人斬りだったのは知っているだろう?」

「はい」

「新撰組に捕縛されかけた以蔵を、龍馬が助けに入った事があるんだ。その頃はまだ新撰組はそれが龍馬だとは知らず、手配書にも名を連ねてなかった」

 江戸で黒船を見るまで龍馬にはまだ、確固たる倒幕の意志などはなかった。

 だが夷国の文化を知ることで日本の幕藩体制がいかに封鎖的であるか、また開国が国にもたらす利益がどれだけ大きいかを痛感し、倒幕思想を抱くようになったのだ。

 ここが武力倒幕を掲げる武市達勤王党との論点の違いである。

 それが故、一旦は加盟した土佐勤王党からも脱け、土佐藩を脱藩し単独で長州や薩摩との交流を始めるようになった。

 長州も薩摩も武力倒幕を目指していたが、桂の幕政改革に共通点を見出し、大久保ともその点では意見を一致させていた。

 この両藩に同盟を組ませるという事は、幕府に対して再び協力な圧力をかけれると言う事であり、それにより諸藩の追従があると龍馬は踏んだのだ。

 そして富国強兵(国家経済を発展させ軍事力増強を促す政策)を敷き、夷国の圧力を退ける力を国に持たせること、それが龍馬の倒幕の礎となって行った。

 こうして京で暗躍し続ける龍馬を、幕府体制下の新撰組が黙って活動させるはずもなかった。

 新撰組は坂本龍馬という存在を突き止め、裏づけはないものの、朝敵となった長州と深い関係を築いていると当たりをつけて、幕府に仇なす者と捕縛対象としたのだ。

「現にこうして長州と薩摩は密約を交わしている」

「裏で動かれたら困る、って事か」

「そうだな。密約が組まれたのはまだ知られてないが、長州再征伐に薩摩は出兵を拒否している。京で龍馬がうろうろして居れば、新撰組とて関連性を持つのは必至だろう」

「心配せんでええき。近藤さんも話せば判る人やと思うとる」

「阿呆が。本当にそうならば彼らと肩並べ酒でも飲んでいるだろうが」

「きっとそういう日が来るぜよ」

 本気で龍馬はそう思っているらしい。顔が嬉しそうにきらきらと輝いている。

「無駄な努力だ、と言わせてもらう」

「おんしは相変わらず夢がないのう」

「現実主義と言ってくれ」

 そんな日がくれば、また赤井と話せるのだろうか。

「ほら見ろ、和太郎が沈んでしもうたやか」

「いえ! 沈んだわけじゃないです。誰も剣を抜くことがない日を、龍馬さんは創りたいんですよね?」

「そうぜよ」

 そんな楽しそうに言われても。

 和奈には龍馬の描く倒幕が絵空事のように思えた。

 武力倒幕を龍馬が好まないのは、後に残る怨恨を危惧するからなのだろう。

 幕府は必ず武力で圧して来る。長州での内乱がいい例なのだ。そして、武士が起こす戦争で巻き添えを食うのは力ない人達だ。

 あまつさえ過酷な労働の日々の中で、役人から人間以下の扱いを受け、先の戦により家を失い今を生きるのが精一杯な彼らに、幕府は救いの手を伸べず再度の征伐を行おうとしている。それは困窮を極めている生活をさらに苦にするという事なのだ。そんな幕府を倒幕なくして倒せるとは思えなかった。

「そんな日が、本当に来るんでしょうか?」

 ついそう聞いてしまった。

「そのためにわしは駆けづりまわっちゅう。下げて済むなら、なんぼでもこの頭を下げる。全部この国のためだと思っちゅう」

 和奈の疑問に龍馬は真顔でそう答えた。

「おまえの頭で済むなら安いものだ」

「そうじゃろそうじゃろ」

 その時、焦燥感が胸のあたりに走った。


 りぃーーん。


「えっ?」

 和奈は忘れていた音を耳にした。

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