其之二 陸援隊
「天下の大患は、其の大患ため所以を知らざるに在り」
吉田松陰
潜伏先の寺田屋に居た中岡は、同士で土佐藩谷干城の来訪を受けて、加茂川を越えた百万遍横にある土佐藩邸へとやって来ていた。
座敷に通されると、その奥に座る男に頭を下げた。
「佐幕派どもは出払わせているから、気兼ねすることはないよ中岡くん。さあ座りたまえ」
ぞわっ、と背筋に嫌なものが走り、来たのは間違いだったかと後悔する。
「何事にて、俺を呼んだんですか?」
「いきなり本題に入るのかい? まあ、それも致し方ないか」
低姿勢のまま、いつでも剣を抜く体勢を保ち男の一挙一動に気を配る。
「京において君達が潜伏の身で、武力倒幕をせんと動いているのは私も承知している」
その言葉につい鞘に手が伸びてしまう。
「待て待て。話しは最後まで聞くものだ。本当に君も武市も気が短くていけな・・・ああ、武市は、もう居ないんだったね」
哀愁を漂わせた男の顔が、一瞬畳に落とされた。
「あ奴の死を見てないから未だ信じられないんだよ。後藤の策略がなければ、止めていたのにと今でも悔やまれる」
「乾さん、手短に願えませんか」
一刻でも早くこの場から立ち去りたいと、想いに耽りかけた男に言い放つ。
「はあ~っ。一言で済ませるのは容易いが、今の君では反論しか思いつかないだろう? 少しは聞く耳を持ちたまえ中岡くん」
乾退助。
土佐藩主山内容堂の側近を経て大監察であり、そしてこの京の土佐藩邸を取り仕切っている男だ。また、江戸において騎兵術や蘭式兵学も学んでおり、武市が発足した土佐勤王党に理解を示していた一人でもある。
乾は武市らの処分を知らされず、その死を京で聞いたらしい。そして武市達を捕縛させたのが後藤であり、山内を説得し土佐勤王党に強硬な弾圧を行ったのだ。
それに怒りを感じた乾は、公武合体を退け、武力倒幕の意志を固めたと語った。
「乾さんが倒幕を? しかし、土佐藩は幕府寄りを崩していません。京での立場を考えると、その言葉を素直に信じられないのが本音です」
尊王寄りの考えを持つ乾が、公武合体派の後藤と対立してるのは知っていた。武市の死がきっかけらしいが、倒幕へと思想を一気に変えてしまうとは考え難い事だった。
「山内公を倒幕に転換させる心積もりだが、後藤くんが何かと邪魔をして来てねえ。土佐勤王党の事もあるし、なかなか表立って動くことができないんだ。せいぜい、こうして愚か者の裏を掻くらいしか今は手がないんだよ」
「弾圧が行われた時、なぜ乾さんは後藤の好きにさせたのですか!?」
「言い訳はすまい。あの時点では、動けるだけの枝を張り切れていなかったんだ」
済んでしまった事だ、なんとでも理由をつけて言い逃れ出来る。
「藩内の動きを探り、少しづつ山内公へ働きかけ始めようとした矢先、幕府からの出兵命令が届いた。山内公は拒否も参加も即座には出さなかったが、後藤くんの推しが強い。いずれ幕府に従う事のは必至だね。だが私は出兵について反対意見しか持っていない」
「阻止されると?」
「冗談を言わないでほしいな。後藤くんが山内公の側に居る限り、私の発言はもみ消されてしまうさ。届いていれば、武市をむざむざ殺させたりなどするものか」
土佐藩邸において、こんな話しを聞くなどと露ほども思ってなかった。呼び出された時に乾を斬る覚悟を決めてはいたが、すでにその覚悟は和らぎつつある。
「君を呼んだのは他でもない。佐々木高行くんは知っているな? 彼とは土佐藩を倒幕体勢に傾ける方向で同意している。まず手始めに後藤くんを抑える力が必要だと考えた。だからね、私設部隊を創ろうと言う事になったんだよ」
「私設部隊、ですか?」
佐々木高行と言えば、土佐勤王党と足並みを揃えていた上士で乾と同じ職にある。龍馬との交流は以前からあり、脱藩した当今でもそれは絶えていない。
「武力倒幕を掲げるからには、同じ意志を持つ兵も要るだろう? 個々の力は弱くても、束ねれば大きな力となるじゃないか。京に潜伏する脱藩士らを集めてそれを君が先導するんだよ。土佐藩に限らず、倒幕で意志を共にする者達全てだ。ただし、隊士にする人間の選別には、細心の注意が必要だよ?」
「俺がですか!?」
いきなり軍を創るからその指導的立場になれと言われて、驚かない方が無理だろう。
「なにを考えて、俺なんですか?」
「君は思慮が深く、様々な状況判断にも長け、武力倒幕派だ。加えて京市中だけでなく色々な所に人脈を広げている」
意味ありげな目線が、当惑しきった自分に向られた。
この男は、長州や薩摩藩との繋がりも恐らく知っているのだろう。
「坂本くんも候補に上がったけどね。武力倒幕と言えば二の足を踏む男だ。私達とは意見が異なるんだよ。周りを見渡しても魂のなくなった武士ばかり、そう思案に暮れていたら朗報が舞い込んでね。いや、これは吉報と言うべきだね。先の禁門の変に、君も参加して居たそうじゃないか。もう、佐々木くんに問うまでもなく適任者は君しか居ない。と、言うのが理由なんだよ、解ったかい?」
久坂らと行動を共にしたと知るのであれば、長州にも乾の耳が居る事は間違いない。この男は何時の間に薩摩や長州にまで枝を張り巡らせていたのか。
「資金は心配いらいないよ。我らがすでに用意しているからね」
お膳立ては全て整っている、と言う事らしい。
「部隊の先導と言っても、そう簡単ではありません」
「君とて、このまま個人で動き続けられるとは考えていないだろ? だからなんだよ、中岡くん。私や佐々木で、パタパタと飛びまわる訳にもいかないしね」
「パタパタって・・・」
「万が一、幕府が兵を進軍させた時は、薩長と連携を執れるじゃないか」
やはり、とため息をついた。
「薩長・・・ですか」
「ふふふ。こう見えても私も顔は広いんだよ。禁門の変の出所は君の良く知る人物だから、案ずるなと言っておくね」
長州ではない? まさか、と脳裏に浮かんだ顔に眉を顰めた。が、それ以外思い当たる人物は出てこない。
「さて。話も纏まった事だし、堅い話はこれくらいで終ろう」
「乾さん! まだ受けるとは言ってません!」
「おいおい中岡くん。君に断る選択肢は与えられていないんだよ?」
「そこ、重要でしょう! 最初に言って下さいよ!」
「出来ない相談なら端からしていないよ。だからそう怒らないでくれるかな。それとも、この話が嫌だと言うのかい?」
「嫌とは言ってません」
「ほら、決定しているも同然じゃないか。酒で祝杯と行きたい所だが、ここではねえ。まあ、茶の一杯くらいは飲んで行きたまえ」
乾は楽しそうに腰を上げると、廊下の奥に向かって茶を頼んだ。
「いやあ、こんな良い日はないね。本当に良い日だ、そう思わないかい?」
「俺はその部隊の事で夕暮れ気分ですよ」
もう諦めるしかなかった。乾の申し出はたしかに有り難い。断る理由もないのだから、ここは受け入れておくほうが行動の幅が広がるのは確かなのだ。
「嫌だなあ、そんなに重く感じる事はないじゃないか。君を選んだ我らの気持ちも、少しは汲んで欲しいものだね」
話しを聞く事が承諾になるのなら、乾が持ちかける今後の話には十分注意が必要だった。
「失礼いたします」
障子が開くと、淡い緑の着物を纏った女中が入って来た。
「すまないね」
乾にまずお茶を出した女性は、中岡にお辞儀をして目の前に湯のみ茶碗を置いた。
微かだが水仙の香りがした。
「中岡くん?」
細面で小さな口に、白い肌をしている。その頬には薄っすらと紅が差している。
「これは予想外だねえ。とうとう君にも春到来かい?」
「はい・・・は? えっ!?」
「なかなか目が高いねえ。いい子だよ。気立ても良いし、美人だから私も気に入っているんだけど。ああ、いい事を思い付いたよ中岡くん! 就任祝いに私が二人の仲を取り持ってあげようじゃないか」
「い、い、乾さん!?」
「なにをそんなに焦る必要があるのやら。若者なんだから青春も謳歌しなければいけないよ? まさか、一度も女性を相手にした事がないのかい? それは不憫極まりない。ますますこの話しを勧めたくなったよ。君が気に入ったのなら、喜んで祝言まで世話をするよ!」
一人で、いいねいいね、と楽しそうに茶を啜る乾。
「ちょっと! なんで勝手にそんな所まで進展させるんですか!」
「ああ、これは失礼。少し先を急ぎ過ぎたかな? 野暮をしてすまないね。恋は焦らず急かさず、と言うのを、この私としたことがすっかり忘れていたよ。ならせめて挙動不審にならず、名の一つでも聞いたらどうだい」
「あ、いや、それは」
「お佳代、と申します」
ひたすらうろたえていると、お佳代は手を付いて少し頭を下げ名を口にした。
「先を越されるとは、不甲斐ない男だ」
確かにその通りと、と肩を落とす。
「あの、俺、中岡慎太郎と言います。その、お茶、ありがとうございます」
くすっと笑みを返して頷く仕草に、どきりと胸が鳴る。
「えっと、その」
「私はこれで失礼致します。中岡様、またお越し下さいませ」
お佳代は乾にも一礼すると、部屋を出て行った。
「ほう。お佳代もまんざらではないようだねえ。この私にすら、あんな笑顔は見せないと言うのに。いいねぇ青春というのは、なあ中岡くん!」
疲れる人だった。
桂や大久保とはまた一線を引く偏った性格の男。土佐に居る頃からそれは十分承知していたはずなのに、すっかり乾の調子に乗せられてしまった。他の事で手玉に取られるなら我慢もできるが、色恋沙汰だけは絶対に手を出されたくない男だった。
「それじゃ、話しは進めておくからね。谷くんには先刻、話しをつけてある。二人で色々相談して決めてくれたまえ。ただ、これだけは忘れないでくれ。この創設の意図はあくまで土佐における倒幕派の統一だ」
「はい。それに異論はありません」
乾と話しを終え、藩邸の人間が戻ってくる前に裏口から出ると、二本松藩邸の方にとぼとぼ歩き出す。
お佳代さんかあ。
部隊の事を考えていたのに、いつのまにかお佳代の事を考えてしまっていた。
「い、いかんいかん!」
パシッ! と顔を叩くと、考えを振り切るように走り出す。
これまで色恋沙汰がなかったとは言わない。龍馬に連れられ、岡場所などへ行く事もあった。だが、倒幕を志としてから、恋に縁遠くなっていたのは嘘ではない。脱藩して潜伏する日々では、出会いなど無いに等しかったし、いつ死ぬか判らない身の上で、恋をするなどできなかった。
「女子の一人も守れのうて、国を守る事はできんぜよ」
龍馬の声が耳に届いて、いつの間にか藩邸に戻って来ていたのだと気付く。
「なんなんですかいきなり!」
やって来たと思ったら真っ直ぐ縁側に行き、どしんと座り込み連続してため息をつき始めてしまったのだ。これを龍馬が見過ごすはずもなかった。
「なんもこうも、入って来たかと思うたら挨拶も上の空じゃし、大きなため息で鳥は逃げちょるし、こりゃあ、好きな人でもできたがやろと思うぜよ」
「鳥って! どこに逃げた鳥がいるんですか!? で、なんで好きな人が居るって判るんですか!」
「ほう、やっぱりそうなんか」
ニタニタと笑う龍馬に、しまったと顔を抑える。まんまと釣られてしまった。
「へえ。意外と中岡さんも隅に置けないんですね」
興味心身と、和奈まで武市の横から寄って来る。
「慎太郎に好きな女子か。で、それはどこの女子なんだ?」
「今日・・・いやいや! だめだめ!」
両腕を武市の方へ向けて前に突き出し、手をぶんぶん振りながら笑っている和奈を睨む。
「んで、おんし今日は何しに来たがか?」
猿の様に縁側へ座り込み、首を突き出す。
「ああ、そうだった。寺田屋に谷が来たんですよ。用があるからって、土佐藩邸に連れて行かれました」
「なに!?」
からかい気味だった龍馬と武市から笑みが消えた。
「で!?」
部隊の事と、乾と佐々木が協力し倒幕で動き出していると中岡が説明した。
「乾さんが動き出したがか。佐々木さんもとなると、これは土佐でも一揉あるかも知れんな」
「だが、倒幕に向いてくれるのは有り難い」
後藤を抑えつけられるのなら、武市にとってその行動は否めるものではないのだろう。
「ええ。乾さんは土佐の倒幕運動を根本に、武力を行使できる部隊を創ると言いました」
「その部隊をおんしに任すため呼んだちゅう事か」
「裏で大久保さんも絡んでいそうなんだけど、はっきり言われた訳じゃないんで、そこんとこは不明なんですけど」
そして長州とも必ず渡りをつけている。
「ほき、引き受けたかえ?」
「だって、話しを聞いたらもう拒否権はないって・・・俺としても、断る理由はありませんし、やってみようと思います」
「しかしのう」
武力倒幕には乗り気でないのは、乾に言われるまでもなく良く知っている。武市との口論も何度聞いたことか知れないのだ。
武市の考えは龍馬の語る未来図よりもしっくり馴染んだ。だからこそ門下に入り土佐勤王党にも入ったのだ。今は慎重に事態を見極めている武市だったが、武力倒幕を掲げている点は今も変わっていない。
「谷も一緒に動きます。乾さんはともかく、佐々木さんも立つと言うならこれはもうやるしかないですよ!」
「そう決めたんなら、わしはなんちゃあ言わん。おんしが武力倒幕に肩入れしちょるのはよう知っとるからのう。で、土佐藩にいた女子の名はなんと言うんだ?」
「お佳代さんです」
「阿呆め、結局喋らされているじやないか」
武市に言われて気付いた所で、もう後の祭りだった。
「龍馬さんずるい!」
「ほがー怒るな慎太郎!」
龍馬の首を持って、前後に揺さぶり出す。
「本当に、みんな仲がいいですね」
追い回す龍馬が和奈の背後に隠れると、武市も自然と騒ぎに加わって来てしまった。
「僕も会ってみたいなあ、お佳代さん」
龍馬が影に隠れるものだから、和奈に詰め寄る形になってしまっている。
「おい、和太郎! おまえ殴られたいのか!?」
「遠慮しときます」
いつもの喧騒が、心地よい時間を作っていた。
「その部隊、海援隊と連携させる手もあるのう」
騒ぎまくって疲れた龍馬が座り、そう呟いた。
「でしょう!? 俺のほうは陸になるから、陸援隊てのはどうですか!?」
一気に元気を取り戻し、意気揚々として言う。
「いいのう! それは良か名ぜよ。海援隊と陸援隊、水陸両用じゃ」
「そんなに簡単に決めていいのか?」
もう何を注意したところで、盛り上がり出した二人には意味がない。
「いいんじゃないですか、俺に任すって言ったのは乾さんだし。明日、早速行って来ます!」
「お佳代さんにも、会えるしな」
「僕もやっぱり付いて行こうかな」
いつもは端っこに座っている和奈まで、楽しそうに輪に入って来ている。もう観念するしかなかった。
「和太郎は駄目だ」
きっ、と武市が和奈を睨んだ。
「乾さんの事やき、女子みたいなおんしが行ったらめっそ事になり兼ねよらん。そうなったらこの男の事やき、後先考えず殴り込むじゃろう? 死んだもんが出て来たら、吃驚して昇天しかねよらんぜよ」
乾の性格上、絶対に根掘り葉掘り聞くに決まっている。気に入られでもして土佐藩に置くとも言い出したから、武市だけではなく桂まで出て来るだろう。そうなったらもう収拾をつけるどころの騒ぎではなくなってしまう。
「それはやめて下さい。そんな事になったら、陸援隊の話しがなくなります!」
「ほうじゃの、慎太郎が滅入るじゃろうから、やはり和太郎はお留守番ぜよ」
「そんなに、大変な人なんですか?」
「大変と言うより、変人だ。だが、頭は切れる。道理もちゃんと弁え俺とも意見は合う。合うのだが、あのクセだけは理解できん」
武市と乾はどうやら政以外では意見を違える相手らしい。
「乾さんは美術品に目がなくてのう。和紙から家屋に留まらず、人にまで美を求めるクセがあるぜよ。本人は長身で美男子じゃき、集めなくても色んな女が押しかけてくるんじゃが。まあ、眺めるだけやき、いいぜよ」
「あの収集ぐせが良いものか!」
「俺、すっごく不安になってきた・・・」
お佳代さんは、無事で毎日過ごして居るんだろうか。
「心配しのうていいよ。分別は持っちゅう人やき、辺り構わず手を出したりはしやーせん」
乾がどういう人物であれ、土佐出資で陸援隊が創設されるならば、個人の趣味に文句をつけれない。これで長州と薩摩が和解すれば、土佐への働きかけの足がかりになるのだ。
「乾さん、武市さんが亡くなった時、酷く悲しそうにしてました。生きてると、知らせなくていいですか?」
「・・・今は無用だ。いずれ時がきたら知らせる。今は、同士と共に墓に眠る男でいい」
同じ時を駆けた者達は、すでにもうこの世にはいない。和奈に言えた義理ではないと思いつつ、武市はしばし遠い望郷の地に思いを馳せた。