其之四 憂愁
禁令
一、士道ニ背キ間敷事
一、局ヲ脱スルヲ不許
一、勝手ニ金策致不可
一、勝手ニ訴訟取扱不可
右条々相背候者切腹申付ベク候也
長州が内乱で荒れていた頃、京では新撰組が屯所の移転に頭を悩ませいてた。
一番隊に組み入れられた赤井は、京に潜伏する志士達の検挙、不逞浪士の取り締まり、町の治安活動などの任務の他、屯所での雑用に追われる毎日を過していた。
「せいが出ますね」
見廻りから戻って来た山南は、溜まった洗濯物を洗う赤井と隊士の山野八十八を見つけてそう声をかけた。
「お役に立てるのって、このくらいしかないので」
見廻りに出る様になったとは言え、入隊して間もない赤井が沖田達と乗り込む事はなく、外の見張りか他の隊への伝令が任される程度だった。
「人を斬らねば隊士ではないという事はありません。こういった雑務も立派な仕事です、頑張って下さい」
「はい、ありがとうございます」
とは言え、十数人分の着物を洗うのは骨の折れる仕事だった。
黙々と手を動かす山野を見る。
この男も新撰組に不釣合いな容姿をしている。伏せめがちな目に生える睫は長く、小さく整った唇、すらりとした顎から耳へ伸びる線。体つきも痩身で細い指先に泡が纏わり付いている。
「なんですか?」
じっと見られていた山野は、視線を感じたのか赤井の顔を見て訝しそう眼を細めた。
「いや、ごめん! つい見惚れた」
「えっ!?」
山野が身体を逸らしたものだから、赤井は自分がとんでもない言葉を口にしたと慌てた。
「違う! その、楠くんといい、山野さんといい、その」
「新撰組に似つかわしくないと言いたいんですか?」
「いや、そうじゃなくて・・・」
「容姿でそう判断されるのは心外です。屈強でなければ武士になれないなどと思わないで下さい」
「本当にごめん!」
泡まみれの手を膝に置き、頭を下げて謝った。
「解っていただければいいんです」
仕事は洗濯だけではないと、山野は自分の洗った着物を桶に入れると後ろの物干しへと立った。
ここ数日、夜になると土方の怒声が響く様になっていた。その声に紛れて山南の声も聞こえるので、隊士達は何事だと部屋から様子を伺うが、幹部の部屋へやって来る者はいない。
「俺達は幕府の下で仕事してんだよ!」
「それは私もよく解っています。何度同じことを口にすればいいんですか。もともと我々は、攘夷断行の助力を目的として京に残されたのです。それがどうです、攘夷に貢献するどころか、不逞浪士の取り締まりと称し、志士と見れば余裕なく斬り捨てる人斬り集団になり下がってしまっているじゃありませんか」
「攘夷? それは精忠浪士組時代の話しだろうが!」
「おいおい土方。もう少し落ち着いて話しができんか」
こうも毎晩に渡って幹部が怒声を響かせていては、隊士達の不安を煽るばかりと、近藤は仲裁の役に徹していた。
「山南さんの言い分は十分解っている。だが、松平殿より町の治安と不逞浪士の取締りを仰せつかっているんだ。それに文句は言えんだろう?」
山南が語るのは、今の新撰組の在り方を否定するもので、近藤も賛同できたものではなかった。
「御命は承知している。ただ、闇雲に人を斬るだけが解決策ではないと言っているんです」
「あんたもくどいな!」
「土方!」
近藤に怒鳴られ、立てた足を戻して姿勢を正す。
「少し、失礼させて頂くよ」
伊東甲子太郎が、不快極まりないと言わんばかりの顔で部屋へと入って来た。
伊東は、門下生と共に上洛した折、同門である藤堂平助の仲介で松平と会い、その学識と剣の腕を買われ、参謀兼文学師範として新撰組へやって来た武士である。
人を見下す事もなく、物腰が柔らかく人柄も悪い方ではない。富貴の身分ではないが、気品ある容姿を持ち、面倒見も良く隊士からの評判も悪くなかった。
「すみません伊東さん、お騒がせしてしまって」
「私はいいのです。ですが、こう毎晩騒がれては、隊の士気に影響すると思いまして伺わせて頂いた次第です」
不機嫌な顔を隠そうともせず、土方は伊東を睨みつけた。
「土方くんは副長でしょう。その副長ともあろう人が罵声を出してどうするんですか」
「元々こういう性格です」
伊東は呆れつつ、山南の横に腰を下ろした。
「意見の交換はとても大切だと思いますが、聞く限り、喧嘩にしか聞こえませんよ? 上の動揺は下にも伝わります。まずあなたは、新撰組副長である立場をもっと自覚して頂きたい」
「十分、自覚しております」
「なら、話し合いに罵声は無用。そうですよね、近藤くん」
「近藤さんは関係ないだろうが!」
「まったく。近藤さんは局長ではありませんか。副長の言動を監督する役目もおありなのですよ?」
監督不行き届きをお許し下さいと、伊東に頭を下げる近藤に、土方はただ言葉を呑むしかなかった。
「山南さんも総長として、現状を危惧しておられる。参謀として、私も同じ気持ちでおります。」
日常の任務に嫌気が差したからなのか、隊規が厳しいからなのかは不明だったが、脱退して行く隊士が増えている。
許可を取り付け脱退する者は多くなく、殆んどが土方や組長格の目を盗んでの脱走だ。自然と、屯所内の規律は乱れる。
「目下の課題は屯所移転のはずですよ。互いの意見を吟味し如何にして受け入れるか、その一点に尽きます」
去るものも居れば来る者も居る。脱退者より入隊を希望する者が多くなり、隊士の人数は二百人を超える程に膨らんでいた。となれば問題となるのは宿所である。
前川邸がいくら広いと言っても、庭や蔵で寝かせる訳には行かない。となると、他に分宿させる場所を探す事が必要となる。一部屋を五、六人が使うという窮屈な状態を見かねた土方は、分宿ではなく屯所移転を考えたのである。
西本願寺が候補の一つに上がり、土方と山南の意見対立が表面化した。
京の町に知れ渡る西本願寺は、長州藩の毛利家と親密な関係もある事から、勤王色が濃い寺院として、長州藩士の隠れ蓑になっていると実しやかに囁かれていた。
その西本願寺を屯所とする事で、土方は志士らの活動拠点抑えようと考えたが、山南は反対を申し立てた。
論議は移転問題に終始せず、隊の在り方、とそもそも論になってしまっていた。
「折り合いをつけようと、こうして話してるんじゃないか」
「そうですか? 私には己が意見を、一方的に押し付けているようにしか聞こえませんでしたけどね」
彼の中で土方は新撰組副長であり、隊の統率の一端を担う幹部でしかない。鬼の副長と、気にすることはしなかった。
「今夜はもうお開きにされる方が宜しいでしょう」
「私もこれで失礼させて頂きます」
伊東と山南が連れ立って部屋から出て行くと、近藤はやれやれと肩を揉みながら土方に苦笑した。
「これじゃ何時までたっても移転なんざできやしねえ」
「まあ、そう言うな歳三。俺も屯所の移転について譲る気はない。だが、伊東さんにああ出て来られては、意見を聞かぬ訳にもいかんだろう」
「追い出せばいいんだ、あんな奴」
それが出来るのなら苦労はしてないとため息をつく。
「とにかく、会津藩への陳情は済ませんあるんだ、もう少し待て」
「我慢にも限度ある。どれだ隊士に窮屈な思いをさせたればいいんだ?」
「明日、会津藩へ行って来よう。松平殿の許可が下りれば、山南さんと反対だとは言えんだろうからな」
自室に戻った山南のところへ、沖田が姿を見せた。
「総司か、どうした?」
「・・・もう少し、近藤さん達と折り合いを付けて下さいませんか?」
「心配をかけてしまった様だね」
「粛清されたらどうするんです!」
沖田が心配する理由を山南も解っている。土方と対立し、粛清と斬られる者は一人ですまない。その執行に沖田が関わっている事も知っていた。
「おまえの心配はよく解る。私も、まだ死にたくなどないから、そんな顔をしないでくれ」
誠衛館に居た頃から沖田の面倒を見てきた。新撰組として京に住むようになってからも、我が事のように気をかけていた。若い時分に親元を離れた沖田も、そんな山南を兄のよう慕っている。
だからと言って、土方の意見に反対の意志はない。山南の語る事の方が理想論に思えて仕方なかった。
「だが、攘夷を断行すべしとの意見を変えるつもりはない。長州であろうと志士であろうと、その意志を持つ者を敵と称し斬るのは、武士のやる事ではない」
新撰組の存在を否定し兼ねない言葉に、沖田の顔が青ざめた。
「! 聞かなかったことにします!」
「そうか・・・」
淋しげに俯いた山南をそのままに部屋を出た沖田は、遣る瀬ない気分を抱きながら自室へと引き返して行った。
伊東が仲裁に入った夜以来、山南は体調が優れないとの理由で、部屋に篭もる様になった。
それはそれで、顔を合わせる機会が減りるだけで、土方にとって都合の悪い事ではなく、さして気にする事ではなかった。
ある夜。近藤は、屯所移転について松平容保から許可が下りる前に、賛成を取り付けておきたいと山南の自室へ足を向けた。
「体調は如何か」
「申し訳ない。屯所移転を早く決めなければならない時だと言うのに、この有様です」
布団から身を起こした山南に、その件でと話し始める。
「松平殿に西本願寺への移転許可を伝えた」
「・・・僧侶達はどうするのですか?」
「敷地を拝借するとなれば、別院に移って頂く事になるだろう」
「転居しろと申すのですか!? なぜそうまでして西本願寺に拘るんです? 他にも候補地はあるでしょう!?」
「言っただろう。潜伏する志士の隠れ場の一つであると。勤王僧も多い寺だ、僧侶が加担しているのは間違いないと見ている」
「そんな・・・僧侶まで疑ってかかるとは、なんと卑劣で見苦しい事この上ない!」
「山南さん!」
それ以上続けるなと言わんばかりに声を荒げる。
「私は武力でこの国の安泰を図れるとは思っていません。今は良いでしょう、国の御為と剣を振るうのは。しかし、時代が変わった時、剣のみに生きて来た者をどすると言うのです?」
「武士の生きる場を失わせないために、日々の勤めがある」
「・・・っ」
「ここに集まる者は皆、武士を目指して剣を鍛えて来た者ばかり。沖田もその一人だ。幕府の命に従い、剣を振るのは我らが役目と心得ている。攘夷と駆け回るよりも、幕府に反抗する輩を取り締まるのが責務だ。そこのところを解ってほしいと土方も言ってるだけじゃないか」
山南は一瞬口元に笑みを浮かべた。
「武士の魂は剣だけにあらず」
「・・・・・」
「それで、松平殿は移転の許可を出されたのですか?」
「いや、おって沙汰を出すので待てと言われた」
「そうですか・・・」
「今夜はこれで。皆も心配している。早く体調を戻すよう、ゆっくり体を休めて下さい」
近藤は、戸口で立ち止まると山南を振り返った。
「近藤くん。それでも私は、西本願寺への移転には賛成できない」
何を言い返すでもなく、近藤は障子を閉めた。
近藤とて京に出て来た頃は攘夷の心を持っていた。だが攘夷を圧せば、医療の発展もなきもとのなる。
そう考えるようになったのは、新撰組の健康管理を担っている松本良順から、沖田の病名を告げられからだ。
労咳。今で言う肺結核だが、この時代では不治の病とされていた。
西洋と比べ、日本の医療は何十年も遅れをとっている。攘夷を貫けばその差は更に開き、古来の施術や調薬で治す事のできない命は増えるばかりとなる。
医学の進歩を望んでいる近藤にとって、攘夷など最早重大ではなくなっていたのだ。
「近藤さん」
廊下の先で待っていた土方は、近藤の顔色から山南が移転を受け入れなかったと悟った。
「やはり同意はしてくれないか」
「山南さんとて、新撰組の将来を危惧してくれているんだ」
「それは判ってる。だが、ああ正面切って反対を連呼されたんじゃ-」
闇の中に蠢く影がある、と土方は庭を見やった。
「なんだ、楠。こんな時間にどうした」
影が止まり、躊躇した様に見えたが、ゆっくりとした速さで廊下へと歩いて来た。
「寝付けなくて、散歩でもと。驚かせてしまって申し訳ありません」
「・・・寝れなくても身体は休めてろ。それも仕事だ」
「はい。では戻ります」
楠はぺこりと頭を下げると、足早に井戸の横手へと消えて行った。
「近藤さん」
「ああ」
土方は踵を返し、玄関の方へ走り出した。
(世話ねぇな)
「うわ!」
玄関に出る角で、走って来た土方に思いっきり打つかってしまった赤井は、柱に手を伸ばして身体を支えた。
「手間が省けた、おまえも来い」
「えっ!? ちょっと、待って下さい!」
駆け出していく土方の後を、訳も解ららないまま赤井は追いかけた。
「どうしたんですか?」
しっと口に指を当て、屯所の入口で左右を確認する。
「土方さん」
非番で待機していた原田は、楠が屯所の勝手口から出で行くのを見つけた。その後を追う様に土方が駆けて行くのが見え、何事かあったのだと追いかけて来たのだ。
「原田は右へ行け、赤井は俺と来い」
そう言い左へと走り出す。
「どうしたんですか?」
走りながら同じ質問をしたが、答えてはもらえなかった。
町が闇でひっそりと静まり返る中、土を蹴る足音だけが響く。
「こっちじゃねぇか」
「ちょっ・・・土方さん・・・」
やっと止まった土方の後ろで、膝を押さえながら荒い息を整えようと深呼吸を繰り返す。
「なにか・・・あったんですか」
「ああ。原田が見つけてるといいが」
誰かを捜しに出て来たのだと、ようやく解った。
「あっちへ回ってみるか」
息が収まる間もなく再び走り出した土方の後を、赤井はまた必死でおいかける。
この時代の人間はみな足が速い。走るのも歩くのも、余所見をしていたら置いて行かれそうになる事もしばしばだった。
加えて動作も速い。特に剣を手にした時の立ち回りは、間合いが十歩あろうと瞬時にその間を詰めてしまうほどなのだ。
剣術に関しては、和奈も土方に劣らぬ動きを見せた。
武市を救出に向かった佐野藩の陣所で、対峙した相手までの五歩を一気に詰めた。多く見積もっても4メートルはあったはずだ。一瞬にして相手の懐へ入った時はすでに剣を振るっていた。
(くそっ)
許可を貰っていない和奈が、この時代では自分よりも腕が立つ。赤井はそれがどうしても納得できなかった。
「止まれ」
手で赤井を制した土方の息は乱れていない。
その視線の先を見ると、原田の背中が見えた。そして原田が見ている先には、土手に立つ影がある。
「反対側に回るぞ」
そう言い、少し戻った路地へと入り角を左へ曲がり、また左へ曲がると土手が見え、そこに立っていた影は二つになっていた。
「やっぱりか」
赤井には人影だと判別する事しか出来なかったが、土方には影が誰なのか判ったらしい。
原田の顔がこちらを向き、頷いた土方は家の影から飛び出した。
「動くんじゃねぇぞ!」
その声に、二つの影が動いた。
「来い原田!」
二つの影は逃げもせずその場に立ってままだった。
さすがにこれだけ近くなると、赤井にもその影が誰なのか判別する事ができた。
「えっ?」
一人は楠、もう一人は女性だったが、見知った顔だったのである。
「こんな夜更けに逢引ったぁ、随分立派になったもんだな、楠よ」
楠が女の手を取り、庇うように前へ出て振り向いた。
「いやだな。せっかくの逢瀬を邪魔しないで下さいよ」
「何言いやがる。こそこそとおまえが嗅ぎ回ってるのを、知らないと思ってたのか?」
楠は至って平然としている。
「女!」
土方は楠の後ろの影に叫んだ。
「ただの女じゃねぇよな」
くすっと女が笑った。
ぞくりと背中に走った感覚に苛立つ。
「何もんだ、てめぇ!」
「お酒を酌み交わしながら語らって、と言う訳にはいかないようですね」
「牢屋なら付き合ってやるぜ。女なら多少は加減してやるから、素直にお縄に付いたらどうだ?」
土方は腰から剣を抜き放った。
「それは遠慮したい。残念ですが、貴方とはまた別の機会に」
そう言い終えた瞬間、楠の腰から脇差を抜き取った女は土方目掛けて走り出した。。
「邪魔だ」
土方の後ろへと回り込んだ女は、赤井の右腕を斬ってから土方の背後へと剣を振り下ろした。
「くっ!」
土方に袈裟斬りを交わされた女は、剣を戻しながら右薙ぎを払った。
「なっ!?」
体に届く寸前、土方は振られた剣を弾き返した。
「てめぇ!」
女は一気に間合いを後ろへ取った。
「長引きそうですので、手合わせはまた、と言う事で」
そう笑う女に、土方は次の太刀を出せなかった。
立っているだけなのに、発せられる剣気に体が動かないばかりか、相手の体に打ち込む隙を見つけられなかった。もし動けたとし、殺られるのは自分なのだとも即座に解った。
にっこり笑った女は、軸足で身体を反転させると楠と原田の方へと駆け出して行った。
「おい、おまえの相手は俺だろうが!」
視線が外れ、剣気の呪縛から快方された土方も走り出す。
楠を相手にしていた原田は、横から払われた剣を完全に避けきる事ができず、右腕を深く切り込まれてしまった。
「原田!」
背を向けている女までは三歩もない。討って取ったと土方は思った。
「なに!?」
だが、突き出した剣は横へと動いた体から出た剣に右へと弾かれ、その反動で体勢を崩した横腹に女の蹴りが入った。
「ぐっ!」
腹を抱えて片膝を付いた土方を見下ろす。
「これで失礼しますね、土方くん」
くるりと背を向け、楠の体を抱えると川へと飛び込んだ。
「くそ!」
揺れる水面を暫く見下ろしていたが、見える範囲の水面に二人が上がって来る事はなかった。
負傷した原田と赤井を連れて屯所へ引き返した土方は、松本を呼べと近くの隊士に叫ぶと、近藤の部屋へと急いだ。
「おまえが逃がすとはなあ。」
「油断したのは確かだが、あの女、只者じゃない」
むうぅと眉間を狭める。
女の姿から芸者だと判ったが、遊郭や岡場所で隙のない女など会った覚えはなかった。
「見事な太刀筋だな。しかし、楠の腕は・・・ああ、隠していたか」
「修吾郎と手合わせさせたが、見た限り楠の方が腕はいい。赤井が言うところによると、立ち構えが神道無念流に似ていたそうだ」
近藤もこれには驚いた。となれば、長州の間者の線が濃くなる。
「まさか、とは思うがな。その女、もしかすると桂くんか。うーん、そう考えると歳三が手を出せなかったのも得心は行くんだが」
「桂? 桂小五郎? それほどの剣客なのか?」
「ああ。静謐な立ち姿から出る気迫は、相対した者しか判らんだろう。誠衛館で手合わせした事があるが、あの時ほど恐ろしいと感じた事はなかった。お陰で手も足も出なかったよ」
身のこなしといい、太刀の速さといい、まさにその通りだ。
「・・・桂くんの異名を知っているか?」
「逃げの小五郎・・・」
うん、と頷く。
「その云われの元となっているのは、変装の名人との噂だ」
「! くそっ、大物を取り逃がしたってえのか」
「どれほどの情報が漏れたか判らないが、明日からの見廻り、注意しておくほうがいいな」
悔しさを抱え部屋に戻った土方は、まんじりともせず夜を明かす事になってしまった。
長州討伐に出た幕兵が撤兵して来たと、新撰組屯所に報せが届いたのは、二月に入った頃だった。
「長州討伐は終ったが、志士の検挙がなくなった訳じゃないぞ」
報せを受けた幹部らは、一様に複雑な面持ちで集まっていた。
「屯所移転については?」
屯所の悪環境を憂いているのは組長らも同じだった。
「松平殿からの音沙汰を待つ」
「何回そう聞いたんだかな」
新年も近いのに、もやもやした気分だけが広がるばかりの土方は、声を苛立たせる。
「仕方ないだろう。許可もなく乗り込む事はできん。見廻りについての変更ない。年の瀬で町も賑やかになるだろうから、皆気を緩めず気をつけて任にあたってくれ」
右手を斬られた赤井は、傷が治るまで屯所の守備に回された。
あの女は間違いなく桂だと、土方に話す事はできない。桂と、龍馬二人に約束したのだ。「腕はどうだ」
左手は動くと、稽古場の床を拭いていた手を止めた。
「幸い傷は深くありませんから、塞がったら仕事に戻れます・・・すいませんでした、役に立たなくて」
「気にするな。桂が相手だ。おまえに腕があっても斬れてたさ」
一瞬、向けられた剣気に身体か竦み、払われた剣を避けれなかった。
「くそっ!」
思わず吐いた言葉に、土方は低い笑い声を投げた。
「強くなりたいなら、もっと稽古するこったな」
前にも、同じ言葉を口にしたなと、思いを巡らす。
「薩摩藩の女中と一緒だった奴なんだが、おまえ、村木和太郎って知ってるか?」
赤井の雰囲気と、和奈の雰囲気は似ている。
和奈が初めて人を斬ったあの日、何処の武士だと隊士に後を付けさせていた。
「村木?」
突然出た名前に首を傾げる。和奈と土方が顔を会わせているのは、お京から聞いて知っていた。なぜ今、その名前が出るのかと、赤井は不思議に思ったのだ。
「ちと前に会った奴なんだが、そいつにも強くなれと言った覚えがあると思い出したんだよ」
「僕が厄介になってた時は、村木なんて居ませんでしたが」
「そうか。とにかく、悔しいと思うなら人一倍剣の稽古をしろ。暇があったら俺も相手してやる」
「ありがとうございます」
床を鳴らす音が響き、二人の顔が動く。
「だめですよ土方さん。赤井くんは僕の隊なんですから、稽古ならちゃんと僕がつけます」
「こいつの身体に穴なんか作るなよ」
「穴って・・・」
沖田の得意技は三段突きだ。右に剣先を開き、刃を内側に向ける平晴眼の構えから突き出す剣で、一歩踏み込む間に相手の喉仏へ三度の突きを放つ。
「穴は・・・遠慮したいですが、沖田さんの稽古には必ず参加します」
おっ、と土方が目を丸くする。
「ですって。ほんと、赤井くんてば嬉しくなるほど真面目に稽古に出てくれるんです。僕だって真剣に教えますよ。ああ、勿論殺さないよう加減はしますから、ご心配なく」
「こ・・ころ・・・」
「程々にしとけよ。隊士を稽古で潰したなんざぁ、聞きたくねぇからな」
一抹の不安を覚えたが、平隊士を相手の稽古で腕は上がらない。
傷が塞がり、土方の許可を得た赤井は、沖田ばかりでなく他の組長からの稽古も受け始めたのである。