其之ニ 功山寺挙兵
元治元年十二月十四日。
陽が地平線に傾く頃、功山寺へ入った高杉は五卿の居る書院に足を運んでいた。
「お久しぶりにございます」
三條は何事かと、入って来た高杉に問いかけた。
「今回の討伐に際し、幕府が恭順を手に、降伏を申し出て来た事はすでにご承知の事と思います」
「ああ、毛利公から聞いておる」
三條も、他の四卿もこの条件に当惑していると言った。
「で、そなたが来た理由は如何とする?」
「は。国の御為、是より長州男児の腕前お目に懸け申すべく参った所存にございます」
「・・・挙兵いたすと申すのか」
「これは私利私欲によっての所業にあらず。このまま俗論派が長州掌握を続ければ、いずれ幕府に飲まれ、俗藩として幕政にすら意見できぬ立場となりましょう。そうなる前に我らは俗論派を討つ所存でございます」
「高杉よ。少数にての決起、勝機はあっての事か?」
「・・・戦は己が得意とするところ。勝機は戦場において掴み取ってご覧に入れます」
一度決めた事は、無謀と判っていても引き下げない高杉の気質を知る三條は、うなり声を上げるしかなかった。
「では、これにて失礼仕ります」
「まて、高杉。大事は国の安泰。努々それを忘れるでないぞ」
「心得ております」
もう一度三條に頭を下げた高杉は書院を後にした。
功山寺境内に勇力隊が到着し、続いて遊撃隊がやって来た。
石川と伊藤、遊撃隊軍監所郁太郎が高杉の周りに集まり、和奈は少し離れた場所に腰を落ち着けて居た。
文久三年、京都長州藩邸内の医院総督だった所は、八月十八日の政変により七卿と共に長州に落ちると、元治元年藩領の吉敷郡で開業。刺客に襲われ他の医者がさじを投げた重傷の井上聞多を治療し、その一命を救った事ている。その翌年に遊撃隊軍監に就いていた。
「奇兵隊にも伝えたが、連絡はまだない。今集まってるのは勇力隊、遊撃隊からの有志総勢八十五名だ。挙兵には難しい数だと言える」
石川が苦渋の面持ちでそう呟き、伊藤と所は目を伏せた。
「多勢に無勢と言いたいのは良く判る。が、尻込みしても始まらん。断じて之れを行えば、鬼神も之れを避く。大事を断ぜんと欲せば、先づ成敗を忘れよ。そう先生も仰った!」
「それはそうですが・・・」
高杉の決意は人数では揺らがない。
「先生に男子たる者の死はいつかと、問うた事がある。が、直ぐに答えを頂けなかった」
賑やかだった本堂内が、水を打ったように静かになった。
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし! 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし! 最期を前にした先生からの・・・最後の教えだ」
松陰の志が高杉の言動の源になっているのだ。
「少数無勢なのはよく判っている。だからと、挙げた拳を下ろす事など俺にはできん!」
石川は笑みを浮かべると、黙ったまま所の肩を叩いた。
「俺達も腹を括って来たんだ。高杉が言う通り、引下がるは士の名に羞じる」
集った男達の眼に曇りは見えなかった。
「よし! じゃあ作戦を練るぞ!」
腕を捲くり上げた石川に、高杉は申し訳なさそうな顔で言った。
「練るもなにも、もう決めてある」
「あ、そう」
高杉達を見ていた和奈は、聞こえて来る話の内容と、肩透かしを食った石川を見てつい噴出してしまった。
「こら」
武市に咎められ、口を窄めて必死に笑いを堪えた。
「まずは新地会所へ行く」
「軍資金は要るからな」
「食料も確保できるだろう? 会所を占拠したらその足で海軍局へ乗り込む」
「軍艦か?」
「おう。この人数だ、軍艦の一隻や二隻持っておいても損はない」
けたけたと笑い声を上げる姿に、石川は額を押さえた。
「なんだってそう能天気で居られるんだか」
「阿呆! こういう時だからこそ、うじうじしてはおられんだろうが。やると決めたら男は黙って飯を食う!」
「は???」
「ほっとけ。高杉の言葉を一々真に受けてたら神経が持たんぞ」
石川が呆れ顔で言う
「俺、すごーく不安になって来た」
高杉に大丈夫だと、肩をぱんぱん叩かれた所は丸めていた背中を伸ばした。
「飯だ、飯を持って来い!」
「一気に場を持って行ったな」
「さすが高杉さん」
「お? なんか褒めたか?」
握り飯を銜え、盆の上に乗っていた煮干を持って和奈の所へ行き、食えと差し出した。
「その二人は誰だ?」
石川が振り向いて、ずいっと身体を伸ばした。
「俺の舎弟だ!」
「なんで舎弟になるんですか!」
「それはそれで面白そうではあるな」
眉間を寄せ、大丈夫ですかと聞いた和奈は、高杉に向き直ると武市が壊れてしまったのは高杉のせいだと怒った。
「怒ってるこいつは小五郎の親類だ。そっちの御仁は京生まれだから、知らなくても仕方がない。どっちも小五郎の代わりにと来てくれたいい奴らだ」
「その説明で納得する奴が居たら教えてくれ」
輪から出て来た石川は、二人の前に膝を付いて軽く頭を下げた。
「お初に御目にかかります。俺は遊撃隊総督石川小五郎と申します。後ろに居るのは遊撃隊軍艦所郁太郎と、勇力隊の伊藤俊輔です」
二人もそそくさと出て来て頭を下げた。
「挨拶が遅れて申し訳ない。私は桂木宗次郎と申します」
「村木和太郎です、よろしく願いします」
二人と三人、向かい合わせで頭を下げ合う格好が可笑しいと、高杉は腹を抱えて笑い出した。
「ここで引導を渡しておく方がいいか?」
満面に笑みを浮かべて剣の柄に手を置いた武市を見て、高杉が血相を変えた。
「おい、待たんか! それは止めろ! 笑う度に斬られてたら命がいくつ在っても足りんじゃないか」
「ほう、剣の腕は確かなのか?」
「確かも確か。二人で十数人分は働いてくれる」
「それは買かぶりだ」
「謙遜するな。腕は小五郎も認めている。小さい方はまだ心もとないがな」
「小さいって!」
「悔しかったらもっと育ってみろ」
「・・・もう好きに言って下さい」
本気で相手にするのは疲れるだけだと、諦めるのが最善の方法だった。
「そんな細腕で剣を扱えるのか?」
興味を持ったらしい石川は、擦り寄って来ると和奈の腕を掴んで袖口を捲り上げた。
「一応は・・・」
「へぇ。手合わせ願いたいな。どうだ、一本だけ俺とやってみないか?」
顔がずっいと近づいてくる。
「申し訳ないが、こいつは俺の弟子だ。手合わせなら俺を通してからに願いたい」
ちらりと武市を見た石川は、何を言うでもな後ずさりして戻ると、あの人怖いと小声で呟いた。
「冗談の半分も通じんから気をつけろ。優男に見えても腕は達人だからな」
高杉に言われるまでもなく、武市の気迫で並の剣客でない事は石川にも判った。
しかし、と石川は疑念を抱く。
京生まれの長州藩士を全部知っている訳ではなかったが、高杉が腕を認める程の剣客ならば、一度くらいは名前を耳にしてもよさそうなものだ。
桂木山の麓なら、その姓を頂く武士が居てもおかしくはない。しかし、京詰めの役で上洛できるのは、萩城下に住む上士身分の者だ。仮に身分の低い者が京詰めになっていたとしても、それはそれで名知られる事になる訳だから、やはり聞いた事がないと言うのは道理に適わないと、石川は首を捻るしかなかった。
「さて、飯も食ったし、そろそろ行くか」
腰に手を当てて立ち上がった高杉は、すたすたと仏殿を出て行くと、境内に集った有志を見回した。
高杉に気付いた者の視線が高杉へと集まった。
「集まってくれた皆には心から感謝する! これより我らは長州御国のため決起する!」
静寂が支配する境内に、力強い声が響き渡った。
「皆肝に銘じておけ! 活路は生きていてこそ開けるものだ! 武士の魂だと命を簡単に捨ててくれるな! そんな奴が居たらこの俺がぶっ飛ばすからな!」
言葉が終ると同時に、集まった者の口からは様様な声が大きく上がった。
八十五名の有志達は、萩藩の長府における拠点である新地会所へと、功山寺を出た。
夜半の静けさに、幾多の足音だけが響き渡る。
その足音に目を覚まして外の様子を見に出た町人は、異様な光景に慌てて家の中へと戻って行った。
新地会所の広さは五十八坪ほど。平屋造りの家屋を前に、高杉は鉄砲隊を前に出して家屋への一斉砲撃を命じた。
闇夜の中に銃声が鳴り響くと建物に灯っていた明かりが消え、屋内で喧騒が起こった。
「お出ましになるか。各個応戦で前進するぞ」
号令をかけようとした時、平屋から声が発せられた。
「某は寄組根来煕行が子息、根来上総である! この度の狼藉は如何なるものか聞きたいゆえ、砲撃を止められたし!」
伊藤が会所の奉行だと伝える。
「いきなり家老の出向かえか?」
「油断するなよ」
根来は一人で平屋から現れると、話しがしたいと再度叫んだ。
「全員動くな。俺が行ってくる」
俺も行く、と石川が後に続いた。
根来の前に出た高杉は名乗ると今回の襲撃の目的を伝えた。
「国に刃を向けるというのか!」
「向けるのかって、もう向けているだろうが。大勢が長州のために死んで逝ったのは、根来殿もよくご存知だろう。我らを逆賊とした幕府に降伏して、尻尾を振って恭順せんとする輩を許せんだけだ。長州は我らが国、違いますか根来殿」
銃を構えた遊撃隊は、いつでも発砲できるよう陣形を整えている。
「お主の言い分はよく解った。争いは国の損益となるがゆえ、時間をくれるならばここを明渡そう」
武力衝突をせず占拠できるのは、高杉にとっても都合のいい話しだった。
「嫌にあっさり引き下がりますな」
「無駄な戦をしたくはないのは同じだ。戦争の疲弊による皺寄せはここにも来ている。今戦うは容易だが、互いにこれ以上の損失を出すは無益にしかならぬと考えたまでだ」
ふむっ、と押し黙り考える。
「解りました。半刻(一時間)待ちます。支度が済んだら斥候を東光寺へ寄越して頂く、それでいいですな?」
承知したと、根来は慌てて平屋へと戻って行った。
「信用するのか!?」
都合が良すぎる状況に、疑心暗鬼になるのも頷ける。
「だから半刻だけだ。伊藤は東光寺へ、石川は了円寺へ行ってくれ」
「刻限前には戻る」
「頼む」
連れて来た兵に号令をかけると、それぞれ指定された寺へと別れて行った。
東光寺へ着くなり、剣を抱えて座り込んだ和奈の所へと高杉がやって来る。
「なんでそんな暗い顔で座ってる?」
「暗くなんてありませんよ。気合入れて歩いたてたから、なんか疲れたと言うか」
「大丈夫か?」
「激しい斬り合いになると意気込んでいたからな。呆気なさに気が緩んだんだろう」
それが場慣れの違いだと和奈にも解っていた。
死線を乗り越え集まって来た者達とは、戦をする心構えが違うのだ。
「誰だって最初はある。おまえには、戦になんぞ慣れて欲しくはないがな」
その時、高杉が咳を二つした。
「まだ風邪が治ってないじゃないですか!」
季節は冬だ。暖もない夜空の下に居ては、風邪を拗らせるも知れない。だからと、帰って寝てくれとも頼めない。
歯がゆさを感じつつ、言葉を飲み込むしかなかった。
「いい事を教えてやろう。病気なんてものは気力でなんとかなるもんだ」
自分を心配している和奈に笑いかけながら、頭に置いた手を左右へと動かした。
「もう! なにするんですか!」
「ふん! 小五郎なら文句を言わんくせに、俺だけに怒るとは不公平だろうが!」
高杉が大人なのか子供なのか、時々判らなくなってしまう和奈だった。
空はまだ闇に覆われている。
指定した時刻が過ぎても、一向に根来からの伝令はやって来なかった。
「ちっ! 信用した俺が馬鹿だったか。伊藤! 会所へ戻るぞ!」
先に会所へ戻っていた石川は、高杉の姿を見つけて走り寄った。
「やられた! 平屋は蛻の殻。蔵の軍資金や食料も殆んど残っていないぞ!」
「あんの野郎ぉ。今度会ったらぶん殴ってやる!」
「乗ったのは俺達です。死者も出さず占拠できるなら、それだけでも良しとしましょう」
伊藤は事もなげなくさらっと言うと、功山寺へ戻るべく隊を先導して行った。
「あいつは大物かただの馬鹿だ」
立腹したままの高杉も、寒空にいつまでも突っ立ってられんと、隊に号令を出した。
功山寺総門と山門に見張りが立てられ、主だった者が仏殿の中央で集まり、次の行動の確認を始めていた。
「三田尻へは少数で行く。石川、十五名ほど腕の立つ奴と、銃が得意な奴を数名選んでくれ。伊藤は遊撃隊と勇力隊と共に赤間関へ下って、萩へ攻め込む下準備を頼む」
「承知」
「ああ、それと、銃器の確保もだ。できるか?」
「できずともやりますよ」
「軍艦を乗っ取ったら、萩へ向かうのか?」
「いや。三田尻から赤間関へ向かう。各軍は海軍局襲撃後に、陸地から萩を目指してくれ。こっちの用意が整ったら合流する」
これからが大仕事になるぞ、と言いながらその場へ寝転がってしまった。
その体の上に布団が乗せられる。
「なんだぁ?」
「少しだけでも寝て下さい。風邪は万病の元!」
「布団なんぞ持って来るな」
「駄々を捏ねないで大人しく休む! 僕は他を手伝ってきます」
小五郎が居ないのに小五郎が居ると、ぶつぶつ言いながらも布団を手繰り寄せる。
「正論だな」
石川が布団の主となった高杉に笑いかけた。
「五月蝿い!」
所と伊藤も少しの間だけと、布団を持って来ると高杉の横に連なって寝転がってしまった。
「俺も寝とくか」
しばらくの間仮眠を取った高杉は、遊撃隊十五名と和奈、武市を連れて海軍局へと発った。
翌十五日未明。
三田尻の海軍局へ乗り込んだ高杉は、癸亥丸艦長福原清介、丙辰丸艦長松島剛蔵、庚申丸艦長山田鴻二郎を呼び出した。
長州藩で建造された最初の洋式軍艦丙辰丸は、船首両舷に大砲を一門ずつ装備した二檣スクーナーの帆船だ。長州藩士と水戸藩士の密約締結にも使われた船である。庚申丸も長州で建造された船だが、オランダ人から習得した技術を使っている。三十斤砲六門を装備した大型木造帆船で、丙辰丸より二倍近い大きさを誇る三本マストの縦帆装バーク型である。この二隻とは違って癸亥丸は商船だった。二本マストだが、一方のマストに横帆を張る二檣ブリッグ型で十八斤砲二門と九斤砲八門、計十門の大砲を装備させている。
一戦も交える事なく軍艦を確保をしたいと考えた高杉は、各艦長の説得を行っていた。
「幕府に恭順すると言う事は、攘夷を捨てるも同意。赤間関での戦で散った者達の死も、無駄なものとなってしまいます」
「言わんとするところは判るが」
「ならば、同郷の者同士が戦う事に意味がないというのも、お判り頂けるはず」
「・・・しかし」
「丙辰丸は同意しよう」
松島は躊躇いなくそう口にした。
長州藩藩医だった松島剛蔵は、藩命で長崎海軍伝習所で航海術を学んだ。この時に勝海舟とも顔見知りとなって居る。帰藩後、洋学所や軍艦教授所を創立し、長州藩が自力で建造した丙辰丸の艦長となり、初代長州藩海軍総督に就いていた。
「松島さん?」
「周布さんの悲報は聞いている。国司殿達もだ。禁門への出陣を黙認した俗論派が、幕府が責めてと言って手の平を返した事に納得などできん」
藩論を統一させる事において、現藩政の対応に遺憾の念を抱いているのは松島だけではない。
「ならば、我らも従おう」
福原と山田も、艦の使用を承諾した。
そればかりでなく、兵の提供と武器の補充を申し出てくれたのである。
「有り難い!」
遊撃隊一人を伊藤の元へ送り出した高杉は、三隻を赤間関へ向けて出航させた。
十七日。
佐世の干城隊と、御公卿の護衛に当たっていた太田市之進率いる御楯隊が長府へ集結した。
萩に生まれた太田は、十八歳の時に斎藤弥九郎の道場に入門し塾頭を任される才能を持つ。長州藩が馬関で起こした米仏商船砲撃に加わり、禁門の変にも参加したが破れて長州へ帰藩。今度は四国連合艦隊との戦闘に参加する。今はこの戦の後に結成された御楯隊の総督となっている。
長府新地会所の襲撃と、三田尻にて軍艦奪取の報告が長州全域に渡ると、それまで沈黙していた山縣狂介率いる奇兵隊が決起し、堀真五郎率いる八幡隊、赤川敬三率いる膺懲隊、隊長佐々木男也率いる南園隊も合流して来た。
倒幕派主導の動きが各地で目立ち始めると、俗論派は藩庁に対する反逆行為だとして迎え撃つ決議を下し、前軍の将に粟屋帯刀、中軍の将に総奉行毛利宣次郎、後軍の将に陪臣児玉若狭をおき、先鋒隊を含めた部隊を編成した。
慌しさを極める中、高杉から戦争開始宣言とも取れる書状を受け取った椋梨は、見せしめとして前田孫右衛門、毛利登を含む倒幕派七人の処刑を遂行した。
長府へ向かう前夜、各隊の頭が集まり会議を開いていた。
「遊撃軍と勇力隊は赤間関にて集結している。奇兵隊、干城隊・八幡隊・膺懲隊・南園隊は先行した軍に合流後、伊佐から大田へ向かってくれ。指揮は奇兵隊の山縣が執る。御楯隊は遅れて四郎ヶ原から進軍する」
諸隊軍が集まる中、各地で息を潜めていた正義派が各地で動き出した。三田尻海軍局も、松島達に習うように、局内の俗論派締め出しに取り掛かった。
「すごいものだな」
もし、土佐勤王党を龍馬が率いていたら、その中で己も尽力せんと動いていたに違いないと、高杉を見ながら苦笑した。
「高杉さんていつもフラフラしてるから、なんか別人を見ている気分です」
「確かにな」
確実に忍び寄る影に怯えもせず、今何が出来るか何をすべきかと、限られた時間の中で最善の方法を選び、心に決めた志を貫こうとする男を羨ましく思った。
「うっしゃあ!」
いきなりの咆哮に、居合わせた者の視線が高杉へと注がれる。
「各自十分休養を取ってくれ! 俺達に惚れたて来た挺身隊もいるんだ。鋭気を今のうちに養っておけよ!」
今朝早く、萩から女子一団が奇兵隊に守られるようにして到着した。
先の戦において、隊士の家族や領民の女達も何か出来る事は有ると隊を結成。怪我人の治療や看護、給仕等を本陣で行なっていた。
そこかしこに、もんぺ姿で隊士の世話に駆け回る姿がある。
伊藤もまんざらではないのか、運ばれてくる食事を受け取り談笑していたし、和奈の周りにも数人の女子が群がっていた。
「華奢なお方ですのに、戦に出られるのですね」
「あら、桂様も華奢な殿方でいらっしゃいますのに、剣の腕は凄いと聞きますよ?」
「村木様もやはり、剣の達人なのですか?」
腰に差された剣に視線が集まる。
「いや・・・僕はあの・・・ごめん、また後で」
容赦ない質問攻めに堪えかねた和奈は、高杉の横へと逃げ出してしまった。
「おいおい、何うろたえてるんだ」
「だって、どう接していいのか困るじゃないですか」
「そんな事を言って俺の方に逃げて来るから、ほら見ろ。桂木さんが一番羨ましい状態になってるじゃないか」
振り返ると、女性達の矛先が武市に代わり、取り囲まれる状態になっていた。
「いい男だからな。女達も放っておけんのだろう。戦の後になって祝言をあげる奴もでるくらいだぞ」
中でも一際目立つ女性が武市の横に座り、持った膳を勧めている。
「う・・・だってほら、一応僕は男なんだし・・・これ以上桂木さんを変態にできないし・・・」
「そうか、いいのか」
気分のいい光景ではない。だからと、止めて下さいと怒鳴り込む訳にはいかない。
「たまには我侭も言わんと、壊れるぞ」
「へ? 壊れる、ですか?」
「阿呆が。そこまで鈍感だったか」
「気を張り詰めてないと、咄嗟の時動けないんですよ。皆のようには行かないんだから仕方ないです」
たぁっ、と顔を手で覆い、指の間から桂木をちらっと覗く。
「見てみろ」
和奈の腰に手を回してた高杉は、これ見よがしに自分の方へ引き寄せた。
「これが進軍路だ。俗論派軍との衝突は山岳地帯になるから、おまえも周りの地形を頭に入れておけ」
「地形ですか?」
紙には地名や、進行の為の線が引かれているが、地形をどう捉えていいのかさっぱり読み取れなかった。色分けされたり、高低差が付けられている地図とはかなり違うのだ。
「これじゃあ解らないか」
「ええ、すいません。僕が知っている物と全然違うから」
「ほう。なら落ち着いたら教えてくれ」
「いいんですか?」
「そういう類ならな」
地名など書かなくても、高低差や道か山かを書く位なら問題ないのだろう。
「あの、高杉さん。いい加減この手を退けてもらえませんか?」
身体が密着し、腰に回された手から温もりが伝わって来る。遠慮はいらん、と言われても遠慮したかった。
「高杉さんも変態になりますよ?」
「言わせたい奴には言わせとけ」
「それはそれで問題と思います」
「女に戻りたくならんか?」
聞こえてしまわぬよう、耳元に口を近づけて囁く。
「・・・考えた事もなかった」
「たまには考えろ、馬鹿が」
男として居る事になんら不都合を感じた事がないので、改めて考えはしなかった。剣を振るう以上、女であるより男の方が都合が良かったのだ。
思案していると、後ろから伸びて来た手が和奈の右腕を掴んだ。
「え?」
力一杯横へと引っぱられると、もう一方の手が腰に回されている高杉の手を払い退けた。
「うあっ?」
「やっとお出ましか。心配ならちゃんと傍に置いとけってんだ」
払われた手を振りながら、和奈の後ろで鬼神のように立つ武市に顔を向ける。
「忠告、ありがたく頂いておこう」
「この阿呆は言わんと解らんぞ?」
「貴殿に案じられるまでもなく、承知している」
「へっ。とっとと朝雲暮雨の仲にだもなりやがれ。もたもたしてると俺が掻っ攫っまうぞ」
頬に赤みが差し、さらに目を高杉に向けた武市は、きょとんとしている和奈の腕を掴んだまま外へと歩き出した。
「夜風に当たりすぎるなよ!」
けたけたと笑う声が背中に届いた。
「桂木さん??」
無言のまま、和奈を引きずる様にして仏殿の横まで来た武市は足を止めると、困った顔で振り返った。
「高杉くんとは絶対二人きりになるな」
そう言う顔は明らかに怒っている。
「はっ!?」
高杉には、傍に置きたい一心で身請けした芸子が二人居る。
「女子に手が早い男だと言うのを、すっかり忘れていた!」
「って・・・え?」
武市の両手が和奈の頬を挟むように包む。
「解ったな!?」
その剣幕に断る事も出来ず、和奈は解りましたと約束してしまった。
武市は深いため息を一つついた。
「言わねばと思って居たが、言いそびれていた。俺は、おまえが女子だと言う事を最初から知っている」
「ええっ!?」
「男の言葉を使い振舞っても、見る者が観れば判る事だからな」
「頑張ってるつもりなんですが・・・すいません、黙ってて」
「考えあっての事だろうから、気にしなくていい」
一体どんな顔をして和奈を見て居るのだろうと、武市は笑みを零す。
「だが、長州に戻った今、男で居る必要はないのではないか?」
「剣を捨てろと、おっしゃるんですか?」
「戦は男がするものだ、それが道理だろう」
武市の言う事は最もだと思うのだが、はい、と答える事が出来なかった。何故なのかは和奈にも解らない。
言葉もなく俯いてしまった和奈を見下ろし、その頭に手を乗せる。
「剣を持ち続けると言うのは、更に人を殺める事に繋がるのだぞ?」
「それは・・・」
「わざわざ己を危険に晒す理由もあるまい」
「でも、女に戻ってどうすればいいんでしょうか」
「はっ? おまえ・・・村木家は桂家の遠縁だが上士の家系と聞いている。武家の女子ならいずれ輿入れせねばなるまい」
「輿入れ?」
あまり聞きなれない言葉に首を傾げた和奈は、それが嫁ぐ意味だと思い出し、慌てて首を振った。
「そ、そんなまだ早いです!」
「二十二にもなって早い訳がないだろう」
江戸時代、女子は十八歳ともなれば嫁ぐ者が多く、遅くても二十四歳までには嫁ぎ先が決まる。その多くは親が縁組をしたもので、恋愛結婚は殆んどない。その理由は、恋愛の果てに結婚するのはいい加減な行為だとされる風潮があったからである。
江戸末期になると結婚に対する考え方も和らぎ、恋愛結婚をする者も増えてはいたが、武家社会ではなかなか認められてもらるものではなかった。
恋愛はして来たが、結婚を考えた事は一度もなかった。この時代に来ては尚更である。
(武家の女子なら・・・か)
変に考え込んでしまった和奈を見て、武市は少し後悔した。結婚の話しを持ち出すつもりなど毛頭なかったのだ。ただ、剣を捨てる意志を持たせたかっただけなのである。
「女子が剣を持ち続けるのは駄目なんですか?」
「前例もないからな。剣術を続けたいなら、作法として薙刀もある。強いて危険に身を投じるようなまねなどせずとも良いではないのか?」
「じゃあ、僕が前例になるんだ」
「・・・・・くっ・・くくくっ」
「桂木さん?」
「どうやら切り出すのが遅かった様だ」
護身術程度で止めておくべきだったと、武市は思う。
以蔵を制しかけた和奈の剣捌きについては、未だに何も掴めていない。しかしあれ以後、豹変を見ることはなかった。
眠ったままならば、あえて起こす必要などないが、剣を振ると言う行く以上その首を擡げるのは否めない。
「剣の達人が嫁と言うのも、それもまた一興だな」
「一興って」
「まあ、おまえより腕が立つならば問題あるまい」
「すごく範囲が狭まりますよ、それ」
「ここに一人居るだろう?」
「えっ!?」
言葉の意味がすぐには理解できなかった。
「体が冷えてきたな。戻るぞ」
スタスタと歩き出した武市を追いかける。
前を歩いて行くその背中を、和奈はずっと見ていたいと思った。
敬親は、大宰府への移転報告をしたいと言う三條と三条西に、萩入りを拒否する書状を送った。萩藩庁に提示した降伏条件の実施を、長州が成しているか監察するため、特使が総督府より訪れたていたからである。
俗論派はその特使の来訪に危機感を募らせていた。
内乱が知れれば、幕府介入の可能性は高まる。本をただせば恭順を示した結果だが、椋梨は藩を掌握する事によって介入を阻止しようと、正義派への武力討伐決定を下した。
三軍にて陣を構えた正規軍総兵数千九百名に対し、正義派の諸隊軍はわずか二百名足らず。
軍勢を持って制圧する狙いだったが、中軍毛利宣次郎の目標は全軍ではなく、あくまで軍艦を奪取して赤間関にいる遊撃隊である。
宣次郎はまず諸隊軍に対し、正規軍の侵攻を妨げず隊を解体せよ、との命令書を出した。
正規軍からの命令書を受け取った山縣は、佐世らを集めた。
「千九百とはな」
唸る佐世。
「数で来たか。まるで御門の変再現だな」
他人事の佐々木男也は、政務座見習兼蔵元役の藩士で、福原越後の隊に加わり上洛、禁門の変で敗戦となった後は長州へ戻らず京に潜伏。長州藩の復権の為に桂と共に鳥取藩へ助力を求めたが拒否されその後帰国。八重垣隊を結成したが南園隊と改め、今度の決起に参加して来ていた。
「もう、冗談が過ぎますよ」
二人の言葉に泣きそうになっている所。
「実力行使より策を講じた方がいいだろう。一旦命令を受諾し、油断を誘ってから討って出ようではないか」
山縣は三人を相手にせず、隊の方向付けをして行く。
中間身分だった山縣は、松下村塾への入塾を勧められて断った者の一人だ。文久三年に高杉が創設した奇兵隊に参加。高杉が先鋒隊と起こした事件の責任を問われ総督の任を解かれ、赤根武人が総督に就き山縣は軍監となったのだが、時をおかず赤根が出奔した事で次の総督となっていた。
「確かに、三軍に分かれてくれたのは、こちらとしても都合がいい」
「周囲を包囲される危険もあるぞ?」
一軍でも六百余り居るのだ。横槍を入れられてしまえば、全滅も有り得るのだ。
「そうさせない為に考えてるんだろうが」
山縣がそう佐々木を睨みつける。
「武装解除を進言し、どう出て来るか見るって訳か」
佐世の言葉に山縣は頷いた。
「奇襲は我らが得意とするところ。地の利も藩士より、庶民や農民が主な我らにある」
「正攻法しか知らん奴らにとって一驚だろうな」
反対の声は無しと、山縣は進出している奇兵隊の一部と、南園隊、膺懲隊と合流した後、松堂への奇襲を決定した。
「幕府が提示した降伏条件を飲んだのは藩意にあらず。寧ろ俗論政府の独断と、我はここに再度宣す」
「異論はなし」
一月三日を期日に、武装解除の受諾と引渡しに応じる旨を伝える為、斥候を宣次郎の中軍へと走らせた。