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幕末奇譚 『志士 狂桜の宴』  作者: 夏月左桜
奇譚四幕 烏兔怱怱
14/89

其之一 救出

 夜四ツ半(午後十一時)。

 半次郎と和奈、赤井の三人は屋敷を出て暗闇の中町へ続く道へと向かった。


 捕縛後、以蔵は手枷足枷をされて一刻の間鞭打ちとなり、平井達は別々の牢に収監されていた。

 肘を付いて上半身を起こそうと力を入れたが、体中に激痛が走り、起き上がるのは無理とうつ伏せの体勢に戻る。

 問われたのは、吉田東洋暗殺に関わった者の名だ。大津でその名を聞くとは考えて居なかったが、土佐弁を喋る男達に捕縛された事で、土佐藩が動いたのは明らだ。

 暗殺者だけでなく、必ず武市や龍馬の居所も聞くだろう。平井達に居場所を告げずにおいたのは正解だった。

 自分の帰りが遅ければ、武市は大津から出ることを考えてくれるはずだ。平井達がどこまで耐えれるかは予想できないが、それまでの時間は耐えてほしいと願うだけだ。

 音を立て、戸が開いたので、痛む体を無理に起こし、戸口に視線を投げた。

「っ!」

 戸を潜り入って来たのは、後手に縛られた武市だった。

 驚愕の面持ちで絶句する以蔵に気づいた武市は、牢の前を通る間際、小さくにやりと笑みを浮かべた。

「中へ」

 半ば突き飛ばしながら武市の背中を押した男は、鍵をかけ非番がどうのこうのと、ぶつぶつ言いながら牢屋を出て行った。

「ドジを踏んだものだな」

「申し訳ありません、注意を怠りました」

 以蔵は自分を責めながら、悔しさに唇を噛み締めた。

「今言ったところでこの始末だ、気にするな」

 壁に凭れ、背中の痛みに顔を歪める。

 帰りの遅い自分達が捕まったと知れば、感情の抑えがきかない和奈の事だ、龍馬の制止も聞かず飛び出そうとするに違いない。是が非でも止めてくれと武市は祈った。

「他の三人は別の牢か」

 そう呟いた時、外から悲鳴ともいえぬ絶叫が響いた。

 土佐勤王党が絡み、尚且つ吉田暗殺の実行犯を探しているとなれば、山内の許可を取り付けた後藤が動いたのは確かと思えた。吉田の暗殺は、甥の後藤にとっては許しがたい逆藩なのだ。

 だが、平井達は喋るまい。否、名前を知らないので喋れないのだ。それは加担していない以蔵も同じだった。

 しかし、後藤が動いているなら、知らないでは済まず、より酷い追求を受けることになるのは明白だ。

 藩主山内豊熈の死去に伴い無役となった吉田が、その後藩政に復帰し改革意見書を建白した事に遡る。

 意見書に記されている門閥打破は、武市の思想に適うものだったが、尊皇攘夷を唱える土佐勤王党にとって開国貿易はならない改革だ。

 強行に幾つもの改革を急進させようと動く吉田の存在は、土佐勤王党のみならず門閥勢力の反感も招いていた。もはや論議で意見を変えさせるのは無理至極と考えた土佐勤王党は、その打開策として吉田の暗殺を実行に移したのである。

 最後に見た顔は不安気だったと、武市は目を閉じ微笑んだ。


 京へ戻ると言う大久保を、話しがあると龍馬は引き止めた。

「珍しいな、坂本くんのそんな顔は」

 座布団から後ろへ下がり、両手をついて頭を下げる。

「乍恐、一つ是非容受頂戴したき事がある故、お引止め致しました」

 仕方ないと大久保は座り、頭を下げたままの龍馬に対峙する。

「簡潔に願い申す」

「今一度、長州と折衝の席をば作りたいと申し上げます。かは、某の所望なりと長州が訴願に御座います」

「京が出来事に於いて幕府との力が差、知り得たであると熟慮致す。先見も出来ぬに力に走るがは愚である。多くが血を流しても数多が兵力には遠く及ばぬ事。なれど先達て長府の折、西郷が振舞いには長州に対し遺憾をば覚えるに至りておる。其れは某が不徳であると仕る故、この大久保一蔵、この度のお主と長州が申出をば受諾致したい所存と申し上げる」

「有難う御座います!」

 やれやれ肩が凝るではないかと、両肩を上げ下げしながら首を左右に振る。

「西郷にはこの私から話を通しておく、後は君達の手腕によると心してかかられよ」

「勿論そのつもりでおりますき。それに大久保さんがここへ来ちゅう機会を逃せやーせん」

 それではと、立ち上がりかけると手をだしてもう一つと龍馬は言った。

「先ほど一つと言ったばかりではないか」

「和太郎のこと、ちっくと尋ねたい事があるがじゃ。大久保さんはあれの太刀、どう思うちょたがか?」

 ふむ、と顎に手を当て目を閉じる。

「数年、抜刀術だけを一通り教え込まれたのは確かだろう。本人が知らぬというのも解せぬ。なにか特別な仕組みにより記憶から欠落しているのか、別の理があるのかは私にも判らぬ」

 決して天賦の才ではない、武市と龍馬の見解と同じだった。これ以上本人の知らないものを大久保から探るのは不可能だと、龍馬は改めて礼をのべた。

「手間をおかけしてしもうた。京への道、気をつけて帰りとうせ」

「心配無用、影は一人ではないゆえ。では、京か下関でな」

 もう一度深く頭を下げ、大久保が部屋から退出して行くの見送った。


 月が薄雲に隠れているお陰で、人目に付く事なく屋敷に辿り付くことができた。

 壁伝いに裏口へ歩みを進め、戸口の手前で半次郎が両手を合わせて、ほおぅ、と梟の鳴き声を真似た。

 しばしの沈黙の後、戸に掛けられていた閂の外れて戸が少しだけ開いた。

「目の前の家屋から左へ行けば牢屋へ行ける」

 顔のない主がそう戸の裏から囁き、今一度、辺りを伺った半次郎は中へ身を滑り込ませた。

 そっと家屋に近づき、格子窓から中の様子を伺う半次郎が行けと合図し、和奈は足音を立てないように左へと歩みを進めた。

 家の壁に張り付くと、酒を飲んで談笑している声が聞こえて来た。酔いは動きを鈍らせ、気を散漫にしてくれる。和奈達にとっては有り難い事だった。

 大久保が書いてくれた見取り図通り、大小の家屋が在った。

 片方の小さい家の前には二人の見張りが立っていたが、大きい家の方は入口が見えなかった。

 二人の背後に半次郎が近づいて来る。

「武市さぁは小さい牢の方に入れられておいもす。おはん達はそちらへやって下さい。おいは外の者へ向おいもす。お二方を連れ出せたら、おいを気にせず屋敷からでくうだけ遠ざかって下さい」

 頷くと、半次郎は一気に右手へと駆け出して行った。

(速い!)

 遅れまいと、和奈は戸口の二人に向かって足を蹴った。

「! なん-」

 振り向いた手前の男の腹に切り込み、血飛沫を浴びながらもう一人の男の右脇から肩へと剣を振り上げる。

 その速さに、赤井は剣を鞘から抜く事が出来ず、呆然となる。

(これが、村木?)

 戸口には閂が下ろされ、大きな鍵がぶら下がっていた。

 どちらかが鍵を持っている事を祈りながら、和奈は転がる男の身体を調べにかかると、赤井も片方の男へ駆け寄った。

 早くしなければ、新手が来ては厄介どころか武市たちの救出が困難になる。

「あった」

 冷たい感触を手に感じ、赤井が声をあげた。

「こう一杯あっちゃあなあ」

 鍵が付いた輪っかを顔の前でぶらぶらさせる赤井に駆け寄り、その手から鍵を捥ぎ取ると、和奈は入り口へ立ち一つ一つ錠前に鍵を差して行く。


 外の騒ぎが聞こえた武市と以蔵は、顔を見合わせて格子戸へ這って行った。

 一抹の不安を覚えた武市は、まさか、と眉間に皺を寄せる。

「動けるか、以蔵」

「はい」

 返って来る声は弱かった。

 小者への尋問は、上士が受けるものよりも過酷なものだ。以蔵が普段のように動ける状態でないのは見なくても解った。

 鍵の開く音が聞こえ、閂の擦れる音がして戸口が開いた。

「!」

 隙間から顔を出した和奈を見て、息を飲んだ武市は肩を落とした。

「くそっ、龍馬の馬鹿めが」

 赤井が見張りで戸口に立ち、中へ入った和奈は武市と以蔵を見つけ、牢へ駆け寄った。

「二人とも一緒で良かった」

 手に持っていた鍵を、また一つずつ錠前へと差す。

「なんて無茶をするんだ」

「後で叱られますから、今は勘弁してください」

 ガチャリと錠前が開き、格子戸を開け放つ。

「外は半次郎さん一人なんです」

 そう言いながら以蔵の牢へと向かう。

 中で膝を付いて座る姿は、和奈が見ても悪い状態だと判った。一人で運ぶ事は無理と判断した和奈は、外に居た赤井に助けを求めた。

「岡田さん掴まって下さい。武市さん、歩けますか?」

 牢から出て来た武市に問う。

「なんとかな」

 そう言って出て来た足取りは重く、普段のように武市も動けないと見た和奈は、一刻も早く牢から出る事だけを考えた。

「つっ!」

 痛みで顔を顰める以蔵を赤井と二人で支え外に出ると、左の暗闇へと向かう。

 怒声や悲鳴が表門の方から聞こえて来る。半次郎が派手に立ち回ってくれているらしく、まだ牢の方へ駆け付けて来る者はいなかった。

 早く屋敷から出てなければと、和奈は裏口へ急いだ。

 壁伝いに戸口へ辿り着くと、戸を少し開けて外に人影がないか確かめた。

「岡田さんを連れて外へ出て」

 半次郎が手錬と言えど、多勢相手に長時間立ち回れるものではない。時間が経てば経つほど半次郎の身が危険となる。

「行って」

 そう急かされた赤井は外へ足を踏み出した。

「貴様ら、そこで何をしている!」

 振り返ると、三人の男達が走って来るのが見えた。

「武市さんも急いで下さい!」

 武市の手を引っ張り、後手で背中を戸の方へと押した。

「佐野藩御用邸と知っての狼藉か!」

 せっかく助け出したのだ、ここで捕まるわけにはいかない。

 相手は三人、間合いは五歩ほど。

 左肩を少し引き、柄を握ったまま和奈は真ん中の男へと走り、唐竹斬りを入れてそのまま右の者へと横薙ぎを払った。

「かはっ!」

 風を斬る音と、肉が裂ける音が耳に届いた。

(次!)

 だが、左を向いた先に男は姿はなかった。

「和太郎!」

 はっ、と身を返した和奈は、視界一杯に広がる武市の背中に息を飲んだ。

 鈍い音が聞こえ、武市の体が下へと落ちる。

「武市さん!!」

 崩れて蹲る姿に、ざわりと気が乱れた。

「貴様ぁぁ!」

 斬りかかって来ようとした男の懐へ、和奈は剣を突き出した。

「ぐうっ!」

 刺さった剣を抜き、男の懐を蹴って、屈んだ首もとへと太刀を振り下ろした。

 ずるりと首が落ち、噴出す鮮血が顔や手に飛び散った。

 和奈は血を気にする事なく、転がる首を目で追いかける。

「和太郎?」

 剣気とは違う気を放つ和奈を見て、不安に駆られた武市は無意識にその手を掴んで引き寄せた。

「武市さん?」

 目の前に武市の顔があり、片目を覆った手の合間からは血が流れている。

「そんな・・・」

「退くぞ」

 今は傷の心配よりもここから出る事が先決だと思い出す。逃げ切らなければ武市の傷を手当てする事さえできなくなる。

 和奈は蹲る武市の腕を抱え、戸口へと急いだ。


 自分の腕を掴む赤井の手が、震えているのが伝わって来る。

 首と胴体が別々の方向へ落ちたのに恐怖したのか、それをやってのけた和奈に恐怖したのかは以蔵にも判らない。

「くそがっ」

 武市の所へ駆け寄りたいのに、体が動いてくれない。その悔しさに歯噛みしている間に、和奈が武市を支えて来た。

「先生!」

「早く、出ろ!」

 武市の怒声で、赤井は以蔵を引き摺るように戸を潜り、和奈も武市と共に外へ出た。

「急ごう」

 壁沿いに、来た道を戻り始める。

 あとの三人を気にしている余裕はすでになかった。武市が斬られたことで、和奈も以蔵もそこまで頭が回らなかったのだ。

 ほおぅ、ほおぅ。

 壁が途切れた所で梟が二回鳴いた。

 町外れまで来た所で、追っ手が来ていないか後ろを振り返る。

「川へ入れ」

 痛みを我慢し、絞り出すような声で武市は指示した。

 血の痕跡を少しでも消すため川へと入ったが、急な流れは以蔵にとって相当の負担を与えた。

「岡田さん」

「俺はいい、先を急げ」

 頑張ってもらうしか術はなかった。

 低い橋を潜り、そこから土手へと上がり町を出ると、山へ続く竹薮へと入る。

「赤井くん、見張りをお願い」

「解った」

 赤井が道の方へと戻って行く。

「俺も行ってきます」

「だめですよ岡田さん!」

 心配いらんと、岡田は傷む体を押して戻って行った。

「動けるなら大丈夫だろう」

 そう言われ、まずは武市の傷を見ようと、座りこんだその側へ座り込む。

「武市さん、手をどけ-」

 手を退けると、額から目の上を通って左頬に伸びる剣跡が見て取れた。

 懐から手拭を取り、縦に引き裂いて帯を作る。

「痛むと思いますが、我慢して下さい」

 震える声でそう言い、当て布をした上からそっと撒いていく。

「なぜ、来た」

「龍馬さんは来れませんから」

 だからと、命を懸けてまで助けに来る道理はないと武市は言う。

「武市さんを見殺しにするなんて、できません」

「おまえまで捕まったら、俺は」

 武市は和奈の頭に手を伸ばし、懐へと引き寄せた。

「武市さんが・・・死ぬんじゃないかと・・・そう思ったら我慢できなくて・・・」

 腕の中でそう呟いた和奈の温もりを感じながら、武市は髪を優しく撫でた。

「追っ手は-」

 和奈を胸元に抱いている武市を見て、以蔵は言葉を失った。

「追っ手がどうした?」

 和奈を離し、固まったままの弟子にそう聞く。

「あ、はい。来てません」

「和太郎。血の跡を消して来い」

「はい」

 棒の様に立ち尽くす以蔵の横を抜けて行く。

「何か言いたそうだな?」

「いえ・・・」

 以蔵はしばらく立ったまま、和奈が消えた方を見ていた。


 竹薮から道へた和奈は、地面に視線を落とし、残った血痕を見つけた。

「村木?」

 血の付いた地面を足で均した和奈は、脇差を抜くと袖をめくり、左腕の内側を切った。

「なにやってんだ!」

「静かにして、誰かに聞かれたら困る」

 傷口を抑えて反対側へ走ると、自分の腕から滴る血をそのままに、雑木林から町へと歩き出した。

 追っ手が来たとしても、血の後につられて雑木林の中を探索してくれるだろう。

「急ごう」

 袖口を噛んで引きちぎると、傷口を縛りながら急いで武市の所へと戻って行った。


 屋敷へと戻った次の日の朝早く、半次郎が無事な姿で戸口へと入って来た。

「岡田さんと一緒に捕らえられた三人は、手遅れと申し上げます」

 なんとか牢に入りたかったが、一人ではそれも難しく、申し訳ないと半次郎は頭を下げた。

「気にしやーせんでくれ。中村さんにゃおおごと感謝しちゅうが。どうか面を上げとおせ」

「これを渡しときます」

 渡された四つ折の紙を開き、目を通してから龍馬は礼を述べた。

 休む事を勧めたが、半次郎は着替えだけ済ませただけで、京へ戻ると屋敷を後にしてしまった。

「大津から出るき」

 遅かれ早かれ、ここにも調べが来るのは間違いないと龍馬が告げた。

 おみつが武市の手当てをし、お京が台所で握飯を作ってくれている間、動ける者で血のついた布や着物を(かまど)で燃やし、畳は替えの物に取り替え縁の下へと隠した。

 そして陽が落ちた頃、和奈達は屋敷を後にして如意ヶ岳が在る方角へと出立した。

「やはり京へ戻った方がえいがやないか?」

「私の事は心配いりませんから」

 女手がないと不便だろうと同行を申し出たお京に、これ以上迷惑はかけれないと龍馬は丁寧に断りを入れた。だが、それでも行くと譲らず、渋々了承したのだ。

 日が昇り、人目に付くのを避け歩く場所を森の中へと変えた。

 龍馬と中岡は武市を抱えて先頭を行き、自力で歩けると、以蔵に介添えを断わられた和奈は、お京と並んで歩いていた。その後ろを赤井が付いて来ている。

「以蔵さん、大丈夫でしょうか」

 以蔵の足取りは危うく、時々ふら付いてこけそうになる事もしばしばだった。

「私、ちょっと行ってきます」

 お京は小走りで以蔵の横へ行く。焦った以蔵の横顔が見えたが、無碍に追い払う事はせず、なにやら話しながら一緒に歩き出した。

「あらま・・・」

 意外だと言わんばかりに眼を丸くする和奈。

「へえ。あの二人、そういう仲なのか?」

「そんな事、僕が知る訳ない」

 開けた合間に出ると、一息入れようと龍馬は腰を落ち着けた。

 武市の前に座った和奈は、薬を塗ろうと目に撒かれた布を取って行く。

「酷いか?」

 一瞬、手が止まってしまった和奈に武市は笑顔を浮かべた。

 和奈は答えられず、無言で傷薬を塗って行く。

「っつ」

「すいません」

 慌てて指を眼から離す。

「いや、大丈夫だ」


 中岡に背中の傷を見てもらっていた以蔵は、和奈と武市を見ながら言った。

「おまえの言ってたあれ」

「あれ?」

 以蔵が、くいっと顎を前に出したので、その先に視線を向ける。

「ああ、あれ」

「強ち、間違いとは言えん」

「あら。何か、あった?」

「・・・・・・」

「黙秘は駄目だよ」

 興味津々となった中岡は、以蔵の背中から横へと場所を移し顔を覗き込む。

「先生が・・・」

「武市さんが?」

「和太郎をだな」

「和太郎を?」

 もごもごと口の中で何かを言ったが、はっきりと聞き取れなかった。

「じれったいなあ、何? 口吸いでもしてるのを観ちゃった?」

「どうしておまえはそう飛躍するんだ」

「違うのか。はっきり言わないから想像が膨らんだんじゃないか」

「その・・・・・こう胸に・・・抱きしめてた」

 あちゃあ、と中岡は顔を手で覆った。

「和太郎は男にしちゃ線が細いし、顔立ちも華奢だから、武市さんがとち狂うのも解るんだけど、やっぱりなぁ」

「いいか、絶対突っ込むなよ」

「できるわけないでしょ」

 突っ込んで武市の叱責を買う気など中岡には更更無かった。


「あとどれくらい行くんですか?」

 座り込んで膝を摩りながら、地面に体を横たえている龍馬に聞いた。

「夕刻くらいにゃ着くと思うよぜよ」

「まだまだありますね」

 武市を龍馬と交互に支えながら山道を来たのだ、赤井の体力も限界に近かった。

 怪我人が居ては無理強いはできないから、もう少し頑張ってくれと龍馬は笑う。

「どうぞ」

 目の前に差し出された握飯を、ごくりと生唾を飲みながら受取る。

「ありがとう」

 にこりと笑い、お京は持っている握飯を皆に配って回った。

「以蔵さんも食べてください」

「すまん」

 握飯を受け取り、がつがつと口に放り込む。

「食べる気力があるならまずは安心やき、心配をしのうてもなんちゃーがやないちや」


 半刻ほど休んだ一行は、再び木々の間を歩き出した。休んだ分だけ歩くと、小さな道へと出た。

「まっこと大久保さんは凄いお人だ。ぎっちり先々を考え策を作っちゅうぜよ」

 半次郎が差し出した紙には、これから向かう場所が書いてあったのかと尋ねる。

「ああ、そうじゃ。京から追っ手が来たらと用意してくれちょったらしい」

 道の両側に森がある所に来ると、龍馬は左側の木立を丹念に調べ始めた。

「あったあった」

 獣道を見つけた龍馬は、こっちだと歩き出す。

 切り開けた場所にひっそりと建つ小さな家屋に着く頃には、すっかり陽が落ち暗闇が辺りを覆っていた。

「俺、道隠してきます」

 中岡は一服つく間もなく来た道を戻って行く。

「さあ、入れ入れ」

 真っ暗な中、龍馬が火を灯す。

「和太郎、布団を頼めるか?」

「はい」

 奥にある部屋に入り、用意されていた布団を敷くと、武市を抱えるようにして龍馬が入って来た。

「これで一息つける。今お京さんが湯を炊いてくれちょるき、後で布を取り替えてあげや」

「分かりました」

 布団に入った武市の横に座った龍馬は、変わり果てた友の顔に視線を落とした。

「わしは明日の朝、ここを発つき」

 武市は片目を開け、黒目だけを横へ動かした。

「おんしはここでちっくと休むがええ。それから以蔵と和太郎を連れて長州へ行け」

「長州へ?」

 和奈が答えた。

「桂さんにも助太刀は要るじゃろ。和太郎、赤井くんはわしが連れて行ってもいいがか?」

「えっ」

「なに、悪りぃようにゃしやーせんから、心配はいらんぜよ」

 龍馬が出て行くその後姿を見つめていた武市は、静かに目を閉じた。

「長州へ行くか、和太郎」

「はい」

 そうか、と武市は口元に笑みを浮かべた。


 翌朝。土佐藩が動く中の上洛は以前よりも危険だが、会わなくてはいけない人が居ると、赤井と中岡を連れて龍馬は京へ戻って行ってしまった。

 三人を見送った後、囲炉裏を囲んでお京が用意してくれた朝食を取ると、武市は傍らに置いてあった風呂敷を以蔵に差し出した。

「これは?」

「龍馬が置いていった着物だ」

「着物?」

「さっさと着替えて来い」

 手にした風呂敷を抱え部屋へ戻って行った以蔵だったが、食事の片づけが終っても戻って来なかった。

「何やってるんでしょう」

「慣れぬ身繕いに、四苦八苦もあるまいが」

「着物って」

「袴だな」

 以蔵はいつも着物の裾を上げて腰に挟み、動きやすい形にしている。その着物を下したところも、袴をはいている所も見た事がなかった。

「そんなに難しいかな、袴はくのって」

「そんな訳ないだろうが!」

 現われた以蔵は、何とも言いがたい表情で怒った。

「時間が掛かっていたのだ、そう思われても仕方あるまい」

「それは・・・」 

「しかし、孫にも衣装だな」

「どうも、着心地が悪くて」

 慣れれば問題ないと武市は一笑した。

「後で町へ行ってくれ」

「何用ですか?」

「これを買って来い。お京さんも連れてな」

「は? いえ、一人で大丈夫です」

「夫婦ならば、疑いの目を向ける者は少かろう」

 武市の言葉に絶句する以蔵の後ろで、お京は顔を赤らめて俯いた。

「お京さん、すまないがそういう事だ。以蔵をよろしく頼む」

「はい」

 袴姿で髪を一つに纏め、お京と並んで立つ姿は別人に見えた。

「では、行って参ります」

 武市を直視せず、視線を地面に落としたままそう言うと、以蔵はさっさと出て行ってしまった。

「やれやれ」

 お京もぺこりと頭を下げると、以蔵の後を追いかけて行った。

 部屋に戻ろうと土間を出た武市は、ふと目をやった庭へと出ると、青く晴れた空を仰いだ。

(土佐を発った日も、良く晴れた日だった)

 あの時は片目を失い、仲間を失う事になるとは考えてもいなかった。

「静かな時間だな」

「あ、はい」

 悟られないよう気配を消して近づいたつもりだったが、武市相手にそれは無理だった様だ。

「このままずっと静かな刻であればと、つい思ってしまう」

 背中を見ている和奈は、どんな表情で武市がそう言ったのか見ることは出来なかった。

「傷の手当てを」

「ああ、頼む」

 振り返った武市は笑みを浮かべ、先に部屋へと上がって行った。

 身体の打身は数日で治るだろう。だが、瞼を切り割いた傷は眼球をも潰してしまっている。治るの事はもうないのだと、薬を塗る手が震えた。

「布はもういい。風に晒す方が治りも早い」

 すでに血は止まっていたので、和奈は言われた通りにした。

「傷が塞がったら長州へ発つ」

「なら、ちゃんと身体を休めておいて下さい。途中で倒れられたら困りますから」

 これはこれは、と苦笑する。

 笑顔を見せるが、悲哀を含んだその顔を見ても掛ける言葉が浮んで来なかった。

(また、役に立てないんだ)

 桂が泣いた時も、ただ側に居る事しかできなかったのだ。

(私は何もできない)

 それが無性に悔しかった。


 一刻半ほどして、以蔵とお京が戻って来た。

「着物?」

 土間に広げられた風呂敷の中には、四人分の着物があった。

「古着にしては、質の良い物があったな」

 手に取った着物を見ていた武市が感心したように言う。

「お京が、店に有る物手当たり次第に引っ張り出したんです」

 それで時間が掛かったと以蔵はぶつぶつ文句を零す。

「それで、おまえは何をやっていたんだ?」

「俺は・・・」

「荷物運び、ですよね?」

 そう言われ、以蔵は拳を丸めて和奈を睨みつけた。

「お京さんが共に行って助かったな」

 この日から袴を着て髪も結ったままにしろと言われ、渋々だが、解りました、と答えた以蔵は、居心地悪そうに土間の端へと腰を下した。

「僕のは買わなくて良かったのに」

 気持ちの切り替えは必要だと、武市は手にした着物を持って部屋へ戻って行った。

 そうして以蔵は、それから毎日お京を伴い町へと出かけるようになった。

「大丈夫かなあ」

 侍姿になっているとは言え、顔は変えられるものではない。岡田以蔵と判る者が出て来ないとは言えないのだ。

「お京さんも一緒だ、注意は怠らぬよ」

「それもびっくりなんですけどね」

「ん?」

「あんなに恥ずかしそうにしてた岡田さんが、毎日連れ出すんですから」

 心配と付いて来たお京を労っての事だと、武市は嬉しそうに笑った。

「以蔵が他人の身を案じて動くとは、思ってもみなかったがな」

「武市さんの心配は一杯してるじゃないですか」

「師弟のそれではない。相手は女子、俺に対するものは違う」

「そうなんですか?」

「俺がおまえの身を案じるのと同じだ」

「えっ!?」

 武市はそう言いながら、膝に肩肘を付いて和奈を見る。

「え・・・いあ・・・その、ほら、僕、その男ですし・・・」

 顔を赤くして焦る和奈に、今更かと笑った。


 京へ入った龍馬は、その足で伏見薩摩藩を尋ねていた。

 ニコニコと座る龍馬に、不機嫌極まりない顔の赤井と、ハラハラした様子で自分を見上げて居る中岡を前に、大久保は腕を組み呆れ顔で立っていた。

「苦労した甲斐を、なぜ君はこうも簡単に台無しにしてしまうのか聞きたいものだ」

「申し訳ない。けんど少しでも早う西郷さんに会うて話しがしたかったんぜよ」

「なら、私に頭を下げる必要はなかっただろう」

「大久保さんの許しなしに、西郷さんへの話しは出来やーせんき」

「ふん! まあいい。大津の事は半次郎から聞いた。で、武市くんの具合はどうなんだ?」

 身体は大丈夫だが、と声が低くなる。

「眼は、もう見えんじゃろう」

 そうか、と大久保は珍しく顔に影を落とした。

「君が来ているのは吉之助にも伝達しておく。が、一筋縄ではいかん男だぞ」

「よう解っちょります。じゃが、筋を通せば理解頂けると思うとりますき」

「賢明なことだ。では、逗留をしばし許可しよう。くれぐれも面倒だけは起こしてくれるなよ」

 半次郎にも大津での礼を述べ、また厄介になると詫びる。

「酒でも運ばせるゆえ、ゆるりとするがいい。新兵衛」

「これに」

「町へ出ろ」

「御意」 

 龍馬が京へ入ったのを新撰組に悟られいないか探るため、大久保は田中新兵衛を町へと放った。


 岡田以蔵に中村半次郎ときて、今度は田中新兵衛が登場して来た。四大人斬りとして名を残す三人に実際に会う事になるとは、ついこの間まで想像すらしなかった。

 歴史が変わってしまったのだと、和奈は解って居るのだろうかと訝しんだ。武市と以蔵を助け出さなければ、歴史の通り二人はあのまま土佐へ送還され、死ぬ運命だったのだ。

(多分、歴史は得意じゃないよな、あいつ)

 幕末を駆け抜けた大物を前に、臆するどころか平気で居るのがそう思える根拠だった。

(大久保さんに啖呵切ったのはまずいよな)

 中村半次郎は後の桐野利秋だ。その半次郎の上司で大久保とくれば、明治に最大の権力を手にした大久保利通だと言うのは幕末の歴史を知る者ならばすぐに解る。

 龍馬と中岡が大津で肝を潰しかけたのも納得できた。

(俺、大変な相手に喧嘩をふっかけちまったなぁ)

 血が上ってしまったとは言え、今更ながら自分の取った行動に後悔するしかなかった。

(しかし・・・)

 武市を救出してに行った時の和奈の姿が浮んだ。

 男に斬り込んて行く速さには驚いた。加勢に動く間もなく、和奈は二人を斬り捨ててしまったのだ。

(切紙どころじゃないぞ、あの腕)

 武市が斬られた時の変貌も、驚くより恐怖を感じた。一瞬で剣気を変えた和奈に、自分の腕では歯が立たないと悟ったのだ。

「あの、聞きたい事があるんですが」

 どうして和奈がここに残ると言ったのか、その理由が知りたいと赤井は尋ねた。

 龍馬は、それは和奈にしか分からない、と答えた。

「そうですか」

「その目で色々と見て一生懸命考え、決めたんじゃろ」

 それだけではあの太刀筋を理解する事はできない。稽古では一度して出した事のない剣気を放っていたのだ。

「あいつの太刀筋が・・・前と変わってました」

「ほうか・・・親しくしていたおんしなら、何かわかっちゅうやないがか?」

「親しいとは言えませんが・・・ある人に、俺と一緒の稽古をあいつもしていたか、と聞かれました」

 ほう、と興味津々に身を乗り出す。

「村木は俺より先に道場に通っていましたから、その時の稽古がどんなものかは知りません。いいえ、変わりないはずです。同じ師範なんだから」

 やっぱり判らんのうと肩を落とす。

「じゃが、心配することはないぜよ。和太郎には武市がついとるき、悪いようにはならん。和太郎の事より、まずおんしは自分の身を考える事じゃ。そうしやーせんとなんちゃー進まんき」

 正論と思えた。こんな世だから進むべき方向を見定めないと、混乱はさらに大きくなり状況を把握するどころか暗闇で迷ってしまう事になる。

「太刀筋って、桂さんが言ってた、あれ?」

「あれです」

「桂さんも相当びっくりしてたけど、そんなにすごいの?」

「以蔵が一本とられかけたぜよ」

「ええええええっ!」

 中岡が驚くのも無理はない。本気でかかっても以蔵から一本取るのは中岡でも至難の業なのだ。

「稽古見たけど、あれで以蔵くんから一本とれるとは思えないんだけど」

「複雑な事情があるちや」

「龍馬さん。俺に剣術を教えて頂けませんか?」

 おんしもか、とため息を吐く。

「まあ、これっちゃあ何かの縁、かまわんじゃろ稽古を付けちゃるき」

「龍馬さんが指南するの!?」

 剣を振る事の少ない龍馬が、人に剣術を教えると言ったのを初めて聞いたのだ。

「え? 龍馬さん、剣の腕ないの?」

「馬鹿言うな! 北辰一刀流免許皆伝の持ち主だって!」

「皆伝!?」

「まさか、大久保さんに噛み付いたのも、腕を知らなかったからとか?」

「え! 大久保さんも皆伝??」

「ああ見えて示現流師範だぞ」

 抜いた剣を手にした大久保の姿を思い出した赤井は、喉を鳴らした。

「まあ長州から出て来たんじゃ、解らないのも無理ないか」

「生きてて良かった」

 正直な気持ちだった。

「その、岡田さんと桂さんの腕前は聞いて知ってるんだけど、武市さんもやっぱりすごい?」

「たぁ。武市さんは鏡心明智流皆伝。士学館塾頭を務めた方だよ」

「うへっぇ。じゃあ、中岡さんも凄腕なんだ」

 この言葉に中岡の頭が落ちた。

「俺は一番下っ端だよ」

「阿呆ゆうがやない。武市もその腕を認めちゅう、なかぇか腕の立つ剣客ちや」

「これだけ並べ立ててそれじゃあ、説得力ないって龍馬さん」

 けたけたと笑う龍馬。

「剣を振るう者の心得は、わしの持論じゃきおんしには納得できんかもしれんが、まあ宜しゅう頼むぜよ」

「はい!」

 また一つ道が前へと進み始めた。

 動乱の世、異質な二つの道はどんな形で築かれて行くのかと、龍馬は喜色満面で酒を飲み干した。

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