其之四 捕縛
桂と高杉は取り乱すでもなく京で起きた顛末を聞き終えていた。
ほぅ、と桂がため息を吐く。
「多くの血が流れてしまった」
誰の姿もその目に入れず、桂は視線を泳がすのに任せたままそう呟いた。
「こうなると予想していたのに、止める事ができなかった」
「その思いは中岡や武市さんも同じだろうが。済んだことを今更どうのこうの言っても始まらん」
顔を歪め、手を握り締めている武市と中岡を見て、消え入りそうな声で、すまない、と桂は目を閉じた。
「今しなければならんのは、これ以上無駄な血を流させないためには、どう動くか考える事だ」
「ああ。そうだ」
高杉は龍馬に向き直った。
「今回の件で、薩摩嫌いが助長するのは必至だ」
薩摩と長州の和解を推し進めたい龍馬にとって、同盟への足掛かりがなくなる要因ともなる。
「薩長で和議を行う方向で僕も晋作も動いてはいるが、毛利公の説得と、保守派排除に時間が掛かっているのは確かだ。だからと言って足を止めるつもりはない」
「藩政の転換を計ると言うがか?」
「同盟の話しがなくとも、倒幕を掲げる以上必要な事だからね」
「藩論を討幕へと纏めるにしても、まずは眼前に置かれた厄介事を片付けなくちゃあならん。そこでだ」
高杉が龍馬へと身を乗り出した。
「薩摩と長州の同盟締結に、再度動いてもらいたい」
「そのつもりでおるき、安心しとおせ」
「だが、今の状況で同盟を急いでも、上手く行くとは思えない」
武市の意見は尤もだと高杉は言う。
「容易でないと百も承知している。だからこそ、下からの根回しが重要なんだ。官僚ばかりで話しを進めて手を結べたとしても、我々の真意が伝わらなければ皆は納得しない」
桂の言葉に強さが戻っている。
「俺も尽力致す事を約束します」
武市と龍馬に叱られても、最後まで共に戦いたかった無念は強いだろう。
「頼りにしているよ」
「大津まで来られたのは、その事を伝えるためなが」
「片付ける事が山ほどあると言うのに、自分の口から伝えると駄々を捏ねられてね」
「おい! 誰が駄々を捏ねた!」
「和太郎の事が気になっていると判っていて、我侭を並べたのは何処の誰だい?」
叱るような目つきで高杉を見てから、武市にちらりと見た。
「まあ、僕の心配は不要だったようだけどね」
大久保と同じ、苦手な部類の男だと武市は思った。
「で、間者の件なんだが。君達が京を出るのを見つけた大垣藩の者が、この屋敷に回され来た藩士を道中で殺害し、摩り替わっていた」
「慎太郎が付けられた訳ではないのか」
「いや。間者が接触した男達だか、こちらも大垣藩の手の者だった。僕らがここへ来る前、京へ戻ろうと屋敷を抜け出した間者と、中岡くんを付けて来た男達は偶然出くわしたらしい。中岡くんに加え、君達もとくれば、彼らの欲を十分に膨らませるだけの価値はあるからね。報奨金欲しさに、彼らは全員を捕縛した後奉行所へ突き出す算段を立てたんだ」
【坂本の首は高く売れる】
あの男が言っていたのは報奨金の事だったのだと、和奈はやっと理解した。
「四人で報奨金を山分けする腹積もりだったか」
「だろうね。その腹黒い欲のお陰で、君達がここに居る事はまだ知られては居ない。が、油断するに越した事はない。次の逗留先を早々に決めておくことを提案する」
「長居するつもりはないき、心配いりやーせんよ」
「じゃあ坂本さん、同盟の件、よろしく頼む」
「任せておいとおせ。この坂本龍馬が確かに引き受けちゅう」
それがものを頼む態度かと、桂は高杉の頭を押さえ付けながら一同に頭を下げた。
【毎日の稽古が無理でも、剣と向き合うことです】
朔月はそう言った。
剣と向き合い心を通わせる事は、言うほど簡単ではない。だからと、諦める事もまたできなかった。
綾鷹を抱き、壁にもたれていた身体を起こし庭へと下りて行く。
【いいかい、剣に心を委ねてごらん。そしたら剣は答えてくれる】
構えた手に伝わる剣の重みを感じながら、神経を刃から刃先へと集中させて行く。
晴眼の構えから、唐竹斬り。振り下ろした所から左斬り上。袈裟斬りした後、左薙から逆風突き。足を戻し、突き出した剣を鞘へ納めると、右肩を後ろへ引き、右足へ体重をかけてから地面を力一杯蹴り出し、左薙ぎへと払った。
空を斬る音が耳に届く。
手にした綾鷹は抵抗もせず、吸い付くように手の中に納まっている。
ざわっ、と微かに気が揺れた。
初めて人を斬った時と、以蔵との稽古、そして寺で感じたものだ。その気の乱れが一体何を意味するのか和奈には解らない。
揺らぐ心を抑え、平常心を保つ。
剣を振るっては、精神を集中させ心を落ち着ける。その繰り返しを和奈は幾度も繰り返した。
話を終え、一息入れようと縁側に出て来た武市達は、剣を振る和奈を眺めていた。
「こりゃあーさぼっておれんなあ、以蔵」
「ふん! 青二才にこの俺が遅れを取ると思うのか」
不機嫌極まりない顔で以蔵は腕を組んだ。
「その青二才に、一本取られかけたのは誰だ?」
叱咤の声に、以蔵は口を噤んだ。一本取られたと思ったのは確かなのだ。
「鳶が鷹になるのか」
腹ばいになっている高杉は、楽しそうな様子で庭を見ている。
「いきなりそこまで化けるものか。まあ、剣客としては一人前に育ちそうだけどね」
「んじゃあ、一丁俺が相手になってきてやる」
そう言って起き上がろうとした高杉の耳を桂が引っ張った。
「痛いだろうが!」
「これから帰らなくてはらないんだ。そんな時間などあるものか」
「ゆっくりせられんか」
後片付けや懸念材料が他にもあるからと、高杉に念を押し桂は部屋を出て行った。
「仕方ないな。坂本さんに長州の端っこを任せるんだ。しっかり頼むぜ」
「高杉くんの頼みやき、大船に乗ったつもりで居とおせ」
小船だと撃沈だからなと笑い、庭で稽古している和奈の方へと歩いて行く。
「和太郎!」
構えを戻し、歩いて来る高杉の所へ駆け寄る。
「話は終わったんですか?」
「ああ。退屈だし欠伸が出まくるし肩も凝ったぞ。気分転換に稽古でもつけてやろうと思ったんだが、小五郎が帰ると言うからしてやれん」
「もう帰るんですか?」
うん、と頷く。
「そうですか・・・」
淋しそうに視線を落とした和奈の顔を、屈んで下から覗き込む。
「そんな顔するな。次に会うまでにもっと腕磨いとけ」
「はい」
桂や高杉と、ゆっくり話す機会を作れなかった。最初に会った日も話しどころではなく、薩摩藩邸に移ってから大津に来るまで会う事もなかった。久しぶりに会えても、間者騒ぎと赤井の登場でばたばたと時が過ぎてしまった。
「淋しいなら、一緒に長州へ帰るか?」
「いえ! まだここに・・・皆さんのところに居たいと思います」
皆ではなく誰かだろうと、高杉は舌打ちしながら立ち上がった。
「面白くねえ」
「ご、ごめんなさい」
ごつん! と和奈の頭に容赦なく拳を落とす。
「ったぁ!」
「おまえがやりたいようい様にすればいい。だが忘れるなよ、俺や小五郎も居るって事をな」
乱暴だが、優しい言葉に視界が緩みそうになり、和奈は顔を伏せた。
「幕府を打っ倒した後なら、長州見物に引っ張り回せたんだがな。来る時を間違えたな!」
白い歯を見せ、自分で殴った和奈の頭を優しく撫でた。
「次会うまでに死んでやがったら、地獄まで追いかけて行って、もう一発殴ってやるからな」
「まだ死にたくないですよ」
まだ、か。
高杉は帰るぞと言って歩き出す。
「見送ります!」
目を擦りながら、高杉の背中を追って走り出した。
西近江に土佐藩士平井収二郎と、間崎哲馬、弘瀬健太の三人が入ったのは、桂達が屋敷を発った翌日だった。
「どこか宿を取って足取りを調べるか」
「町にはおらんぜよ、あの人は」
「土佐弁はやめとけ、どこに耳が潜んでいるか知れたものじゃない」
平井が辺りを見回しながら言った。
「すまんすまん。では、まず逗留先を見つけよう」
町の端にある小さな宿を選ぶと、間崎が玄関へと入って行った。
「周りを確かめてくる」
弘瀬は宿の妻側へと入って行く。
幕府の手が延びていた事もあり、宿の位置と逃げ道を調べておくのは、土佐を経ってからの常套手段となっていた。
「宿は空いていたから部屋をとっておいた。ついでに聞いたが、ここから先に家はないそうだ」
「なら尚更、隠れるにはいい」
弘瀬が戻って来ると、通りを確認してから三人は宿へ入って行った。
いつもより早く目が覚めてしまった和奈は、着替えを済ませ朝靄が残る庭へと出て剣を振っていた。
「久しく稽古をしてなかったな」
「!」
振り返った先に、竹刀を手にした武市が立っていた。
「武市さんも桂さんも気配なさ過ぎです」
「おまえに悟られるようでは、この首が幾つあっても足りぬ。さあ、竹刀を構えろ」
武市は型から組み手まで、和奈の動きに一つ一つ指示を入れて行く。
相手の一挙一動に神経をやり、己の体に隙が出来ないよう、無駄な動きを一つでも多く無くさなければらない。隙を作ると言う事は、相手に一撃を出す機会を与える事に繋がる。技を磨くと共に、精神の鍛錬も必要不可欠だと語る。
「抜刀は気の鬩ぎ合いだ。故に油断と躊躇は己を滅ぼす要因となる。腕の立つ者と対するなら尚更の事、相手を一撃で制す気構えが必要となる」
一撃の言葉に沖田総司の顔が浮かんだ。気圧される事なく、太刀を抜く事ができるようになるのだろうかと。
「武市ぃ~!」
背後から突き刺さる視線と共に、龍馬の声が響いた。
(しまった)
朝食の準備が整うまでと来たのに、稽古に集中し過ぎた様だ。
「朝餉の用意が出来たらしい。戻るぞ」
「あともう少しだけ」
一人で戻っては龍馬に何を言われるか判らないと、無言で和奈の襟を掴み引きずる様にして部屋へと戻って行く。
「おお、ようよう来たか。お腹が空いて死にそうじゃったが」
膳を前にして悲しそうな顔で座っていた龍馬は、二人が入って来るとそうぼやいた。
「先に食べていれば良いだろうが」
「そうはいかん。頑張っちゅう和太郎を見捨てて、先にご飯が食べれる訳がないじゃろ」
うっ、とご飯に箸を運んでいた中岡と赤井の手が止まる。
「食事時にゃちゃんと来いや。こっちも心配でおちおちご飯も食べれんから」
「すいません。これから気をつけます」
「けんど、武市も悪りぃぜよ。なかなか戻って来ないんやき、腹の虫が暴れてはやちっくとで飛び出すところじゃったが」
俺のせいかと唸ると、龍馬がそうだと食って掛かる。
「いい加減にしてください。それじゃ和太郎も気にして食べれないじゃないですか」
そう出れば二人が止まると心得ていた中岡は、箸すら手にしていない和奈を指差しながら言った。
「すまんすまん。じゃー、しゃんしゃん食べてしまうぜよ」
箸を取ってから、そこに以蔵が居ないことに気が付いた。
「岡田さんはいいんですか?」
「町に出している」
中岡ばかりか自分達までもが付けられ、万が一を考えた武市は、幕府の者が町に来てないか調べろと以蔵を町に出した。
「一人で大丈夫なんでしようか」
「いらぬ心配だ」
確かに以蔵の腕は立つ。それは稽古をつけてもらって居る時に見知っているが、寺での一件は和奈の不安を増長させるのに十分な出来事になっていたのだ。
暗い影を落とした横顔に、和奈を出してしまった事への後悔が湧き上がる。
「そんな顔をするな。おまえが気に病んだところで、出したものは仕方あるまい」
「解っているんですけど・・・すいません」
「この先以蔵を出す度にそんな顔をされては、出すものも出せんではないか」
頷いて、和奈は何か思いついたらしく、武市に顔を突き出すように身を乗り出した。
「駄目だ」
「っ・・・まだ何もいってないのに・・・」
おまえの考えなど直ぐに解ると言った武市に龍馬が食いついた。
「わしにゃ解らんけんどな、のう慎太郎?」
何を言うかと睨まれた龍馬は、横の中岡を肘で小突いた。
「俺に振らないで下さい。もう武市さんの趣味には口出ししないと決めたんですから」
「趣味?」
興味があると言わんばかりに赤井が会話に参加して来る。
「なんだか面白そうなんですが」
「駄目だよ赤井くん。斬られたくなかったら、この話しに首突っ込んだら駄目」
箸を握る武市の手がわなわなと震えた。
「おまえのせいだからな、龍馬!」
一刻ほど丹念に町のあちこちを調べまわった以蔵は、その足を町外れへと向け歩いていた。
所々で見かけた武士は半着に佐野藩の紋を付けた者ばかりで、幕府から触書が来て出歩いている様子も見受けられなかった。監視も警戒も京よりはましに思えたが、だからと安心はできない。堀田は江戸幕府若年寄を勤めていた人間だ。今は亡き人となってはいるが、幕府側に変わりはない。
近江に佐野藩士が居るのは近江堅田が佐野藩の飛び地であるためだ。元禄十一年三月に佐野藩主だった堀田正高がこの地へ移封され堅田藩を立藩したが、文政八年十月になって五代目藩主堀田正敦が、藩主として佐野へ移封となったため、堅田藩は廃藩となり、堅田藩滋賀郡領はそのまま佐野藩が管轄する事になった。
浪人風情も何人か居たが、注意を向けてくる気配はなく、こちらも気にする事はないと思えた。
「おまえ、岡田か?」
背後から声を掛けられ、即座に柄へと手を伸ばす。
真昼間に往来の多い町中で、まさか名前を呼ばれるとは思わず、気配を悟るのが遅れてしまった。
「わしじゃ」
顔だけを後ろに向けた先に、見知った顔あった。
「平井さん?」
土佐者が近江に居る事を訝しむ間もなく、ついて来いと身を翻した平井の後を追った。
部屋で暑さを凌いでいた二人は、以蔵を見て、ほら居ただろう、と嬉しそうな顔ず出迎えた。
「弘瀬さんに間崎さんまで。でもどうして大津に居るんですか」
ここへ来たのは大久保の指示だ。その大久保が面識のない平井達に居場所を教えるはずはない。
「ちっくと用があったき、おんしらを探しよったがけんど、なかぇか見つからん。どうしたもんか困ちょったら、中岡を見つけたんだ」
「中岡に伝えとおせ。尾行ばあしっかと撒きーやと」
嬉しそうにそう言う平井を見て、以蔵は顔を片手で覆った。
「何をゆうちゅう、しだで撒かれたのはどこのどいつなんじゃ」
弘瀬が揚げ足を取ったものだから、平井は苦虫を食べた表情になってしまった。
「三人一緒じゃったがだ。同じことじゃ。後を撒かれてしもうたが」
「なすり合いは後に願えませんか? 間崎さん、なぜ俺達を探しに京へ?」
「武市さんに会うためじゃ」
「・・・・・・」
「居場所を知っちゅうなら、連れて行ってくれんか」
「直ぐにでも会って伝えねばならん事がある」
だが以蔵は無言で視線を畳に落としたまま動かない。
「頼むからわしらを武市さんの所へ案内してくれんか」
「おんしが此処におると言う事は、ねきに武市さんがおるという事やき」
同じ土佐の人間とはいえ、そう簡単に案内など出来ない。この三人とて付けらていない保証はないのだ。
「まず、会うかどうか聞いてきますから、しばらく時間を下さい」
三人は顔を見合わせた。
「そうならじき聞いて来てくれんか」
頷き、立ち上がろうとした以蔵は身を固まらせた。空気を伝ってくる嫌な気配に気付いたのだ。
「・・・平井さん、付けられたな」
その言葉で三人も剣を持つと窓、戸口へと走った。
「くそっ・・・囲まれてる」
以蔵は、そう言いながら剣を抜いた。
夕刻になっても以蔵は帰って来なかった。
「何かあったがやろか」
縁側座っていた龍馬が独り言のように呟いた。
「様子を見てくる」
「僕も行きます」
「来るな」
その言葉に反論できず、和奈は座り直した。
「一刻(ニ時間)経って戻らなければ、龍馬、ここを発て」
縁側に座る龍馬にそう囁いて、武市は廊下の向こうへと消えた。
「武市さん、大丈夫ですよね?」
胸騒ぎを覚えた和奈は、戸口ら顔を出して武市が消えた廊下を見る。
「武市はそう簡単に斬られやせんから心配しな。以蔵のことやき、きっといい女を見つけて道草くっちゅうんじゃ」
女? と和奈ばかりか赤井まで口を揃えて言った。
「感心ないように見えるだろ? ところが以蔵は女子に目がないんだよな、これが」
中岡の言葉に二人が振り返った。
「はい??」
「って、女ったらしってことですか?」
「以蔵も立派な男だ! 岡場所にも行くし、女子にうつつをぬかす事だってある!」
「岡場所?」
「あら? 和太郎は知らないのか? 綺麗なお姉さんが一杯居る所だぞ?」
「一杯!?」
「そうそう。行きたいと思うだろう、普通」
と言われても、女の身なのだから行きたいと思うわけはない。が、中岡の様子から、その内連れて行かれるのでないかと不安を覚えた。
「龍馬さんも岡場所は好きですよね」
和奈の驚いた顔が焦っている龍馬に向いた。
男性なのだから、女性と浮いた話しの一つくらいあっても不思議ではない。と、武市の顔が浮んで和奈も焦ってしまった。
「中岡、おんしいらん話をするががやない」
武市の頼みで出た以蔵が、用も終えず道草などするはずがない。和奈の気を紛らわせようと急場しのぎに振った話しが、薮から蛇になってしまったと、龍馬は苦笑を浮かべる。
「そうそう、赤井くんも剣術を習っちゅうと聞いたが」
「あ、はい。まだ切紙ですが」
気を緩めていた赤井は、突然話しを振られて背筋を伸ばした。
「慎太郎、ちっくと茶を頼む」
「解りました」
部屋を出ていたのを見届けると、縁側から部屋の中へと入って来た。
「ちくたあ腕が立つようやき。けんど真剣は振るった事はないがか」
「ありません」
「なら、あえて持つ必死はないき」
ちらりと和奈へ視線をやる。
「僕もそう、思います」
ムッとした表情のまま、赤井は身を乗り出した。
「村木よりは腕が立ちます!」
「わざわざ持つ事はないと言ってるんだ!」
納まらない不安感に苛立ちを覚え、和奈はつい声を張り上げてしまった。
「おまえに言われる筋合いはない!」
「まてまて、喧嘩はいかん、喧嘩は。二人ともちっくと落ち着きーや」
お互いに背を向けてしまったその間で、龍馬はやれやれと膝を叩いた。
「赤井くんは、剣を持つ事にどがな意味を持っちゅう」
「意味、ですか?」
考えた事もない質問に、赤井はすぐ答えを見つけられなかった。
「和太郎の帯刀を止めようと思えば出来た事けんど、わしらが不甲斐ないばかりに剣を持たせる事になってしもうた」
「違います。龍馬さんの責任じゃありません」
「違いはしやーせん。けんど和太郎は自分の頭で考え、その目で見てそれを良しと心に決めた。責任があるからこそ、武市は剣の使い道をこの子に教えちゅう」
桂といい、武市といい、剣術に長けた者がなぜ和奈にそうも拘るのか、赤井にはさっぱり分からなかった。
「剣を持つとゆう事は人を斬るとゆうことだ。腕が立つ立たない以前に、持つ心構えがいるちや」
赤井には答えを出せる経験がまだこの時代ではない。ないが、女である和奈が剣を持っているのに、男の自分が持っていない事に納得が出来ないのだ。
「人を斬る心構えですか?」
和奈の手がぴくりと動いた。
「阿呆な事をゆうな。人を斬る心構えなんぞ必要ないき。ただ人を斬りたいばあとゆうのなら、持たせる訳にゃいかん」
お茶を持って戻って来た中岡は、一変して暗い空気になってしまっている三人を見て、眉を寄せる。
「また何かいらん事を行ったんですか、龍馬さん」
「容赦がないがか、おんしは」
「だって、この雰囲気、どう考えても龍馬さんが何かやらかしたか言った-」
途中で言葉を止めた中岡は、茶を乗せたお盆を畳に置き、自分の剣を取ると障子へと近づいた。
「どうしたんですか?」
「しっ。静かに。誰か来た」
人差し指を口に当てそう言うと、左手に持った来た剣の鯉口を切って身構えた。
「お寛ぎの所、失礼致し申す」
近づいてきた気配が消え、静かな声が響いた。
「某は中村と申しもす。大久保さぁから仰せつかい参いりもした」
障子が少し開き、顔が中を覗いた。
「半次郎殿か」
「御意」
中へと促されて姿を見せた半次郎は、入って直ぐの所へ座ると、失礼致します、と頭を下げた。
「大久保さんからとは、一体またどがな用向きで来られたがかぇ」
「は。先日、京からこん町へ侍が入ったはずです」
「ああ。招いたわけじゃーないがが」
「そん侍とは別に、土佐から来た者も三名近江に入っといもす」
「土佐から?」
「おんし、付けられ過ぎじゃ」
「いえ、中岡さぁにな途中で撒かれておいもす。そん者達よい厄介な者が土佐から来ておいもす」
龍馬と中岡は顔を見合わせた。
「岡田さぁは捕縛され、身柄は元堅田陣屋に置かれておいもす」
「捕縛だって!?」
「土佐にか!!」
「はい。吉田東洋縁の者だと大久保さぁはゆておいました」
吉田の名前を聞たところで龍馬が激昂して立ち上がり、中岡の顔も厳しいものになっていた。
吉田東洋とくれば、土佐藩士が目的とするのは武市に相違なく、半次郎が言うように厄介な相手と言えた。
「もうすぐここへ大久保さぁも来られもすで、それまで待って下さい」
体を震わせていた龍馬は、拳を握ったままどすんと腰を落とし、自分を落ち着けるように大きな息を吐き出した。
「大久保さんまでも来ちゅうのか」
「町に入った所で分かれ、おいは一足先にこっちへ伺おいもした」
「土佐の人って龍馬さんの身内なんですよね? なんで岡田さんを捕まえるんですか!?」
稽古に時間を費やし、武市や桂の事を詳しく尋ねる機会を逃していた和奈にとって、疑問しか頭に浮ばなかった。
「尊王を捨て、藩政改革と佐幕を唱えた吉田殿を敵対とした者によって、暗殺されてしもうた」
土佐勤王党が関わっているだけに、龍馬と中岡にとっても他人事ではない。
「けんど、以蔵は手を出しとらん・・・ほき、大久保さんが動きよったがか」
暗殺を実行に移したのは安岡嘉助、那須信吾、大石団蔵の三人である。
安岡と那須の二人は、天誅組の変と呼ばれる戦にてすでにこの世にはなかったが、大石は暗殺事件の後に土佐を脱藩して久坂の元に身を寄せ、今は薩摩藩士の養子として薩摩藩に居るのだ。
もし捕まった者が三人の名を知っており自白されでもしたら、大石の所在が明るみ出る。そうなれば薩摩にとって厄介な火種となり、土佐藩との確執を生む事態となってしまう。
それを懸念した大久保が手を講じるため大津に来たのだ。
「今お二人を失う事は今後の事いも影響すうだろうと、大久保さぁは言ておいもした」
気が乱れた和奈の腕を、龍馬は慌てて掴んで引き寄せた。
「落ち着つかんか、この馬鹿もんが!」
機械仕掛けの人形の如く動く和奈の目が、龍馬の顔を捉えた。
「・・・はい」
これでは武市が捕縛されていたら、止める事は叶わぬだろう。どうしたものかと龍馬は苦慮せざるを得なかった。
刻々と、ただ時間だけが過ぎて行く。
太陽が地平線へと堕ち、辺りに闇が広がり空に星が瞬き始めた頃、ようやく大久保が姿を見せた。
「大方の事情は半次郎から聞いたな?」
「しっかと聞いちゅう」
「中岡くんが付けられたと新兵衛から聞きいて、足取りを探らせていたら土佐藩まで出てきたじゃないか。一体なんの冗談だと思ったが、京にある土佐藩邸の動きも妙だったゆえ調べさせた。公武合体を唱える山内公が後藤象二郎に圧され尊王攘夷派の弾圧に動いたからだ」
山内というところで龍馬の肩がぴくりと動いたのを、和奈は見逃さなかった。
「この期になって土佐勤王党への圧力か」
それだけならまだ手の打ち様があるが、と大久保は渋面を作る。
「後藤くんが、吉田東洋候の親族に対して土佐勤王党員への捕縛許可を出した。故にわざわざこの私が来てやった由だ、坂本くん」
吉田の暗殺に携わったものが薩摩に居るとなれば、土佐藩との政治的摩擦を生む要因となる。
「京に潜伏している者達にもいずれ手が回るのは必至。そういう状況の中、中岡くんの登場だ。その影に必ず君達が居るだろう事は馬鹿でも思いつく。ここまででも難儀だと言うのに、土佐から来た馬鹿者三名が、同じく中岡くんの動向を探り出し途中まで付けた。撒かれたらしいが、行く先なぞ近場の町につけばおのずと知れよう」
「三人は、土佐の事を伝えに来たがか」
「だろうな。で、捕縛目的の土佐者は、その三名と岡田くんが接触した所へ踏み込んでいる」
「くっ!」
今や中岡も飛び出さんばかりの姿勢になってしまっている。
「捕縛された岡田くんの身柄は佐野藩本陣に在るが、近日中に土佐藩へ引き渡され送還されるのは必至だろう」
「佐野藩に協力を仰ぐことで、土佐は幕府に対して面子を保とうちゅうがか!」
「武市さんは!? 武市さんは無事なんですか!?」
「五月蝿い奴だ」
袖に腕を入れて顎を少し上げ、和奈を見下ろした。帰ってこない身を案じいる以上、止めても出て行だろうと言う事は判った。どうせ行かせるのなら、講じた策を説明してから出したほうが懸命だ大久保は判断した。
「町に出たところで土佐藩士に捕まっている」
言葉が終った瞬間、龍馬は和奈を懐に抱えると掴む手に力を込めた。
「上士の武市くんを即座にどうする事はないだろう。しかし、吉田殿の件を持ち出しているのなら、岡田くんの方は-」
待て、と龍馬が手で大久保を制した。
「岡田さんと・・・武市さんは、どうなるんですか?」
武市は切腹、以蔵は獄門の上斬首だなどと口が裂けても言えない。
「龍馬さん!」
沈痛な表情で自分を見ている皆を見れば、二人の身になにが起こるか大方の予想はついた。
「行きます!!」
「ちっくと待たんか!」
「行かせて下さい!」
手から逃れようともがく和奈を離すまいと、龍馬は掴んでいる手に更に力を込めた。
「静かにせんか!」
ふん、と大久保が鼻を鳴らし、暴れるのを止めた和奈に座れともう一喝した。
「そう言って飛び出す愚か者と知っているが故に、私が直々に説明してやる。だから馬鹿な頭を冷やして話しを聞け」
大久保は紙を貸せと中岡に言う。
「佐野藩邸の大まかな見取り図を用意してやる。行くのは小僧と半次郎の二人。詰めている人数は多くて二十というところだ。手引きは潜入している者にさせる故、裏口から入って行け。いいか小僧、その後は半次郎の指示で動け。そこまで面倒は見切れぬからな」
「わしも行くぜよ、大久保さん」
俺もと中岡も身を乗り出すが、大久保は手を振った。
「何の為に私が苦労していると思っているんだ、君達は絶対に出るな」
「しかし!」
「半次郎は薩摩自慢の剣士だ、二十名如きに遅れは取らん。小僧の方は少々心配だがな」
そう言って不安そうに眉の端を下げる。
「行けます!」
はいはい、と書いた見取り図を二人に見せ、建物の位置を説明して行く。
「ちょっと待って下さい、二人って、そんな無茶な」
ん? と見知らぬ男に一瞥をくれる大久保。
「坂本くん、誰だこいつは」
表情が一瞬にして冷たいものに変わり、赤井は身を引いた。
「ああ、赤井くんは和太郎の知り合いやき」
頭の天辺から下へと視線を移して行く。
「腕はあるのか?」
「いやあ、いかんと思うぜよ」
「なら黙っていろ」
見下したものの言い方に、赤井は頭に血が上ってしまった。
「これでも心形刀流切紙だ! こいつよりは腕が立つ!」
呆然とした大久保は、赤井をしばらく見つめた後、大笑いを始めてしまった。
「心意気だけは立派なようだな。では聞こう。おまえ、これまで何人斬ってきた?」
えっ、と押し黙る。
「ないのか? なら話しにならん、やはり黙っておけ馬鹿者が」
カチンッと頭の中で何かが割れる気がした。
「落ち着かんか赤井くん。こりゃあー稽古でもなんちゃーないんやき」
「だからって、村木が行くのに俺だって!」
やれやれと、大久保は腕を組んだまま立ち上がっると赤井の前に立った。
「斬られる覚悟はあるか?」
腰に差した剣を抜き、赤井の横に振り下ろす。
「芝居小屋で捕り物語を観るのとは訳が違う。斬られれば痛いし血もでる。無論命の保証はない」
「大久保さん、嗾けてどうするがか」
「馬鹿は口で言っても解らなんだろう。ならば少し斬ってやれば思い知ると言うものだ」
そう言った大久保に、慌てて龍馬と中岡が止めに入る。
「いかん、いかんぜよ!」
「剣を納めて下さい大久保さん! 赤井くんも言葉に気をつけろ」
睨んだままの赤井、口の端で笑う大久保。
「和太郎、おまえはどう思う」
急に振られても言葉がすぐに出てはこないが、自分より腕が立つのは確かである。
「剣を持たせるのは・・・」
その言葉にとうとう赤井が切れた。
「おまえが言えた事か! 組太刀すら先生に認めてもらっていないのに、なにを剣士ぶってる!」
言い返すことはできなかった、赤井が語った事は事実なのだ。
「もういい、好きにさせたまえ坂本くん。馬鹿は死なねば治らんと言うじゃないか」
「でも!」
和奈は行かせたくなかった。
「撹乱には丁度いいだろう」
捨て駒、そういう位置づけしをされ赤井はさらに怒気を高める。
「決行は今夜半。佐野藩邸への道は半次郎が知っている」
そう言うと大久保は終りとばかりに、剣を鞘へ納めると部屋を出で行ってしまった。
「時間になったら迎えに来もす。それまでは休んでおいて下さい」
戸口に座ったまま終始顔色も変えずにいた半次郎が、では、と部屋を後にしたので、ため息をついて腰を下ろした龍馬は、難儀そうに赤井を見た。
「大久保さんに噛み付くとは、おんしはわしの寿命を縮めたいちゅうがか」
「俺も寿命、縮まった」
中岡はどっと疲れた顔でその場に寝転がってしまう。
「連れて行く訳にはいかない」
まだ言うかと声を荒げる赤井を睨みつける和奈。
「捕まったら、赤井くんは皆の事を絶対に喋らないと約束できるか!?」
「捕まる前提で話をするな!」
「剣を持つなと、僕に言えた義理じゃない。僕より実力があるのは事実なんだから! だけど、僕が心配なのはそれじゃなくて、捕まった時なんだ!」
「じゃあお前は喋らずに死ぬってか!?」
「絶対に喋らない!」
その声は凛としていて迷いなど感じられなく、赤井は押し黙るしかなかった。
「縁起でもない事で喧嘩をしな」
半次郎と二人で出すのも、捕まる事態にもなって欲しくないが、このまま武市と以蔵を見捨てる事もまた龍馬にはできない事なのだ。
「約束してやるよ」
「なんで龍馬さんの周りには頑固者しか集まらないんだろう」
そう言うおまえもだろうと龍馬が笑う。
「わしらの若い頃も、こうじゃったがか」
十分、龍馬もまだ若い。本当にこの人はと、和奈は笑みを浮かべた。
「連れて行ってやれ和太郎。おんしがそうじゃった様に、現実を見のうてはなんちゃあ見えんし、考える事も出来ん」
ここに来てしまった以上、戻れるという可能性は皆無だろう。それは赤井も同じであり、自らの道を選ぶのも赤井本人なのだ。
「僕ができる恩返しって・・・このくらいしかなくて・・・」
膝の上で握った手に涙が落ちる。
「恩返しがほしゅうて、おんしの世話を引き受けた訳がやないき」
大きな手が頭を撫でた。始めて会った時も頭を撫でてくれたのは龍馬だっだ。
龍馬も中岡も、和奈に任せるのではなく、今直ぐに飛び出して行きたいのが本音だった。
「きっと助け出します、武市さんも岡田さんも」
うんうん、と頷く龍馬の肩に頭を寄せた。