其之一 禁門の変
飛鳥川 きのうにかわる 世の中の うき瀬に立つは 我身なりけり 国司信濃
文久二年。薩摩藩の藩父島津久光の入京と共に京へ入った真木和泉は、寺田屋に於いて有馬新七らが上意討ちにあった後、久留米藩へ引き渡され獄入りとなったが、長州藩から助命嘆願の強い要請があり赦免となる。再度入京した真木は、学習院の御用掛となり、公卿三條實美の信任を得るまでになる。しかし、薩摩と会津藩の画策で起こった八月十八日の政変で、七卿と共に長州へ下っていた。
池田屋の事件を聞いた真木は三條に、長州藩の冤罪を訴え、京から追放の身となった三條ら七卿の復権も含めた進発論を唱えた。
元治元年七月十六日、真木や三條らの策に賛同した来島又兵衛率いる六百名が嵯峨天龍寺に入り、続いて海路陸路を使って摂津国から久坂玄瑞、真木和泉率いる約千名が山崎天王山に陣を張った。
進発の総大将となった福原越後、国司親相、益田右衛門介の三家老が率いる千六百名も、物々しい様子で伏見長州藩邸へと入った。
「福原殿」
乃美が険しい表情で福原達三人の前に座した。
「幕府からなにゆえの京入りかと、伺いがきております」
「我らは戦をしに入京したのではなく、朝廷に対し陳情しに参っただけだ。何を隠すでもない、そう伝えれば良い」
しかし、と乃美は眉を顰めて三家老に膝を寄せた。
「この数です。陳情しに洛中へ入っただけとは信じてもらえますまい」
「会津が抱える新撰組とか申す集団、人斬り集団と京では恐れられているそうではないか」
「加え、商人を拷問した上、その証言を奉行所で詮議もせず池田屋へ御用改めと入った。そのような輩が居るがゆえの兵であると申せ」
「また無茶な事を。稔麿達の計画を記す品が、その古高という商人の屋敷から出たとの事ゆえ、新撰組が動くのも致し方ないかと」
「馬鹿を申すな!」
方膝を立てて顔を真っ赤にしてどなる益田の手は震えている。
「稔麿が居って、京を焼き、帝を拐かす策など立てるものか!」
「証拠など、後からいくらでも作れよう。これは長州を陥れんとする会津と幕府の策略である。我が長州が朝廷に対し、弓引くような所業をする道理はない」
国司の言葉に、福原も益田も頷く。
「貴殿は、我らの上洛を池田屋事件の取調べだと届ければよい。天王山に入った久坂も、朝廷に対し嘆願書を出しに行っておる頃だ」
「我等も御所のあるこの京で戦など起こす気は毛頭ない」
「・・・承知致しました」
しぶしぶといった様子で乃美が部屋を出て行くと、
「しかし、会津と薩摩が邪魔に入れば、久坂と来島殿も市中に入ざるを得まい」
と疲れた顔で福原が呟いた。
「何としても御所へ赴き、我らの真意をお伝えせねばならん」
福原達が甲冑姿で藩邸に入った事で、邸内に居た藩士達が我もと名乗りを上げて来た。これに加え、噂を聞きつけた浪士達が続々と藩邸へと詰め掛けてきた。その数五百名を下らず。
緊迫した空気が漂う中、会津藩を中心として、各藩邸から禁門の守護を任されている藩から人が集まり始めた。
薩摩藩大目付役の吉井仁左衛門、土佐藩小目付役の乾市郎平、久留米藩徒目付大塚敬助らも、武力で制するより、長州の意向を伺い立て、事を穏便に済ませるのが得策と進言する事で意見を一致させ、入京を阻止しするため朝廷に対し建白書を提出した。
これ以上、長州へ追い討ちを掛けては後々大きな波乱を引き起こす火種を生む事になる。
久坂が提出した嘆願書に対し、朝廷でも長州藩への寛大な措置を要望する声が多く上がり、吉井達の進言を取り上げようという公卿が多く居た。しかし、会津や筑前、薩摩藩に、ここで長州に対して恩赦をかければ、再び攘夷派が活気付く事になり兼ねず、国内だけではなく対外政策にも大きな支障がでると押し切られ、朝廷は長州軍に対して再度退京を命じ、従わない場合は追討令を出す事を決定した。
「んごて長州を敵に回すよな事をした」
伏見の薩摩藩邸に出向いてきた西郷は、大久保の顔を見るなり開口一番そう詰め寄った。
「なぜ私が責められねばならんのだ」
「一蔵どんが京に居て、んごて、こげん事になっとうのかと聞いとうんだ」
「己の保身しか目に入っておらん馬鹿などに、私や吉井くんの真意など解ろうはずもないではないか。それにだ」
睨みつけるように大久保が西郷へと視線を向けた。
「おまえが京に入れば、会津も強気に出て来るだろう事くらい考えたらどうだ」
「俺は幕臣じゃなかか。長州が上洛などちゅう軽はずみな行動を取らなにゃ、俺が京へ入っ事もなかったんだ」
「そもそもの原因を作ったのは、会津が抱える新撰組ではないか。強いて言うならば、会津がだがな」
「京守護職にあう立場では、しよがなか」
大久保が考えている公武合体は、倒幕へ藩政を転換させる上での通過点に過ぎず、本気で幕府と朝廷を頂いての国つくりではない。会津と手を組み、長州を朝廷から遠ざけたのも、急進すぎる変革によって、後々にしこりを残したくないがゆえの策だった。
「京に於げる地位が向上した会津は、幕府の意と独走を始めている。面白くないのは、新撰組の存在だよ吉之助」
「京の治安維持は目下の課題だ。捕い方達では、京中に徘徊すう不逞浪士を取締うなどでけん」
「ふん。不逞浪士だと? 奴らが斬る大半の者は、攘夷派や尊攘派の志士達だと言うのを忘れてもらっては困る」
目を閉じたまま、静かに大久保の言葉を聞いている西郷の顔は厳しい。
「ともかくだ。入京を推し留めるに至らぬ結果となり、退京を迫られた長州が動くのも時間の問題だろう。吉之助、何としても長州藩の御所乱入を防げ」
「言われうまでもなく、こん身を以って長州を止むうつもいでごわす」
もし防げず、朝敵となれば長州は京へ入る事は叶わなくなる。それどころか、会津に藩取り潰しへと動く切欠を与えてしまうかも知れない。
(そんな事になれば、倒幕への道がまた遠くなる)
薩長の和睦をと動く龍馬や中岡の足をも捥ぐ結果にもなる。
「桂くんの気苦労を、少しでも汲む心が野生児にもあれば良かったのだがな」
高杉が脱藩し獄送りとならなければ、長州兵の上洛がこうも早くは行なわれなかっただろうと、大久保は残念で仕方がなかった。
「大国と対等に渡り合える国づくりを成すためには、緻密な計画と様様な下積みが必要だ。
それが判ったから、桂くんは敢えて慎重派としての自分を貫くと決めた。万が一、我々が望まぬ結果となってたとしても、私は心に決めた方針を貫くぞ」
「それが一蔵さぁの志と言うのなら、最後まで貫いてみ見せうとよか」
追討令が出されたことにより、幕府の動きは一層慌しくなる。
御所守備軍総大将の任に就いた一橋慶喜は、松平容保、西郷吉之助率いる諸藩と新撰組を含む五万の幕兵を以って、京都御所の周辺を中心に警備を敷く事を決定し、すぐさま薩摩藩邸に届けられると、大久保が見送る中、西郷は重い足取りを御所へと向けた。
一方、退京命令を受けた福原達も、勅命を手に久坂の居る天王山へと足を運んでいた。
焚き火を囲み、退京命令を記した紙に目を通した久坂の顔は苦渋に歪んでいる。
「こうなれば、鷹司殿に謁見し、御所参内が出来るよう頼むしか手はありません」
「じい様はもう出る気でいるぞ?」
「できる限りの事をしなければ、我々はただの暴徒に終ります。そうなれば長州に汚名がつく。それだけは避けねばなりません」
「久坂の言う通りだ。じい様には、退去命令の件は今しばらく伏せておく」
この場に来島を呼ばなかったのは、武力を以ってではなく、話し合いで事を進めたいと言う久坂の意見を尊重してのものだ。
「しかし久坂よ。参内は叶うと思うてか?」
「退京せねば追討も止むを得ないとの判断を下したのは、幕府が朝廷に圧力を掛けたからに違いありません。我らに退く気がない以上は戦となりましょう。もし戦になれば、鷹司殿とて危険を冒してまで我らの参内を取り持ってくれるとは思えませぬ。ですが、僅かでも可能な道が残されている限り、試してみる価値はあるかと存じます」
久坂も福原達が兵を伴って入京したのは、戦を起こすためではなく、長州藩の本意を朝廷に直接伝える事にあり、会津や薩摩藩が邪魔に入るのを見越してたものだ。すんなりと幕府が朝廷への謁見を許してくれるのであれば、兵を挙げての上洛など考えはしなかった。
「ここで討論を重ねても仕方あるまい」
「ならば」
「夜明けを待って御所へ向かう。国司はじい様を頼んだ」
「承知した」
入京決行の意を固め、福原と益田は伏見藩邸へ、国司は来島の居る天龍寺へと引き上げて行った。
襷姿で刀の手入れをしている中岡の元へ歩み寄る久坂は、安政の大獄で師松陰が斬首となった後より、攘夷活動の主導を担うようになった。高杉とは松下村塾の双璧と呼ばれるようになる。
困窮する藩士や郷士、足軽等、同志の生活援助という名目で、松陰が書き残した著作本を写しそれを売って得た資金で補うと言う「一燈銭申合」を考え出した人物でもある。
この一燈銭申合には草案者久坂玄瑞の他、入江杉蔵、佐世八十郎、寺島忠三郎、品川弥二郎、山縣狂介、堀真五郎、楢崎弥八郎ら十九名を主とし、桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔を含む五名も後に署名している。
「我々に付き合う必要もないだろうに」
松明の灯りに赤く染まった中岡の横顔が、久坂には哀しく映る。
「黙って見ていられませんでしたから」
「だがな」
「幕府のやり方に、これ以上の我慢はできません」
何を言っても中岡が引き下がらない性格なのは久坂にも良く解っている。かと言って、戦になる可能性もある行動に同行させたくもなかった。
「君には違う方法があったんじゃないか?」
「これだけの兵が入京したんです。それも難しいと考えました」
「そうか」
「皆には、挨拶を済ませて来てあります」
若者が生を急ぐ時代を築いてはならないと、久坂は今の世の正しさを探した。だがいくら考えを巡らせても、正しき道など今の幕府にはないとの答えしか出せなかった。
(先生は、僕の行いを良しと笑ってくれるでしょうか)
松陰も至誠を尽くし、この国を外国に撒けない国にしたいと願っていた。しかし安政の大獄は無残にもその命を奪い取った。だが、松陰の想いは色々な形となって長州の若者達の心に根を張っている。
塾生の中でも久坂は取り分け尊王攘夷の思いが強い。朝廷に政権を戻し、天皇の采配による国政を敷き、その力添えに諸藩が足並みを揃えてこそ富国強兵が成せる。それこそが、師松陰の望んだこの国の未来だと信じている。その志を遂げるためには、長州の汚名を返上させ、政権復古を果たさねばならない。
高杉や桂の制止を聞かず、進発に賛同して入京した理由はそこにある。
「死に急ぐなよ、中岡くん」
その言葉に中岡の返事はなかった。
志を貫く生き方の難しさだと、久坂自身も己の成そうとしている事の難しさも痛感した。
そして翌七月十八日に、天龍寺、天王山から長州兵が洛内へと出立した。
同日に開かれた朝議に於いて、京守護職松平容保が武装を以って入京せんとする長州兵に対し、即時討伐すべしとの強硬な態度を示していたが、共に長州を追放した薩摩は賛同もせず、この期になって日和見を決め込んでしまった。
禁裏御守衛総督に就いた一橋慶喜も最初は強硬を唱えていたが、一転して薩摩寄りの意見を述べ、強硬派宥和派のどちらにも着かなかった。
事変を知った国事御用掛の有栖川宮幟仁と有栖川宮熾仁親王と、議奏を辞職していた公家の中山忠能が参内して、久坂が提出した嘆願書を退けた事に対する憤りを申し立て、松平容保の追放と長州入京を許可し平和的な解決をすべしとの意見を述べた。深夜まで議論が交わされたが、有栖川らの陳情は朝廷に受け入れられず、朝議の結果は長州藩の討伐で決定した。
禁裏御守衛という立場もあり、慶喜は薩摩藩を主に、桑名、彦根、越前、淀、大垣諸藩に禁門の警備の強化を図らせ、各門の内側に篝火が焚き夜通しの警戒を敷いた。
十九日になり、心労が祟り、容保が倒れる騒動となり、幕府は代わって慶喜を幕軍の総指揮に当たるよう命令を下す。
二度に渡る慶喜からの退京命令に応じぬまま、久坂や来島達が御所を目指す中、伏見藩邸を出た福原隊は、藤森まで来た所で大垣、彦根藩に行く手を阻まれた。
「融通の利かぬ奴らよ」
そう笑った福原は、この場を何としてでも突破し、御所へ向かわねばと号令を出した。
「一人でも多く御所へ向かえ!」
刀の重なる音が静かな町に響き渡り、やがて怒声や断末魔が剣戟の音に混じ出す。
福原に刀を振り下ろしてきたのは、まだ元服間もない少年兵だった。若いとは言えど、刀を手にした時より武士となる。戦に出る覚悟の有無に関わらず、武士となればお上の命は守らねばならない。
若い藩士の腹を柄で殴ると、福原はその身体に躊躇なく刀を振るって行く。
相手の数の多さが障壁となり一進一退を繰り返すだけで、大垣彦根藩を突破する事ができない。
「幕府も必死か」
一対三なのか、それ以上なのか。
時間が経つにつれ、一人、二人と地面に倒れて行く数が増えている。形勢はすでに不利となり、壊滅に近い状況となってしまっている。もはやここを突破し御所に辿り着くのは不可能と判断した福原は、即座に撤退を決めた。
「皆、退け! この場から退け!」
生き残りさえすれば次もあると伏見へ一旦退いた福原は、体勢を建て直し別の経路からの御所到達を試みる。だが、御所へ続く道はどこかしこも幕軍と諸藩の兵で埋め尽くされてしまっていた。
御所へ辿り着くどころか久坂達と合流するのも難しく、かと言って伏見藩邸にも追伐の手は伸びるだろう。
やむを得ずと、福原は京を出る決断を下した。
撤退を余儀なくされた福原の事を知る由もなく、天龍寺から戻橋に到着した国司、来島率いる隊は、中立売御門、新在家御門、下立売御門の三方へ分かれていた。
中立売御門の前に立った長州兵と、守護に就いている筑前藩勢の双方が相手の出方を伺う緊迫した状況の中、一発の銃声が響き渡った。
筑前藩と共に出陣していた幕兵が緊張から、命令もなく火縄銃の引き金を引いてしまい、不運にも長州軍の一人へと命中してしまった。
「ここで撃つか! もはや御所の御門とて遠慮は要らぬ。行け!」
来島の怒声を合図に、長州兵が門へとなだれ込んだ。
「臆するな! 我らの志を見せてやれ!」
攻め側となった長州の勢いに気圧された兵は、門前で堪え切れず内側へ後退させられ、先頭を切っていた来島らの禁裏内進入を許してしまった。
「このままま一気に押し進め!」
「爺さま、待て!」
来島が駆け出そうとしたその時、国司が後方の異変に気づいて肩を掴んで引き寄せた。
「何をしちょるか!」
「あそこを!」
指で示された方へと目を向けた来島は、乱戦となっている門内に動じもせず、人を押しのながら進んでくる巨躯に目を細めた。
「薩摩の西郷さんか!」
錦小路藩邸から天龍寺に向かおうとしていた西郷が、御所方面で上がった砲声を聞きつけ駆けつけて来たのである。
「兵を退け!」
筑前兵に向かってでも、長州兵に向かってでもなく叫んだ西郷は、自分を見つけて立ち止まった来島の方へと歩みを速めた。
「ここを禁門と知って、なにゆえに武力を行使すう」
「先に禁を破ったのはそちら側ではないか」
「じゃっで、御所への乱入を許す訳には行きもはん。直ちに兵を引いて退京されうが良か」
「出来ぬ相談だ!」
国司が握った刀を手に一歩前へと進み出た。
「これ以上進むと言うのならば、おい全力を持って阻止すう所存じゃぁと申し伝える」
「我らとて、ここで退くわけには行かぬ!」
来島の言葉と同時に、近くに居た長州兵が切り結んでいた筑前兵へと再び斬りかかると、再び攻防が始まった。
言葉で説得できないのであれば、武力でもって長州を禁門から外へ追い出さなくてはならない。
西郷は小銃を構える一団の方へ下がると、長州兵の先頭に立って悪鬼の如き形相で剣を振るう来島の狙撃を命じた。
「一発でよか」
鳴り響いた銃声と共に、次へと斬り掛かろうしていた来島の体が地面に崩れ落ちた。「爺さま!」
膝を付いて蹲っている来島の元へ、国司が慌てて駆け出そうとするが、筑前兵が行く手に立ち塞がりとおしてはくれない。
「誰かじい様を!」
蹲った来島は動く様子を見せない。
「ええぇい! どけっ!」
国司の声を耳にしながら、激痛に顔を顰めた来島は、霞み始めた視界で辺りの様子を見る。
「ぐっ・・・」
痛みが気力を捥ぎ取っていく。
胸を抑えていた手を見ると、べったりとした鮮血で赤く染まっていた。その額には油汗が浮き出ている。
「心の臓近くか・・・無念じゃのう・・・」
激痛に耐えながら、来島は受けた銃弾が致命傷だと悟った。
「・・・武七・・・武七っ!」
近くに居た甥の喜多村武七の名を叫び、声に気づいた武七が駆け寄ると、その腕を強く握り締め言った。
「すまんが、介錯を、頼む」
返事する間を作らず、来島は手にした刀の刃を両手で持つと、自らの喉を突き刺した。
「叔父さん!」
悲鳴に近い叫び声に、横へと顔を向けた国司は、来島へと刀を振り下ろす武七の姿を捉えた。
「じい様ぁ!」
国司の声が届いたのか届かなかったのか、国司にも、首を落とされた来島にも判らなかった。
次々と仲間が倒れ行く中、長州側も銃撃隊を前進させ、筑前兵へ向けて発砲を開始した。
「敵将を狙え!」
敵将はすなわち、指揮を執っている西郷である。
何発もの銃声が起こり、騎乗で指揮を執っていた西郷の体が馬上から地面へと転がり落ちた。
「西郷さぁ!」
尻餅を付いて座る西郷の太股が、みるみる血で赤く染まって行く。
「わいの事はいい、長州をとめろ」
駆け寄ってきた兵にそう言い、手拭で負傷した足を縛って再び兵へ命令を飛ばす。
来島を欠いた長州兵は勢いを失い、筑前兵と薩摩兵に推されて徐々に門内から後退し始めた。
是が機と、西郷は隙間のない隊列を指示し、一気に門の外へと追い出しに掛かった。
総崩れとならないまでも、形勢を立て直せなければ劣勢となるしかない。応戦するのが精一杯となった状況に、国司は已む無く撤退の声を上げた。
新在家御門では、到着した勢いのまま会津桑名藩を押し上げ門内部へ突入した長州だったが、後から後から沸いて来る敵に対してなす術を失い、後退を強いられた。
下立売御門でも、門内で双方入り乱れる乱戦となり、敵味方の区別がつかない状況になると、会津幕府間で同士討ちが出て混乱を極め、状況は長州側の優勢となった。
各門での攻防が繰り広げられている中、前太政大臣鷹司政通の屋敷を占拠した久坂と真木達は、門という門に兵を配置させると鷹司の前に膝を折った。
「どうか、我々の御所参内にご助力をお願い致します」
参内前の鷹司に自分達が上洛した理由を語ったが、鷹司は背を伸ばし首を横に振った。
「公武合体派の公卿らが政局の中心となっては、孝明天皇と言えど尊攘の意志を貫き通すのは至極難題である。しかも武装し兵を挙げの上洛と、二度に渡る退京命令に背いたそち達の嘆願は届かぬ。雪冤のためと嘆願しに来るのであれば、兵を上げる必要はなかったのではあるまいか」
「我らとて好んで兵を挙げたのではありませぬ。元を正せば会津薩摩藩が政権を己が物と、朝廷に働きかけた事にございます。穏便に済ませられるのであれば、兵を立ててまで上洛など考えましょうか!」
京での二代政権だった薩摩と長州。それが今や長州は京を追われる身なり、薩摩は大手を振って政権に参加している事態になっている。
「できぬものはできぬ。大人しく降伏する事を提言致す」
久坂は無念の形相で俯いた。
一橋率いる会津兵も鷹司邸に到着し、屋敷の周囲を取り囲むと突入の機会を伺っていた。
「長州め。武力で幕府と遣り合えると本気で思ったのか」
馬上からそう呟いた一橋は、葵の紋を付けた陣羽織を羽織っている。
会津藩主松平の様態が悪くなってしまった為、会津兵を率いて出陣して来ていた。
「包囲が完了しました」
一橋は暫し黙した後、上げた片手を振り下ろした。
「全軍、各門から突入せよ!」
外が徐々に騒がしくなり、中岡はそっと障子を開いて様子を伺った。
視界に入る門から、幕兵と長州兵が斬り合う姿が見える。
「久坂さん」
中岡の横から顔を出して見た久坂は、後ろにやって来た寺島忠三郎に目を伏せ頷いた。
周防国に生まれた寺島は藩校である明倫館に通い、松下村塾で吉田松陰と出会うと門弟に下った。久坂とは、文久二年に結成された御楯組に入った時に知り会い、未遂に終って居るが、公武一和を唱える長井の暗殺計画にも参加していた。
中岡の手を取った寺島は、部屋の隅に立つ入江九一の許へと引っ張って行く。
「二人に頼みがある」
寺島の言葉に、二人は顔を見合わせる。
「この場を生き延び、事の顛末を長州へ報告してもらいたい」
ここから逃げ出せと言われたのだ。
「俺だけ逃げるなんてできるわけがない!」
入江は猛反発した。
「俺も共に戦う!」
久坂も二人の前に立ち、ここを脱出するのも大事の一つ、死ぬばかりが戦ではない、と諌めた。
「中岡くんも、どうか入江の脱出に助力して頂きたい」
「しかし!」
「討論している時間はない! 我ら長州の無念をおまえ達に託す!」
外では斬り合いが始まったらしく、刀のぶつかり合う金属音や怒声が絶え間なく聞こえてきている。その声が次第に家屋へと近づいてくる。
「なに、我らとて無駄死にする気はござらん」
そう寺島が笑顔を見せ、
「行ってくれ!」
と叫んだ。
直後、障子が勢いよく開け放たれ、幕兵が近くに立っていた寺島へと斬りかかった。
久坂も中岡達の側から飛び出し、刀を抜いて後から出で来た幕兵へ振り下ろす。
中岡と入江は、ただ呆然とその光景を見詰めている。
「なにをぼやっとしている! さっさと行かんか!」
部屋へ入ろうとする幕兵を、一人また一人と斬り捨てながら久坂が怒鳴った。
「我らの想いを無駄にするな!」
注意を逸らした瞬間、肩から胸へと太刀が走り、寺島の体がその場に蹲る。
「寺島さん!」
走り出した中岡は、さらに斬り掛かろうとする幕兵の腕を切り落とした。
「ここで死ぬ事は我らが許さぬ! 生き延びるのもまた戦と心得よ!」
「生きて志を継いでくれ!」
庭へ降り立ち、刀を振るい続ける久坂が声を限りに叫ぶ。
「久坂!」
視界が緩むのを堪えた中岡は入江の所へ駆け寄り、鞘から抜き放った刀を対峙していた幕兵の背中へ刀をと振り下ろすと、入江の手を掴んで一気に部屋から駆け出した。
「追え!」
「そうはさせん!」
久坂は追わすまいと幕兵の前に進み出る。
「貴様らはの相手は我らだ!」
痛みを耐えつつ、傷口を押さえて立ち上がった寺島は久坂に背を向け幕兵に対峙した。
どこもかしこも修羅場だった。
久坂隊の総勢は千余り。対する幕兵はその倍以上は居ると見えた。優勢劣勢は数を確認するまでもなく明らかだ。
中岡と入江は、襲い来る幕兵を切り倒しながら、戦の間を縫うように近くの門へと走って行く。
斬っても斬っても、向かってくる兵の数は変わらない。
中岡の目の端々に、倒れていく長州兵の姿が映る。
泣きたいのを我慢し、唇を噛みしめた中岡は、戦闘の薄い場所を選びながら家屋の裏手にある小さな門へと急いだ。
先を進んで行く中岡の後を追う入江も無言で、門へと走っていく。
漸くの事で門の両壁に背をつけた二人は、荒くなった息を整える。
「中岡くん・・・やはり僕久坂を置いては行けない」
「入江さん・・・」
入江の気持ちは十二分に解った。久坂と寺島の頼みでなければ、敵に背を向けて逃げ出しはしなかった。
「まだ久坂さんたちが負けると決まったわけではありません」
虚勢でしかない。
現状を目の前にして、中岡も勝ち戦になる可能性は限りなく低いと判断できている。
「残念ながら俺は長州の人間ではありません。俺の言葉より、入江さんが伝える言葉の方が大事なんです」
「中岡くん」
扉の閂を静かに抜いた中岡は、扉を少し開けてから外の様子を伺い観る。
門の両脇に二人、道の真ん中にも二人、後の一人は門の反対側で辺りの様子を伺っている。
入江の手が扉に掛けられた。
「ここを突破すればいいんだろう?」
「ええ、生きてね」
顔を見合わせた後、二人は勢いよく門を飛び出した。
「!」
何事だと二人を見た幕兵が、長州兵だと慌てて剣を抜いた。
「邪魔をするなら斬る!」
背を合わせ、幕兵との距離を保ちつつ壁から離れて行く。
「ぐずぐずしてる暇はない」
間合いへ入って来た幕兵へと入江が踏み出し、剣を振り下ろした。
二対五では相手に背を向ける事も出来ず、中岡も入江もお互いの背中を確かめながら幕兵と剣を交える。
膠着する時間が長引けば、いずれ剣戟を聞きつけ幕兵が加勢に出て来る。そうなれば逃れるのは無理に等しい状況になるだろう。
急を急いだ入江が幕兵との間合いを詰めた。
横薙ぎに払った刀が相手に届くより早く、銀色の光りが入江の胸元に深々と刺さった。
「入江さん!」
眉間を寄せちらりと視線を下げた入江が、嗚咽と共に血を吐き出すのが見えた。
「どけ!」
中岡と相対していた兵士がその気迫に圧され腕を止めたが、別の兵士が代わって来る。
防戦のみで入江の側まで近寄り、肩越しに胸を見やった。
(これでは・・・・)
「案ずるな・・・まだ、大丈夫・・・」
刺さった刀を引き抜かせまいと、刃を握り締めた入江の手から血が滴り落ちる。
「無茶せんでください!」
入江は脇差しを抜き、刀を抜こうともがく兵士の喉へそれを突き刺した。
「まだだ・・・まだ終るわけには、いかない・・・」
刀を引き抜き、崩れる兵士の後ろに立っていたもう一人に刃を這わせた所で入江の足が落ちた。
「くそっ!」
身体を回した中岡の背後に刀が走った。
「じゃま・・・するな!」
左手で抜いた脇差を後ろの幕兵に突き出し、その剣を引き抜きざま、入江が斬った男の右手を薙ぎ払った。
腕がぼとりと地面に落ちる。
「あとはおまえらだけだ!」
残る二人に向かって中岡は足を踏み出した。
右の男の懐へ脇差を突き刺し、引き抜いて切り上げると、身体を回して左の男へ薙ぎを払う。
「くっ・・・そ・・」
兵士が倒れたのを確認し、膝を付いている入江の許へ急ぐ。
「ここから離れましょう」
入江の体を担ぎ上げ、屋敷を取り巻く壁を見上げる。
屋敷の中では乱戦が繰り広げられているだろう。久坂や寺島がどれだけ持ちこたえるのか、今の中岡には想像もできない。
(どうかご無事で)
背後に気を配りながら、息も荒く血を滴らせる入江と共に門を離れ、近くの路地に向かう。
肩に掛かる入江の重みを感じながら、さらに路地を奥へと進んで行く。
鷹司邸にかけつけた幕兵は、そのほとんどが邸内に入ってしまっているのだろう。民家が立ち並ぶ薄暗い路地に入ってくる者は居ない。
「俺はもう・・・だめだ」
「なに弱気なこと言ってるんです。俺達はここを生き延びなければならないんです。頑張って下さい」
気休めでしかない言葉だと、中岡は歯を食い縛る。
角に来ては曲がり、また角を曲がって進んで行く。
力が抜けた入江の体を支える腕が次第に痺れていくのが判る。怪我人を抱えては、それほどの距離は進めない。
薩摩藩邸まで逃げ込めれば後はなんとかなる。
その一念で、腕から力が抜けそうになるのを耐え、少しでも鷹司邸から遠ざかろうと足を前へと運ぶが、徐々に入江の足が中岡の足に追いつかなくなる。
「下ろして・・・くれ・・・」
半ば引き摺られる様に歩いていた入江が、歩くのを止めた。
「もう・・・いい」
中岡の肩に回されていた腕から力が抜け、入江はその場に崩れ落ちた。
「宛があるんです、もう少しですから頑張って下さい」
「わかって・・・いるだろう?」
入江がにやりと笑い、胸を押さえていた手を中岡に突き出す。
言葉を失い、込み上げてくる嗚咽を喉の奥へと飲み込む。
泣き出したいのを堪え、血の気がなくなった入江の顔を覗き込む。
「久坂は・・・無事だろう・・・か」
追っ手が来てないこと確かめ、火消し用に置かれている石桶の陰に入江の体を引き摺って行く。
「大丈夫です、久坂さんなら。寺島さんもいるんです、大丈夫にきまってます」
入江の息遣いはすでに虫の息に近い。胸の膨萎も見て取れない。
着物をはだき見ると、心蔵の近くにある傷口から脈うつように血が流れ出でいる。
中岡は歯を食いしばった。
「・・・久坂・・・た・・ちと・・・死にたかった・・なぁ」
言葉が終った瞬間、入江の首が前に落ちた。
「い・・・りえさん・・・・」
中岡は動かなくなった入江の身体を抱き、声を殺して泣き崩れた。
尽きるともなく溢れて来る幕兵に絶望的な戦況を見て取った久坂は、戦っている者へ生きてこの場から逃れろと叫んだ。
「寺島よ、我らはここまでだな」
逃げ出すのは、周囲は既に取り囲まれている状況では皆無と言えた。
討ち掛かって来る幕兵に、久坂も寺島も必至で刀を振る体には無数の切り傷ができている。
「なに、新しき世を諦めておらぬ者達がまだ居る。我らはその先駆けとなればいい」
「そうだな。高杉が、桂さんが残っていれば、長州はまだ戦える」
じりじりと円陣が狭まって行く。
二人が剣に長けていると言っても、何百人を相手に勝算はない。
「薩摩に首をくれてやるわけにはいかん」
長州を京から追い出した相手に、捕縛される屈辱など選ぶことはできない。
「死んで逝った者達が待っている」
「ああ、逝かねばな」
久坂と寺島は構えていた刀を下し、幕兵から向きを変えて対峙した。
驚いた幕兵も動きを止める。
「そやつらを召し捕らえろ!」
だれの声か判らない。
その声が耳に届き、向き合った久坂と寺島は笑みを浮かべ、持ち直した刀を横に抱えてお互いの胸元目掛けて一歩を踏み出した。
「そこをどかんか!」
一橋は兵を掻き分け、円の中へと入ってくると、倒れている久坂と寺島を見下ろした。
「目の前に居る者をむざむざ死なせるとは、貴様らはなにをやっている」
捕らえろと叫んだのは一橋慶喜だった。
会津の羽織をきているとは言え、一橋は薩摩藩と同じく討伐には乗り気ではなかった人物の一人だ。長州と戦になれば、京につめている幕兵と諸藩の兵士で勝てると解っていた。勝てても被害はでる。ならば話し合いの余地を残し、戦を回避する手立てがあるのなら、それもいいと思っていた。
「この場を納めるぞ」
二人の最後を看取った一橋は、逃れた長州兵の追伐を命じた後、鷹司邸を焼き払うよう指示を出した。
益田は五百人を率い、天王山へと軍を進め、最後に京へ入る手筈だった。しかし、敗走して来る自軍を追う幕兵を相手にする事となり、総崩れすると退却に転じ、鷹司邸から逃れて来た真木和泉ら十七名と合流した。
「すでに市中は幕兵で固められ、この数で御所へ行くのは無理かと存じます」
真木の進言で進軍を断念した益田は、長州への帰還を決定した。
だが真木は、このまま長州へ逃げる事はできないと、討死覚悟で天王山に立て篭る決意をした。
真木は久留米藩士で長州藩士ではない。
安政の大獄で吉田松陰らを失った長州尊攘派を、形而上下に渡って指導していた男だった。大久保らと薩摩藩島津久光を擁立して文久二年に上京し、長州藩士や志士と接触を取り活動を続けていたが、八月十八日の政変が起り七卿と共に長州へと逃れた。その経緯もあり、三條と倒幕の深意で共感する間柄となった真木は、長州に対する不遇処置に不服を抱き、今回の進発に自ら進んで参加して来た。
益田達を見送った真木達は、最後の戦と、追撃して来る幕兵に力の限り立ち向かった。
たった十七名では、幕兵の追撃を追い払う力はない。
なす術は最早ないと悟った真木は、共に残った大沢逸平に三條への和歌を託した。
大沢は大和国出身で、今回の進発の原因となった池田屋事件で生き延びた一人だ。
「長州の高杉くんに、後は頼んだと伝えてくれ」
大沢は真木の頼みを涙で受け、最後の宴を共にすると夜の闇に乗じて京からの脱出を図った。
真木達は、市中を向いて一列に並んで座り、作法にのっとって自刃を果たした。
入京した長州軍は三千八百名。対する幕府諸藩は総勢五万。後に禁門の変と呼ばれるこの戦いに於いて、長州側は四百名近い死者を出した。幕府側の死者六十名に留まり、長州は幕府との攻防で惨敗を記したのである。
これからの長州を担うべき若者の多くが、この戦でその短い命を終えた。
終戦後、御門に於いて内裏へ向け発砲した罪を問うた朝廷は、長州藩を朝敵とした。
勅命が下ると、長崎・大阪・京都・江戸など、長州藩が所有しているの全ての藩邸が没収された。また、支藩の長府藩邸、徳山藩邸全部と岩国領吉川家江戸屋敷も没収の対象となった。
藩邸没収により拘禁されたのは百十八名で、士格者は旧陸軍所に拘束された。没収の際に抵抗したとして四十三名が討ち取られに至った。百八十名は武士ばかりではない。士格以上は十七八名で、その殆んどが足軽身分で百余人。女も三人いたと言われる。
鷹司邸を焼いた炎は北風に乗り、一条通から南は七条の東本願寺に至るまで広がり続けた。奇しくも宮部達が市中に火を放つ計画通り、町の半分を焼き落とす惨事となった。
この大火を「どんどん焼け」呼び、長州の怨念が火を広げたのだと語られた。
大山の峰の岩根に埋めにけりわが年月の大和魂 真木和泉