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大塚一歩の遅すぎたほっこり飯  作者: 修羅観音


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大塚一歩の遅すぎたほっこり飯

バリバリバリバリバリッ!


夜の静寂を暴力的に引き裂き、1台のオートバイが夜の街を疾走する。

跨っているのは、27歳の大塚一歩だ。


京都で生まれ、京都で育った一歩は、子供の頃から同年代よりも頭一つ分ほど体格が良く、少々肥満気味ではあったが、その分厚い肉体を武器に生きてきた。

スキンヘッドを青々と光らせ、太い首をすくめて前傾姿勢を取るその姿は、夜の闇に紛れる獰猛な獣を彷彿とさせる。


一歩は、幼い頃から暴走族やヤンチャな少年たちが拳一つでのし上がっていく漫画に心酔していた。

その影響は歪んだ形で表れ、自分より体格の劣る相手を見つけては、プロレス技をかけたり漫画の真似事をしたりして、嫌がる顔を見ることに歪んだ悦びを見出してきた。


子供の頃から髪の毛が薄く、スキンヘッドにせざるを得なかったことは、一歩にとって深いコンプレックスだった。

しかし、その弱みを周囲に悟られ、馬鹿にされないために、彼は虚勢を張り続け、過剰なまでに自分を強く見せるための「はったり」を積み重ねていく。


いつしか、その虚勢こそが自分自身であると錯覚し、性格はさらに傲慢に、そしてねじ曲がっていった。

親が自分の将来のためにと必死に貯金してくれていた金も、一歩にとってはただの自由に使える資金に過ぎず、若いうちに全て使い果たしてしまった。


定時制高校をなんとか卒業し、土方の仕事に就くと、一歩はさらに己の欲望を加速させていく。

肉体労働で稼いだ金は、何よりも憧れていた「あの世界」を手に入れるための軍資金となった。


それは、暴走族漫画のキャラクターが魂を燃やして跨っていた、伝説のオートバイだ。

免許を取得すると同時に迷わず購入したのは、GSX400FSインパルス。

エキゾーストノートが夜の空気を震わせ、一歩の鼓動を激しく叩きつける。


バリバリバリバリッ!


信号が青に変わると同時に、一歩はスロットルを力一杯に捻り込んだ。

バックミラーに映る古都の街並みが、光の尾を引いて背後へと消え去っていく。

一歩の瞳には、路面を這うライトの光しか映っていない。


「スピードの、その先……。そこには、何があるんや……」


心の中で、かつて読んだ漫画の台詞を酔いしれるようにつぶやく。

一歩にとって、このバイクに跨り、夜の街を暴力的な速度で支配している時だけが、唯一、自分が特別な人間になれていると実感できる時間だった。


冷たい風がヘルメットの隙間から入り込み、一歩の剥き出しの肌を叩くが、それさえも心地よい興奮剤へと変わる。

重厚なエンジンの咆哮を響かせながら、一歩はさらなる加速を求め、夜の深淵へと突き進んでいった。


---


夜の風を切り裂き、GSX400FSインパルスの4気筒エンジンが咆哮を上げる。


一歩は悦に浸りながらスロットルを開け続けていたが、ふと、バックミラーに映る妙な光に気が付いた。

背後から、尋常ではない速度で迫ってくる「何か」がある。

その光は左右に激しく揺れることもなく、一直線に一歩の背後へと肉薄してきた。


「なんや、俺と張り合う気か? ぶっちぎったるわ!」


ヘルメット越しに叫び、一歩はさらにスロットルを捻り込む。

エンジンの回転数が跳ね上がり、車体が震えるほどの加速を見せる。


しかし、背後の光は離れるどころか、まるで重力に吸い寄せられるかのように距離を詰めてくる。


「……え!? はあ!? なんや、これ!?」


一歩の喉から、驚愕の悲鳴が漏れた。

ミラーに映った「何か」は、一歩のインパルスをあざ笑うかのような加速で横に並びかける。

一歩は反射的に、隣へと顔を向けた。


そこで目にしたのは、自身の常識を根底から覆す、あり得ない光景だった。


一歩の視線の先には、小柄で目が細く、猫のように口角を上げた可愛らしい笑顔の老婆がいた。

老婆は、あろうことか、猛スピードで疾走する「ショッピングカート」に、ちょこんと乗っている。

そのカートには、無骨なクラッチレバーやアクセルらしき装置が後付けされ、前方には夜道を鋭く射抜くヘッドランプまで装備されているという、およそ理解しがたい魔改造が施されていた。


ゴーグルもヘルメットも着用せず、風を真っ向から受けながら、老婆は余裕の表情で一歩を見つめる。


「あんちゃん、余所見しとったら、事故りますえ。」


老婆の穏やかで、それでいて凛とした声が、エンジンの爆音を突き抜けて一歩の耳に届いた。


「う、うわあぁっ!」

一歩は慌てて前方に視線を戻し、乱れたハンドルを必死に抑え込む。

心臓が口から飛び出しそうなほど激しく打ち鳴らされ、全身の毛穴から嫌な汗が噴き出した。


「お、俺は……夢でも見とるんか? なんでカートが400のバイクと並走してんねん……!」

背中に流れる冷や汗が、夜風に冷やされてチリチリとした不快感を運んでくる。


一歩は、得体の知れない恐怖と困惑に支配されながらも、止まれば飲み込まれるという本能的な危機感に従い、必死に愛車を走らせ続けるしかなかった。


---


ショッピングカートに乗る老婆の姿に、一歩の心臓は既に破裂しそうなほど脈打っていた。

しかし、悪夢はそれだけでは終わらなかった。


背後から更なる異様な光が迫ってくる。

それは、路面を焼き尽くさんばかりに激しく燃え盛る、どす黒い炎の塊だった。


ゴォォォォッ!


凄まじい熱風を伴いながら、その「何か」は一歩のインパルスを容易く追い抜き、老婆の走るショッピングカートの横へと滑り込むように並走を始めた。


気になって横を見た一歩は、更に信じがたい光景に直面し、ヘルメットの中で目玉が飛び出しそうになった。


「ちょ、ちょっと待てや! なんやねんこれ!? なんでババアと変な車が、しかも片輪しかない燃えてる車が走っとんねん!?」

あまりの不条理さに、一歩は喉が裂けるような絶叫を上げる。


老婆は前方を見たまま、再び鈴の鳴るような声で穏やかに注意した。

「あんちゃん、前見な事故りますえ。」


「う、うわっ!」

一歩は慌ててハンドルを握り直し、前方の路面に視線を固定する。


すると、後から来た「片輪が燃えている車」の運転席の窓がスルスルと開いた。

そこから顔を出したのは、長い黒髪を後ろで一つに束ね、美しい着物姿にベレー帽をかぶった、息を呑むほどの和風美人だった。


彼女は時速100キロを優に超える速度で走行しながら、隣のショッピングカートに向けてにこやかに微笑みかけた。

「ターボばあちゃん、絶好調やん♪また改造したんですかいなあ?」


「そうどすねん。ふふ、やっぱりマニュアルはええどすなあ。クラッチ操作してギアかちあげる、この瞬間がたまりませんでなあ。方輪車かたわぐるまちゃんも、やっぱりマニュアルはやめられませんやろ?」


ターボばあちゃんと呼ばれた老婆は、左手で巧みにクラッチレバーを操作し、ガチャン!と小気味よい音を立ててギアを一つ上げた。

方輪車と呼ばれた着物美人は、楽しげにハンドルを操りながら応えた。


「わかりますわあ。やっぱり、自分で操作してるって実感わきますもんなあ。」


彼女たちの会話は、まるで昼下がりのカフェで茶をしばいているかのような平穏さに満ちていたが、足元では車輪から火柱が上がり、ショッピングカートからは白煙が噴き出している。


すると、カチッ、と再び窓が開く音がした。

今度は後部座席の窓から、まん丸な目と台形の口をした、長い銀髪に黒いベレー帽をかぶり、黒いセーラー服姿の小柄な女の子が顔を出した。


「あら、えらいこっちゃん、こんばんは。えらいこっちゃんも一緒やったんどすなあ。」

ターボばあちゃんは、女に子に余裕のニコニコ笑顔で挨拶する。


「こんばんは! ターボばあちゃんの魔改造ターボエンジンは、えらいこっちゃなハイスピード!」

えらいこっちゃんと呼ばれた少女は、走行風に煽られながらも元気いっぱいに手をぶんぶんと振った。


そして、そのまま横を走る一歩に向かって、唐突に自己紹介を始めた。

「バイクのあんちゃん! ウチはえらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や!」


「な、なんやねんいきなり!? ちょ、ほんま、どういうこっちゃ!?」

一歩は、バイクの振動とは別の震えが全身に走り、目を白黒させて喚き散らす。

思考が完全に停止し、アクセルを握る右手の感覚さえ怪しくなってきた。


「どういうこっちゃ、やない、えらいこっちゃ!」

えらいこっちゃ嬢は、至極真面目な顔で言葉の過ちを訂正した。


「そういうことやのうてやなあ!?」


一歩は叫びながら、今にも路面から浮き上がりそうなインパルスを必死に抑え込み、狂乱のパレードのような夜道をひた走るしかなかった。


---


ターボばあちゃんが、風を切るような軽やかな声で、突然の指示を飛ばした。

「あんちゃん、次のスクランブルは左どすえ。」


「え、え!? 左!? ちょ、待てや、ここを曲がるんか!?」

一歩は、時速100キロ近い速度の中で、必死にブレーキのタイミングを計ろうとする。


すると、隣を走る片輪車の牛車から、涼やかな声が響いた。

「このあんちゃん、道の事ようわかってへんみやいやねえ。ほな、先導させて貰いますえ。」


ゴォォォォッ!


凄まじい火柱を上げ、片輪車のマシンが猛然と加速した。

彼女はスクランブル交差点の直前で、信じられないほどの角度で車体を傾けると、タイヤを……いや、片方の燃え盛る車輪を激しく滑らせた。


ギャギャギャギャギャッ!


アスファルトを削るような音と共に、和風の牛車が鮮やかなドリフトを決め、猛スピードのまま左折していく。


「相変わらず見事なドリフトどすなあ。」

ターボばあちゃんも負けじと、ショッピングカートのキャスターをギャリギャリと鳴らし、コマのように華麗な旋回を見せて後に続いた。


「なんで変な車とショッピングカートでドリフト出来るんじゃー!」

一歩は半狂乱になりながらも、愛車のインパルスを必死に寝かせ、何とか2台の怪異の後を追う。


「えらいこっちゃなハンドル捌き! 方輪車ねえちゃんと、ターボばーちゃんのハンドル捌きは、怪異界のツートップ!」

後部座席から、えらいこっちゃ嬢が身を乗り出して、千切れんばかりに手をぶんぶん振っている。


あまりに非現実的な光景に、一歩の三半規管は悲鳴を上げていた。


しばらく走ると、猛烈な速度で先導していた2台が、急激に速度を落とし始めた。

一歩も慌ててエンジンブレーキを効かせ、フロントブレーキを握り込む。


キィィィィッ。


ようやく全てのマシンが、静まり返った建物の前で完全に動きを止めた。

一歩は、エンジンを切ると同時に、支えを失ったようにオートバイから降り、その場にへたり込んだ。

心臓が激しく脈打ち、ヘルメットの中は蒸せ返るような脂汗でびっしょりだ。


「……はぁ、はぁ……。な、なんやねん……今の……。」

死の淵を覗いたような恐怖に、一歩の足は生まれたての小鹿のように震えている。


そこへ、方輪車の牛車からえらいこっちゃ嬢がトテトテと降りてきた。

彼女はへたり込む一歩の前に立つと、小さな人差し指をびしっと突き立てた。


「最後までちゃんとお届けせんと、業務途中放棄で、えらいこっちゃ。」


「え? 業務ってなんや? 俺は土方やで? なんや、これから工事の仕事はなかったはずやろ?」


一歩が困惑して聞き返すと、えらいこっちゃ嬢は無言のまま、目の前にそびえ立つ建物を示した。

古い木造の、しかしどこか不思議な威圧感を放つその店には、看板が掲げられている。


「小豆洗いの鯛焼き屋」


「なんやここ、鯛焼き屋? ……こんな夜中に、誰が買いに来んねん。」

一歩が首をかしげた、その時だった。


ギィィ……。


年季の入った引き戸がゆっくりと開き、中から1人の人物が姿を現した。

坊主頭に真っ白な割烹着を纏った、老人のような、しかし肌の質感はどこか人ならざる滑らかさを持った奇妙な人物だった。


---


割烹着を着た坊主頭の老人、小豆洗いが扉から静かに姿を現すと、一歩はただただ目を白黒させてその場に固まるしかなかった。

その老人の肌は異様に白く、深い皺が刻まれているはずなのに、どこか水に濡れた石のような滑らかな光沢を放っている。


えらいこっちゃ嬢が、地べたにへたり込んだ一歩を余所に、老人に声をかけた。

「小豆洗いじいちゃん、遅くなってしもて、えらいこっちゃ。」


「こんばんは、えらいこっちゃん。むしろ、かなりお早い到着やでな。ほんに、有難うさん。」


小豆洗いと呼ばれた老人は、穏やかに目を細めて笑うと、一歩の愛車であるインパルスの方へとゆっくり歩み寄った。

そして、戸惑う一歩を気にする様子もなく、彼のオートバイに近づく。


「あんちゃんも、有難うさん。ほな、貰って行きます。重かったやろ」


老人はそう言って、いつの間にか一歩のオートバイの後部に設置されていた、見覚えのない大きなバイク用宅配ボックスへと手をかけた。


バコンッ!


金属的な音を立てて蓋を開けると、中にはパンパンに膨らんだ、巨大な小豆の袋がぎっしりと詰まっていた。

一歩は、そんな箱をいつ自分のバイクに載せたのか、全く記憶になかったが、老人はそれを軽々と抱え上げて取り出した。


「はいよ、これ、今回の分の運送料な。『機会があったら』、しっかり稼いで、また走りなはれ」

小豆洗いは、ずっしりと重そうな封筒を一歩に手渡した。


「え? あ、はい、どうも……」

一歩は訳も分からぬまま、反射的にその封筒を受け取った。


「鯛焼き作ってますさかい、あんちゃんも『機会があったら』、また寄って下さいや。あんたみたいな元気な走り、小豆も喜ぶわ」

小豆洗いは、えらいこっちゃ嬢たちに向かってにこやかに笑いかけると、重い小豆の袋を抱えたまま、吸い込まれるように店の中へと戻っていった。


「配達完了で、仕事終わりは栄養とらな、えらいこっちゃ。」

えらいこっちゃ嬢は満足げに頷くと、千切れんばかりに手をぶんぶん振りながら、再び方輪車の牛車へと飛び乗った。


「ほな、摩訶不思議食堂へ向かいましょか。お腹も空きましたさかい」

方輪車が、鈴の鳴るような声で笑い、袖で口元を隠す。


「そうどすなあ。ほな、あんちゃんも、ついていらっしゃい。ここからが本番どすえ」

ターボばあちゃんがそう言うと同時に、ショッピングカートのエンジン……いや、正体不明の動力源が凄まじい音を立てて目を覚ました。


ドガガガガガガッ!


「あ、おい! 待てや!」


一歩は慌てて受け取った封筒を、ライダースジャケットのチャック付きポケットにねじ込み、ジリッと音を立ててしっかりとチャックを閉めた。

混乱は収まらないが、このままこの異形な連中に置いて行かれれば、二度と元の世界に帰れないような予感がした。


一歩は震える足でインパルスに跨り、セルスイッチを親指で叩きつける。


バリバリバリッ!


慣れ親しんだ4気筒の咆哮が響き、一歩は前を行く牛車とショッピングカートの背中を追って、再び夜の闇へとアクセルを開けた。

先導する2台は、夜の静寂を切り裂くように猛然と加速し、一歩はその異様すぎるパレードに必死に食らいついていった。


---


先程までの狂乱が嘘のように、一行は夜の街を緩やかな速度で進んでいく。

エンジンの唸りも大人しくなり、一歩の心臓もようやく落ち着きを取り戻し始めていた。


やがて前方を走る方輪車の牛車とターボばあちゃんのショッピングカートが、示し合わせたように減速し始める。

その先に、周囲の闇に沈むことなく、温かな提灯の光を放つ建物が姿を現した。


「摩訶不思議食堂」と書かれた看板が掲げられたその建物は、年季が入っていながらも隅々まで手入れが行き届いた、非常に美しい木造の料理屋だった。


方輪車とターボばあちゃんが、慣れた様子で建物脇の駐車場らしき広場へ滑り込んでいくので、一歩もその後を追ってハンドルを切る。


そこで一歩は、今日何度目か分からない驚愕に目を見開くことになった。

炎を上げた片輪の牛車と、魔改造されたショッピングカートが、まるで最新のスポーツカーのように鮮やかなハンドル捌きでバック駐車を完了させたのだ。


キュルキュル、ピタッ。


あまりに完璧な位置取りに、一歩は呆然とするしかない。

牛車の後部客席からえらいこっちゃ嬢がぴょんっと軽やかに降り立ち、続いて運転席から方輪車の美人も静かに着物の裾を整えながら降りてくる。

さらにターボばあちゃんも、老婆とは思えないほどバネの利いた動作でカートから飛び降りた。


「この変な車と、ショッピングカートって、バックできるんかよ。なんやねん、これ……。」

一歩は力なく呟きながら、愛車を停めて3人の後を追うように歩き出した。


---


えらいこっちゃ嬢が勢いよく店の扉を開け、一歩を先導するように中へと入っていく。


「えらいこっちゃなバイクのあんちゃん御一名! 凜華さん、ただいま!」

彼女は店内に響き渡る声で叫ぶと、そのまま足早に奥の厨房へと消えていった。


一歩が恐る恐る暖簾を潜ると、そこにはカウンターと数個のテーブル席が並ぶ、落ち着いた空間が広がっていた。


一番近いテーブルでは、1人の女性が何やら鍋物の準備をしているところだった。


その女性は、透き通るようなミドリの肌に、尖った耳という特徴的な容姿をしていた。

茶髪のショートヘアを清潔感のある三角巾で整え、ミドリの着物に白い割烹着を纏った、ファンタジー世界のゴブリンとしか思えない、それでいてとても可愛らしくて美しい顔立ちの彼女は、えらいこっちゃ嬢に向けて優しく微笑む。


「えらいこっちゃん、お帰りなさい。御客様も、ようおこしやす。」

凜華りんかと呼ばれた彼女は、立ち上がって一歩に向けて丁寧な会釈を返した。


その美しくも人離れした容姿に、一歩は「あ、はあ……。」と気のない返事をして会釈を返すのが精一杯だった。

彼は混乱した頭を抱えるようにして、よく分からないまま、言われるがままにカウンター席へと腰を下ろした。


すると、カウンターの向こう側からぬうっと1つの影が現れた。

それは、台座こそないものの、どこからどう見ても巨大な「お地蔵さん」そのものだった。


石造りのような質感でありながら、その表情は生きている人間以上に豊かで、慈愛に満ちた笑顔を浮かべている。

お地蔵さんは、一歩の目の前で静かに手を合わせ、深々とお辞儀をした。


「ようこそ、いらっしゃいまし。私はこの店の店長をさせて頂いております。皆さんは、地蔵店長と呼んで下さいます。」

その声は、腹の底に響くような深く穏やかな響きを持っており、不思議と一歩の荒立った心を鎮めていく。


「あ、俺は大塚一歩って言います。」

一歩は、相手のあまりの威厳と礼儀正しさに、思わず反射的に居住まいを正して名乗っていた。


しかし、冷静に周囲を見渡せば見渡すほど、一歩の理解は限界を迎えていく。

「お地蔵さんに、緑の姉ちゃんに、なんか変なマシン乗りこなす妖怪見たいなお姉ちゃんと婆さんに……なんやねん、ここ……。」


一歩は、カウンター越しに微笑む地蔵店長を見つめながら、現実味を失った今の状況をただ呆然と呟くしかなかった。

香ばしい出汁の香りが漂う店内で、一歩の新たな「食」の体験が幕を開けようとしていた。


---


一歩がカウンター席にどっしりと腰を下ろすと、先ほどまで火花を散らして走っていた方輪車とターボばあちゃんが、しとやかな足取りで入ってきた。


「お世話になりますー。凜華さん、宜しゅうお願いしますー。」

2人は声を揃えて挨拶すると、凜華が手際よく用意した、カウンターに最も近いテーブル席へと落ち着く。


「御疲れ様です。ほな、早速お料理させてもらいますね。」

凜華はミドリ色の肌を艶やかに光らせ、割烹着の袖をまくってにこやかに応えた。


彼女は底が平たい鉄の鍋を火にかけ、じゅわっ、と小気味よい音を立てて肉油を引いていく。

手際よく並べられるのは、見事なサシの入った大きな肉に、鮮やかな人参、味の染みたダイコン、そして太い葱や椎茸、焼き豆腐といった豪華な面々だ。

凜華の細い指先が躍るように動き、砂糖、料理酒、醤油が絶妙な塩梅で投入されていく。


「凜華さんのすき焼き、ほんま楽しみやわあ♪」

方輪車は頬に手を当て、鍋から立ち昇る甘辛い香りにうっとりと目を細めた。


「ひとっ走りした後の凜華さんのすき焼きは、絶品ですさかいねえ。五臓六腑に染みわたりますわあ。」

ターボばあちゃんも、先ほどまでの爆走が嘘のような穏やかな笑顔で頷く。


鍋の中では、ぐつぐつと煮え立つタレが具材を琥珀色に染め上げ、芳醇な香りが一歩の鼻腔を激しく刺激した。


「すき焼きか、肉もええなあ。なんか、あれだけ凄い走りした後やから、がっつりしたもん食いたいな。」


一歩の胃袋が、すき焼きの香りに反応してグゥ、と大きな音を立てる。

彼は思わず喉を鳴らし、自分も何を食べようかと期待に胸をときめかせた。


すると、いつの間にか黒い作務衣にベレー帽という出で立ちに変えたえらいこっちゃ嬢が、上から白い割烹着を羽織った姿でスッと一歩の前に現れた。

彼女は無言のまま、使い込まれた味わいのあるお品書きを差し出す。


「ん? ああ、メニューか? おおきにな。」

一歩はそれを受け取って開き、目に飛び込んできた文字を二度見した。


『 牛丼と味噌汁のセット:110円』


「牛丼セットが110円って、めっちゃ安いやんけ! 有名牛丼チェーンもびっくりな価格設定やな。よし、これにするわ!」


一歩が景気よく注文を決めると、えらいこっちゃ嬢は真剣な顔で手をぶんぶんと振った。

「無銭飲食はえらいこっちゃ。財布確認せんと、えらいこっちゃのフラグ立ちよる。」


「あ、そういえば財布、どうしたっけな。さっきの封筒はポッケに入れたけど……。」

一歩はえらいこっちゃ嬢の忠告に従い、作業ズボンの右ポケットに手を突っ込んでまさぐってみた。


指先に触れたのは、ジャラリとした金属の感触だ。

小銭が入っていたことに安堵しながらそれを取り出したが、一歩は手のひらの上の物体を見て固まった。


そこに載っていたのは、現在流通している100円玉や10円玉ではなかった。

真ん中に四角い穴が開いており、表面には古めかしい書体で何やら文字が刻まれている。

それはまるで時代劇で見る「寛永通宝」のような、昔の通貨だった。


一歩は、その正体不明の硬貨を1枚、2枚と数え、全部で6枚あることを確認して顔を引きつらせた。


---


「何やこれ?俺、こんなもんどこで拾ったっけ?」


一歩は手のひらの上の穴あき銭を怪訝そうに見つめ、首を傾げた。

京都の街を爆走していた最中に紛れ込んだのか、それともさっきの不思議なパレードの途中で掴まされたのか。


気を取り直して今度は左側のポケットをまさぐると、ずしりと重みのある財布が指先に当たった。

「おかしいなあ、こんな財布使ってたっけ?」


取り出したのは、一歩が普段愛用している薄っぺらい安物ではなく、上質な革の厚みを感じさせる見慣れない財布だった。

半信半疑で小銭入れのジッパーを引くと、そこにはまるで測ったかのように100円玉1枚と10円玉1枚、合わせて110円が収まっていた。


「なんや、丁度円あるやんけ。ラッキー!」

一歩は思わず破顔した。


「あ、そういえば、さっきバイト代みたいなん貰ったけど、幾ら入ってんのや?確認しとかんとな。」


一歩はライダースジャケットのチャック付きポケットから、先ほど小豆洗いから手渡された重みのある封筒を取り出した。

慎重に中を覗き込むと、そこには福沢諭吉の肖像が神々しく並んでいる。

1枚、2枚と数えていくうちに、一歩の目が見開かれた。


「マジかこれ!? 10万円……! 荷物配達しただけで、こんなに貰えるんけ? 俺、土方やめてバイク便やろかな。」

不条理な夜の出来事に翻弄されていた一歩だったが、札束の厚みを実感すると、途端に現金な笑みが顔に浮かぶ。


「金は仰山あるから、もっとええもん食えるけど……牛丼ってメニュー見たら、もう牛丼の口になってしもた。ほな、牛丼頼むわ。」


一歩はメニューを指差し、えらいこっちゃ嬢に向かって威勢よく宣言した。

えらいこっちゃ嬢は、一歩の言葉を聞くや否や、元気よく右手を挙げた。


「わんぞうさんの牛丼セット一丁! えらいこっちゃは美味過ぎ牛丼!」


彼女は鈴を転がすような声で叫ぶと、足早に厨房へと入っていく。


「わんぞうさん? 料理人の名前か?」

一歩は好奇心に駆られ、カウンター越しに厨房の中へ首を長くして伸ばした。


すると、湯気の向こう側に立っていたのは、白い割烹着を着た垂れ耳の白い犬だった。

毛並みの良い、しかしどこからどう見ても立派な犬が、二本足で立って包丁を握っている。


「あいよ!」


わんぞうと呼ばれた犬の料理人は、低く野太い声で短く応えると、手際よく調理を開始した。

本日何度目か分からない驚愕に、一歩の顎は外れんばかりに下がった。


ちょうどすき焼きの鍋を整え終えた凜華が、驚く一歩を見てくすりと笑った。


「ふふ、わんぞうさんの丼物は、天下一品の絶品ですえ。」

彼女は割烹着の裾を揺らしながら、満足げに厨房へと戻っていく。


隣のテーブル席からは、方輪車とターボばあちゃんの「頂きますー。」という穏やかな声が聞こえてきた。

彼女たちは丁寧に卵を割り、器の中でかっかっかっと軽快な音を立てて溶いてから、熱々の肉を潜らせて口へ運ぶ。

ハフハフと湯気を吐き出しながら、幸せそうに目を細めるその姿は、見ているこちらまで胃袋を刺激される。


「そんなに美味いんやったら、楽しみやなあ、牛丼。」

一歩の期待値は最高潮に達し、わんぞうの無駄のない動きを食い入るように見つめながら、料理の完成を今か今かと待ちわびた。


---


一歩が鼻をひくつかせながらワクワクと料理を待っていると、厨房からえらいこっちゃ嬢がトレイを恭しく捧げ持って現れた。


ガタ・ゴト、と木の触れ合う心地よい音を立てて、一歩の目の前に置かれたのは、湯気を豪快に立ち昇らせる熱々の牛丼と具沢山の味噌汁だった。

牛丼の表面は、丁寧に煮込まれた柔らかな肉と飴色の玉ねぎが隙間なく敷き詰められており、その中央にはぷるぷると震える温泉卵が鎮座している。

さらに味噌汁からは出汁の芳醇な香りが漂い、人参、葱、大根、そしてねっとりとした里芋が贅沢に顔を覗かせていた。


「これで110円って、ほんまけ? めっちゃ豪華やんけ……。」

一歩は思わず身を乗り出し、信じられないといった様子で目を見張る。


すると、えらいこっちゃ嬢が腰に手を当てて一歩を真っ直ぐに指差した。

「合掌頂きますは、基本中の基本。出来んやっちゃは、小学校の給食でやり直さなあかん、えらいこっちゃ。」


「お、おう。わかったわ。」

一歩は圧倒されながらも素直に応じ、大きく分厚い両手を合わせて「頂きます」と唱えてから、割り箸を割った。


一歩はまず、丼の中央で誇らしげに輝く温泉卵に箸を突き立てた。

トローッ、と黄金色の黄身が溢れ出し、熱々の肉と甘辛いタレに絡みついていく。

それを肉ごと豪快に掬い上げて口に放り込むと、一歩の脳内に衝撃が走った。


絶妙な加減で煮込まれた牛肉の旨味、玉ねぎの甘み、そして全てを優しく包み込む濃厚な卵と極上の出汁。

それらが口の中で完璧なハーモニーを奏で、一歩の頑なだった心は一瞬で解かされていった。


「……っ! なんやこれ、美味すぎるやろ……!」

暴力的なまでの美味さに思わず顔がにやけ、全身が芯からポカポカと温まるような「ほっこり」とした感覚に包まれる。


続いて啜った味噌汁も、全ての具材が驚くほど丁度良い柔らかさに火が通っており、野菜の滋味が体に染み渡る。

一歩は無我夢中で箸を動かし、ハフハフと熱々の絶品を夢中で平らげていった。


そうして、最後の一粒まで残さず味わい尽くし、一歩は満足げに大きく一息ついた。


「美味かった、滅茶茶美味かった。牛丼って安上がりのジャンクフードってイメージしかなかったけど……これは、間違いなく本格的な料理や。こんな美味い牛丼初めてや。それに、味噌汁も……これで110円って、利益出てるんけ?」


一歩が感銘を受けて笑い飛ばすと、えらいこっちゃ嬢が何も言わず、ただジーっと一歩の顔を見つめ続けていた。

「……? あ、そっか。えっと、御馳走様でした。」

一歩が慌てて手を合わせ、深々と頭を下げて感謝を告げると、えらいこっちゃ嬢はようやく満足げに頷いた。


カウンターの向こう側では、その様子を静かに見守っていた地蔵店長が、慈愛に満ちたお地蔵さん笑顔を浮かべていた。

「御粗末様でした。」

地蔵店長は穏やかな声でそう言うと、大きな石のような手を合わせて、一歩の心に寄り添うように丁寧にお辞儀をした。


---


一歩はパンパンに膨れた腹をさすりながら、満足げに声を上げた。

「味も量も大満足や。ほんま、これで110円なんて、お得感しかないで。110円って、缶珈琲一本分やんけ。ガハハ!」


腹の底から笑い飛ばす一歩は、ふと隣のテーブルで優雅に肉を突つく方輪車とターボばあちゃんに目を向けた。

「なあ、あっちの着物美人とばあさんの食うてるすき焼きは、流石に110円じゃ無理やんな? あれだけええ肉やったら、普通は数千円、いや、万単位はいきよるで。」


一歩が、さも当然といった風に言うと、えらいこっちゃ嬢がどこからともなくスッと一冊のメニューを一歩の前に差し出した。

一歩は何やねんと首をかしげながらそれを受け取り、中身をパラパラとめくっていく。

するとそこには、すき焼きも、カレー丼も、それ以外の全ての料理の横に「110円」という文字が整然と並んでいた。


「何やこれ、今日は110円セールかなんかやってんのけ? めっちゃええ日に来たやんけ!」


一歩が意気揚々とページをさらにめくっていくと、ある項目でピタリと指が止まった。


『大塚一歩:110円』


一歩の目が点になった。


「え? なんやねんこれ、俺が110円って……。俺が110円で食えるみたいやんけ! ガハハ、なんやねんこのギャグみたいなメニュー!」

一歩は愉快そうに笑いながら、地蔵店長やえらいこっちゃ嬢を見渡した。


「あ、そうか。今日は俺だけ特別に、110円で何でも食える日なんけ? それとも、俺自身の価値が110円ってことか?」


冗談めかして笑う一歩に対し、えらいこっちゃ嬢は無言のまま、薄い長方形の板のような機械をスッと差し出した。

一歩はそれを見て、不思議そうに眉を寄せる。


「なんや、この長方形のやつ。お盆か?」

えらいこっちゃ嬢は、信じられないものを見るような目で一歩を見上げた。


「やっぱりタブレット端末を知らん、えらいこっちゃ。」


「タブレット端末? なんやそれ? 薬の板か何かか?」


一歩の至って真面目な問いに、今度は隣のテーブルから方輪車が身を乗り出した。


「ほな、これは知ってはります?」

彼女が懐から取り出したのは、滑らかな曲面のスマートフォンだった。


「いや、わからん。なんやその平べったいのは? 鏡か?」

一歩の答えを聞いて、方輪車とえらいこっちゃ嬢が顔を見合わせる。


今度はターボばあちゃんが、いたずらっぽく微笑みながら懐をまさぐった。


「ほな、これは知ってはりますかねえ。」

老婆が差し出したのは、パカパカと開閉する、いわゆる「ガラケー」だった。


それを見た一歩の顔が、パッと明るくなった。

「なんや、携帯やんけ! 携帯電話やろ? 俺も持ってるで。流石にそれは知っとるわ!」


一歩は自慢げにライダースジャケットのポケットや、作業ズボンの左右をガサゴソと探し始めた。

しかし、どこを叩いても、あの馴染みのあるプラスチックの感触が手に当たらない。


「……あれ? おかしいな。あ、もしかして家に忘れてきてしもたんかな。今日は持ってへんわ。連絡とれへんやんけ、どないしょ。現場の親方とかダチから連絡あったら、えらいこっちゃやで……。」

一歩は急に不安になり、辺りをキョロキョロと見回しながら焦った声を上げた。


---


えらいこっちゃ嬢は、一歩の困惑を余所に手元のタブレット端末を手際よく操作すると、それをカウンター席へ無造作に立てかけた。

液晶画面には、一歩が見たこともないほど鮮明な色彩で「あなたのお値段鑑定」という文字が浮かび上がっている。


「なんやこれ? 確か、何かの本で、その人の金額を鑑定とか占うやつあった気がするけど。ってかこれ、板やのうて画面やったんか。動いとるやんけ……!」

一歩は、紙でも写真でもない、自ら光を放つ不思議な「板」に目を丸くした。


すると、えらいこっちゃ嬢がひょいと椅子に飛び乗り、小さな人差し指で画面をなぞってみせる。

彼女の動きに合わせて画面が滑らかにスライドし、次々と新しい項目が現れる様子に、一歩はさらに度肝を抜かれた。


「なんや、画面に触ったら動くんやな。めっちゃ凄いやんけ、この画面。魔法か何かか?」

一歩は少年のように目を輝かせ、促されるままに画面中央の「スタート」と書かれた大きなボタンを、緊張で震える指で押し込んでみた。


ピピピッ、と軽快な電子音が店内に響き、画面が激しく点滅を始める。

やがて、決定的な一文が画面いっぱいに表示された。


「あなたの命のお値段:110円」


一歩はそれを見て、ポカンと口を開けた。

「110円って、ここでも110円なんけ? でも、最高値はなんぼかわからんから、高いんか安いんかわからんなあ。110円がこの鑑定の限界値かもしれんしな!」


一歩は自分に都合よく解釈し、さらに次々と表示されるボタンを叩いてみる。


「あなたの人生の価値:110円」

「あなたの魂の価値:110円」

「あなたそのものの価値:110円」


どれほど操作しても、結果は残酷なまでに「110円」という数字から動こうとしなかった。


「これ、110円固定なんけ? それとも、もしかして110円が世界最高値で、俺は一番高額な男って事か! ガハハ、やっぱり俺は選ばれし男やったんやな!」

一歩が景気よく笑い飛ばし、自らの価値を確信したような表情を浮かべた、その時だった。


ガラガラ……。


背後で、店の入り口の引き戸が重々しく開く音が、夜の静寂を切り裂いて響き渡った。

一歩の笑い声がピタリと止まり、店内の空気が一瞬で、氷点下まで下がったかのような緊張感に包まれる。

カウンターの奥で地蔵店長が静かに目を伏せ、えらいこっちゃ嬢が台形の口をキュッと結んだように見えた。


---


ガラガラ、と小気味よい音を立てて扉が開くと、一歩は反射的に音のした方へと視線を向けた。


そこに立っていたのは、夜の闇を黄金色に染め上げるような、眩い美しさを持つ超絶美少女だった。

長く艶やかな金髪を左側でシュシュで束ね、ふわりと靡かせたその頭部には、漆黒の三日月形をした角が左右から力強く生えている。

金色の瞳は爛々と輝き、自信に満ちた眼差しで店内を悠然と見渡していた。


纏っているのは、金色の葉の刺繍が美しく施された黒い着物で、長い丈の裾を一切乱すことなく上品に着こなしている。

彼女は手に風呂敷を抱え、足袋で床をしっかりと踏みしめながら、それでいて風のように軽やかな足取りで中へと歩み寄ってきた。


女鬼じょきねえちゃん、いらっしゃい!いっつも時間厳守の10分前行動、えらいこっちゃな余裕の到着!」


えらいこっちゃ嬢が千切れんばかりに手をぶんぶんと振り、満面の笑みで出迎える。

女鬼と呼ばれた美少女は、その声に気づくと、パッと顔を輝かせてウインクを飛ばした。


「おつー♪ えらいこっちゃん、地蔵店長ー、ひと仕事しにきたよー♪ あと、晩御飯も食べてくからねー♪」


弾けるような明るいギャル口調が、厳かな店内の空気を一瞬で華やかに塗り替えていく。


「女鬼ちゃん、御疲れ様ー。」

「女鬼ちゃん、御疲れ様ですねえ。今度また、ツーリング行きましょうねえ。」


方輪車とターボばあちゃんも、親しげに、そしてどこか敬意を込めた様子で挨拶を交わす。


「方輪車ねえさんも、ターボばあちゃんも、おつー♪ みんなでまたツーリングしようねー♪」

女鬼は手をひらひらとさせて、軽快な足取りで一歩の座るカウンターの近くまでやってきた。


一歩は、その圧倒的な美貌と、どこか神聖ささえ感じさせる「鬼」の姿に、ただ呆然と見とれていた。


「なんや、このギャルみたいな鬼の子、いや、鬼みたいなギャルの子?。めっちゃ可愛いやんけ……。」

これまでに会ってきたどんな女とも違う、芯の強さと美しさが同居した彼女に、一歩の心臓が不規則な鼓動を打つ。


すると、椅子に飛び乗ったえらいこっちゃ嬢が、誇らしげに胸を張って女鬼を紹介し始めた。


「女鬼ねえちゃんは、閻魔大王も側近も、地獄極楽お偉いさん達も、一目置いて頭が上がらん、超絶シゴデキ美人な鬼ねえちゃん! 細マッチョで地獄一喧嘩強くて、舐めてかかると、えらいこっちゃ!」


「あはは、えらいこっちゃんに褒められたー♪ ありがとねー♪」

女鬼は楽しげに笑うと、えらいこっちゃ嬢の頭をよしよしとなでなでした。


「え?閻魔大王?地獄極楽って、なんやそれ?」

一歩は、自分に背を向けた彼女の凛とした立ち姿を見つめながら、これからこの店で何が始まるのか、期待と不安を入り混じらせて固まっていた。


---


女鬼じょきは、一歩の隣にあるカウンターへ風呂敷を置くと、立てかけられたタブレット端末を覗き込んだ。


「今晩はの初めまして、あんちゃん。お値段鑑定やってたんだねー♪それ、かなり正確に出るっしょ♪」

女鬼がいたずらっぽく片目を閉じてウインクを飛ばすと、その至近距離での破壊的な可愛らしさに、一歩の心臓がドクンと大きく跳ねた。


「お、おう。どの診断とか鑑定も、全部最高結果だったで。」

鼻の下を伸ばしながらも、一歩は負けじと胸を張る。


「最高結果って?」

女鬼が不思議そうに首をかしげると、一歩は画面を指差して得意げに笑った。


「全部、110円やったんよ。110円って言えば、さっきの牛丼セットもそうやったし、この店での最高金額なんやろ?」


女鬼は「んー……」と唸りながら、指先で自分の顎をトントンと叩いた。

その仕草は慈愛に満ちて可愛らしいが、彼女は一歩を憐れむような、あるいは突き放すような金色の瞳でじっと見つめ、あっさりと言い放った。


「最高でも最低でもないよ、それ。」


「なんや、最高やなかったんか。でも、基準がわからんから、高いんか低いんかわからんで。ガハハ!」

一歩が強がって笑い飛ばすと、女鬼の表情から少しずつ色が消えていく。


「そっかー、あんちゃん110円なんだねー。」


「おう、美人のねえちゃんはなんぼや? 110円以上するんか?」

下品な笑いを浮かべる一歩を無視し、女鬼は冷たく言い返した。


「あーしのお値段なんかよりも、もっと気にする事あると思うよ?」

彼女は言葉を切り、鋭い眼光で一歩を射抜いた。


「ねえ、あんちゃんは全ての結果が、110円だったんよね?」


「お、おう……。」

一歩の背筋に、不意に冷たいものが走る。


「じゃあさあ……なんで、全部綺麗に110円だったかわかる?」


「え、そりゃあ……。」

一歩は言い淀んだ。


なぜ110円なのか。単にこの店の牛丼の価格だからだと思い込んでいたが、なぜ自分の命も、人生も、魂までもがその端金と同じ数字に固定されているのか。

その理由を考えようとしたことさえなかった自分に、今更ながら気づかされる。


すると、傍らからえらいこっちゃ嬢がスッとお品書きを差し出した。

女鬼はそれを受け取ると、淀みのない動作で「大塚一歩:110円」と書かれたページを開き、一歩の目の前に叩きつけるように置いた。


「ここに書いてあるじゃん、答えが。」

白くしなやかな指が、その残酷な行を指し示す。


「……え?」

一歩は目をぱちくりさせ、自分の名前と金額を交互に見つめた。


「だからさ、これが答え。あんちゃんの値段は、110円。それ以上でもそれ以下でも無し。」

女鬼の声が、先程のギャルめいた明るさを完全に失い、地獄の底から響くような冷徹な響きを帯びる。


「つまりさあ……あんちゃんは、110円の呪縛から逃れられないんだよ。もっと正確に言えば、自分で自分の価値を110円という金額に縛っちゃってるってわけ。」


女鬼の冷酷な表情と、逃れられない真実を告げるようなその視線に、一歩は息をすることさえ忘れ、ただ震える唇を噛み締めていた。


---


一歩は、信じられないものを見たという風に目を見開いた。


「俺の価値が、たった110円? 缶珈琲一本分だけしかない、やと……?」

彼の声は震えていた。今まで虚勢を張り、強気で生きてきた一歩にとって、その数字は屈辱以外の何物でもなかった。


「『たった110円』ってのが、あんちゃんの110円と言う金額に対する価値観なんだね。」

女鬼は、感情の読み取れない無表情で淡々と言い放った。


「いや、いやいやいや! 今時、人間の価値が110円とかおかしいやんけ!? 保険金見てみいや! 何千万単位やんけ!?」

狼狽し、必死に自分の価値を「数字」で証明しようと喚く一歩。


しかし、女鬼は冷めた金色の瞳を僅かに細めると、カウンターに置いた風呂敷の結び目に手をかけた。

「じゃあ、試して観る?」


彼女が結び目を解くと、中から現れたのは、古びているが不思議な光沢を放つ、美しい天秤だった。


「これ、魂の重さっていうかさ、その人の芯の部分を測る天秤なんよね。あんちゃんは聞いたことない? 古代エジプトの『魂の秤量ひょうりょう』っての。」


「し、知らんぞ、そんなもん。魂の、秤量? 魂測る天秤? そんなもんがこの世にあるんけ?」


「『この世に』か……。」

女鬼は一瞬、ひどく悲しげな表情を見せたが、すぐに天秤を平行にカウンターへ置いた。


「古代エジプトの『魂の秤量』ってのはね、アヌビスさんが使ってる審判の道具で、その人の心臓と、女神のマアトさんの『真実の羽根』を使って測るんよ。これは、その日本版。日本形式で測る装置だと思ってくれていいよ。」


女鬼は「ちょいと失敬ー」と軽く言うと、しなやかな指先で一歩の胸元、心臓のあたりに触れた。


ポゥッ!


小さな音と共に、一歩の胸から赤い炎のような、柔らかな光が灯る。女鬼はそれを壊れ物を扱うように掌に乗せると、天秤の右側の皿へと静かに置いた。

カタリ、と天秤が右へ大きく傾く。


「あんちゃん、110円、持ってるよね? 出してくれる?」

女鬼が掌を向けると、一歩は訳も分からぬまま、言われるがままに財布から先ほどの円を取り出し、彼女の手に乗せた。


「ありがと♪」

女鬼はそれを天秤の左側の皿に乗せた。


すると――。


ガタッ、フワリ。


激しく揺れていた天秤が、吸い込まれるようにピタリと水平で止まった。

右の「魂の炎」と、左の「110円」が、見事に釣り合ったのだ。


「……え?」

呆然とする一歩を余所に、女鬼は風呂敷の中から一円玉を一枚取り出した。


「ほら、見ててね。」

彼女が左側に一円玉を足し、111円にする。


ギギッ……。


天秤は残酷なまでに、左側へ、つまり111円の方へと沈み込んだ。

一円玉をどけると、再び天秤は寸分の狂いもなく水平に戻る。


「今見た通りだよ、あんちゃん。これが、あんちゃんの価値、命の価値であり、存在価値そのものってこと。」

女鬼は人差し指をピッと立て、愕然として言葉を失っている一歩を真っ直ぐに見据えた。


---


女鬼は、手のひらに乗せた赤い炎を一歩の胸へと静かに押し戻した。炎がスッと体内に吸い込まれていく感覚と共に、一歩の全身に沸々と煮えくり返るような怒りが込み上げる。


「何やねんこれ……! 俺の人間としての価値が、たった110円しかないやと!? ふざけんなやッ!」


一歩は顔を真っ赤にし、額にどす黒い青筋を立てて女鬼を睨みつけた。

これまで暴力と虚勢で己の居場所を守ってきた彼にとって、己の魂を「缶珈琲一本分」と断じられることは、存在そのものを否定されたに等しかった。


「調子乗りやがって、このアマ……ッ!」

一歩は怒鳴り声を上げながら、カウンター越しの女鬼に猛然と掴みかかろうと手を伸ばした。


しかし、その手が一歩の望む場所に届くことはなかった。


「……っ!?」

次の瞬間、一歩の視界が揺れた。


女鬼がほんの少し腕を動かしたかと思った刹那、一歩の太い手首は彼女の白い手にガッシリと捕らえられていたのだ。

女鬼が指先にわずかに力を込める。

それだけで、一歩の手首の骨がミシミシと悲鳴を上げ、ギリギリと締め上げられる凄まじい激痛が走った。


「女の子に手を上げるなんてねー。女の子って言っても、あーしは鬼だけどさ。あんちゃんはずっとそうやって、暴力で支配したつもりになって、目の前の『大人しくて喧嘩で勝てそう』って勝手に錯覚した相手を支配出来た気になってたわけ?」


女鬼が冷たく、しかし鋭く一歩を射抜く。その瞳に宿る圧倒的な「捕食者」としての輝きに、一歩は心臓を直接掴まれたような戦慄を覚えた。

全身の血の気が引き、怒りは一瞬で根源的な死への恐怖へと塗り替えられる。


痛みと恐怖に震えながら、一歩は自分を掴んでいる彼女の腕を見た瞬間、息をのむ。


着物の袖から覗くその腕は、白く美しく、一見すればしなやかで細く見えた。

しかし、実際は引き締まった見事なまでの筋肉質な腕。


その所作は慈愛に満ちていながらも、袖から覗く腕からは、着物の下には凄まじく鍛え抜かれた筋肉が宿っていることが容易に連想できる。

浮き出た血管と、鉄の棒のように硬質な筋肉の筋。


その力強さとしなやかさは、「地獄極楽一喧嘩に強い」と評したえらいこっちゃ嬢の言葉に、これ以上ない絶対的な説得力を与えていた。


「……ごめん、鬼のねえちゃん。手、放してや。頼む……ッ!」

一歩は顔を真っ青に染め、情けない声を漏らして懇願した。


「……ん。」


女鬼は興味を失ったようにパッと手を放す。一歩はそのまま支えを失い、ドサッと椅子に深くへたり込んだ。


「あんちゃんは喧嘩に自信があって、自分は強いと思い込んでるみたいだけどさ、マジもんの実戦経験ゼロなんだね。」

女鬼はあからさまな溜息をつき、呆れたように肩をすくめた。


「億戦錬磨以上の女鬼ねえちゃんに、110円男が敵わんの当然や。喧嘩したら一瞬で消されて、えらいこっちゃ。」

えらいこっちゃ嬢が追い打ちをかけるように言い放ち、一歩を蔑むように見下ろした。


「ま、あーしは喧嘩しに来たわけじゃないからねー。襲い掛かって来た事は、勘弁しとくよ。」

女鬼は再び元のギャルめいた調子に戻る。


一歩は、肩で荒い息を吐きながら、自分自身の情けなさに打ちひしがれていた。


これまで自分こそが「強者」であり、喧嘩になれば誰にも負けないと信じて疑わなかった。

しかし、自分より遥かに小柄で、華奢に見えるはずの美少女に対し手も足も出ず、ただ震えて命乞いをした事実。

その凄まじい劣等感と恥辱が、一歩の誇りをズタズタに切り裂いていた。


---


##110円の記憶


一歩は、痺れる手首をさすりながら、消え入りそうな声で絞り出した。

「いきなりつかみかかろうとしたんは、悪かった、ごめん。でも……俺の価値が、110円なんて、おかし過ぎるやんけ。缶珈琲一本とおんなじ値段なんて……。」


情けなさと悔しさが混じった一歩の言葉は、静まり返った店内に虚しく響く。

彼は、自分という人間に下された「110円」という具体的な数字が、どうしても解せなかった。


「そもそも、なんで『110円』なんや? なんでこんな中途半端な値段やねん。」

一歩の記憶をどれほど掻き回しても、その金額に結びつくような出来事は、塵一つ見当たらなかった。


その様子を、女鬼は冷めた金色の瞳で見つめていた。


「前に、えらいこっちゃんが言った事そのまんまだねー。『やった方はコロッと忘れて、やられた方は一生傷、えらいこっちゃ』って。」

女鬼はあからさまに呆れた様子で鼻を鳴らした。


「え?」


一歩が呆然と女鬼を見上げると、傍らに控えていたえらいこっちゃ嬢が、恭しく大きな盃と一本の炭酸水の瓶を運んできた。

彼女は大きな盃を一歩の両手に持たせ、炭酸水の瓶を女鬼へと手渡す。


「ありがと♪」

女鬼はえらいこっちゃ嬢に優しく微笑んで頭をなでると、一歩が持っている盃へと向き直った。


女鬼は、炭酸水の瓶を驚くほど洗練された、上品な所作で傾けた。

トトトッ……という澄んだ音と共に、透明な液体が一歩の盃へと満たされていく。


先程までの威圧的な雰囲気とは打って変わったその優雅な動きに、一歩は思わず背筋を伸ばし、姿勢を正した。

盃の中で波打つ水面と、そこから立ち上る無数の気泡が、提灯の光を反射してキラキラと輝いている。

一歩は、その弾ける泡の音に、まるで催眠をかけられたかのように視線を吸い寄せられた。


そして、女鬼が静かに指を鳴らした。


パチンッ!


乾いた音が店内に響くと同時に、盃の水面が激しく波打ち、気泡が中心に向かって渦を巻く。

やがて波紋が収まった水面には、まるで古い映画のスクリーンを見ているかのように、何かが映り込み始めた。


「……っ!?」

そこには、今よりずっと幼く、しかし既に鋭い目つきをした、少年時代の一歩の姿があった。


「これは……俺?」

一歩は息を呑み、盃を落としそうになるのを必死でこらえながら、その水面を凝視した。


---


盃の炭酸水が、シュワシュワと小さな音を立てて弾ける。その泡の一つ一つが弾けるたびに、水面に映る過去の情景が鮮明さを増していった。


そこに映っていたのは、今よりも幼く、しかし既に周囲を威圧する体格を持った少年時代の一歩だった。

当時から少し肥満気味だった一歩は、同年代の子よりも頭一つ分背が高く、その恵まれた体格を悪用するように振る舞っていた。


「おい、プロレスごっこや!」

映像の中の一歩が、逃げ惑うクラスメイトに強引にヘッドロックを決める。

相手が苦しそうに顔を歪め、必死にタップしているにもかかわらず、一歩は「遊びやんけ」と笑いながら、さらなる力を込めて締め上げる。


その中でも、一際ターゲットにされていたのは、線の細い、大人しくて優しい目をした気弱な少年だった。


場面が、小学校高学年へと移り変わる。

一歩の傲慢さは、成長と共に拍車がかかっていた。


「おい、これお前が持って行っとけや。」

自分の重いランドセルや習い事のバッグ、さらには拾ったゴミまで、全てをその気弱な少年に押し付ける。

少年は折れそうな細い足でふらつきながら、一歩の後ろを影のように歩かされていた。


さらに、映像は中学時代へと飛ぶ。

一歩は、その少年を友人と呼ぶことさえせず、自分の家来か奴隷のように扱っていた。


ある日、先生に呼び出された一歩は、廊下で偶然その少年を見かける。

「おい、俺が用事終わるまでここで待っとけや。」


尊大に命じる一歩に対し、少年は困惑したように聞き返した。

「え、なんで?」


その瞬間、一歩の顔が怒りで歪んだ。

「……チッ、なんやとお前。俺に逆らうんか!?」


間髪入れず、一歩の重い拳が少年の頬を殴り飛ばした。

床に崩れ落ちる少年を、一歩は一瞥もせずに「ええ加減にせえよ!生意気な口聞くなや!」と吐き捨て、去っていく。


別の日。

一歩が何かを落としたことに気づいた少年が、彼を呼び止めようと、一歩の肩に手を置いた。

その瞬間、一歩は弾かれたように振り返り、少年を蛇のような眼で睨みつけた。


「お前、いつから俺の肩に手、置けるようになってん?」


かつての「遊び」の域を完全に超えた、底冷えのするような選民意識。相手を人間とも思わぬ、あまりにも醜い上下関係がそこにはあった。


「……これが、俺?」

一歩は、盃を持つ手がガタガタと震えるのを抑えられなかった。


当時の自分にとっては、それは当たり前の日常であり、取るに足らない事で、覚えてすらいない。

しかし、客観的な映像として突きつけられる少年時代の自分は、大人になった今の目で見ても、あまりにも傲慢で、浅ましく、醜かった。

今まで「やんちゃだった」という言葉で誤魔化してきた過去が、実像を持って自分を断罪しに来ている。


一歩は耐えきれず、盃から目を背けようとした、その時だった。


「眼、逸らすんじゃないよ。その事実からも、あんちゃん自身からも。」


女鬼の、地響きのような低い声が耳元に届いた。

彼女の凛とした佇まいからは、凄まじい威圧感が放たれている。


彼女に命じられ、一歩は逃げることも叶わず、ただ黙って盃に映る少年時代の自分自身の醜態を見せつけられ続けるしかなかった。


---


##110円の真実


盃の炭酸水が激しく泡立ち、水面に映る光景はさらに残酷な一点へと収束していく。


中学3年生、15歳の秋。中学校生活最後となる遠足の、穏やかな午後のことだった。

近場の公園での自由時間、集合時間を前にした静けさの中で、少年時代の一歩はいつものように「彼」を呼び止めていた。


「おい、リュック出せや。」


一歩の尊大な命令に、気弱な少年は抵抗する気力さえ失った様子で、渋々リュックを差し出す。

一歩はそれをひったくると、中身を無造作に物色し始めた。


そして、奥から出てきた古びた財布をこじ開ける。

小銭入れの中にあったのは、100円玉が1枚と、10円玉が1枚。

一歩はそれを当然の権利であるかのように指で弾き出し、自分のポケットへとねじ込んだ。


「あ……ちょっと、110円返してえな。」


少年が震える声で、絞り出すように言った。

しかし、一歩は投げ捨てるようにリュックを少年の足元へ放り投げ、鋭い眼光で凄んでみせた。


「ああ? 知らんわボケ! なんか文句あんのけ!?」


その瞬間だった。

気弱少年の顔から、恐怖も、悲しみも、あらゆる表情と色がふっと消え失せた。


映像は、遠足の帰り道へと移る。

一歩は何食わぬ顔で、不良仲間のグループの中でゲラゲラと下品な笑い声を上げながら歩いていた。


その後方、一人離れて歩く気弱な少年の姿がある。彼は無表情のまま、誰にも聞こえないほど低い声で、呪文のようにこう呟いた。


『貴様の命の値段は110円。貴様の人生、110円で買うたったわ。』


そう言って、少年は空になった財布を、指が白くなるほど強く握り締めていた。


---


「……っ!!」


一歩は、震える手で自分の右ポケットを探った。

そこには、店に入る前に「いつからこんな財布を使っていたか」と首をかしげた、あの少し厚みのある財布がある。

一歩がそれを取り出し、盃に映る映像と見比べると、それは間違いなく、あの日、あの少年が握り締めていた財布そのものだった。


なぜ、自分のポケットに「110円」だけが入っていたのか。

なぜ、どの鑑定結果も「110円」としか出なかったのか。

否応なしに突きつけられた事実に、一歩の心臓が早鐘を打つ。


あの日、自分にとっては「たった110円」の端金を奪ったつもりだった。

だが、あの少年は、その端金と引き換えに、一歩の命そのものを買い取ってしまったのだ。


「……わかった? あんちゃん。」


女鬼の声が、冷たく静かに響く。


「あんちゃんの人生も、魂も、もう、あんちゃんのものじゃない。あの日、あの少年に110円で売り払っちゃったんだよ。……彼がそう宣言した通りにね。」


一歩は、手の中にある財布が、まるで持ち主の怨念を宿した呪物であるかのように感じられ、激しい悪寒に襲われた。


---


##決別の110円


一歩は、震える手でカウンターを叩き、絞り出すように言った。


「……だから、俺の値段は、110円……そんな、たかが110円で……そこまで恨む事ちゃうやろ……。俺かて、そこまで本気でいじめたつもりは……」


その瞬間、店内の空気が凍り付いた。


「『たかが』……?」


低く、地を這うような恐ろしい声が女鬼の口から漏れる。

一歩が弾かれたように顔を上げると、そこには先ほどまでの「ギャルな美少女」の面影は微塵もなかった。


女鬼の両目は爛々と金色の光を放ち、眉間には深い皺が刻まれ、その形相はまさに全てを射止める「鬼の形相」へと変貌していた。

その眼光に射すくめられた一歩は、喉の奥が引き攣るのを感じた。


「ひ、ひぃ……っ!?」

一歩は青ざめ、椅子の背もたれが壊れんばかりにのけぞる。

本能が、目の前の存在が「絶対に逆らってはいけない化け物」であることを告げていた。


女鬼は一歩を睨みつけたまま、言葉を刻みつけるように言い放つ。


「あんちゃんにとっての『たかが』は、あの少年にとっても『たかが』だったのか、盃見てもわかんないんだ。あの時、あの少年がどんな思いでその110円を抜き取られた財布を握りしめていたか、あんちゃんにはこれっぽっちも想像できないんだねー。」


一歩はぐうの音も出ず、ただ黙ってうなだれるしかなかった。


盃に映った少年の、あの感情が消え失せた無機質な瞳。

あれは単なる怒りではない。自分という人間を、人間として見るのをやめた決別の目だったのだ。


「……俺が悪いんは、よくわかった。ほな、どうすれば……償わなあかんのやろ? その、110円返して謝らんと。このままじゃ、俺、一生110円のままや……」

一歩は、消え入りそうな声で、しかし必死に言葉を紡いだ。


「あいつに会いに行かな。なあ、あいつの居場所とか、知ってるか? その、タブレットとか言うやつとかで、探したりとか……。鬼の姉ちゃんも、えらいこっちゃんも、みんな不思議な力持ってるやん。ちゃんと償うから、力貸して下さい。お願いします!」


一歩はカウンターに額をこすりつけるようにして、深く、深く頭を下げた。傲慢だった彼が、初めて自分より小さな相手に心からの助けを乞うた瞬間だった。


女鬼は元の表情に戻ると、少しだけ視線を和らげて尋ねた。

「悪いことしたって自覚はあるんだねー。で、何が悪かったん?」


一歩は、下げた頭を上げることなく答えた。

「……あいつを傷つけた事。110円奪った事。あいつに……あんな顔させた事。……そっか。あれだけの積み重ねがあった上での、財布から大事な金奪ったのが、とどめになったんや。」


一歩の脳裏に、何度も何度もヘッドロックをかけ、荷物を押し付け、殴りつけた日々が蘇る。


「だから、『たかが』じゃない。あいつには、あれが俺への決別と憎しみの決定打やったんや。俺が奪ったんは小銭やなくて、あいつの最後の、わずかな心の拠り所やったんやな……」


一歩は力なくうなだれ、自分の犯した罪の重さを、その「110円」という端金を通じてようやく痛感していた。


---


カウンターの向こう側で、地蔵店長は静かに手を合わせた。

その瞳は慈愛に満ちているが、語られる言葉は一歩の浅はかな価値観を根底から揺さぶる重みを持っている。


「他人様から何かを奪う行為を、仏教では『偸盗ちゅうとう』と言います。」

地蔵店長は、柔らかな微笑みを絶やさずに説き始める。


「そのような行為を戒めるため、大切な5つの戒めの中に『不偸盗戒ふちゅうとうかい』が御座います。」


「不偸盗戒……。」

一歩は、初めて聞くその響きをなぞるように呟いた。

地蔵店長の声は、さらに深く、静かに店内に染み渡っていく。


「金品を奪う事は勿論、相手の時間であったり、大切な居場所などを奪う行為。それら他人様から奪う行為すべてが、偸盗で御座います。盃に映るあの少年の金品だけでなく、意味も無く待たせる行為や、人としての尊厳を奪う事も、まさに偸盗と言えましょう。」


温和な口調でありながら、その指摘は一歩が「たかが」と切り捨てた過去の非道を容赦なく暴き出した。

地蔵店長は、一歩の目を見据えて言葉を重ねた。


「一歩さんは『たかが』と仰いましたが、偸盗は仏教において重罪とされております。4つの重罪『四波羅夷しはらい』の1つとされているのですよ。もし偸盗を犯せば、サンガ……僧侶の集団の事ですが、そこから追放されます。そして、僧侶の事を比丘と言いますが、比丘としての資格を失います。それほどに重い罪なのです。決して、『たかが』で片づけられる事ではありません。」


お地蔵さん笑顔のまま語られる真理は、一歩の背筋に冷たい震えを走らせた。


「現代社会においても、盗みは法律で裁かれる事、犯罪です。一歩さんがあの少年から110円を奪った行為は、本当に『たかが』で済まされる軽いものあると言えるのでしょうかねえ。」


地蔵店長は、逃げ場のない問いを一歩に突きつけた。

一歩の身体から力が抜け、座っていた椅子が微かに軋んだ。


「……俺、仏教の事はわからへんけど。仏教的にも、現代社会でも犯罪やってしもてたんや。全く意識せず、軽い気持ちで、その重さを全くわからんと……。」


一歩は力なく肩を落とし、カウンターに突っ伏した。

自分が今まで「強さ」だと思っていたものは、ただの浅ましい略奪に過ぎなかったのだと、突きつけられた現実に打ちひしがれるしかなかった。


---


##110円の永劫


「俺、あいつに会いに行って、ちゃんと、110円返して、謝ります。ちゃんと頭下げて、けじめつけます。だから、さっきもお願いしましたけど、どうか力貸して下さい!」


一歩は、絞り出すような声でそう叫ぶと、再びカウンターに額を叩きつけるようにして女鬼じょきに頭を下げた。

なりふり構わず、ただ自らの過ちを正したいという一心だった。


しかし、女鬼の返答は無慈悲なまでに冷ややかだった。

「それは無理。」


あまりにあっさりとした断り文句に、一歩は弾かれたように顔を上げた。

「……やっぱり、自分の力で何とかしろってことか? 誰の助けも借りずに、自力であいつを探せって……」


「物理的に無理なんよねー。」

女鬼は突き放すように言うと、パチンッと小気味よい音を立てて指を鳴らした。


その音に応じるように、盃の中の炭酸水が激しく波打ち、気泡が渦を巻いて新たな情景を編み上げていく。

そこに映し出された光景を見た瞬間、一歩の瞳は限界まで見開かれた。


映っていたのは、どこにでもある静かな和室だった。だが、その中央には立派な仏壇が鎮座しており、中央には遺影が飾られている。

その写真の中で笑っているのは、紛れもなく今の自分の姿、27歳の大塚一歩だった。

仏壇の前には、一歩が子供の頃から大好きだった牛丼が、湯気を立ててお供えされている。


「……なんやねん、これ……なんで、俺の写真が、仏壇に飾られてるんや……」

一歩の声が、ガタガタと激しく震え始める。


女鬼は、感情を押し殺したような静かな声で語りかけた。

「……もう、何となく気づいてるんじゃない? 方輪車ねえさんと、ターボばあちゃんと、あれだけ走ったりしてさ、小豆洗いさんとこに荷物届けたっしょ?」


女鬼は一歩の目を真っ直ぐに見据え、核心を突く問いを投げかける。


「それじゃあ質問。あの小豆、どうやって単車の荷台のボックスに詰めたんよ? そもそも、なんで夜をずっと走ってるん?」


「俺は……なんで……」


一歩は混乱する頭を抱え、もう一度、盃の水面を食い入るように見つめた。

仏壇の脇に置かれた机の上に、古びて黄色く変色した新聞記事の切れ端が見える。

目を凝らし、そこに書かれた文字を読み取った瞬間、一歩は自分の目を疑った。


> 2007年11月某日、京都の一般道で、大塚一歩さん(27)が、オートバイ事故により全身を強く打って死亡


「これでわかったよね。あんちゃんは、既に死んでるんよ。」


女鬼の言葉が、冷酷な現実となって一歩の魂を打ち砕く。


「だから、あんちゃんの方から、あの少年に会いに行く事も、謝罪する事も出来ないってわけ。探したところで、あんちゃんの方からは最早どうする事も出来ないんだよね。」


女鬼は、逃げ場を完全に塞ぐように、容赦のない言葉を一歩に叩きつけた。


「はっきり言うと、罪を償う機会も、謝るチャンスも、もう無いってわけよ。だから、あんちゃんの価値は110円以上でも以下でもないまま、永劫に刻み込まれたって事。それが、あんちゃんが『たかが』と言って、やって来た事の代償。」


「……あ、ああああああ……ッ!!」


その瞬間、一歩の口から言葉にならない叫びが漏れた。


自分が死んでいるという事実。

そして、もう二度とあの少年に謝ることも、奪ったものを返すこともできず、償う事が叶わないという、永遠の絶望。


「嘘や……嘘やろ!! 永遠に赦されんと固定されたままなんて、そんなん嫌や!謝らせてくれや! 110円返させてくれや!償わせてくれやぁぁ!!」


一歩は子供のように顔をくしゃくしゃに歪め、魂の底から泣き叫んだ。

時を止めたまま、「110円」という価値に固定されてしまった自らの人生の虚しさに、一歩はただただ、激しい慟哭を店内に響かせるしかなかった。


---


##小豆洗いの鯛焼きと贖罪の味


一歩は溢れ出す涙を何度も作業服の袖で拭い、ようやく小さく息を吐いた。

荒れていた呼吸が整い、少しずつ落ち着きを取り戻していく。


「……すんませんでした、取り乱してしもて。」

一歩は力なく、カウンターに座ったまま頭を下げた。


「俺はこれから、みんなが生きてる世界でも110円の男として刻まれてしもて、それを正すチャンスも失ってしもて。死んでからも110円の価値を背負っていかなあかんのやね……。」

項垂れたその背中は、先程までの虚勢が嘘のように小さく見えた。


すると、それまで冷徹な空気を纏っていた女鬼が、ふう、と大きく息をついた。

「そんじゃこれで、あーしの仕事完了ってことで。」


彼女は憑き物が落ちたような顔をすると、方輪車とターボばあちゃんが待つテーブル席へ歩いていき、空いている椅子にどっしりと腰を下ろした。


「あの、鬼のねえちゃんの仕事って……?」

一歩が不思議そうに尋ねると、女鬼は金色の瞳を細めて笑った。


「あーしの今回の任務は、あんちゃんが何をやらかしてきたか、あんちゃんに自分で罪に気づかせることだかんねー。そんじゃ、お仕事も終わったから、晩御飯食べるんで、よろー♪凜華さん、お願いねー♪」


彼女の声は、店に入ってきた時と同じ軽やかなギャルの口調に戻っていた。

一歩の絶望を余所に、店内の空気は再び穏やかな夕餉の活気を取り戻していく。


「ほな、これからすき焼きのおつゆで作る雑炊やさかい、肉雑炊にしますえ。」

厨房から戻ってきた凜華が、ニコニコと微笑みながらテーブル席へ雑炊の用意を運んでいく。

鉄鍋の中でぐつぐつと煮える甘辛いタレに、白いご飯と溶き卵が加わり、さらに食欲をそそる香りが店内に充満した。


「……有難う、女鬼さん。俺に気付かせてくれて。」


一歩が改めてテーブル席の女鬼に向けて深く頭を下げると、彼女はグッと親指を立て、片目でウインクをしてみせた。

そして、楽しそうに煮え立つ肉雑炊を見つめている。


「それでは、そろそろ甘味が届くころですから、それを楽しまれると宜しいでしょう。」

地蔵店長が静かに手を合わせ、お地蔵さん笑顔を浮かべてお辞儀をした。


「え、甘味って?」

一歩が首をかしげたその時、ガラガラと入り口の扉が開いた。


「鯛焼き御届に上がりやしたでな。輪入道さんに送って貰いやしたで。」

そこには、先程一歩が荷物を届けた相手である小豆洗いが、大きな紙袋を大事そうに抱えて立っていた。


えらいこっちゃ嬢が弾んだ声で駆け寄り、袋を受け取った。

「小豆洗いじいちゃん、おいでやす! 鯛焼きありがとちゃん。小豆洗いじいちゃんの鯛焼きは、甘さ控えめで体に優しい、えらいこっちゃな美味さ!」

彼女がそう言い残して厨房へ消えると、雑炊を完成させた凜華も一礼してその後を追った。


「小豆洗いさん有難うさんー♪」

女鬼と方輪車、ターボばあちゃんの3人も、笑顔で小豆洗いに手を振る。


「有難う御座います、小豆洗いさん。」

地蔵店長もまた、丁寧にお礼の言葉を伝えた。


「また鯛焼き屋の仕事終わりに寄らせて貰いますでな。ほな。」

小豆洗いは照れくさそうに頭を掻くと、軽く手を振って再び夜の闇の中へと消えていった。


---


##後悔と鯛焼きの甘み


しばらくすると、えらいこっちゃ嬢が手際よくお盆を運び、カウンター席の一歩の前とテーブル席の面々へ、綺麗な和の皿に乗った鯛焼きと湯気を立てる緑茶が並べられていく。

ターボばあちゃんの席にだけは、皿の他に鯛焼きがつ入った袋がそっと置かれた。


「おばあちゃんなのに、食欲あるんやな。」


一歩が素直な感想を漏らすと、ターボばあちゃんは目尻に皺を寄せて微笑んだ。

「これは、私の友人の分ですねん。あの方々も、これが大好きでしてなあ。」


ふと隣を見ると、女鬼が背筋を正し、静かに目を半眼にしていた。


「われここに食をうく、つつしみて、天地の恵みと人々の労を謝し奉る。頂きます。」


それは思わず見惚れるほどに美しく、完成された作法による合掌だった。

彼女はそのまま上品な所作で箸を取り、凜華が丹精込めて作った肉雑炊を一口ずつ、大切に口へと運んでいく。


「ほんと、綺麗な食べ方ですなあ。」

「見てるだけで、こちらまで心が洗われるようですわ。」


方輪車とターボばあちゃんが感心したように見守る中、女鬼は「ふふ、ありがと♪」と、いつものギャルらしい愛嬌を覗かせて微笑んだ。


一歩は、自分の前に置かれた鯛焼きをじっと見つめた。

黄金色に焼き上げられたその姿から、香ばしい皮の匂いと、微かに小豆の香りが立ち昇ってくる。


「……俺が運んだ小豆で作られた鯛焼きって思うと。なんやろな、感慨深いって言うか。」


一歩の呟きに、カウンターの中で地蔵店長が静かに手を合わせた。


「今し方、女鬼さんが称えられた食前の言葉にありますように、『人々の労』という御縁に、一歩さんもいらっしゃるという事で御座います。貴方の走りが、この美味しさに繋がったのですよ。」

店長はニコニコとお地蔵さん笑顔を浮かべ、深くお辞儀をした。


「そっか……うん、頂きます。」

一歩はそっと鯛焼きを手に取り、大きく一口齧りついた。


パリッ。


絶妙な火加減で焼かれた皮が心地よい音を立て、中から熱々のあんこが溢れ出す。

その甘さは驚くほど控えめで、しかし小豆本来の豊かな風味が口いっぱいに広がり、決してしつこくないさっぱりとした後味だった。


「……っ。」

あまりの美味さに、一歩の心の中に温かな「ほっこり」とした感情が満ちていく。

それと同時に、熱いものがこみ上げ、一歩の目から大粒の涙が鯛焼きの上にこぼれ落ちた。


「……俺、自分に甘くて、他人に厳しい、典型的な嫌な奴やったんやなあ。」


溢れる涙を拭おうともせず、一歩は情けなさに声を震わせた。

あの日奪った110円の重み、そして今、自分が人々の繋がりの末に得たこの鯛焼きの尊さ。

その対比が、一歩の胸を締め付ける。


「後悔先に立たず、か。まさに、俺の事やんけ。もっと早く、気付いてれば……。」


一歩は己の愚かさを噛み締めるように、一口一口、逃げることなくその味を舌に刻み込んだ。

甘く、そして今の彼には少しだけ苦い、人生最期の「労い」の味だった。


---


## 110円の清算と再始動


一歩は最後の一滴までお茶を飲み干すと、ふう、と深く長い息を吐いた。

隣のテーブルでも、女鬼や方輪車、そしてターボばあちゃんが満足げにお茶を味わっている。


一歩はゆっくりと椅子から立ち上がり、カウンターの向こう側にいる面々に深く丁寧にお辞儀をした。


「御馳走様でした。そして……有難う御座います。」


今の自分にできる精一杯の感謝を言葉に乗せる。


「ほな、金払う時やな。」


一歩はポケットから、あの呪縛の象徴でもあり、今の自分の価値である110円を取り出した。

そして、さっき小豆の運送料として受け取ったばかりのお札が詰まった封筒も、躊躇なくえらいこっちゃ嬢へと差し出す。


「鯛焼き代と、説法代。俺には、110円以上の金を持つ資格はないからな。これで足りるやろか。」


一歩が自嘲気味に笑うと、えらいこっちゃ嬢はそれを受け取り、「毎度あり! えらいこっちゃな大金、ありがとちゃん!」と威勢よく叫んでレジへと駆けていった。


「良かった。足りたみたいやな。」

一歩は憑き物が落ちたような顔で微笑み、出口の扉へと歩き出す。


---


「ほな、案内してきますでなあ。」

ターボばあちゃんが、二つの鯛焼きが入った袋を大事そうに抱えて立ち上がった。


「鯛焼きも、奪衣婆さんと懸衣翁さんに届けに行って来ますえ。ほんに、御馳走様でした。」

厨房の奥から凜華が顔を出し、「御粗末様でした、お気をつけてー。」と朗らかに手を振る。


地蔵店長もまた、穏やかなお地蔵さん笑顔で「お気をつけて行ってらっしゃいまし、御案内宜しくお願い申し上げます。」と言ってから、一歩に向かって深く合掌した。


「一歩さん。御来店、誠に有難う御座います。」


その言葉に、一歩はもう一度だけ深くお辞儀を返し、「はい、有難う御座いました。」と答えて、夜の冷気が漂う店の外へと踏み出した。


---


駐車場の広場で、愛車のインパルスが静かに一歩を待っていた。

シートに跨り、使い込まれたヘルメットを被る。

キーを回してセルを押すと、夜の静寂を切り裂いて馴染みのあるエンジンの咆哮が響き渡った。


ターボばあちゃんもショッピングカートの荷物入れに鯛焼きを詰め込み、怪しげな動力源を起動させる。


「ほな、あんちゃん。ついていらっしゃいやー。」

ばあちゃんはニコニコと、孫を散歩に誘うような気軽さでゆっくりと走り出した。


「はい、お願いします。」

一歩はその背中を追うように、静かにクラッチを繋いだ。


---


##三途の関所と衣領樹の影


一歩とターボばあちゃんは、どこまでも続くような長い直線道路に入った。

夜の冷気とエンジンの鼓動だけが響く中、ターボばあちゃんのショッピングカートが速度を下げ、インパルスの横に並ぶ。


「後は、一本道ですえ。」

ばあちゃんは前方を見据えたまま、穏やかな声で言った。


「随分、あっさりとついてきはりましたなあ。もう、何も疑問に思うてはらへんようですなあ。」

その横顔には、迷いを断ち切った者を見守るような慈しみの笑みが浮かんでいる。


一歩はヘルメットのシールド越しに、流れていく夜景を見つめ返した。


「もう、流れに任せよう思ったんや。それに……俺、これから地獄に行くんやろ? 流石に、それくらいわかるで。あんな罪を犯したんやから、地獄行きやろうからな。」

自嘲気味ではあったが、その声には逃れようのない運命を受け入れた男の覚悟が宿っていた。


「まあ、『次の段階』へ行くのは、その通りですわなあ。あ、見えてきましたえ。」

ターボばあちゃんが指し示した先、夜の帳の向こう側に、圧倒的な存在感を放つ大きな川の気配が姿を現した。


川の手前には、現代の高速道路の料金所を思わせるような、無機質でありながらどこか厳かなゲートが設置されている。

そのゲートの先には、川を跨ぐようにして車やバイクが走れる広大な道路が真っ直ぐに伸びていた。

一行が料金所に到着すると、ターボばあちゃんは慣れた動作でショッピングカートからぴょんっと軽やかに降り立つ。


「相変わらず、ばあさんとは思えへん乗り降りしよるで……。」

一歩は思わず苦笑し、サイドスタンドを立ててバイクを停めた。


料金所のブースには、1人の老婆が静かに座っていた。

奪衣婆だつえばさん、連れて来ましたえ。それとこれ、小豆洗いさんとこの鯛焼きです。」


ターボばあちゃんが親しげに声をかけ、大事そうに抱えていた袋を手渡す。

奪衣婆と呼ばれた老婆は、彫りの深い顔に深い皺を刻ませながら、受け取った袋を愛おしそうに眺めた。


「有難う、ターボさん。」


彼女が笑顔で短く答え、手元にある古びた鈴をチリン、と鳴らす。

その音に応じるように、奥から1人の老人がゆっくりと姿を現した。


懸衣翁けんえおうさん、鯛焼き持ってきましたえ。」

ターボばあちゃんが微笑むと、老人の顔にパッと喜びの色が広がる。


「おお、これこれ。有難う、ターボさん。小豆洗いさんとこの鯛焼きは絶品だからのう。楽しみにしておったんじゃ。」


懸衣翁はそう言って笑うと、すぐに一歩の方へと視線を移した。

その目は鋭く、一歩の全てを見透かすような深みを持っている。


「あんちゃんもきよったか。ほな、一仕事しようかのう。」


すると奪衣婆が料金所の中から足音もなく出てきて、一歩の目の前に立った。

彼女は言葉を交わす間もなく、一歩が着用していたライダースジャケットの襟元を掴み、問答無用で引き剥がした。


「ちょ、いきなり上着とらんといてえや! 何すんねん!」

一歩が慌てて抗議の声を上げるが、奪衣婆は取り合った様子もなく、手に入れたジャケットを隣の懸衣翁へと手渡した。


「これが御二人の仕事ですさかい、堪忍しとくれやす。」

ターボばあちゃんが、なだめるように横から優しく微笑む。


「……まあ、ええけど。ちゃんと返してくれるんやろな?」

一歩が半信半疑で尋ねると、懸衣翁はジャケットを両手で受け取り、深く頷いた。


「安心せい。終わったら返すからのう。さて……。」


懸衣翁は一歩のジャケットを小脇に抱え、すぐ近くに立っている1本の大きな樹の前へと、厳かな足取りで向かった。


---


##三途の関所と衣領樹の影


懸衣翁けんえおうは受け取った一歩の上着を、傍らに立つ大樹の枝へと恭しくかけた。

重厚な枝が一歩の罪の重みを受けてしなり、頭を垂れる。


「ふむ、数々の悪業に・・・・・・偸盗、110円か。」

老人はその垂れ下がり具合をじっと見つめ、静かに呟いた。


「ここでも110円かい。徹底しとるな、俺の人生。」

一歩は自嘲気味に、しかしどこか吹っ切れたような顔で笑った。


「この樹はな、衣領樹えりょうじゅって言うて、罪の重さをはかる樹なんじゃよ。罪が重いほど衣が重くなって、枝の垂れ下がり方が大きくなるんじゃ。……あんちゃんのそれは、ひどく鋭い重みを感じるのう。」


懸衣翁はそう言い残すと、枝から上着を取って一歩の手へと返した。

老人は満足げに一度頷くと、そのまま夜の闇のどこかへ、音もなく去っていった。


奪衣婆だつえばは料金所の影から、一歩を真っ直ぐに見据えた。


「それじゃあ、通行料を貰おうか。」


「通行料って、110円か? もう、さっきの店でえらいこっちゃ嬢に全部渡してしもたし……あ。」


一歩は何かを思い出し、作業ズボンのポケットを深く探った。

指先に触れたのは、先ほど見つけた、真ん中に四角い穴が開いている古めかしい6枚の硬貨だった。


「これか? これでええんか?」


一歩が手のひらを広げると、奪衣婆の瞳が微かに光った。

「それそれ。六文銭ろくもんせん、あの世の通行料って、あんちゃんは聞いた事無いかい?」


「いや、全く。そっか、これ、ここを通るために最初から入ってたんやな。」

一歩は納得したように頷き、その6枚の銅貨を老婆の皺だらけの手へと預けた。


「ほな、こっから先は、あんちゃん一人で行きなさいなあ。」

ターボばあちゃんが、優しく一歩の肩を叩いて手を振った。


一歩は愛車のインパルスに跨り、ヘルメットを被って深く息を吸い込む。


「うん。ターボばあちゃん、有難うな、道案内。それと……えらいこっちゃんと、方輪車さんと、小豆洗いさんと、地蔵店長と……鬼のねえちゃんに、宜しくな。みんなのおかげで、ようやく目が覚めたわ。」


一歩はアクセルを軽く煽り、馴染みのあるエンジンの咆哮を響かせた。


「ほな、行くわ!」


右手を高く上げ、一歩は力強くクラッチを繋いだ。

インパルスは夜風を切り裂き、広大な川の上に架かる真っ直ぐな橋へと走り出していく。


「御達者で~。」


ターボばあちゃんは、遠ざかっていくバイクの後ろ姿を、いつまでも手を振って見守っていた。


一歩のオートバイは、迷いのない真っ直ぐな軌道を描いて、三途の川の向こう側へと吸い込まれていく。

その走りは、現世での暴走とは違う、確かな目的地を見定めた者の強さに満ちていた。


「もう、大丈夫そうですなあ。ふふ、死んでから大丈夫とか、御達者っていうのも、妙な話かもしれませんけどなあ。」


ばあちゃんは満足げに微笑み、一歩の姿が完全に見えなくなると、手近なショッピングカートにぴょんっと軽やかに飛び乗った。

彼女は鼻歌混じりにカートの出力を上げると、来た道を軽快に引き返していった。


---


##エピローグ:110円の呪縛、その終焉


一歩が三途の川を渡ったすぐ後の事。


小豆洗いの鯛焼き屋に併設されたイートイン席には、40代半ばから後半ほどに見える黒髪を短く整えた男性が一人、コートを着たまま腰を下ろしていた。

彼は、小豆洗いが丹精込めて焼き上げた鯛焼きを、慈しむようにゆっくりと、丁寧に口へと運んでいた。


そこへ、賑やかな足音と共にえらいこっちゃ嬢と女鬼が、仲睦まじく手を繋いで暖簾を潜ってきた。


「終わったよー♪」

女鬼が軽やかに手を振り、男性に向けて声をかける。


男性は食べ終えた鯛焼きの包み紙を丁寧に畳むと、穏やかな微笑みを浮かべた。

「ええ、オートバイの音、聞こえてましたから。終わったんやろなって思うてましたわ。」


女鬼はカウンターに寄りかかり、少しだけ首を傾げる。

「やっぱり、あなたは最後まで顔出さなかったね、摩訶不思議食堂に。」


「赦したわけやありませんからね、下手に頭下げさせて、頭下げただけで消えない罪が消えたと勘違いさせるんも酷でっしゃろ。僕はただ、手放しただけですわ。」

男性は目を細め、遠い空を見つめるような表情を浮かべた。


「それに、30年も前の話で頭下げられても、あまりにも今更過ぎますさかいな。」

彼は静かに笑ったが、その瞳の奥には、かつての「110円の絶望」を知る者だけが持つ深い静寂があった。


「以前までは、僕が直接、呪い殺したるって思うてたけど……。」


男性が漏らしたその言葉に、女鬼が相槌を打つ。

「そのために、呪術師にまでなったんだもんね。」


男性は深く頷き、自らの歩んできた険しい道を振り返るように語り始めた。


「あの日、僕を苦しめた奴ら全員を呪い殺したるって思うた時、僕が摩訶不思議食堂に迷い込んで、仏教と出会って……。それでもまだ恨みの炎が燃え盛ってて、呪術師になった後も、僕の手で殺めるべきか否かを色々悩んでるうちに、あっちが勝手にバイク事故で自滅してくれて。僕は不殺生戒ふせっしょうかい破らんでよかったと、今では心の底から思います。」


女鬼は少し真剣な表情になり、男性に問いかけた。


「……ねえ、あのあんちゃんの『偸盗ちゅうとう』による業を、あなたはずっと縛り付け続けてはいたけどさ。どうして、もう縛るのをやめたん?ま、その御蔭様で、あの単車のあんちゃんの「呪縛」が解けて、やっと三途の川を渡らせることが出来たんだけどね。」


「いつまでも、こっちが律儀に覚えてあげるんも、しゃくやなって思うたんです。それに、縛っているようで、実は自分自身も縛り付けてるわけですからね。そういう風に、もう死んだ奴に僕が縛られるのも、彼の死から20年近く経って、そろそろ終わりにしようって、心の底から思えるようになりましてね、そやから……。」


男性はそう言って、懐から何かを取り出し、テーブルの上にそっと置いた。

それは、中央から無惨に引き裂かれた呪符だった。


「これで、僕が彼を恨み続ける事もおしまいですわ、これで一つの区切りです。これからは一人のただのおっちゃんとして、隠れ呪術師として生きますよ。」


そういって「パチン」と男性が指を鳴らすと、引き裂かれた呪符がボっと燃え上がり青い炎に包まれて、やがて燃え尽きて跡形もなくなくなった。

それを眺めていた男性の表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。


「そっか……うん、それがいいよ。」

女鬼も満足そうに微笑み、彼の新しい門出を祝福した。


---


「色々、有難う御座います、女鬼さん、えらいこっちゃん。」


男性は席を立つと、再び懐から別のお札を一枚取り出した。

それを宙へパッと投げると、お札は一瞬でスノーボードのような形に変形し、地上数十センチの高さで静かに浮遊した。


「ほな、また摩訶不思議食堂に食事に行った時は、宜しゅう。小豆洗いさんも、御馳走様でした。今日の鯛焼きも、美味でしたえ。」

彼はその呪符ボードに慣れた動作で飛び乗る。


「毎度、有難う御座います、呪術師のあんちゃん。また鯛焼き食べに来て下さいや。」

小豆洗いが笑顔で見送る。


「えらいこっちゃなシゴデキ呪術師おっちゃん、またなー!」

えらいこっちゃ嬢も千切れんばかりに手を振る。


「またねー♪」

えらいこっちゃ嬢と女鬼の呼びかけに、コートのポケットに手を突っ込んでいた男性は、サッと片手を挙げて応えた。

呪符ボードは音もなく加速し、彼は空へと溶け込むように飛び去っていった。



静かになった店内で、女鬼は大きく伸びをした。


「んー、そんじゃこれで本当におしまい♪ 帰ろっか、えらいこっちゃん♪小豆洗いさん、またねー!♪」


「えらいこっちゃな大団円!」


女鬼とえらいこっちゃ嬢は再び手を繋ぎ、温かな湯気が立ち昇る「摩訶不思議食堂」への帰り道を、軽やかな足取りで歩き出した。

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― 新着の感想 ―
 今回のエピソードもまた、良かったです。ターボばあちゃんはちちぷいで見てたので登場した時は笑いました^^  仏教の教えについては一時期、興味を持って本で読んだことがありますが、意味までは良く解ってな…
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