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隣で小さく息を吐くのが聞こえた。
結婚記念日のディナーとして予約していた高級レストランに入った時は格式高さに若干強張っていたエナも食事が始まれば、その美味しさに緊張も解けたようだ。
レオニスと二人だけの食事。特に真面目な作法にこだわる必要がなかったことも大きいのだろう。
今は食後の余韻に浸るようにフワフワと微笑んでいる。
「エナ」
そんな彼女を呼べば、彼女はハッと我に返ったようにシャキッと背筋を伸ばす。
フォーマルな場だと思い出したように姿勢を正す姿を見返しながら、レオニスはこう続ける。
「少し歩けるか?」
レオニスの問いにエナがきょとんと不思議そうに瞬いた。
ややあってエナは頷く。
それを見て、レオニスはゆっくりと歩き出す。
その隣にエナが並ぶ。
少し無言の時間が続く。
春になって日が伸びたとはいえディナーの時間帯には西の空が燃えるだけで、空はもう藍色に染まって星々が輝こうとしている。
完全に暗くなる前にと憲兵がガス灯に火を入れている。
ぽつ、ぽつと道を照らすガス灯を辿るようにエナと並んで道を歩く。
いつもは人々で賑わう大通りも夜が間近に迫る黄昏時には人の姿もまばらだ。
春先の夜風がディナーのワインで火照った頬を冷やしていく。
その熱が完全に冷めてしまう前に、とレオニスは足を止める。
「レオニス様?」
足を止めたレオニスへ、エナが訝しげに問う。
レオニスはエナを振り返り、そっと懐から小さな包み紙を取り出した。
「……今日という記念日に、君に渡すものがある」
「え、何。改められるとなんか怖い」
レオニスの言葉にエナが怯んだように軽く首を竦めた。
そんなエナに構わず、レオニスはそっと包み紙を開く。
そこにあるのは小さく赤い果物だ。
想像していたものと違ったのか、エナはきょとんと目を丸くしてレオニスの手のひらに乗った果物を見つめた。
卵形をした艶やかな赤い果物は姫林檎ほどの小粒の大きさで、十字の白い筋が星のようについていた。
「これは?」
「スタープラムという果物だ。高い山にある低木に生る果物で……市場に出回るのは少し珍しいかもな」
「へえ……」
相槌を打つエナがレオニスの手のひらの果物に指先を伸ばす。
好奇心につつこうとするエナの指先を避けるようにレオニスはスタープラムを退く。
「……これを渡す前に、君にひとつしなければならない話がある」
「なんでしょう?」
「赤い食べ物を渡す意味について」
レオニスの言葉にエナが軽く首を傾いだ。
やはり彼女は知らなかった。
レオニスは手にしたスタープラムへ視線を落として口を開く。
「ずっと昔の戦乱の時代、大国の戦争に巻き込まれた小さな国があった。その国を治める若き女王が泣く泣く自国の民を戦争に送り出す時に、戦争に赴く騎士がこう言ったそうだ。“この心臓はすでにあなたに捧げている”と。要するにあなたのために命をかけても惜しくはない、いう忠義の言葉なんだが……この話が女王と騎士なものだからロマンティックな解釈をされるようになってな」
レオニスの話を聞くエナはぽかんとした顔で話を聞いている。
「それが転じて、“あなたに心を捧げる”、“私の人生のすべてをあなたに”という意味を込めて赤い食べ物を心臓と見做して贈る習慣が生まれた」
「へえ、そうなん…… …………んん?」
レオニスの話に相槌を打とうとしたエナがふと気がついたように眉を寄せた。
嫌な予感、とばかりに顔を歪めるエナを見返し、レオニスはこう続ける。
「つまりは、求愛だ。された側は了承するなら渡された食べ物を食べる。相手の心臓を食らい、その血を自分のものにする……想いを受け入れる、ということだ」
「ま、ままま、待って待って待って」
淡々と説明するレオニスにエナが慌てて止める。
「レオニス様、ちょっと待って。そ、その話がこのスタープラムとどう関係するんです? ち、ちょっと、理解が、追いつかないと言いますか」
「どう関係も、そのままだ。君に求愛している」
「私たちすでに結婚してますがーーーーー!?」
レオニスの言葉にエナが悲鳴にいた声を上げた。
予想通りとはいえ、ここまで大袈裟に慌て出すものか。
「ーー……あれから、君に“同然”じゃない家族が欲しいと言われてから、色々と考えたんだ」
「や、やだぁ……やめてよ、ただの八つ当たりに何を考えるって言うんですかあ」
「有体に言うと、腹が立った」
「おうふ」
エナが呻く。
やってしまったと言わんばかりの彼女の顔に少しだけ胸がすいた気がした。
「“家族”と“家族同然”の間に線引きをされ、線の向こう側に追いやられたことが。俺はすでにずいぶんと君を内側に引き込んでしまっているのに」
「そ、そんなこと言われましても……それは私の意図したところではないと言いますか。そんな近くに置かれるなんて想定してないと言いますか。本当に何で???」
「そうだな。君を勝手に己の内側に引き込んだのは俺の方だ。でも、だからこそ言葉ひとつ分の距離があることを知って頭を殴られたような気分になったよ」
そうしてレオニスは手のひらのスタープラムをエナの手のひらに少しばかり強引に乗せた。
「隙間があるのだと知ったからには埋めたくなった。だからこうしてらしくないことをして、君に乞うている。俺は、その“同然”という言葉を取り払ってもっと君の近くへと置いてもらえる人間にはなり得ないか?」
スタープラムを渡されたエナは困ったように眉を下げ、それから手の中のスタープラムへと視線を向ける。
「…………私のこと、“愛さない”んじゃなかったんですか」
「そのつもりだったんだがな」
苦し紛れに言うエナにレオニスはそう返す。
「当初、想定していた状況と色々と変わったんだ」
「そう言われましても……」
「……別に受け入れ難いのならそれでも構わない。これはただ、今君に最も近しい男は君の“家族”にしてもらいたいと思っている。それだけを伝えたかった。断ったからとて、何が変わるわけじゃない」
「変わるでしょう、心持ちとか」
スタープラムを手のひらに乗せたまま、エナはぐずぐずと返事を先延ばしにするように言葉を落とす。
落ち着きなく泳ぐ視線が彼女の心の揺れをそのまま表しているようだった。
受け入れるべきか。拒否するべきか。
思いがけない二択を迫られたエナは自分がどうすべきか、どうしたらいいのかを迷っているようだった。
だからレオニスはこう言う。
「変えない。そこは約束する。君も初めは落ち着かないだろうが、いつも通りの日常を送ればそのうち埋没し、忘れるだろうさ」
急に示された逃げ道にエナがレオニスを見上げた。
戸惑いに瞳を揺らすエナを見つめ返し、レオニスはこれ以上何も言う必要はないと口を閉ざした。
エナもまた沈黙し、改めて手のひらに乗せられたスタープラムへと視線を向ける。
彼女の葛藤を表すかのように、彼女はスタープラムを睨みつけ、ためらうように表情を歪め、唇を緩めたり引き結んだりと表情を忙しなく変える。
そうしてやがて、彼女は大口を開けてスタープラムに食らいついた。
「すっ…………っっ!!」
スタープラムに一息に齧りつき、エナがそう声を上げる。
それからエナは一度唾と一緒に果肉を飲んで、レオニスを見上げて睨みつけた。
「酸っぱい! 何ですかこれ、酸っぱい!! 何てもの食わせるんですか! もっとマシな食べ物なかったんですかーーーーー!!」
「言っただろう、市場に出回るのは少し珍しい代物だと」
エナの悲鳴にレオニスは珍しく意地悪く笑んだ。
「ありふれたベリーやりんごでは君は他所で見る度に今日を思い出して居た堪れなくなるだろう」
「だからってコレはないでしょう! 何故食わせた! 何故コレにした!」
憤ってギャンギャンと喚くエナにレオニスは彼女が齧りとったスタープラムを彼女の手ごとさらい、その齧りとった跡の上からスタープラムを齧り取る。
レオニスの手の中でエナの手が跳ねた。
齧りとった瞬間に溢れた果汁の酸味が口の中を刺す。
少し苦いえぐみもある果実は食用とは思えないほどに酸っぱかった。
「君の性格を考えてこれにしたんだが……甘い方が良かったか?」
唇についた果汁を舐め、笑んだまま彼女を見つめ返す。
するとエナは途端に黙り込み、顔を真っ赤にして小さく唸った。
こちらの手の中から逃げようとする手のひらはそう簡単に逃がしてやらない。きゅう、と握り込んだまま間近で彼女を見据える。
「……これで良かったですぅ……」
やがて搾り出すようにエナが唸った言葉は、白旗だった。




