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 エナに恋人ができるならば、別にそれはそれで構わなかった。


 夫と愛人の二人を抱え込んで平気でいられるほど器用でない彼女が愛し合った男に夫の座を明け渡したくて離縁を望むこともあるだろうと予想して、その時に備えるものを具体的に考えたこともある。

 自分にとって彼女は代え難い妻なのは確かだが、それでも彼女の夫という座は執着するものではなかった。


 レオニスにとって重要なのは、エナ・ベルトゥリーという女は自分にとって“家族同然”の関係性であることだった。


 初めは契約から始まった関係。

 けれども時間を共にするうち、少しずつ信頼関係が構築され、気がつけば思ったよりも近くにいる存在になった。

 そんな彼女も自分との穏やかな関係を望んでくれて、それは自分にとって望外な幸福だった。


 この感情をどう呼ぶのかは、言葉に当てはめるのは少し難しい。


 結局、いとおしい。愛している。そんな言葉になるのだろうか。

 ふと振り返った時に彼女が泣いたり怒ったり笑ったり、感情豊かに健やかに過ごしていて欲しいと思う。


 ただそのいとしさを理由に彼女の幸せをせっせと作ろうという積極性はなく、彼女に寄り添ってその感情の方向を自分へと向けたいという欲もなかった。


 恋情や情愛と比べたらあまりにもささやかで、何かを望むことも与えることもない。けれども決して無関心ではない。

 同じ空間にいるけれど、向いている方向はまるで違う。けれどもほんの少し心を砕いてひとつずつ小さなものを積み上げる。そんな関係。


 それだけでレオニスは十分に満足していた。


 ぬるま湯に浸かるような温度は、しかしエナには冷たかったのだろう。

 言葉ひとつ分に開いた距離の間に吹く隙間風の冷たさに凍えて“家族”という温もりを求める声が突き刺さる。


 いつもの調子だった。

 深刻な悩みではなく、あっさりと世間話を話すような軽やかさだった。


 あの後のエナは結局前世の話に終始し、最後に「私はプラナリアになりたい」とやけにいかめしい顔で結論を言った。

 意味はわからなかったが、直前の話から察するに“家族は欲しいが男と性的な接触はできそうもない”という意味なのだろうと理解した。


 それからの彼女もいつも通りだ。


 明るく能天気であっけらかんとした態度の彼女は割り振られる仕事や締め切り間近の原稿にヒィヒィと泣き、社交の場では慣れなくとも広告塔の役割を果たさんと懸命に勤しんでいる。


 あの時垣間見えた寂しさや孤独などまるで感じさせずに、狐につままれたよう。

 それでも一度感じさせられた隙間を、レオニスはずっと感じている。


 家族“同然”。言葉ひとつ分の隙間は、ずっとそこにある。


「旦那様、予定通り注文の品が届いております」

「ーーああ」


 思考に沈んでいたレオニスを家令の声が掬い上げる。


 レオニスは家令が持ってきた伝票に間違いがないことを確認してサインを記す。

 届いた品物は、来週に控えた特別な日にエナへ贈るドレスと宝飾品。

 特別な日とは結婚記念日であり、エナの誕生日だ。


 成人と同時に売り払われるように嫁がされたエナとの付き合いはもう間もなく一年を迎える。

 この一年は、とても目まぐるしく濃密な一年だった。


 悪い一年ではなかった。


「ーー………」

「旦那様?」


 またもぼうっと物思いに耽りそうになって、家令の声に呼び戻される。

 その声にレオニスはサインした伝票を彼に返し、立ち上がった。


「少し出かける」

「かしこまりました。馬車はご入用でしょうか?」

「いらん。気分転換の散歩だ」


 それだけ短く答えると家令は一礼をして部屋を出る。

 レオニスも執務机の上を軽く整頓すると部屋を出る。


 玄関ホールでは家令の指示で外出用の外套を持ったメイドが佇んでおり、レオニスに外套を着せてくれる。


「いってらっしゃいませ」


 メイドに見送られて外に出れば、外はまだ肌寒い空気だった。


 春先になったとはいえ、雲間から薄くわずかな日差しが差し込むような天気では春めいた暖かさなど感じられない。

 けれどもその冷たさが今のレオニスにはちょうどよかった。

 冴えざえとした冷たい空気を肺腑に染み入らせるように吸い込んで、ゆっくりと歩を進める。


 考えるのはもちろんエナのこと。

 彼女と出会った一年が悪いものではなかったからこそ、彼女の話を聞いて、この先のことを思い悩むことになった。


「…………“家族”」


 口の中でその言葉を転がす。

 その存在を意識したことはないが、思えば自分は“家族”というものには恵まれていた方だ。


 確かに血の繋がった母とは幼い頃に別れ、妹とも死別した。

 けれども孤児院には自分と同じ仲間が、兄弟姉妹になり得る存在がたくさんいた。

 ひょんなことから養父を得た。

 そしてルルという大切な娘を得た。


 関係性の濃淡はもちろんある。けれどもエナのように“家族”と“家族同然”の言葉の意識をしたことはなかった。


 対してエナはどうだったのか。

 母は早くに死に、実の父は早々に愛人親子を迎え入れて彼女を家族の輪から追いやった。


 以来、閉じ込められた彼女は前世の記憶を慰めに孤独に生きた。


 ああ、だからこそ“家族が欲しい”なのか。

 実父たちから解放されてようやく繋がりを得られるようになったとはいえ、彼女が得た関係性はまだ新しいものばかりで血よりも濃いと言えるものがない。


 だからこそ自分の子供を欲しいと思ったのだろう。

 けれどもそれを得るために濃い関係を築かねばならないと薄々察したのが彼女のジレンマだった。


「ーー…………」


 腑に落ちて、けれどもレオニスは足を止める。


 だから、どうするのか。

 彼女の問題を、自分がどうしようというのか。

 彼女自身がどう解決したいのかと頭を巡らせて、でも彼女の口から結局どうしたいのかも聞けてないことを思い出して視線を落とす。


 何が『私はプラナリアになりたい』だ。

 意味のわからない結論だけ残していきやがって。


 込み上げる苛立ちにため息を吐いて改めて歩き出す。


 大体、こんなにも彼女のことで頭を悩ませている自分がおかしいのだ。

 本来の自分ならばいくつかの解決策だけ想定しておいて、あとは彼女がこうしたいと言うのを待っていたはずだ。


 だってそれは彼女の問題なのだから。


 春に乗り遅れた冷たい風が頬を撫でる。

 思ったよりもひやりと冷えた風の温度に首が竦む。

 同時に頭も少し冷えて、小さくため息を落とした。


 “同然”じゃない家族が欲しいという言葉がまだ胸に突き立っている。

 その突き立ってしまった理由を自分の中に探れば、その答え自体はとても単純なことだとすでに理解はしていた。


 足を止める。

 目の前に広がるのはたくさんの店が立ち並ぶ繁華街だった。


 悩んでいるくせに無意識ではしっかりと自分のやるべきことを決めていたらしい。

 それでも何度も何度も考えてしまうのは、それだけ自分にとって重大なことなのだろう。


「……………こんなにためらうのは、詐欺を働いた時以来だな」


 レオニスは自嘲するように喉を鳴らして笑い、繁華街へと足を踏み入れた。

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