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と、その時、会場を流れている音楽が止まる。
音楽が一区切りして、ダンスホールへと人が集まりだす。
「ちょうどダンスの時間になったようですね」
「おや、では行こうか、マリアナ。レオニスも今回はさすがに練習してきただろう? 貴族の夫になったんだから」
話を逸らすようにダンスへと水を向けたレオニスにエルンストはそうやって意地悪に笑んだ。
レオニスがエナを振り返る。
行けるか、と問うような視線にエナは困ってただただ曖昧に微笑んだ。
練習はした。何せ今回の夜会は舞踏会だ。
レオニスが手配してくれた教師や練習に付き合ってくれたムーンランド子爵の足を何度も踏んで、今日という日に備えて練習してきたが、仕事で忙しかったレオニスと踊るのは今日が初めてだ。
カフェテラスでのマリーナとの会話がチラついて平常心で踊れるかは怪しい。
「多分、私、足を踏むかも……」
レオニスにだけ聞こえる声で囁く。
だがレオニスは小さくため息をつき、
「別にそのくらい構わない」
そう返答をよこして、エナを連れ立ってダンスホールへと向かう。
慌てたのは連れられたエナだ。
表情が取り繕えなくなって戸惑うように眉尻を下げたエナとダンスホールで向かい合ったレオニスは改めてエナにこう囁く。
「初めに言っておくが、俺もダンスは得意じゃない」
「意外な告白」
「当然だろう。俺の生まれは貧しい孤児で、つい数年前に男爵位を授かっただけの男だ。ダンスだなんて、君を娶るまで自分がすることになるなんて思わなかった」
言いながら、レオニスはエナの手を取り、手を取った方とは逆の手で寄り添うように背中に手を回す。
軽く密着するような姿勢に触れられた背中が軽く竦む。
けれどもいつまでも竦んでいるわけにはいかず、エナもおずおずとレオニスの腕に自分の腕を重ねるようにして彼の肩口に手を置いた。
緊張でレオニスの顔を見れず、彼のきちっと詰まった襟元に視線を向ける。
「……何が言いたいかというと、今日のダンスの失敗はすべて俺になすればいい」
けれどもその一言で思わず呆けてレオニスの顔を見上げた。
いつもの涼やかな表情がそこにある。
「リードが下手だったから、と思えば足を踏んだとて少し気は楽になるだろう」
「それでも気は使いますよ、足踏むって」
「そうでもないさ。非情な夫の足を踏むくらい、嫌がらせにしてもささやかだ」
「非情……?」
音楽がゆっくりと流れ出す。
その音に合わせるようにダンスホールに集った紳士淑女が体を揺らすようにステップを踏み、レオニスとエナも倣ってゆっくりとステップを踏む。
「君に何もさせないと言った最初の契約を違えている」
「おお……うーん……判定の難しいところを」
「君に娘の存在を隠していた」
「あー……」
「一番難しい問題を君に丸投げしている」
その言葉にエナは頷くこともできずにただレオニスを見上げた。
レオニスは表情も変えず、エナを見つめ返している。
それって、とエナが口を開きかけたところでふとリードに引っ張られて前に踏み込んだ足が固い革靴を踏んだ。
「ヒェッ」
思わず足を引こうとして重心が崩れる。
尻餅をつくと焦った瞬間、グイと背中を支える腕がエナの体を引き戻す。
おかげで転ばずに済んだものの彼の胸にぽすりと飛び込む形になって、エナは固まった。
「大丈夫か?」
上から降ってくる声に油の切れたブリキのようにエナはぎこちなくそちらに顔を向ける。
端正な顔立ちがエナを間近で見つめているのを直視して、エナはホールの真ん中で「いや無理!」と悲鳴を上げる羽目になったのだった。




