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ガラガラと車輪がものすごい勢いで回る音がする。
時折ガタンッと大きく揺さぶられて、エナはハッと目を覚ました。
頭がズキズキと痛んでいる。コブができたような痛みに、エナは何度かぎゅうと瞬きをして自分が殴られたことを思い出した。
同時に警備員が撃たれ、続けてレオニスが撃たれたことも思い出して血の気が引く。
慌てて周りを見渡す。
見慣れた馬車の内装はベルトゥリー伯爵家の馬車だった。
襲撃がなければレオニスが乗って出発しようとしていた馬車に放り込まれていることを知り、御者台の窓を見上げる。
「っ……!」
そこからちらりと見えた人影は間違いなくあのフードを被った襲撃犯で、エナはすんでのところで口元を押さえ込んで悲鳴を飲み込んだ。
多分、状況的に自分は誘拐されている。
何故? 一体どうして?
疑問は尽きないけれども、それ以上にレオニスたちの無事が心配になった。
自分が気絶させられた後、どうなったのか。
レオニスは、撃たれた警備兵や使用人たちは無事なのか。
まぶたを閉じるとあの時の光景が目に焼きついたように蘇って体が震える。
身近な人が撃たれるなど、今世はもちろん前世だって経験したことはなかったのだ。平和ボケした国、元日本人としてものすごくキツい。
いや、他人の心配をしている場合ではない。
誘拐されている自分だって同じくらいに危ない。
相手はためらいなく人を撃てるような人間だし、このまま無事に帰してもらえるとは到底思えない。
そればかりか自分の身柄を人質に何かを要求され、自分の身内がひどい不利益をふっかけられるかもしれないのだ。
エナはそこまで考えると震える体を叱咤して逃げ道を探す。
幸い自分のよく知る馬車だ。
扉には鍵がついていないことは承知だし、向こうも扉をわざわざ外から無理矢理に閉鎖しなかったようだ。扉をそっと押せばそのままかすかに開く。
思えば自分も手足を縛られたりはしておらず、ただ車内に転がされていただけだ。
そう考えると襲撃犯には時間がなかったのかもしれない。
エナを縛る時間を取る間もなくあの場を脱したというのなら警備員とレオニスの他は誰も怪我をしなかったかもしれないし、撃たれたが意識ははっきりしていたレオニスもすぐに使用人に助けられて無事かもしれない。
ほんのりと希望が滲めば、怖くとも誰かが助けに来てくれるかもしれないと気持ちに少しだけ余裕ができた。
それでもほんのわずかではあるのだが。
エナはそっと窓の外を見る。
流れる景色は大体少し早いくらいの自転車の速度と同じか。
時速六十キロで走る自動車よりはずっと遅い。
そりゃそうだ。馬車を引いているのは生き物なのだから。重りをつけて走れる速度には限界があるだろう。
地面までの距離はやや離れているが、それでも飛び降りて死ぬほどの速度ではない。と思う。
「ーーよし」
覚悟を決めたエナはひと思いに扉を開け放ち、そこから外に飛び出した。
地面に膝から転び、無様にべしゃりと転がることになったが、幸い怪我はすり傷だけで済んだ。
「ーー……!!」
エナが飛び降りたことに襲撃犯が気づく。
だが走っている馬車は急に止まれない。
エナはヨタヨタと慌てて立ち上がると馬車とは反対の方向へと走り出す。
恐怖もあるが、普段運動に慣れない体が早速悲鳴を上げる。
でも足を止めることはできなくて、エナは必死に逃げる。
誰か、誰か早く助けに来て。
祈りながら懸命に走る。
だがヒイヒイと言いながら走る後ろで高らかな発砲音が響き、驚いて足がもつれた。
「あう……っ!」
走る勢いを殺せずにそのまま転ぶ。
またも盛大に膝を擦ったが、痛む膝を気にするよりも慌てて身を起こして後ろを振り返れば、
「……まったく、とんだじゃじゃ馬だ」
フードの男が細く煙の立ち上る拳銃を手に、エナに一歩一歩近づくところだった。
下から見上げる形になって、フードの下の顔が見える。
見たことのある顔。最近ベルトゥリー伯爵邸に乗り込んできたバルミューダの側仕えの男だ。
名前は確かギルバート。
エナは立ち上がる時間も惜しくて、地面を蹴るようにして這いずってギルバートから距離を取る。
その足元に銃弾が撃ち込まれた。
ひゅ、と銃弾が飛来する風が足先を掠めてエナは体がすくんで動けなくなる。




