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ムーンランド子爵にとってエミリア・ベルトゥリーという女性は歳の離れた妹のようなものだった。
父親に連れられて本家の娘だった彼女と出会ったのは彼女が十代にもならなかった頃。
明るく朗らかで素直な娘だった彼女はとてもお転婆で、ムーンランド子爵を振り回すことも多かった。
けれども彼女は成長するにつれてベルトゥリー伯爵から領民を思う気持ちを受け継ぎ、次期領主として抱えることになる領地を良くしていこうと懸命に学ぶ努力家なところも見せた。
そんな真っ直ぐな彼女を主として支えられることはムーンランド子爵にとって誇らしいことでもあった。
穏やかで平和なベルトゥリー伯爵領の治世の雲行きがほんのり怪しくなってきたのは、彼女が成人して婿を取った時。
近隣領のテイルロード子爵家から年頃が合うと婿に迎えられたデーニッツという男はどうにも要領を得ない男だった。
ムーンランド子爵は彼の存在にほんの少し不安を感じたものの、エミリアは「私が領主だからいいのよ」と能力がないことを問題にはしなかった。ちょっとダメなところもあるのが可愛いらしい。
そういう男を甘やかすエミリアの気質をムーンランド子爵は懸念したが、ムーンランド子爵の心配とは裏腹に日々は恙なく過ぎていき、やがてほどなくエミリアは懐妊して一人の娘を産んだ。
それがエナ。
難産の末に産んだ娘を抱えたエミリアはとても幸せに笑み、母親の顔をしていた。
彼女はエナを愛し、とかく大事に育てた。
その日々のことをムーンランド子爵は今でも昨日のことのように思い出せる。
乳母としてムーンランド子爵の妻もベルトゥリー伯爵邸に詰め、エナは自分達夫妻にとってももうひとりの娘になった。
この領主親子をずっと支え、守っていくのだ。改めてそう誓った。
だが、その誓いはいとも容易く果たされなくなった。
エナが五つになった頃、エミリアの父が流行病で命を落とし、さらにはその二年後に同じ病でエミリアが命を落としてしまってから、入婿だったデーニッツが大きな顔をするようになった。
入婿の分際で囲っていた愛人とその連れ子をベルトゥリー伯爵邸に連れ込み、エナの後見人という立場を使って好き放題するようになった。
無論、分家としてムーンランド子爵はデーニッツに再三に渡って抗議した。
しかしそれがいけなかった。
デーニッツはムーンランド子爵を毛嫌いし、ムーンランド子爵を遠ざけた。
特にベルトゥリー伯爵の正当後継者であるエナにはまるで会わせてもらえなくなり、彼女の安否も確認できなくなる始末。
デーニッツと共に甘い汁を吸っているのか、テイルロード子爵家は息子の暴虐を見て見ぬ振りをして何も言わない。
エナを心配し、彼女のために何か手を打ちたくともムーンランド子爵はほどなくデーニッツらが好き勝手散財して困窮するベルトゥリー伯爵領を守るべく奔走する羽目に陥った。
もっと自分が上手くやっていれば。
デーニッツがエミリアの婿になった時の懸念を見過ごさなければ。
ほぞを噛む日々を約十年ほども過ごし、やがてムーンランド子爵はひとりの青年と出会う。
レオニス・ウィスタリア。
事業拡大に伴う原料の綿花の買い付けにベルトゥリー伯爵領を訪れた新進気鋭の若き実業家。
彼はベルトゥリー伯爵領の困窮を知るや、すぐに領内に紡績工場を作って雇用を生み出し、そして今まで彼の商会で拓いてきた販路を使ってベルトゥリー伯爵領産の織物をどんどん売ってくれた。
おかげでベルトゥリー伯爵領は何とか少しは持ち直すことができた。
それでもベルトゥリー伯爵領を蝕む癌が消えたわけではなく、いつまでも苦しいままだった。
それを疑問に思って問うてきたレオニスに恥を忍んでデーニッツのことを打ち明けた。
その頃の彼はまさにベルトゥリー伯爵領の救世主だったからだ。
ムーンランド子爵から事情を聞いたレオニスはエナを娶ってよいかとムーンランド子爵に問いかけた。
彼の提案は彼自身がベルトゥリー伯爵家の正統後継者の婿の座に収まり、後見人の立場をデーニッツから奪って追い落とすこと。
その見返りに彼は領主の権限を使って、ベルトゥリー伯爵領で新規事業を始める権利を欲した。
ムーンランド子爵は迷った。
不遇な生活を強いられたエナに完全なる政略結婚を強いることは果たして彼女の幸せに繋がるのか。
けれどもこのままデーニッツの下にいてはエナは決して幸せになれないことは明白だ。
だからムーンランド子爵はレオニスにエナの幸福と自由を誓約させ、彼をデーニッツへと紹介した。
そこからはとんとん拍子に事態は好転した。
デーニッツの下からエナは救い出され、レオニスの庇護下で療養して少しずつ健康になった。
デーニッツとその愛人親子は追い落とされてベルトゥリー伯爵邸を出て、今までの罪を暴かれて労役に服することになった。
贅を貪るばかりで何もしない癌が取り除かれれば領の収支もあっという間にプラスとなった。
そして療養を終え、結婚式を経て、エナはようやくベルトゥリー伯爵領へと戻ってきた。
あの時の感動を何と言い表せば良いのか。
王都の荘厳な教会でバージンロードを歩むエナはそれはそれはとても美しく、引きずるほどに後ろの裾が長いウェディングドレスを着ても倒れることなく自分の足でレオニスの隣をしっかりと歩いていた。
ベルトゥリー伯爵領に戻ってきた彼女と話ができた時、彼女は見知らぬ親戚と話す緊張はあれどレオニスとの生活には何ひとつ不遇を感じてはいないようだった。
だからこそムーンランド子爵はレオニスのことを誠実な男として信頼し、認めていたのだ。
そんなレオニスに振って沸いた愛人疑惑。
ムーンランド子爵もその噂を聞いた時、耳を疑ったし信じられなかった。
成り上がった若き実業家のやっかみや彼の名声にあやかろうとする虚偽ではないかと当初は思った。
けれども次から次にやけに詳細な話が流れてくるので、まさかまさかと思いながらも調査をすることにした。
嘘であってほしい。これは自分の杞憂だったのだと安心させてほしい。
だがそんなムーンランド子爵の願いとは裏腹に、レオニスには確かにもうひとつの家庭があることを知ってしまった。
「ーーこれは一体どういうことか説明していただけますか、レオニス・ウィスタリア」
応対した彼の愛人だろう女性を押し除けて小さな一軒家に踏み込めば、レオニスは小さなベッドで眠る幼い子供の額の汗を濡らしたタオルで拭った後、静かにムーンランド子爵へと振り返った。
その表情は険しく、厳しい。
「……どうか場所を変える事をお許しください。ここには病気の子供がいますので」
その声は静かで、断罪を受ける覚悟の滲むものだった。




