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 お母さんーーエミリア・ベルトゥリーという人のことで覚えていることはあまりにも少ない。


 彼女はエナ・ベルトゥリーという娘を愛してくれていたことは確かだとは思う。


 忙しいから入ってはダメだと言われていた執務室に行けば、彼女はいつも困ったように笑ってエナを抱きしめた。

 時間が空けば必ずエナと過ごしてくれて、人形遊びに付き合って、絵本を読み聞かせてくれた。

 怖い夢を見たと泣けば一緒のベッドで眠ってくれて、翌朝エナを抱きしめたまま「娘ともう少し寝るのぉ〜」と起こしにきた使用人相手に駄々をこねるような茶目っ気もあった。


 多分、あの人は世間一般的なワーキングマザーだった。


 そんなことを客観的に考えて、そんな他人事みたいに思っている自分にほんのりと厭気が差した。


 虐待者だったデーニッツと違い、エミリアのことはエナにとって唯一の肉親と思える存在だ。そういう存在のはずだろうに。

 自分がエミリア・ベルトゥリーの娘のエナ・ベルトゥリーでもあるというのなら、こうやって淡々と彼女のことを思い出すことしかできないのは薄情すぎやしないだろうか。


「お待たせいたしました、エナお嬢様。申し訳ありません、花の手配に時間がかかってしまいまして」


 そうぼーっと考えていると、やがて待ち人が現れた。

 パリッとした礼服の紳士は相変わらずす、と背が伸びて上品なのに雰囲気は柔らかい。


「いえ、大丈夫です。お花、ありがとうございます。本当は私が手配するべきだったのに」

「どうぞお構いなく。健やかなお嬢様がお見えになるだけでエミリア様はお喜びになるでしょうから」


 そう告げるムーンランド子爵の手元の花束に目を向けたエナは意外な花束に目を丸くする。


 大輪の百合を幾重も集めた大きな花束だ。

 墓参りにはあまり見ない。


 エナが不思議そうに花束を見つめていると、ムーンランド子爵が花束を軽く持ち上げて苦笑した。


「エミリア様が生前お好きだったのです」

「百合の花を?」

「ええ、清楚で麗しいのに謙虚に頭を垂れている姿が淑やかで良い、と。自分にないものだから憧れだと仰っておりました」

「自分にないって」

「エミリア様はそれはそれはお転婆でございましたから」


 思わず小さく吹き出したエナにムーンランド子爵も目元のシワを深く刻んで笑い返す。


「……お母さんは、そういう人だったんですね」


 そういう人なのだと、知らなかった。


 それとも前世の記憶が流れ込んできた時に記憶の彼方に追いやって忘れてしまったのか。

 今の自分には判別がつかない。


 寂しそうに笑んだエナをムーンランド子爵が痛ましそうに見つめ、それからその背を軽く押して促す。


「エミリア様はエナお嬢様のことを至極愛しておいででした。いつもあなた様を気にかけておりましたよ」

「そうなんですね」


 慰めるように告げるムーンランド子爵に相槌を打ちながら、エナは促されるままに足を進める。


 墓石が立ち並ぶ霊園をゆっくりと進みながら、思い返すことは家族のこと。


 この世界の家族のことではない。前世の鈴木恵那の家族のことだ。

 記憶が蘇ってからのエナはずっとそちらばかりが家族という感覚があった。この世界にはいないのに。


 でもこの世界で自分を産み落とした母親(エミリア)よりも鈴木恵那の記憶にある家族の方が家族としてより身近に接してきた記憶がある。


 父親はごく普通のサラリーマン。朝に出かけて夜に帰ってくる生活で、土日の休みには趣味の草野球に出かけていた。

 少し昔ながらの気質があってムッツリと無口な方ではあったが、案外甘いものが大好きで母や娘に買ってきた体を装って自分の好きなコンビニスイーツを買ってきた。


 母親は専業主婦。家のことを一手に担う縁の下の力持ちで、一家の要だった。

 花を育てるのが趣味でマンションのベランダの一画に自分だけのガーデニングスポットを作り上げていた。好きな花はチューリップで、毎年秋ごろになると次の春に咲かせるチューリップの色を楽しそうに悩んでいた。


 鈴木恵那は二十歳半ばを過ぎた頃からそんな両親の元から巣立って独り暮らしをしていたが、一シーズンに一、二回は実家に帰るほど仲は良好だった。

 だから鈴木恵那の記憶が蘇って、その後のドアマットのように踏み躙られる生活の中で思い出すのはずっと鈴木恵那の家族のことばかり。あの頃に帰りたいと恋しがるのもそちらの親の方ばかりだった。


 そのはずだったのに。


「…… ……………」


 いざ自分の母親の、エミリア・ベルトゥリーの名前が彫られた墓石を前にするとベルトゥリー伯爵領のカントリーハウスに踏み入れた時のような不可思議な気持ちが込み上げてきた。


 彼女の葬式のことを思い出そうと試みる。

 あの時の天気は晴れだったか。小雨が降っていたか。

 そんなこともまるで思い出せないし、土を被せられて埋葬される棺桶も見ていたはずなのにそれがどこか遠くて現実感がなく思う。


 あの日に覚えていることは、あのカントリーハウスに帰り着いた瞬間に見知らぬ女と少年が出迎えて、父親のデーニッツからその二人が今日から継母と義弟になることを説明されたことばかりだ。


 あの時の感情も今は曖昧だ。


 苦しかったのか。悲しかったのか。憤ったのか。

 どんな感情があの瞬間に込み上げたのかも覚えてないが、ただわかるのは途方もなくショックで、それがきっかけで前世の鈴木恵那の記憶が蘇ってエナ・ベルトゥリーが遠くに追いやられたことだけ。


 ムーンランド子爵が百合の花束をエナにそっと手渡す。


 だからエナは手渡された花束をそっと墓前に備えると、帽子を胸に当てて祈りを捧げるムーンランド子爵に倣って手を組んでエミリアの冥福を祈る。


『スズキエナという記憶が蘇ったからとて、その前のエナ・ベルトゥリーの体験が消えたわけじゃないんだろう? どちらも根付いているのが今の君だ。どちらが欠けていても今の君にはなり得ない』


 エミリアのこと。前世の両親のこと。

 込み上げる感情に心がぐちゃぐちゃにかき乱される最中にレオニスの言葉がよぎった。


 エミリアのことを考えると込み上げる感情も自分のものなのかな、と思ったら涙が滑り落ちた。


「おかあ、さん……」


 嗚咽がこぼれる。

 エミリアが亡くなったあの日の感情が今頃になって襲いかかってきたような気がした。


 ムーンランド子爵が背中をさすってくれる。

 その手の優しさにエナはその場で崩れ落ちて泣いた。ただひたすらに泣き喚いた。

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