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「……………眠れないのか」
ふと無言の時間を裂いて口を開いたのはレオニスの方だ。
急に問いかけたレオニスにエナは半分ほど残っている茶で唇を湿らすように一口ちびりと茶をすすってから、レオニスの方を見つめた。
いつもの底抜けに明るい女の顔ではなく、話すべきか惑うような不安げな表情をした少女の顔をしていた。
「大したことではないんですけど」
エナがそう前置きで切り出した。
「…………ここに帰ってくるんだと思わなくて。別に“嫌だなあ”とか“帰ってきたくなかった”とか、そういうのではないんですけれど」
つっかえつっかえ。言葉のひとつひとつを探すようにエナは言う。
「……私の部屋だってもらった部屋、お母さんの部屋だったんです」
言われて、レオニスはああと頷いた。
エナに当てがった部屋は一般的に女主人に当てがわれる場所だ。
それならばエナの母が存命だった頃に使っていてもおかしくはない。
「あの部屋、お母さんが亡くなった時に継母のものになって、全然別の部屋に改装されました。その時に“ああ、お母さんが生きてた頃の痕跡が消されちゃったな”って思ったんですよ。でもその頃とも全然違う内装に変えられてるの見たら、不思議とお母さんのこと思い出しちゃって。生きてた頃のお母さんの部屋と雰囲気は全然違うんですよ。お母さんの部屋はもっとこう……暖色系でもう少し可愛らしくしてたっていうか。歳の割に乙女チックなものが好きだったんで」
レオニスは口を挟まずに目線の動きだけで話の続きを促す。
「……ムーンランド子爵からお母さんの話が出た時も、なんでか戸惑いました。私の晴れ姿を見せてあげたかったなあって言われて、なんだか……なんて言えばいいのかわからない気持ちが込み上げました」
整理のつかない気持ちをつたなく吐くエナが深く息をつく。
「……なんだろう。なんて言えばいいんだろう。レオニス様にはお話ししたことありましたよね。お母さんが死んですぐ父が継母と義弟を連れ込んだショックで前世の記憶を蘇らせたこと」
「ああ」
「あの時に……私、幼い子供のエナ・ベルトゥリーから前世のアラサー喪女の鈴木恵那になったんです。だからこう、家族に対しても他人事みたいな……お母さんの死も、父や継母たちが虐げてくるのも悲しいしムカつくことだったけれど、私のものじゃなかったんです。子供だったエナ・ベルトゥリーと前世の鈴木恵那は別人で、だから」
と、エナは言葉を詰まらせて唇を噛んだ。
「………エナ・ベルトゥリーはいないはずなのに」
エナは苦しそうに呟き、自身の胸の辺りをぎゅうと掴む。
荒れ狂う感情を堪えるような表情に、レオニスはただ無言で茶を一口する。
「……エナ・ベルトゥリーはもういない。ここにいるエナは別の人間か」
エナの言葉を繰り返すように呟けば、エナが顔を上げてレオニスを見つめた。
エナの揺れる瞳を見返してレオニスは続ける。
「果たしてそうか? 俺から見ればすべてが地続きの君にしか見えない」
「………え」
「スズキエナという記憶が蘇ったからとて、その前のエナ・ベルトゥリーの体験が消えたわけじゃないんだろう? どちらも根付いているのが今の君だ。どちらが欠けていても今の君にはなり得ない。エナ・ベルトゥリーからスズキエナになった、と思ったのは記憶の比重が子供と大人の間で偏っていたから……あるいは君自身が自分の心を守ろうとして、そう思い込もうとしたから」
レオニスがいた孤児院でもそういう子はいた。
辛く過酷な環境で生き延びるために感情を麻痺させた子もいれば、過去への否定を重ねて昔の自分自身と決別したがった子。稀に自分自身を守るために内側に二つ、三つと人格を宿してしまう子もいた。
「どちらにしても君が母親に対して何か思うことを無理に“自分のものではない”と切り離し、距離を取ろうすることはおすすめしない。それはきっと、逃げ回ったところで君について回るものだ」
エナが視線を落とす。
ティーカップのふちをなぞる指先は落ち着きがなく、彼女の心の動きを示しているようだった。
「幸い、今の君には落ち着いた時間が取れる環境があり、君を慕う人間もいる。それがなんなのか考えたり、相談したり、見つめ直すことはゆっくりできる。その感情にどうしようもなくなれば、気を晴らすための財もある。この場所をどうしても離れたければ王都の邸に戻ることもできる。好きなだけ落ち込めばいいし、みっともなく喚いて当たり散らせばいいし、塞ぎ込んでもいい」
「…………それで立ち直れなかったらどうなるんです?」
「別に何も。どうもならない。少なくとも俺は君を妻として必要とはしているし、だから使用人も君の世話をする。当面、生活に困るようなことにはならないだろう」
「俺が慰めるじゃなくて、使用人が世話をするって言っちゃうのがレオニス様ですよね」
「俺は君を情やらで妻として迎えたわけじゃあないからな。君の心のケアまでは請け負えない」
そうはっきりと告げれば、エナが小さく吹き出した。
「そういうことはっきり言っちゃう辺りサイテー。イケメンの風上にも置けない」
「なんだ、物語のヒーローのように手を差し伸べろと? 悪いがそういうことは他に頼め。俺は君だけに構っていられるほど暇ではないんだ」
「だからそういうところですよ」
ケトケトと笑うエナに重ねて言葉を告げれば、彼女もそう言葉を重ねてくる。
そうして彼女はひとしきり笑うと、空になったティーカップをそっと水桶に落とした。
「…………ありがとうございます、レオニス様。ごちそうさまでした」
「ああ」
「ここ、私が片付けておくので、レオニス様はもうお休みください」
と、エナが手を差し出すので、レオニスは少し逡巡した後にエナの手にティーカップを渡した。
「エナ」
「はい」
「おまじないは必要か?」
「おまじない……? あ」
レオニスの問いにエナが首を傾げかけ、それから思い当たったように声をあげる。
そうして彼女は迷うように沈黙した後、困ったように笑ってこう告げた。
「…………いただけるなら、ぜひ」




