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「ああ、旦那様」


 春うららの陽気が過ぎ去り、少しずつ日差しが強くなる初夏。


 馬車から自分の商会前に降り立ったレオニスはウィスタリア男爵邸の使いと鉢合わせた。

 彼は家令から託された封筒を手にしている。


 おそらくそれを届けに来たのだろう。


「ご苦労。屋敷の方は恙ないか?」

「相変わらずでございます」


 レオニスの問いに彼は苦笑し、レオニスに封筒を差し出した。


 相変わらず。

 その言葉で大体を察する。

 まあ、大事はなかったということだ。


 封筒の中身を改めるように覗けば、新婦側の結婚式の招待客のリストも添付されている。


 コスプレ茶会なるものにエナが赴いたのは確か少し前だったか。

 こうして無事に新婦側の招待客のリストを作るに至れたということは、そちらも特にトラブルなく終われたのだろう。


 と、書類を確かめていると数枚、報告書とは違うものが混じっていることに気がついた。


「おい、マンガの原稿が混じっているぞ」

「え!? あ、本当だ……! これ、奥様の今日締め切りの原稿の一部じゃないですか……! 今日中に届けないと……ああ、でもどうしよう。俺、役所に書類の提出も頼まれていて……」


 レオニスは懐中時計を出し、時間を確認する。


 確かに時間的に出版社に寄ってから役所に行くには役所が閉まる時間に間に合わない。

 役所に行ってから出版社では逆に印刷に間に合わず、原稿が落ちることになるだろう。


「仕方ない。俺が出版社に向かう。君は頼まれた通り役所に向かってくれ」

「旦那様……! お手を煩わせて申し訳ありません……」

「構わない。どうせ今日の午後はちょっとした事務作業しかないからな」


 恐縮して頭を下げる使用人にレオニスは短く答え、原稿を封筒にしまう。

 そうしてレオニスは今し方乗ってきた馬車の御者に行き先を告げ、馬車に乗り込んだ。


 役所で使用人を降ろしてから出版社に辿り着けば、いつも馬車を停める場所に別の馬車が停まっていた。


 その馬車に刻印された家紋を見て、レオニスはつい怪訝に眉をひそめる。


 アクアヴァリー侯爵家の家紋だ。

 高位貴族が出版社まで乗り込んでくるとは一体何事かと首を捻りながら、レオニスは出版社の門をくぐる。


「だから! マリオンという画家に今すぐ取り次いでほしいんだ……!」


 そうしてそこにいた人物にさらに目を丸くした。


 白銀の髪にすらりとした体躯の若い男性。一際人目を引く麗しい容貌は忘れようとしても忘れられない。


 アクアヴァリー小侯爵だ。


 流行り物が好きなアクアヴァリー侯爵夫人か、アクアヴァリー侯爵家の縁者であるリトルパイン伯爵令嬢か。その辺りを想像していたから、予想外の人物にほんの僅かに面食らった。


「そうおっしゃられても……彼の方にこちらから伺いを立てることはできても、スケジュールが詰まっていると言われてしまったら我々にはどうすることもできず……」

「じゃあいつなら会えるんだ?」

「それは……そのう、スケジュールが調節でき次第、改めて連絡すると」

「だからそれはいつだと……ーー!」

「失礼」


 恐縮して首を竦める受付にさらに怒鳴りつけようとするアクアヴァリー小侯爵の姿にレオニスは割って入る。

 すると受付は救世主が現れたように縋る目を、アクアヴァリー小侯爵は怪訝そうな顔をレオニスに向ける。


「この出版社の責任者のレオニス・ウィスタリアと申します。何かトラブルがあったとお見受けいたしますが、こちらではゆっくりお話もできないでしょう。別室をご案内させていただき、お話を伺わせていただいてもよろしいでしょうか?」


 そう告げると彼は宝石のような蒼い瞳を揺らし、やがて頷いた。

 レオニスはそれを確認してから、使用人から預かってきた原稿を受付に渡してアクアヴァリー小侯爵を出版社の応接間へと案内する。


「ーーでは改めて。コーナリバー出版社の代表取締役レオニス・ウィスタリアと申します。受付では不愉快な思いをさせたことをお詫び申し上げます」

「あ……いや、僕も少し頭に血が昇っていました。すみません」


 別室に移ったことで彼も少々冷静になったのだろうか。

 慇懃に接するレオニスに対して彼もまた頭を下げた。


「僕はアクアヴァリー侯爵家のレスターと申します。本日は急に押しかけたにも関わらず対応していただきありがとうございます」

「いえ、火急を要する件なのでしょう? マンガ作家マリオンに用事があるとお見受けいたしましたが……詳しい話をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「はい。あの……その、恥を晒すようで少々言いにくいのですが……」


 レオニスの問いにアクアヴァリー小侯爵ーーレスターがそう口を開く。

 そうして彼が言葉をつっかえさせながらも語ったのは要約するとこういう内容だった。


 婚約者であるマリーナ・リトルパインが浮気をしているーー


 と、いっても不貞行為があったわけではなく、二人きりで会うなど疑われるような行為を取ったわけでもない。

 だが、けれども彼女がある日を境に恋焦がれる乙女の瞳をするようになり、ふとした瞬間に上の空になり、誰かに心を奪われているような態度をするようになったのだ。


 レスターはそんな彼女に気がついた時、どうしようもないほどに感情が荒れ狂った。


 彼女との婚約は政略だ。

 最初の頃は彼女は自分との婚約を嫌がり、泣いて、無理難題を言っては自分を諦めさせようとした。


 けれどもその我儘も詰めが甘いというか、レスターがしゅんとした顔をすると罪悪感を突かれたような顔をするものだから、自分に意地悪をするのは本意ではないような気がした。

 そんな心が透けるものだから彼女に嫌がられても何度も何度も彼女と接するようにした。


 するとそのうち彼女も絆されてくれたのか少しずつ頑なだった態度を軟化させて微笑んでくれるようになった。

 その笑顔のなんと愛らしいことか。


 そう、政略結婚ではあるものの、レスターはその瞬間にマリーナの虜となっていたのである。


 だからこそレスターは今回、マリーナが誰かに恋したことにショックを受けたのだ。


「それで……マリーナの心を奪った誰かを必死に調べ、二人の名前に行きつきました」

「二人、ですか」

「はい、ひとりはジャック。こちらはどこにでもある名前でいまだにどこの誰かは掴めていません。けれども、もうひとり……ヌルアオという名前がマンガ作家のマリオンと同一人物だとわかりまして」

「ヌルアオ……」


 心当たりのありまくる名前にレオニスは歪みそうになる顔を必死に取り繕った。


 あの女、一体何をしたんだ。


「ーー……お話はわかりました。それでレスター様はマリオンと会い、どうされたいのでしょう?」

「どう……」


 エナのことは一旦置いて、冷静に問うレオニスにレスターが虚を突かれたように口ごもった。


 レオニスがじっと彼の蒼い瞳を見据えれば、彼は「あ……」だの「えっと……」だのと落ち着きなく視線を彷徨わせた後、その視線を落とした。


「……彼にマリーナとの関係を問い詰めて……それで、その……」


 出版社の受付で怒鳴りつけていた勢いはもうない。

 彼は完全にしどろもどろになって、落ち着きなくそわそわとしている。


 その様子からレオニスは彼が恋した少女の心を奪われた怒りの衝動だけで行動していたのだろうと察した。


 確かレスターはまだ未成年の十代後半の若者だったか。

 若者にはままある衝動的な行動に生暖かい気持ちになりつつ、レオニスはこう口を開く。


「……まあ、好いた方の心を奪われたら冷静ではいられなくなりますよね」

「…………はい」


 レオニスの言葉に彼は恥ずかしそうに頷く。


「お話はわかりました。こちらからレスター様とマリオンがお話しできるよう、アポイントメントを取ってみましょう。とはいえ、彼も気難しい作家ですので……必ずとお約束できないのが心苦しいのですが」

「い、いえ! こちらこそすみません。こんなことで手を煩わせるようなことになってしまって……」

「いいえ、この程度お構いなく。マリオンと連絡がつき次第、またレスター様にご連絡いたしますね」

「すみません。よろしくお願いします」


 レオニスの言葉にレスターが頭を下げる。

 そんな彼を見つめながら、レオニスは帰ったらどうエナを問い詰めようかとそればかりを考えていた。

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