膜の向こう側
夜が来た。エアコンなしの最後の晩だ。ネカフェかビジホにでも行くつもりだった私は、早見さんの「もう大丈夫だから」との誘いに、結局甘えることにしたのだった。
訪れた部屋で見た早見さんは、明らかに疲れ切っていた。
「無視すればいいんじゃないですか?」
「しようと努めてるわ、できるものならね」
早見さんの話によると、幽霊はそこかしこにいるらしかった。早見さんは幽霊側から認知されないよう、最善を尽くしていた。
「見える人を探してるのよ。要望を通すために」
「見える人」だと気づかれたなら最後、向こうからの猛烈なアプローチが始まるのだそうだ。
「感知してもらわないことには、言いたいことも伝わらないでしょう?」
なるほど、未練があって幽霊になっているのだ、目的を果たせなくては成仏もできない。誰も存在に気づいてくれなければ、言いたいことすら伝わらない。そこに存在を認識してくれる人が現れたのなら、チャンス到来とばかりにコンタクトを試みてこられることは想像に難くない。
「気づいてることに気づかれたなら、対処しないわけにはいかなくなる」
だから早見さんは絶対に存在を知られたくないのだと言った。なるべく気配を消し、世の中と接点を持たぬようにふるまっていた結果が、早見さんの地に足がついていないようなたたずまいだったのだろう。何があっても反応するなと強く私に命じたのも、気づいているということを、幽霊側に気づかれるのを避けたいがためだったのだ。
一通りの説明を聞きながらも、浮かんだ疑問を私はぶつける。
「どうしてわかるの?」
「わかる?」
「その、幽霊がいること」
早見さんは小さなため息をついた。
「どうしてわからないのか、こっちが聞きたいわ。ローソンが、シートを外せばファミマになってたことはわかるくせに」
「だってあれは一目瞭然」
そこまで言って私ははっとする。早見さんがそれを、同じレベルで感知するのだとしたら。つまり、私がローソンやファミマを認識するように、早見さんの生きる世界では、幽霊も人間と同じように認識できる存在なのだとしたら。
目に見える、耳で聞こえる、私たちはわかりやすい、確かなものだけを現実だとみなしがちだ。その場所に行くとなんとなく嫌な感じがしたり、初対面の人でもなんだか懐かしく感じたりする、そういうことは、程度の差こそあれ誰にでもあるはずだった。それでも五感で感じることの中、他者とも共有できる、明らかなものだけを、この世のリアルだと採用するのだ。
早見さんのリアルを想像しようとして、私は昨夜の出来事を思い出す。うるさくて、臭くて、寒くて暑くて、たまったものではなかった。
「めちゃくちゃ迷惑じゃないですか、幽霊だからって、何してもいいって訳じゃないでしょう?」
「本人にはそのつもりはないもの。幽霊らしく、おとなしく身を潜めてるつもりなのよ」
あれのどこがおとなしいのだ、私は半ば呆れる。
「だけど莉紗ちゃんだって、今まで気づいていなかったじゃない」
確かに、早見さんの部屋から匂いや大きな音がしたことなどこれまでなかった。私が認知しない限り、幽霊にできることは何もなく、現実には何も起こっていないのと同じなのだ。
「だいたい人間だった時には我慢してたりするの。制限があるからね。みんな好きにしていいのよ」
諦めなどではない、許容以外に道はないと達観したかのように、ごく淡々と早見さんは言った。
「まなみも」
私は尋ねる。
「我慢してたんです? 思い残すことがあった?」
「さっきも説明したけど、感じ方は受け取り手次第なのよ。だから莉紗ちゃんがどういう形でまなみちゃんを見たのか私にはわからないけど」
私が頷き、先を促すと早見さんは続けた。
「莉紗ちゃんが感知するほどには抱えたものがあった、ってことでしょ」
「成仏させたんですか?」
早見さんは首を横に振った。
「霊能者じゃないもの。除霊とか、鎮魂とか、そういうの、やり方もわからない」
「じゃあどうするんです?」
「ただ相手するの。思いを汲み取って、不快を取り除いて、少しでもこの世で邪魔にならない存在――人間にとってね、できれば心地よい存在になるように」
「まなみはやっぱり未練があった?」
「そりゃあ莉紗ちゃんくらいの年齢で亡くなって、志半ばじゃなかった人なんてまずいないわ」
「大変じゃないですか?」
私の言葉に早見さんは首を傾げただけだった。
「何と比べて大変? そうじゃないのがわからない。ずっとこうだったから、みんなもそうしてるんだと思ってた」
早見さんについてまわっていた、膜一枚隔てた向こう側にいるような不確かさが、なんとなくわかるような気がした。
「それで早見さん、いつもぼんやりしてるんですね」
「ひとを注意力散漫な、まぬけなうっかり者みたいに言わないで」
「そこまでは言ってません」
私たちは笑う。自然な笑顔をみせるこんな時の早見さんは、ガードを緩めリラックスしているように感じられた。
「そのまま」
思わず私は聞く。
「膜を張らなかったら?」
私の言わんとすることを察して、早見さんは微笑む。
「情報量の多さに、破裂するでしょうね、きっと」
そう言った早見さんの頭が、発射に失敗したロケットよろしく弾け飛ぶ様をありありと想像できた私は、慌てて目を瞑り首を振ったのだった。
その晩私は早見さんの部屋で、ぐっすりと、深い眠りに陥った。二晩寝られなかったことを差し引いても、これまで経験したことがないほどの、甘く、柔らかな、とろけるような安眠だった。早見さんが不快を取り除き、まなみを彼女の言うところの心地よい存在にしたのかもしれないと、夢をみながら私は思う。