お隣の住人
オートロックも宅配ボックスもなければ、モニター付きインターホンもない。むき出しの廊下にドアが並ぶ古い木造アパート、一階角部屋、防犯上女の一人暮らしには不向きだが、駅近なことと家賃の安さに惹かれて入居を決めた。
同じ町内での引越しだったため、鍵をもらってからは自分で運べるものは少しづつ移動させていった。築年数も相まってか、いつ行ってもこのアパートだけ時間が止まっているかのようで、部屋の中も外もひっそりとしていた。私の部屋の横手は二階へ続く鉄骨の外階段になっていて、誰かが上り下りする度部屋の中にまで響いてくるカンカンという賑やかな音だけが、私の他にも住民がいることを知らせる。しかし内見の時からこれまでも誰とも出会わず、話し声が聞こえることもなかった。不動産屋の説明では女性の一人暮らしが多く、治安はよいはずだということだった。
最終の荷物を運び入れた翌日、ゴミを出そうとドアを開けた私は、同じくゴミ出しに出てきた隣人と目が合い、する予定はなかった引越しの挨拶をせざるを得なくなった。
一抹の不安が私を襲う。よろしく、と下げた頭を上げた私の背後を、睨むように見ていた彼女の表情は暗かった。長いストレートのワンレングスの間から白い肌がのぞく。身長はそれほど高くないはずなのに、やけにすらっとした印象がある。幽霊みたいな人だな、というのが私の持った第一印象で、お近づきになりたいとは思わなかった。いずれにせよ私は、ちょっとした住民トラブルで、前のアパートを引き払うことになったのだ。隣人がどんな人であろうと、積極的に近所づきあいをしたいわけでなし、と気持ちを立て直す。
隣人の名前は早見さんといった。私の思惑とは裏腹に、私と彼女は会話を交わすようになった。アパート周辺ならまだしも、隣町の博物館や山を一つ越えた温泉施設など、出会うはずのない場所でまるでお互い約束でもしていたかのように、しょっちゅう鉢合わせになるのだ。
早見さんは何度出会っても私の顔を覚えておらず、毎度私は自己紹介をしなければならなかった。よほど私に興味がないのかといぶかしんだが、私に限ったことではなかった。例えば改修工事に入った近所のローソンが、防塵シートが外されてみればファミマになっていた時も、早見さんは眉ひとつ動かさなかった。アパートの並びにある定食屋のお勧めメニューを聞けば、何が美味しかったかどころではなく、その店に行ったことがあるかどうかさえ覚えていない。駅前の古い旅館が潰れて更地になったことも、私が言い出すまで気づかなかった。
「どうりで空が広いと思った」
そう言ってさもおかしい、とばかりに早見さんは笑うのだった。地に足がついていないような、どこか別の場所で生きているような、そんな気にさせられる。やっぱり幽霊なのかもしれない、と、彼女と接する度私は思うのだった。
「莉紗ちゃん、今日雨降るよ」
出勤時に出会うと、そんな声がけをされるようになった。さすがに顔と名前をしっかり覚えてもらった頃には、本の貸し借りをしたり頂き物のお裾分けをしたり、と、私と早見さんはすっかり仲よくなっていた。年上なのに気を張る必要を感じさせない、行き届いているのに圧のない彼女のふるまいは心地よく、早見さんとのつき合いを私は楽しんだ。