第一章:旅立ちと仲間集め
ノクスは、王宮の広大な庭園を見渡しながら、足音を静かに響かせて歩いていた。背後には、幼い頃からの付き人であり、信頼を寄せる存在であるアイリスがぴったりと歩調を合わせてついてくる。彼女は、黙ってノクスの後ろに立ち続け、何も言わずに彼を見守る。
「アイリス、そろそろ出発だ。」
ノクスが静かに言った。アイリスはその言葉を聞くと、やや驚いた表情を浮かべたが、すぐに頷いた。
「はい、ノクス様。」
彼女の声は、いつも通り優しく、そして落ち着いていた。彼女にとって、ノクスを守ることが使命であり、また自分自身の思いでもあった。どんな時でも彼を支える覚悟は、揺るぎない。
ノクスは、王宮を背にしながら歩き続ける。彼は、ただ王国を支える立場にあったわけではない。呪われた王子として生まれ、右手には恐ろしい力が宿っている。その力が暴走し、何者かを傷つけてしまうことを恐れ、彼は常に心の中で葛藤していた。
だが、今はその呪いを解くため、旅に出るしかない。ノクスの運命はすでに決まっていた。呪いが解けるのは、あの悪魔を倒すことしかない。そして、それがノクスに課された使命だった。
「ノクス様、少しお休みになられては?」
アイリスが提案してきた。彼女は、ノクスが無理をしていないか心配していた。だが、ノクスは微笑んで答える。
「大丈夫だよ、アイリス。今は進むしかないんだ。」
そう言いながら、彼は少しだけ目を細める。その笑顔には、普段の彼に見られる余裕が少しも感じられなかった。アイリスは彼の背中を見つめ、心の中で静かに祈った。この旅が成功し、ノクスが呪いから解放される日が来ることを。
──そして、幾日かの旅路を経て、二人は隣国に近づきつつあった。
隣国は、王国とはまた異なる雰囲気を持つ場所だった。街の中には異国の香りが漂い、商人たちが賑やかに声を上げていた。ノクスとアイリスは、その街並みに少しばかり驚きながらも、次の目的に向かって進んでいた。
「まずは宿を取って、明日から仲間を探しに行こう。」
ノクスが言った。アイリスはうなずき、周囲を見渡して宿を探し始める。旅の途中、ノクスの心の中では常に緊張が漂っていた。仲間を集めることが重要だということを理解していたが、それに伴う責任もまた重くのしかかっていた。
夜、宿に着くと、ノクスは少しだけ安堵の息をついた。しかし、その顔にはまだどこか不安げな表情が浮かんでいる。
「アイリス、少しだけ休もう。」
ノクスは椅子に座り、目を閉じた。アイリスはノクスを見守りながら、少しだけ微笑んだ。
「はい、ノクス様。」
アイリスの声は、どこまでも優しく、穏やかだった。
その夜、ノクスは深く眠ることなく、過去の出来事を思い返していた。自分が暴走して人を傷つけたあの日のこと、家族との断絶、そして何より、自分が呪いを解ける力を持つことに対する恐れ。
そして、彼の心の中にはいつもアイリスの優しさがあった。彼女の静かな支えが、ノクスにとっての唯一の救いであり、また彼の心を少しでも安らげてくれる存在だった。
夜が更け、ノクスとアイリスは宿の部屋に戻った。
長い一日だった。王宮を出て初めて訪れた街。
この先の旅への不安と緊張を抱えながらも、ノクスはどこか落ち着かない気持ちでベッドの端に腰を下ろした。
「ノクス様、お疲れではありませんか?」
アイリスが静かに声をかける。彼女はいつもと変わらず穏やかで、優しいまなざしを向けていた。
「……ああ。でも、まだ実感が湧かないな。これから本当に旅が始まるんだって」
「私も、です」
アイリスは微笑みながら、ノクスの隣に座った。
「ですが、どんな道でもノクス様と一緒なら——私は怖くありません」
彼女の言葉に、ノクスの胸が少しだけ軽くなる。
アイリスは昔から変わらない。幼い頃からずっと、自分がどんなに忌避されても、決して離れなかった。
「アイリスは……怖くないのか? 俺の呪いが、いつ暴走するか分からないのに」
ノクスの問いに、アイリスは小さく首を振ると、静かに彼の手を取った。
「怖くありません。ノクス様はノクス様です。私は、どんなことがあってもおそばにいます」
「……ありがとう、アイリス」
彼女の手は温かかった。
ノクスはそのぬくもりに安心し、目を閉じる。
だが——その静けさを破るかのように、窓の外から異様な気配が漂ってきた。
「……?」
ノクスはすぐに顔を上げる。アイリスもまた、表情を引き締め、剣の柄に手をかけていた。
「ノクス様、何かが——」
次の瞬間、宿の外で悲鳴が上がった。
「——化け物だ!!」
「逃げろ!!」
外から響く叫び声。人々が混乱し、足音が響き渡る。
ノクスはすぐに立ち上がり、窓の外を覗き込む。
暗闇の中、黒い霧のようなものが街の広場を覆っていた。
そして、その中心には——
「……っ! アイリス、行くぞ!」
「はい!」
ノクスは迷うことなく部屋を飛び出した。
ノクスとアイリスが宿を飛び出すと、街の広場はすでに混乱の渦に包まれていた。
「……何だ、あれは?」
ノクスは息をのんだ。
広場の中央に、不気味な黒い霧が渦巻いていた。霧の中から異形の影が蠢き、ゆっくりと形を成していく。
それは人の姿をしていたが、人ではなかった。
全身が闇のような瘴気に包まれ、顔はなく、ただぽっかりと空いた口だけが見える。
宿の窓から悲鳴を上げていた人々はすでに逃げ出し、広場には誰も残っていない。
「……あれは、魔物?」
アイリスが剣を構えながらノクスに問いかける。
ノクスは右手を握りしめた。心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。
——違う。
魔物ではない。
あれは、“呪い”の気配を帯びている。
まるで、自分の右手と同じような……。
「……試すしかないか」
ノクスはゆっくりと前に出た。
「ノクス様!」
アイリスの制止も聞かず、ノクスは右手を掲げる。
「……来い」
その瞬間——黒い霧が一斉に蠢いた。
魔物がノクスに向かって襲いかかる。
次の瞬間、ノクスの右手が灼けるように熱を帯びた。
——ドクンッ
ノクスの心臓が跳ね上がる。
そして、黒い炎が右手から放たれた。
魔物が、灼かれる。
その瞬間——ノクスの頭の中に、“何か”の声が響いた。
『——戻れ、戻れ、戻れ』
——誰かの声。
だが、それは自分自身の声ではなかった。
「っ、う……!」
頭が割れるような痛み。
視界がぐにゃりと歪む。
——だめだ、また暴走する。
「ノクス様!」
その時、アイリスの声が聞こえた。
ノクスは気を失いそうになる意識の中、アイリスがすぐそばに駆け寄るのを感じた。
「ノクス様、大丈夫ですか?」
「……っ、ああ」
「今、何が……?」
「分からない……ただ、あの魔物、俺と同じ“呪い”の気配を感じた」
「ノクス様と……同じ?」
ノクスは唇を噛み締めた。
まるで、自分の呪いが外に現れたかのようだった。
「……この旅、想像以上に厄介になりそうだな」
魔物が消え去り、夜の広場には沈黙が訪れた。
ノクスは荒い息を整えながら、まだ熱を帯びた右手を見つめる。
黒い炎は消えたはずなのに、まだ焼け付くような感覚が残っていた。
「ノクス様、大丈夫ですか?」
アイリスがそっと彼の腕に触れる。
彼女の手は、驚くほど温かかった。
「……ああ、なんとか」
ノクスは頷き、周囲を見渡した。
広場にいた人々はすでに逃げ去っており、静寂の中に、遠くで犬の吠える声だけが聞こえる。
「さっきの魔物……いったい何だったんだ?」
「魔族の仕業かもしれません」
アイリスは慎重な口調で言った。
「でも、普通の魔物とは違いました……まるでノクス様の呪いと関係があるような……」
「……俺もそう思う」
ノクスは右手を握り締める。
呪いの力は、まだ完全に覚醒していない。
しかし、それでも“何か”が動き出しているのは間違いなかった。
「……今は休もう。これ以上ここにいても、また何か出てくるかもしれない」
アイリスは少し迷ったようにノクスを見つめたが、すぐに頷いた。
「はい……宿に戻りましょう」
◇◇◇
宿の部屋に戻ると、ノクスはベッドに腰を下ろした。
夜風が窓から吹き込み、蝋燭の灯がゆらゆらと揺れる。
アイリスは剣を置き、慎重に扉を施錠した。
「今日は……お疲れ様でした」
そう言って、アイリスはノクスの前に膝をついた。
彼の右手を両手で包み込む。
「……アイリス?」
「少し、冷たいですね」
彼女はそう言って、ノクスの右手をそっと撫でた。
彼女の指先は、まるで温もりを分け与えるように優しかった。
「……俺の手なんて、呪われてるんだぞ」
「ノクス様の一部です。呪いだからといって、私にとっては変わりません」
アイリスは穏やかに微笑んだ。
ノクスは、彼女の瞳をじっと見つめる。
アイリスの優しさは、時に残酷だった。
こんなに優しくされると、思わず甘えてしまいそうになる。
「……アイリス、お前はずっと俺のそばにいるのか?」
「……はい」
「俺が……たとえ悪魔になっても?」
一瞬、アイリスの瞳が揺れた。
しかし、彼女はすぐに強く頷く。
「ノクス様がどんな姿になろうと、私はノクス様をお守りします」
「……そうか」
ノクスはそっと目を閉じた。
——どれだけ恐れられても、この呪いを持つ限り、俺は一人じゃない。
しばらくして、ノクスの呼吸が穏やかになり、眠りに落ちたことを確認する。
アイリスは静かに彼の顔を見つめた。
穏やかな寝顔だった。
だが、その眉間には、どこか苦しげな皺が寄っている。
「……ノクス様」
そっと手を伸ばし、彼の髪を撫でる。
幼い頃から、彼のそばにいた。
呪いのことも、苦しみも、彼がどれほど孤独だったかも、誰より知っている。
「……私が、ノクス様を守ります」
アイリスは、ノクスの顔にそっと顔を近づけた。
——唇が、触れる寸前で止まる。
指先が震えていることに気づいた。
「……私に、その資格は……」
彼は王族で、自分はただの侍女だ。
立場も、身分も、何もかも違う。
何より——。
「……おやすみなさい、ノクス様」
アイリスは小さく囁き、そっと身を引いた。
窓の外では、夜風が静かに吹いていた。
しかし、アイリスの胸の内には、消せない想いがくすぶっていた。