1-8 ナマズ沼
ゴウゴウと唸るような風が、上空を抜ける。
空に広がる黒雲は、その不機嫌さを我慢でもしているかのように、冗談のような少雨を降らし、腹の内で雷を時折、光らせている。
「見えたぞ、ナマズの沼だ。話に聞いた通りだな」
「貪欲な大ナマズが棲んでいて、岸辺に居ても油断をすると丸呑みにされるんでしたね」
山の頂上にほど近い、インベル山の最後の道しるべが、ナマズ沼だ。
巨人の腕をぐるりと回したかのような淵の内部を、ヌトリと暗い泥土が満たしている。
黒雲によって陽光が見えなくなった現状、沼はまるで真の闇のように漆黒に染まり、大ナマズどころか、一切の生き物の気配すら感じられない。
「不気味だな。クッキーを放ってみよう。
……良いかアーニー?」
道中食べようと、密かにポケットに忍ばせていたクッキーを取り出し、その製造者に許可を求める。
「どうぞ、ご随意に」
「ふむ。……ハム。……とう!」
投げる前に未練たらしく一口齧り、ライカがクッキーを放り投げた。
クルクルと回るバニラ味のクッキーが、沼上空に、バニラとバターの良い香りを振り撒いていく。
その瞬間。
ボカン!!!と沼が爆発し、漆黒の巨大な丸い影が空へ昇り上がると、口と思しき前方の穴でクッキーを呑み、再びボチャンと、沼に沈んだ。
「……跳んだぞアーニー」
「ええ、クッキー1つに対して、運動量のコスパが悪いですね」
野生の魔物のコスパ事情を案じるアーネストに、「なんでそんなこと言うの?」という顔を向けるライカ。
「ともあれ、あの速度で跳んでくるとすれば、一瞬で呑まれそうですね」
馬車でも一口に呑み込みそうな大ナマズであった。
危険であることは、間違いない。
アーネストの判断に頷いて、ライカは方針を打ち出す。
「警戒しつつ、慎重に進もう。
剣気を当てれば、エサだと勘違いされることはあるまい」
沼の左の腕は、僅かに上方向に傾斜しており、山頂へ続いているという話だ。
グルリと回るのは、時間の浪費とも言えたが、空を飛べない以上、崖上にショートカットも出来ない。
「ここを越えれば、冒険者ギルドが建てた観測所があるハズだ。
そこなら風雨も凌げよう。もう一息だ」
「はい、ライカ様」
主の励ましに返事をし、重くなり始めた足を動かす。
すると俄かに、沼の中が慌ただしくなってきた。
人間大の獲物が久しぶりなのだろうか。
明らかに興奮し、跳びかかる気配を顕わにする大ナマズ。
ドロドロの沼をヌルヌルと泳ぎながら、ライカとアーネストの様子を伺っているようだ。
「ふむ。この生き物はバカだ。アーニー。
剣気に気付かぬか、或いは無視している」
「それはとてもバカですね」
女主人の主張を肯定し、大きく頷くアーネスト。
彼女の剣は達人級だ。
並の野生の獣なら、彼女の視線や足運びから、敵わぬ相手と判断をするのだが。
「眠らせてしまいますか?」
「出来るのか?」
主の疑問に、胸を張って応えるアーネスト。
「ええ、恐らく。
あのバカな魚類は、幸い、僕のクッキーを気に入ったようですし」
「ふむ? 眠りの魔法か。
加速は使えなくなるな?」
「いえ、この魔術は依り代を使えるので、大して魔力は使いません。
加速の魔術を扱う魔力も、温存出来るでしょう」
パチンと両手を打ち合わせ、ライカが楽しそうに命じる。
「いいぞ。やれ、アーニー」
「はい」
先ほど仕舞ったクッキーを1枚再び取り出して、アーネストは瞑目し、クッキーに魔力を送り込む。
「カネ・ワリス。微睡の美味」
魔力が込められたクッキーは、先ほどまでよりも僅かに匂い立つかのようだ。
それを女主人に手渡し、アーネストは言った。
「それをそこのバカな魚類に――!!って、食べちゃダメですっ!!」
アーネストが叫ぶと、ライカがキョトンと振り返った。
その手のクッキーは口元にあり、アーネストが止めなければ齧っていたのは間違いない。
「それ、今々、目の前で、食べたら寝る魔術かけたじゃないですか!
見てなかったんですか!?」
いつになく非難を顕わにする一歳下の従者に、ライカは渋い顔で応えた。
「良い匂いがしたのだ」
「バカなんですかもしかしてっ!?」
「分かった。愚かな行為であったことは認めよう。
だからそう責めるでない。悲しい気持ちになる」
ライカが明け透けにそう言うと、アーネストとしては追撃を緩めるしかない。
何と言っても、ライカは主で、自分は主の奴隷なのだ。
「分かりました。
もう責めませんから、その手の物を、さっきの調子で沼に投げ込んでください」
「うむ」
神妙に頷いて、ライカが沼に向き直る。
「とー」
気の抜けた声とは裏腹の、腰の乗った下手投げ。
放物線を描いて空を飛んだクッキーが、再び沼の上に浮く。
ボカン、と二度目の爆発音。
先ほどと同じ貪欲さで、大ナマズがクッキーに跳びついた。
ボチャン、と落ちて、みたび静かになる。
「……寝たのか?」
「寝たはずです。
先ほどの魔術は、体内から眠気を惹起するので、効きは早いんですよ。
大型の魔物でも、この魔術を付与した食事を摂らせれば、すぐ寝ます。
たしか、グリフィンが瞬く間に寝た、という論文が出ていたハズです」
「ふむ。食べ物が必要な魔法は初めて見たな」
「毒を付与する魔術などもございますので、領地においては毒見役を置かれますよう」
「むう……毒は嫌だな。何となくだが苦くなりそうだ」
「味は変わりません。だから魔術の毒は厄介なのです」
主の無知をやんわりと正し、アーネストが道の先を見る。
「さあ、寝ている間にサッサと向かいましょう。
間もなく日も暮れます」
「そうだな。先を急ごう」
従者の言葉に頷いて、ライカは足を速めた。
アーネストも後に続く。
黒く沈んだ泥沼は、まるで丸ごと眠ったように、静けさを取り戻していた。
激しさを増す雨空とは裏腹に、闇に沈んだナマズの沼は、不気味にシンと静まり返った。
魔術が効いている、と、理性ではわかっていても、僅かな恐怖心が消えないアーネストであった。