3-6 腐れ沼
その沼に到達するまでの10日間は、順調に進んだ。
天候にも恵まれ、大きなトラブルもなく、穏やかな旅と言って良かった。
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「ここまで近づくと、流石に臭うな」
ライカが微かに顔を顰めた。
ライカたち4人の目の前には、茫漠たる沼地が広がっている。
もちろん、ただの沼地ではない。
あらゆる所に毒草、毒ヅタ、毒虫、毒ゴケ、毒キノコが充満し、沼の色味に緑と紫を加えている。
――――腐れ沼。
その最奥に爛尾竜が棲むという、大陸最大の毒の見本市。
エレニア王国の西のはずれにある、谷属性のダンジョンである。
「確かに臭いですけど、複雑な不快感ですね……」
アーネストが主人の言葉を受けて続ける。
腐葉土の臭さ、生ごみの臭さ、淀んだ川の臭さが交じり合い、刺すような刺激臭を届けてくる。
「御心配には及びません。香を焚きます」
ヘティトが囁き、準備を始めた。
と、言ってもあっという間だ。
既に準備を終えていたらしく、手に提げた薬カバンではなく懐から小さな紙の包みを取り出す。
その中身を、手に提げた小さな香炉に落とし、火を着ける。
「カネ・イグニス。着火」
ふわり、と、あっという間に空気が変わった。
優しく甘い、ショウガのハチミツ漬けに似た芳香が空間を満たす。
「少しお待ちを」
そう言って、ヘティトは香炉をひゅんひゅんと振り回し始めた。
小さな香炉に繋がる細いロープを、左右8の字に振り回す。
スピードが上がると音が変わり、ヒーンヒーンと、心地よい高音に変化した。
それはまるで、優美な舞や、神聖な儀式を連想させる美しさだ。
ヘティトは束の間、それを続けて、やがて、止めた。
「充分でしょう。お待たせを致しました」
「ぃよっし、行くかぁ。
こっから有料なんだから本気出せよな、ライカ、犬ッコロ」
セルケトが先行し、ライカが後に続く。
「アーニーを犬と言うなと言うに」
「言うのか言わねえのか、ややっこしいな、その言い方」
悪びれず笑うセルケト。
「貴様様」
(え、きさまさま、定着してる?)
アーネストは驚いたが、微笑んで話を聞いた。
「どうしました?」
「わたくしは香炉の効果を保つため、中陣にいなければなりません」
「はあ……?」
香炉の範囲は、風がなければ球形になると考えられるので、中陣にいるのは理解できる。
香炉の効果を絶やすのは、結構、致命的なことだと思えたので、なぜワザワザ言うのかと疑問符を浮かべる。
「みだらな妄想など、思い浮かべたら殺します」
絶対零度の氷の瞳が、アーネストの脳髄に傷痕を残した。
こんなに言われて、エッチな妄想など、怖くて思う余裕がない。
「殺しますよ」
もう一度だけ冷たく言って、ヘティトが姉らの後を追う。
アーネストは、死にたくないので景色に集中することにした。
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「おいバカ、犬ッコロ!!! そこ踏むなっ言ったろっ!!」
前を行くセルケトの警告に、アーネストはお空を見るのを止めた。
足元を見れば、黄緑色のコケ植物に覆われている。
ポフン、と。
胞子が沸き起こり、甘い匂いがアーネストを包む。
「ッチッ!!? ヘティト!」
「駄犬ですね」
ヘティトが走り戻り、アーネストを目指す。
一方のアーネストは、何だかクラクラ、目が回りだしていた。
目の前のコケが、毒虫が、毒ヅルが、何だか話しかけてくる。
アーネスト自身は経験がないが、毒茸の幻覚症状だ。
「食らいなさい」
完全に敵への攻撃の時のセリフを言って、ヘティトが香炉をブンと振るった。
「ギャボン!!」
結構な速度の金属の香炉が、アーネストのこめかみに突き刺さる。
脳天を揺さぶられ、同時に香炉の効果が表れ、アーネストは正気に戻った。
こめかみはズキズキと痛かったが、むしろその痛みを伝手に、アーネストは苔から逃れる。
「ありがとうございます」
少し大きめの声で前に告げ、自分の無事をアピールする。
すると――
「殺しますよ」
先ほどと同じ、アクセントすらない氷の吐息。
必死に頷いて、アーネストは誓った。




