帰らない男
最近、我が家の床下からやたらと物音がすると妻がしきりに言うので、駆除業者を呼ぶことにした。
休みを取って、おれも立ち会った。やって来たのは初老の小柄な男。グレーの作業着と帽子を被っている。「はいはい、どうもすみませんねぇ、上がらせてもらいますよ。へっへっへ」と男は慣れた様子だったので、特に不安は感じなかった。
「床下にね、入って調べてみますんでね。点検口はどちらかわかりますかね」
「あら、うちにそんなのあったかしら。まあ、外から見てもわかる通り、古い家なので、あるとは思いますけどねぇ」
男が訊ね、妻が答えた。わざわざ古い家などと貶さなくていいじゃないかと、おれはむっとしたが、仕方がない。夏は暑く冬は寒い。屋根がボロボロで天井にシミがあり、壁のペンキは剥がれ、妻はまだ知らないと思うが、おれの部屋に白アリが住み着いている。だが、妻が何よりも気に入らないのは、この家が姑、つまりおれの母親が昔、おれのために建てたということだ。
この家は、おれの実家から歩いて十分程度の距離にある。それもまた、妻が気に入らない理由の一つなのだろう。もっとも、今は父は死んで、母は老人ホームにいるが、それでも何かと母から意地悪されたとかで根に持っているらしい。おれに対しても同様に思っているようだ。仕事を言い訳にかばってくれなかったとかなんとか、妻は被害妄想の傾向があるから、おれは話半分に聞いていただけなのだが。
「たぶん、台所にあるんじゃないですかね」と、おれは言い、男を案内した。
「ああ、これですねぇ」
「やっぱりですか。そこはうちの床下収納なんですが」
「ええ、ええ。まあ、ちょっと中のものを全部出していただいたら、簡単に取り外せると思いますよ」
「すみませんねぇ、この人は飽きっぽいくせに漬物なんて作ってて」
と、床下収納を開け、妻が梅が詰まった瓶を取り出しながら、そう言った。
「じゃあ、見てみますんでね」
「あら、すぐ下がもう地面なんですね。どうりで寒いわけだわぁ。最近のおうちは断熱材とかがあるんですもんね」
妻がチラとおれを見ながら言った。「お前の部屋は二階なんだからいいじゃないか」と、おれは言おうと思ったが、冬に寒いのは変わらないし、壁や天井にも断熱材などは入っていないだろうから同じことだと思い、おれは黙って床下に沈んでいく男を見つめた。
そのまま駆除作業が終わるまで立ち合うつもりだったのだが、急な仕事が入り、やむなく会社へ行くと告げると、妻が愚痴をこぼし始めたので、おれは慌ただしく家を出た。帰る頃には終わっているだろう。そう思った。しかし……
「えっ、まだ終わってないの?」
「そうなのよぉ」と妻は顔を顰めた。おれが家を出たのは昼前で、そして帰ってきたのは夕方だ。なのに、男はまだ床下にいるというので、おれは驚いた。
「あのー、もしもしー?」と、おれが点検口に向かって声をかけると「はぁい」と男の声がした。点検口から漂ってくる黴臭さと埃っぽさにおれは一歩下がった。
「まだかかりそうですかね?」
「ええ、すばしっこいんですよぉ。ああ、捕まえたのがまた逃げちゃった」
ずっとこの調子なのよ、と妻が肩をすくめる。
「あのー、あとどれくらいか目安を教えてくれませんかね」
「いんやぁ、どうですかねぇ。全部捕まえて安心したと思ったら、まだいるんですよねぇ」
また、ずっとこの調子なのよと妻が目で言う。しかし、男はお昼も食べずにずっと作業しているらしいので、あまり強くは言えない。
「しかし、手際が悪いんじゃないか」
おれは男に聞こえないよう、点検口から離れ、妻に言った。
「そうよねぇ」
「どこの人だ?」
「さぁ」
「さぁって」
「ポストに入ってたチラシに電話したのよ。いいタイミングだなって思って。あの子の学校で配られるプリントみたいな手作り感のあるやつ」
「ふーん、じゃあ、個人店か。まあ、大手の駆除業者がどんなものかも知らないが」
「うん。たぶん、お一人でやってるんじゃないかしら。小汚かったし……」
「おいおい……」
と、おれと妻が、ひそひそと話していると足の下を駆ける音がし、思わず二人して飛び退いた。
「びっくりしたわぁ。今のはどっちかしらね。ネズミ?」
「いや、あの男だろう」
「驚かせて、嫌ね。こっちの会話が聞こえてたのかしら……」
「いや、ネズミを追いかけていたんだろう……」
とりあえず、もう少し様子を見ることにした。妻が夕飯の支度を始め、おれは会社から持ち帰った仕事に取り掛かり、やがて夕食の時間が来た。
まだ点検口から出て来ない男が気になり、食卓を囲んでいる間も、開けたままの点検口を妻と息子、三人でチラチラと見てはテレビの画面に逃げる。
息子は「床下にネズミの国があるんだ!」「僕も遊園地行きたい!」などと、それが男がなかなか出てこない理由なんだと、空想を恥ずかしげもなく言った。もう小学三年生なのだが、この子は頭が弱いとおれは密かに思っている。たぶん、妻もそう思っている。前に息子が聞き分けの悪く、駄々をこねた時、「あなたの種が古いからかしらね」と、ぼやいたことがある。
夕食を終え、本来なら一日のうち一番まどろんでいる心地良い時間を迎えるはずなのに、今はあの男の存在がノイズとなり、おれはだんだん腹立たしくなってきた。だから、おれは点検口に近寄り、やや語気を強めるよう意識しつつ声をかけた。
「あのー、まだ終わらないんですかね」
「はぁぁぁい……」
ただの返事か、それとも肯定か、あるいは「はいはい、もう終わりますんで」といった否定か、よくわからない声が返ってきた。
「あの、もうお帰りいただけないですかね」
「んー、でもぉ、ここネズミたちの糞尿がすごいからねぇ。これを綺麗にしないと、たぶん皆さん病気になっちゃうんじゃないかなぁ」
と、言われたタイミングで唾を飲んだらどうも気管に入ったらしく、咽てしまった。男は、おれがひどく動揺したと思ったのか「大丈夫ですよぉ、お任せください。もう、すぐ終わらせちゃうんで。ええ、完璧にね」と笑いながら言った。
そう言い切られたら、もうこれ以上、こちらからは何も言えない。おれはまた来週も、また来週も、となかなか治療が終わらない歯医者を思い出して、嫌な気分になった。
床下を気にしながらテレビを眺め、切りのいいところで息子と一緒に風呂に入った。
「ねえ」
「ああ……」
風呂から上がり、冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、妻がおれに声をかけてきた。どうやらまだ終わっていないらしい。
「でも、あの人も頑張っているんだよな」
と、したくもないのにフォローしてしまった。それは、おれは本当はあの男を不気味に思っているからだろう。あの男は今もうちの家族のために必死に働いている、仕事に真面目な良い人とおれは思いたいのだ。でないと怖すぎる。妻もそれは同じようで「んー」と唸った。だがやはり「でも……」と口を開く。
「ああ、わかるよ。でもあの人、ご飯はどうしているんだろう。昼から飲まず食わずなんだろう?」
「うん。そうだと思ってさっきも差し入れしたのよ。穴の中にね」
「はっ!?」
お前がそんなことをするから出て来ないんだろうがと、おれは危うく言いそうになり、どうにか踏みとどまった。しかし『さっきも』ということは、二度三度差し入れをしているに違いない。帰らせたいくせに、なんて馬鹿なんだ。そもそも、お前が変な業者に頼まなければ……と、おれは湧き上がる怒りを鼻から吐き出した。しかし、冷静になって考えてみれば、そもそもの話、悪いのは帰らないあの男だ。朝に一度会ったきりなので、その顔は朧気になりつつあるが、だからこそ意地の悪い面のように思えてくる。
こうなれば同情はいらない。おれは点検口に近づいた。
「あの、もういいので、そろそろ帰っていただけませんかね!」
と、半ば怒鳴るように言ったのだが、返事はない。ふと、妻がジトッとした目でおれを見ていることに気づいたので、ますます顔が熱くなり、おれは軽く咳払いをしてから言った。
「あの、ちょっと!」
無視されているかと思ったが、考えてみれば何かトラブルがあったのかもしれない。ガス漏れ、酸欠……はないだろう。皮肉にも風通しはいいのだ。他に何かあるだろうか、と思っていたら返事があった。
「もう少しなんでぇ」
「いや、あの、とりあえず、いったん出てきてもらえませんかね!」
「いや、ちょっと」
「ちょっとじゃなくて、顔くらい見せてくださいよ!」
「その、もうちょいなんでぇ」
「あの、帰らないと警察を呼びますよ!」
「そんなことおっしゃらないでくださいよぉ。今やっているところなんですからぁ」
と、男は弱気な口調の割には一向に姿を、その足先すら見せようとしない。
「ねえ、どうするのよぉ。私、お風呂に入りたいんだけど」
「え、入ればいいじゃないか」
「じゃあ、ここで見張っててくれるの?」
「なんで?」
「だって、あの人が穴から出てきて、お風呂を覗きに来るかもしれないじゃない」
「そんなことあるもんか」
と、おれが笑うと妻の機嫌がみるみるうちに悪くなっていった。だから、おれは慌てて見張り役を買って出ることにした。それでも妻は、ため息をつき、顔を顰めておれを見る。どうも信頼を失ったらしい。お前の裸くらいで出てきてくれるのなら、むしろありがたい話だ。おれは点検口の蓋を閉め、その上に梅が入った瓶など、床下収納に仕舞っていたものを重しとして置くことにした。
「あの、閉めちゃいますからねー!」
「はぁぁい」
いいのか。しかし、返事があったことにおれは少しほっとし、点検口の蓋を閉めた。
臭いものには蓋というのは実に良くできた言葉だ。
もう夜遅いし、警察を呼ぶのも面倒だった。それに、近所の注目も集めたくない。いずれ向こうから「出してくださぁい」と泣きを入れてくるだろうと、おれはそう結論づけた。また、どこか負けてなるものかという意地もあった。しばらくそのまま放置し、やがて出しっぱなしは邪魔だと思い、床下収納を元に戻すと、そのまま忘れていった。
息子は時々、床に耳をつけたり、叩いたりしていた。妻は「冷蔵庫の中の減りが少し早い気がするのよねぇ」と、不安そうにしつつも、あの男を呼んだという自分の落ち度を気にしてか、頑なにあの男の件には触れようとはしなかった。
おれはというと、どうも一階の小さな和室、その畳の下に穴があるような気がし、たまに獣のような残り香が漂っていたこともあったが気のせいだと思うことにした。あの男はどうせ、どこかの隙間から家の外に出ただろう。隙間は多いんだ。そう考え、やがて気にもしなくなった。
時が経ち、母も死に、遺産相続であの家と土地を貰うと、そう間を置かずして売り払い、おれたちはマンションに引っ越した。
家自体は古いので当然、売れるわけがなく更地にすることになった。ただ、おれは少し気になって、引っ越してからしばらく経った後で不動産屋に電話をして、何か出てこなかったかと聞いてみた。
不動産屋は少し驚いたような反応をしたのち、ここだけの話、と誰にも言わないことを条件に話してくれた。
なんでも遺跡らしきものが見つかったらしい。むろん、遺跡と言っても映画に出てくるような、罠と謎とそしてお宝があるようなやつではなく、昔の人が暮らしていた跡のことだ。文化的価値も恐らくない。規定によりしかるべきところへ連絡する必要があったが、それにより工事が止まると困るので、無視したそうだ。
おれはそういうのには興味ないし、そもそもそれはあの男の生活の跡だろうと思った。
おれが「骨は出ましたか?」と訊ねると、「いいえ、まさか」と返された。向こうが怪訝な顔をしていることが電話越しに伝わってきたので、それ以上何も訊かず、電話を切った。
ただ、おれはこのマンションの部屋で、たまに物音がすると、あの男を思い出してしまう。そして、妻と息子が含みのある笑みを浮かべるように見えるのは、気のせいなのだろうか。
おれは最近、家に帰りたくなくなってきている。