第32話 シノバズ侯爵
日曜日の午後2時前、フォーマルな衣服を持ち合わせないクルチアは学校の制服に身を包み迎えを待っていた。 制服は冠婚葬祭に着ていけるぐらいだから、貴族と会う際に着用しても失礼にはならない。 そう判断した。
午後2時ちょうどに呼び鈴が鳴った。 ピンポーン
玄関のドアを開くと、ヨシキが深々とお辞儀をする。
「お迎えに参りました」
頭を上げたヨシキは、周囲を見回し尋ねる。
「カスガノミチ殿がいらっしゃらないようですが...」
「申し訳ありません。 あの子、どうしても来たくないって」 どうも嫌な予感がするって。
ヨシキは困り顔。
「困りましたね。 侯爵になんと申し開きすればいいのか」
「あの、私がミツキの代わりだってミツキが...」
「クルチアさんがカスガノミチ殿の代理人として全権を委任されていると?」
「は、はい」
「承知しました。 では参りましょう」
◇◆◇◆◇
ヨシキはクルチアを運転手付きの高級車に乗せ、シノバズ侯爵が滞在するホテルへと連れて来た。
部屋に通されたクルチアは緊張の面持ちで、ソファーに座る侯爵に挨拶をする。
「イナギリ・クルチアと申します。 カスガノミチ・ミツキの代理人として参りました」
「代理人? どういうことかね?」
侯爵は訝しげに眉をひそめた。 彼は20代の若者。 クルチアの予想より遥かに若い。 意外に小柄で、クルチアと背丈がそう変わらない。 目元は涼やかで、口ひげを生やしている。
「せっかくのお招きに応えられず申し訳ありません。 本人がどうしても来たくないと申しまして」
「どうしても? これはまた嫌われたものだ」
冗談めかす侯爵の目に憂慮が滲み出る。 思いがけず存在が明らかになったクイックリング・ハーフ。 同じクイ混じりでも王族や大貴族とは桁違いの加速能力を有する少年。 代を重ね薄れ続けるクイックリングの血を濃くするチャンス。 必ずやエクレア小国に戦力として迎え入れたい。 他国へ出奔させてはならない。
「さて、どうしたものか」
侯爵はクルチアが立ったままなのに気付いた。
「おっと、これは失礼した。 掛けたまえ。 いま飲み物を持ってこさせよう」
ソファーに腰を降ろしたクルチアを、侯爵は思案顔で眺める。
「君とカスガノミチ殿は幼馴染だと聞いているが」
「そうです」
「どれぐらい親しいのかね?」
「そうですねえ...」
「君がカスガノミチ殿に及ぼす影響力を知りたい。 さっき君はカスガノミチ殿の代理人だと言ったが、エクレア小国が君と協力関係を約束すればカスガノミチ殿と約束したことになるかね?」
「そうですね。 この件に関してはミツキが明言しましたから。 私がミツキの代わりだと。 それを盾に取れば、約束を守らせられると思います」
シノバズ侯爵は小さく笑い声を立てる。
「盾に? ククッ、君たちの関係がなんとなく分かったよ」
それはどうも。 クルチアは小さく頭を下げた。
「よかろう。 ならばこちらの書面に目を通し、異存なくばカスガノミチ殿の代理人として署名したまえ」
侯爵は傍らに置いてあった書面をクルチアに手渡した。
「これはどういう...」
「エクレア小国とカスガノミチ殿との条約だ」
クルチアは書面を読み始め、すぐに読み終えた。 簡単な内容だった。 エクレア小国とカスガノミチ・ミツキは友好関係を維持し、一方が困ったときは他方が助ける努力をする。 条約は一方からの申し出がない限り5年ごとに自動的に更新される。 条約を破ると神罰が下る。
クルチアは書面から顔を上げた。
「この条約に基づいて、ミツキの市民権を回復して頂けますか?」
「市民権がなくてカスガノミチ殿が困っているのならね」
「困ってます。 ミツキの市民権を回復してください」
「そうか、軍務局から隠れて暮らしてるんだったな。 よかろう、ならば―」
(やった! あっけなく市民権が手に入る)
しかしクルチアが聞きたい言葉を言わずして侯爵は口の動きを止めた。 顎に手をやり、しばし考える。 やがて何かを閃いた顔になり、指をパチンと鳴らす。
「名案を思いついたぞ」
◇◆◇
がっかりするクルチアの気持ちも知らず、シノバズ侯爵は楽しげに目を輝かせる。
「ダレノガレ市で開かれる武術大会でカスガノミチ殿に優勝してもらうんだ。 優勝の報奨として市民権を与えよう。 大会には通例、タメリク帝国が調査団を送り込んで来る。 戦力調査の一環だ。 今年の調査団にはショッキングな情報を持ち帰って頂く。 クイックリングの血を濃く引く者が我が国の味方に付いた、とな」
ミツキのエクレアへの加入はミツキ個人の能力だけの問題ではない。 クイの血脈 ―それも生粋のクイに近い血脈― が1つ増えることを意味する。 ミツキの存在は将来的に、エクレア小国とタメリク帝国の力関係を逆転するに違いなかった。
侯爵は上機嫌でクルチアに同意を求める。
「どうだ、良いアイデアだと思わないか?」
権力者に同意を求められ、クルチアは頷くしかない。
「そうですね」
本当はこの場で直ちにミツキに市民権を頂きたい。 シノバズ侯爵が貴族社会の総意で動いているなら、それも可能ははず。
クルチアの不服が顔に現れたのだろう、侯爵は説明を加え理解を求めた。
「特例としてカスガノミチ殿に無償で市民権を与えるのは可能だ。 しかし、その話が広がればカスガノミチ殿に不満を抱く者も出よう。 後得的な市民権はエクレア小国に多大な貢献をした者に与えられるものゆえ。 なに、少しの我慢だ。 武術大会は来週だからな。 エントリーは私に任せたまえ」




