《3》
「……ん」
薄い靄がかかったようなぼやけていた視界が、ゆっくりと形のある世界を認識していく。
白。汚れのない純白。見慣れない真っ白な天井がそこにはあった。
「こ、ここは……」
呟いたつもりの言葉は自分の重たい咳でかき消される。
酷いガラガラの声で、一瞬自分の出した声だと分からなかった。
徐々に身体の感覚が甦ってきて、鼻から口まで覆うマスクをつけられていることに気がついた。
身体中のあちこちが悲鳴を上げているように熱い。
そのせいか、身体が自分のものではないような、どこか朧気な感覚に包まれていた。
「あ、久遠!気がついたか!?」
「久遠……」
俺が目を覚ましたのに気がつき、宇佐美と八木が顔を覗き込んでくる。
2人とも鬼気迫るような険しい顔をしていた。
「宇佐美さんに八木さん……俺、どうし、たんですか……?」
自分の喉が許す速度で言葉を紡ぐ。
マスクに繋げられているチューブから酸素が送り込まれているようで、時折むせそうになってしまう。
胸には何やら電極みたいなものがつけられていて、ベッドの傍らには小さなテレビのような機械が数字を表示し、一定の電子音を奏でていた。
「どうしたもこうしたもない!あんた、本当に死ぬところだったんだからね!」
宇佐美は感情を爆発させたかのように大きな声を上げた。
「雪の中に身体突っ込んで寝てるとか……訳分かんないでしょー!?」
取り乱す宇佐美の肩に八木はぽんと手を置いた。
「まあまあ、志緖、落ち着いて」
「分かってるけどさ……」
「久遠」
「はい……」
俺の方に向き直った八木はいつにも増して真剣な顔をしていた。
「昨日の夜ね、あんたの家に回覧板を届けに行ったら、今、志緖が言った通りの状況だったの。あんた、意識もなかったし、急いで救急車を要請してね。……ここは桜ノ丘病院」
「病院……」
そういうことか……。
やべえ、全然記憶がねえや。
えっと……確か、磯ヶ谷の家に行こうとしてたんだったと思うけど……。
「さっき、担当の先生から説明があったけど、肺炎を起こしてるから、しばらく入院が必要だって」
「え!?入院!?」
思わず声を上げると同時に、重たい咳を引き起こしてしまう。
「当たり前でしょー!あんた、こんな状態で帰れる訳ないでしょうが!」
「……」
俺は言葉を失う。
嘘だろ……。
ただでさえ、俺には時間がないのに、よりによって入院しなければならないなんて……。
あれ?でも、時間がない訳じゃないのか、俺って……?
……。
でも、今の状態で家に帰るのは確かに無理そうだった。
冷静に今の自分を鑑みて、体力的に不可能だと思う。
……自分のせいだしな。
俺は大人しく諦めることにした。
「分かりました」
「だいたい1週間くらいの予定みたいだけどね。一応、あんたのご両親にはさっき連絡しておいた。たぶん、夕方くらいには来るんじゃないかな」
「色々すみません」
「本当だよー!幾つになっても迷惑ばっか掛けて……けど、本当に良かった」
宇佐美は心底安堵したように息をつく。
「あ、気がついたの?久遠くん」
とそこに、白衣を纏った看護師がやってきた。
歳が近そうで、親しみやすような笑顔を湛えた人だった。
……あれ?どこかで見た顔なような……。
「ついさっきね。良かった、今、貴子のこと呼びに行こうと思ってた」
「じゃあグッドタイミングだったね。久遠くん、気分はどうですかー?」
にこっと笑って声を掛けてくる。
何か……安心するかも。
「まあ……あんまり良くはないですけど……。八木さんたち、知り合いなんですか?」
「月島貴子。ちょっとした知り合いなの」
「あんた、感謝しなさいよ?貴子のおかげで病院の個室代、無料でいいって言うんだから」
「え……大丈夫なんですか?」
看護師さんって、そんなこと出来るのか?
「うん、全然大丈夫。ウチの親、この病院の役員やってて、『あたしの知り合いの友達が入院しちゃって、個室使うんだけど……』って聞いてみたら、あっさり無料でいいってオッケーもらったから」
グッと親指を突き立てる月島。
なるほどね……でも、いいのか?
「久遠くん気がついたし、先生呼んでくるね」
月島はパタパタと駆けていく。
少しして、月島と共に白衣を着こなした男性医師が部屋に入って来た。
「こんにちは」
短髪でメガネをかけた、30代前半くらいの若い人だった。
「担当医の一村です。良かったよ、意識が戻って。凍傷にも……なってなさそうだね」
俺の顔を覗き込むようにして、一村は俺の頬をすっと触れたかと思うと、安堵の息を吐く。
「胸部のCTを撮ってみたんだけど、肺炎を起こしてるから、このまま入院になります。採血結果からも炎症反応の数値が高いからね。今はまだ辛いと思うけど、抗生剤の点滴を入れてるから徐々に良くなってくるはずです」
一村はカルテを見ながらゆっくりと説明する。
あ、本当だ。点滴してる……。
一村に言われて、自分が点滴をしていることに気がついた。
銀色の棒がベッドの頭に刺さっていて、その先端に透明なパックが吊るされている。そこから白い管が俺の右手に伸びていた。
「後頭部にちょっとした傷があったから、念のため頭のCTも撮ったけど、異常はありませんでした」
そういや、雪で滑って転んだんだっけ……。
ズキッと後頭部が痛んだ気がした。
「だいたい1週間くらいの入院になると思います。適宜、検査等も行っていくので宜しくお願いします」
「はい、宜しくお願いします」
丁寧に説明をして一礼すると、一村は静かに部屋から出て行った。
「でも、本当アホだよねー。雪に足を取られて、滑って転んで気絶して、危うく死にかけちゃうなんて」
「……」
呆れたように言う宇佐美に何か言い返したかったけれど、反論出来る余地がなかった。
「普段から注意力が散漫だから、こんなことになるのよ」
八木も当然の如く呆れ気味だった。
……何も言い返せねえ。
ぐぅの音も出ないとは正にこのこと。
……まあでも、2人なりに心配してくれてるってことなんだろうけど。
こうやって、傍に居てくれるだけでありがたかった。
「……さて、じゃあ私たちは帰ろうか?」
頃合いを見計らって、八木が切り出した。
「そうだね。あとは貴子に任せればいいし」
「あいよ、任せなさーい♪」
月島は可愛くウインクで返した。
「あ、八木さん、宇佐美さん……本当にありがとうございました」
俺はベッドに寝たまま2人を見上げ、精一杯の感謝を言葉に込めた。
「そう思うんなら、さっさと治しちゃいなよね?」
「無理しないで、しっかり治しなさい」
宇佐美と八木は穏やかな笑みを浮かべて部屋を後にした。
「八木さんと志緖、帰っちゃったね……感謝しなきゃだよ?」
「はい」
2人が帰った後、月島が真面目に言った言葉に俺は頷く。
あの2人が居なかったら、俺はきっと助からなかっただろう。
……怖っ。
そう考えると、ぞくぞくっと身体の芯に嫌な震えが走った。
「さて、じゃあそろそろ寝ようか?本当は、久遠くんともうちょっと話してたい気持ちはあるんだけど……ちゃんと治さないとね」
言いながら月島は掛け布団を直してくれる。無言のまま頷いた。
「何かあったら、枕元の壁にあるボタン押してね」
月島の指差す先を見ると、壁に赤いボタンとインターホンみたいなものが備えられている。
ナースコールというやつだろう。
「けど、イタズラでコールしたら怒るからね!」
「分かってますよ……」
つーか、そんな元気、今ないし……。
「じゃあ、私行くね。時々他の看護師さんも様子見に来ると思うけど、その時はよろしく」
小さく手を振って月島は部屋から出て行った。
「……」
自分以外、誰も居なくなった部屋。
部屋には一定の電子音だけが響き、それが余計に独りだということを実感させられる。
壁や天井を白に統一されたこの部屋は、整然としていて、一切の無駄なものが排除された場所だった。
マスクをしているから分からないけれど、部屋の中は消毒液の匂いに満ちている気がした。
「……」
まさか、入院することになるなんて……。
こんな展開になろうとは予想していなかった。いや、考えが及ぶ訳もない。
……やっぱ無理はいけないってことか。
自分の行いを反省する。何にしても、今回のループでは七海に会いに行くことは不可能になった。
まあ、いい方向に考えれば、ちょっとした休憩って感じか。
真っ暗闇の、出口があるのかさえも分からない、大迷宮を彷徨ってるようなもんだからな……。
少し疲れたかも。
「……寝よう」
熱に浮かされながら俺は静かに目を閉じた。