《6》
「えっと、初めて、なんですけど……」
俺はおずおずと話し掛ける。
こういう場合の切り出し方なんて、良く知らなかったから。
「はい、今日はどうしました?」
にっこりスマイルで迎えてくれた女性は俺よりもほんの少し年上なくらいの若い人だった。
「風邪、引いちゃったみたいで」
「じゃあ内科で診察になりますね。こちらが番号札、あと当院初診ということなので、お手数ですが問診票のご記入をお願いします。それと、念のため、お熱も測ってください」
「すみません」
俺は番号札と問診票、体温計を受け取る。12月26日。9時22分。
俺は今、桜ノ丘病院に来ていた。
本当なら、今日は七海とのデートの日なのだが……あの後、七海に無理を言って1日延ばしてもらっていた。
今日から風邪を引くことは既定路線だからな……。
ごほごほと咳をしながら、俺は苦笑する。
あんな状態のままで、七海とのデートが上手くいくはずがない。
だったら、どうするか?
浮かんだ答えは1つだった。
予め、何が起こるか分かっているなら、その根本を断ってしまえばいい。
昨日の夜、細心の注意を払って寝たおかげか、今朝は前回よりも身体の調子は良かった。
今の状態なら、このままでもいいかとも思ったが、念には念を押しておかないと。
今日以降、熱を上げないために、普段は行かない病院に行くことを決めたのだった。
問診票の記入を終え、測定が終わった体温計と共に受付へと提出する。
ちなみに、現在の体温は37.4℃で、そこまで高熱とは言えなかった。
「お預かりします。しばらくロビーでお待ちください。看護師がお話を伺いに参ります」
受付のお姉さんの指示に従い、俺はロビーの空いた席に腰を下ろすことにする。
周囲を見渡すと、年配の人やお年寄りの人で幾分混み合っていた。
……何か、緊張するな。
普段、病院なんて来ることがないためか、妙にそわそわしてしまう。
やはり、し慣れないことなどは、俺にはどうも苦手らしい。分かっていたことだけど、改めて実感する。
数分後、小柄な看護師がやって来た。
「久遠周哉さんですね。少しお話を聞かせてください」
胸ポケットに付けられているネームプレートに【松下】とある。
身長は俺よりも10センチ以上低かったが、芸能人ばりのルックスで、現にCMに出演しているアイドルにも引けをとらないくらい、可愛らしかった。
……って、こんな時に不謹慎かな。
俺は頬を掻いた。
「風邪は今朝からなんですね。何が1番辛いですか?」
「そうですね……。今は言うほど辛くはないんですけど、咳と息苦しさが増してきて、熱もけっこう上がるんですよ」
「ん?」
俺の言葉に松下が首を傾げた。
「えっと……すみません、ちょっとよく分からないんですが……。今言った症状は、今は違うってこと、ですか?」
「あ、あっと……」
そ、そうか……そうだよな。
今から先のこと言ったらおかしいんだって。
やっべ……。
俺は心の中で小さな汗を飛ばしていた。
「ごめんなさい。熱と息苦しさが辛いです」
俺は取り繕うように返答し、何とかその場を凌いだ。
その後、松下の質問に2、3答え、再びソファで待機することとなった。
待ち時間は手持無沙汰で、ロビーに設置された大型の液晶テレビをただぼーっと眺めていた。
『久遠さん、久遠周哉さん。処置室へお入りください』
「……ん?」
数拍遅れて、俺は呼び出しに気がついた。
処置室?何だってまた、そんな所に呼ばれたんだ?
俺は呼ばれるがままに、診察室とは別の処置室の中へと入って行く。
処置室には先ほど話をした松下ではなく、別の看護師が待っていた。名前は【美咲】。
例によって、ネームプレートからの情報である。
「久遠周哉さんですね」
名前確認をされ、俺は「はい」と頷く。
「今から血液検査をしますので、こちらにお座りください」
美咲に指示され、俺は丸椅子に腰掛ける。
ああ、そっか。血を採るのか。
納得した俺は、トレーナーをまくって左腕を表に出す。
「はい、じゃあ、この台に乗せてもらって」
美咲が指差した、腕を置くように中央が凹んだ茶色の台に腕を乗せる。
「アルコールでかぶれたりしないですか?」
「たぶん……大丈夫だと思います」
実際のところ、良く分からなかったが、俺はとりあえず頷く。
美咲が俺の左腕を入念にアルコール綿で消毒する。立ち所に鼻をつく匂いが漂い出した。
そして、美咲は注射器を取り出す。
「それじゃあ、血を取りますね。ちょっとだけ、チクっとします」
「はい」
注射は特に苦手と思ったことはない。小学校、中学校と、学校での予防接種くらいしか注射を受けたことはないが、大した記憶に残っていないので、苦手も何もないのだろう。
ただ、自分の腕に針が刺さる瞬間は何となく見たくはなかったので、俺は視線を逸らしていた。
さあ、さっさと採っちゃってくれ。
と、俺は余裕をかましていたのだが、
「……い、痛っつ!?」
「あ、すみません!」
次の瞬間、左腕に小さいけれど鋭い痛みが走った。
思わず上げてしまった俺の声に美咲は慌てて謝る。
「ごめんなさい、もう一度いきます」
「は、はい」
な、何だ、今のは……。
まさか、失敗……?
看護師さんといえど、そういこともあるんだな―。
「って、痛っつ!?」
「あ、す、すみません!」
またしても生じた痛みに、俺は顔をしかめた。
ちょっと待て、また失敗するってどういうことだ?しかも地味に痛いし。
言葉には出さないまでも、俺は美咲の方を訝しげに見やった。
「ご、ごめんなさい、久遠さん。言い訳をするようでアレなんですけど……久遠さんの血管って、すごい細いみたいで。しかも深いところを走ってるみたいだから、ちょっと難しいんです」
「え……」
何だよ、それ……。
俺のせいなのかよ!?
……美咲さんの腕の問題じゃないのか?
「すみません、もうちょっと頑張ってくださいね」
空元気のような美咲の笑みに、俺は言い様のない不安を覚える。
……勘弁してくれ。
結局、その後、美咲が採血を成功するまで、3回もの失敗を要したのだった。
「お待たせしました。内科の河井です」
採血が終わり、1時間ほどして俺は診察室へと呼ばれた。
白衣を着た若めの医師―河井に促され、俺は椅子に腰を掛けた。
傍には先程の採血でお世話になった美咲がついている。
「今朝方から風邪ということで、熱と咳が辛いということですね」
ちょっと口を開けてください、と河井に言われ、その通り大きく口を開ける。
河井は銀色の箆を俺の舌にあて、喉を覗き込んだ。
「ん~、若干、赤いかな。それで……来院時の熱が37.4℃か。うん、採血結果を見てもCRPの値もそれほど高くないので、ひとまず大丈夫だと思います。インフルエンザの検査もしてみましたが、風邪を引き始めてまだ間もないから、今は陰性でしたけど、潜伏期間が一般的に1日~2日なので、これから発症する可能性もあり得ます」
「え、それって……どうすればいいんですか?」
「まあ、ベストはその時にもう一度受診してもらえればいいんですけど、この時期でインフルエンザの可能性もあるので、予防投与ということでタミフルも処方しておきます。あとは、風邪薬を出しときます。5日分でいいかな」
「あ、あの!」
診察が終わる雰囲気を感じ取り、俺は少し大きな声で待ったをかけた。
河井が驚いたように目を見開く。
「すみません、大きな声出しちゃって……。先生、つかぬことをお聞きしますけど……明日から熱が出るとして、出してもらえる薬を飲めば予防することも可能なんですか?」
「ん?いやぁ、それはどうかな……。風邪薬って言って、みんな勘違いしやすいんだけど、風邪そのものを治すためじゃなくて症状を緩和させるためのものだからね。しっかり栄養・水分を摂って、休養すること。それが風邪を治す1番の秘訣だよ。それに、熱が出るのは悪いことじゃない。身体が病気の菌と戦っている証拠だから。そうやって免疫力を高めていくから、無闇に解熱するのも身体に悪いんだよ。今はちょうど冬休みだよね?2、3日くらいゆっくり休んでみてもいいんじゃないかな?」
「だ、駄目です!」
柔らかく話す河井に、俺は訴えるように言葉を返した。
「お、俺、明日は何としてもぶっ倒れる訳にはいかないんです!そんな悠長なことを言ってられない。先生、身体に悪くてもいい。この熱を何とかして欲しいんです!」
お願いします、と俺は深々と頭を下げる。
こっちは必死だ。
それこそ命懸け。
なりふり構ってなんかいられない。
「熱って言っても……久遠くん、そこまで言うほどの熱じゃないからね……」
「先生、そこを何とか!明日には、39℃近くになるはずなんですよ!どうにか、今の内に何とかしてください!」
「う、う~ん……?ま、まあ、よく分からないが……そこまで言うんなら、抗生剤の点滴を打っておいてあげようか?」
「は、はい!お願いします!」
「じゃあ……ST1の500とスルペラゾン1gをivで」
河井は困惑しながらも、俺の熱意に押されて点滴の指示を出す。
や、やった、これならまともな状態で明日を迎えられるはず。
俺は心の中でガッツポーズを決める。
がしかし、
「じゃあ、久遠さん、処置室のベッドへどうぞ」
「……え」
指示を受けたのは、あろうことか美咲だったのだ。
俺は瞬間、固まってしまう。思い出すのは、先程行われた採血での悪戦苦闘。
俺が言いたいことを察したのか、美咲は苦笑しながら河井に聞こえないように続けた。
「ごめんね、他の看護師さん、ちょっと出払ってて……今日は入院する患者さんが多いみたいなんです。でも、大丈夫。今度は上手く出来ると思うから」
……いや、待て。
上手く出来ると思う……『思う』ってなんだ?
……。
「痛っっつ!」
く、くそ……何でこんな目に遭わなきゃならねえんだよ……。
俺の危惧した通り、点滴でも中々俺の腕に針がフィットせず、点滴が流れ始めた頃、俺の左腕は真っ赤に染め上がっているのだった。