《3》
「時間だ。出席番号順に廊下に並んでください」
時計を何度も確認し、9時10分となったところで、担任の松原先生が指示を出した。
SHRを終えてざわついていたクラスが、しんと静まり返った。
いよいよ、という緊張感にも似た空気が漂う。席を立つ音がし始め、続々とクラスメイトたちが廊下へと移動する。俺もその波に乗っていく。出席番号は8番。男女1列に並ぶ。
3年間という時間の、1つの終わりがすぐそこまで近づいている。365日×3=1095日。そう考えると、3年はとてつもなく長い日数だと感じられるけど、全くそんなことはなかった。
短かった。たぶん、楽しいことがいっぱいだったからだと思う。楽しいことをしている時は時間が経つのは得てして早いものだ。確かに、陽染学園は行事が詰まっていて、1年間を通して退屈を感じさせないようなスケジュールが組まれている。
だけど、それだと答え半分。行事があったことに加えて、俺には大切な友達がいたから。心から笑い、泣き、励まし合い、時にはぶつかり合える、そんな存在がいてくれたからこそ、楽しく過ごせたのだと思う。俺は幸せ者だ。自然と心が高揚する。
「ん?久遠、大丈夫か?顔、赤いぞ?」
列の先頭にいた松原が心配そうな顔をする。
「ホントだ。さては周哉、まぁたエロいこと考えてたんやろ?」
「アホか、んな時に考えっかよ。先生、大丈夫です」
場違いなイワと俺のやり取りに、周囲から笑いが零れる。
この感覚も味わえなくなるんだな……。そう思うと、ちょっぴり寂しい。
……ありがとな、イワ。
前方へ向き直ったイワに心で礼を言う。親友でいられて良かった。
「いっぱい泣いてきなさい」
朝、宇佐美に言われた言葉を思い出す。
やべえ、卒業式の最中、思いっきり泣けちゃうかも。思い出が溢れてしまう気がする。今日で〝終わり〟だと思うと、やっぱり寂しいよ。
「よし、じゃあ行くぞ」
前方のクラス、3組の生徒の最後尾が見えなくなったのを視認して、松原が号令と共に先導する。列が動き出した。
陽染学園の校舎は屋上を含めて4階建て。3学年のフロアは3階のため、階段を2フロア分降りなければならない。歩く度に見える他クラスの教室。どのクラスも黒板には【卒業おめでとう】の文字と一言書き、クラス内は華やかな装飾がされていた。
階段を降り、1階の長い廊下を歩く。吹き抜けになった渡り廊下を進み、体育館が見えてきた。体育館の前には、既に1組~3組の生徒たちが待機している。3組の列の横に並んで立ち止まる。正面を見据えた。
【第54回卒業式】。
体育館の入り口の右側すぐ横に看板が立っている。それと並行して、左側には【54期卒業生321名】を頭に、卒業生1人1人の名前が載せられた模造用紙が体育館の壁に貼り出されていた。
へえ、数字だけで見たら5、4、3、2、1……何かカウントダウンみてえ。
無意味なことだが、何となく感嘆する。そんなアホみたいなことを考えていると、続々と残りのクラスが集結していく。5組が整然と並び、6組がその後に続く。
「……意外に寒いな」
朝方吹いていた風は、春を感じさせる柔らかなものだったが、いつの間にか、2月に吹くような張り詰めた風が辺りを吹き荒んでいた。身体の芯を揺さぶるこの手の風は苦手だ。これは……。
「どうした?周哉」
敏感に感じとったのか、イワが声を掛けてくる。
「ああ、ちょっとトイレ行ってくるわ」
「そうか。あと5分ちょっとで始まるだろうから急いで行ってこいや」
「おお。最悪、代返は任せた!」
「無理ぃ~。はよ行け!」
「はいはい」
冗談を言っている場合ではないのだが、こんなやり取りが出来るのが楽しくて、嬉しくて。
ツーと言えばカーっていいよなぁ。
俺は列を抜けて逆行するように軽めに走り出す。
「お、周哉。どうした?」
渡り廊下、いっちゃんが俺に気づいた。7組の列だった。
「うん、ちょっとトイレに。意外に外、寒くて」
「大丈夫?周哉」
心配そうな声。ナギだ。出席番号、2人とも同じ7番なんだっけ。ナギの頬には絆創膏が貼られているのが目についた。ナギのやつ、もしかして、また……。
「あ、久々。まあね、大丈夫。ナギ、その絆創膏……」
「あー、うん」
俺の言いたいことを察したナギは、頬を掻きながら苦笑いを浮かべる。
やっぱり、そうか……。取り返しがつかなくなってからじゃ遅いって、いつも言ってるのに……。
俺は何とも言えない表情になってしまう。
「周哉、急いだ方がいいぞ。時間、そんなに余裕ない」
いっちゃんの言葉で思考が中断される。やべ、そうだった。
「分かってる」
「ちゃんと間に合わなきゃダメだぞ?」
「うん。ありがと、いっちゃん、ナギ」
心配してくれる2人を尻目に、俺は再び走り出す。
さすがに、遅刻してないくせに、式に遅刻とかは恥ずかしすぎる。
渡り廊下を抜けて校舎内へ入る。ここから1番近いのは……。
少し思案して、降りてきた階段がある右側ではなく、左側へ歩を進めた。2年3組から8組のクラスがある方へ。確か、特別校舎に上がる階段のすぐ横に、来客用のトイレがあったはずだ。
「……あれ?」
不意に奇妙な違和感を感じて、俺は立ち止まった。目的のトイレまであと数メートルの場所。振り向くと、そこには古ぼけて年季の入った扉があった。特別校舎に行くための階段、その手前の空いたスペースという感じの箇所、光が当りにくいような作りで奥まっている。
「こんな所あったっけ?」
光が届かないその場所には、使い古された机と椅子が一式に、音楽の授業で使われていたアコーディオンなど、古くなった機材諸々が、扉を囲むように置かれている。
あったとしても、〝気づかなかった〟というのが普通なのかもしれない。2年生の時は4組だったし、特別校舎に部屋がある選択科目を選ばなかったため、1度たりともそこにある階段を使用したこともない。だから、何となくの位置取りなどは知ってはいたけれど、見たのはこれが初めてだった。
それにしても……
「この扉……」
中には何があるんだろう?
とても興味が沸いた。扉の手前にある古い机や椅子などから、おそらく、使い古して要らなくなった機材などが入っている可能性が高そうだけど、俺にはどうにも気になってしまった。こんなことをしている場合じゃないのは百も承知だ。卒業式が始まってしまう。
でも……何故だか分からないが、気になって仕方がない。まるで、誰かが「おいで、おいで」と手招きしているような、そんな感覚。そして、俺にはそれをどうしても放っておけないような気がした。
分からない。だけど……俺の中の何かが揺さぶられる。
卒業式よりも大事なことがある。お前は気がつかないのか?
誰かにそう言われているように、心が掻き立てられる。俺はその扉に引きつけられるようにして、扉のすぐ目の前まで歩み寄る。
『開かずの扉』
瞬間、遠いところで宇佐美の声が聞こえた気がした。いつかの夏休み、宇佐美がしてくれた話。その時の声。
開かずの扉……?何だったっけ、その話……。
疑問よりも興味が勝った俺はその扉に手を掛ける。ゆっくりとドアノブを回す。
キィィッと甲高い金切り声のような音が響く。
開いたドアの隙間から溢れ出す白光に、俺はその身を包まれた。