《9》
「38.9℃。少し下がったね」
日も暮れ始めた夕方、今日三度目の検温。八木の表情がふっと緩んだ気がした。
二度目は八木が戻って来てくれたお昼すぎで、39.4℃だった。
一応、少しずつではあるが、順調に熱は下がってきている。でも、やはり、呼吸苦は相変わらずで、呼吸をする度にぜぇぜぇと重たい咳の辛さは目下継続中である。
「八木さん……本当、に、すみません……ごほっ、ごほ!」
「もう、そういうのいいから。大丈夫?」
八木はティッシュペーパーを数枚手に取り、俺の口元へと持ってきてくれた。
俺は口の中に溜まった痰を吐き出す。
「は、はい……」
「まあ、看護の実習とかと考えればいいのかな。それにしても……久遠にこういうことしてくれる女の子が居てくれればね」
「は、はは……ごほ!それは、無理っすよ……」
「それ、自信もって答えることじゃないからね。……そりゃあ、あんたにとって難しいことかもしれないけど。でもさ、そういう娘が居てくれたら、きっと楽しいよ。あんたくらいの年なら、女の子とデートの1つや2つしたいと思うもんなんだから」
普通はね、と付け加えた八木の手が俺の額に乗せられた濡れタオルへと伸びる。ひょいと持ち上げられ、水にて濯がれる音が聞こえてくる。
「……ちょっと温いか。水、かえてくるね」
氷水の入ったバケツを手に、八木は部屋から出て行った。
デートの1つや2つって簡単に言うけど……無理だよな、俺には。
八木が出て行った扉の方を向きながら心の中で呟く。
「……でも、いいな」
それは、そうだ。絶対にそう思う。女の子とデートか……。
そんなこと、俺にとっちゃ夢みたいな話だ。
一緒に歩いて、会話して、笑い合って、遊びに行って……。
さすがに、さっきのカップルはどうかと思うけど……。
ナギとはそういうこともあったけど、ナギはいっちゃんの彼女だし。
彼女、か……。
『彼女にするんやったら、誰がいい?』
不意に、イワの声が響いた。
……そう言えば、イワとはそんな話したっけ。
……
そもそものイワとの始まりは、1年の時の6月。文化祭の準備をするために放課後作業をしていたのだが、展示品の絵に色をつけるための絵具が切れてしまったために、2人で買い出しに行った時。
この時は、まだイワとも多少話す程度の仲でしかなかった。ナギを介して何度か接することはあったけど、2人だけでの会話は初めてだった。
いきなりの切り出しに、俺は間の抜けた声を出す。
『へ?』
『ええから、言ってみ?誰にも言わんし』
『いや……それってクラスでってことか?』
『あ~、んじゃクラスで』
一瞬考えて、イワが指定する。
『クラスでか……』
う~ん、と俺は考え込む。
クラスの女子か……。
『へぇ~、意外にちゃんと考えんのな?』
『いや、当たり前だろ。だって彼女だぞ。付き合うんだぞ?』
俺は力強く答える。
仮にだとしても、俺にとっては一大事なのだ。
『お前、真面目やな……』
『そうか?普通だろ。う~んとな……俺だったら、磯ヶ谷か藍葉、かな』
『ほぉ~……周哉、割りといい趣味してる』
目を見開いて、イワは俺のことを見る。
『割りと……?まあ、そうか。ありがと』
言い返そうかと思ったが、止めた。
俺には拭い切れない前科があるから『いい趣味してる』というイワの言葉だけでもちょっと嬉しかった。
『2人ともいい娘やもんな。まあ、藍葉は若干、性格キツそうな感じもするけど……。磯ヶ谷は優しいしよく気がつくし、クラスの中、学年でもトップクラスやろ』
イワの分析はいつでも客観的な立場から見ているので、とても納得・信頼が出来る。
それはここ1ヵ月、ナギたちとの会話の中などで思った、俺の感想だが。本人も自負してるし。
『ん?そういや、周哉。凪さんは?彼女にしたいって思わんの?』
『ナギ?そりゃあまあ……ナギももちろんいいと思うけど。いっちゃんがいるだろ。俺、彼氏いるって分かってる人は完全に無理だ』
俺は首を横に振った。
あの2人を見てたら、ずっとそのまま上手くいけばいいな、と思っているから。
……こんなこと、面と向かい合ったら恥ずかしくて言えないが。
『ふ~ん……そうか、凪さんもちゃんと候補に入ってんのな』
『……おい、今、俺ちゃんと否定したつもりだけど……』
『となると……藍葉は確か、中学の時から彼氏がいるって聞いたことあるな。磯ヶ谷はそういう話を聞いたことないから……頑張ってみる?』
『へ?』
頑張ってみるって……何を?
『お前、アホ?磯ヶ谷、まだ彼氏いないっぽいよ?』
『……いやいやいや!彼氏いないったって、俺が好かれるようになるとか意味分かんねえ。俺とかアウトオブ眼中だろ。絶対に無理!』
俺は慌てて答える。
恋愛なんて俺には無理だ。それは、あの中学の時のことではっきりと証明されている。
あんなことにはもう二度となりたくない。絶対に。
『そんなの、やってみなきゃ分からんやろ。人間、どういう趣味してるとか分からんもんや。ゲテモノ好きの女子だっているかもしれんしな』
『ゲテモノ……ってな』
『……ふむ。何だ、周哉ってちゃんと話せるじゃん。オレ、もっと全然話せないヤツかと思ってた』
『……別に、普通だろ』
少しだけ恥ずかしくなって、俺はぷいっとそっぽを向く。
会話に夢中になって、自分が普通に話していることに気がつかなかった。
イワとの会話、『彼女にするんだったら』とか、そんなことを友達とサシで話したことなんて今まで一度もなかった。不覚にも凄い楽しいと思ってしまった自分がいた。
『う~ん……後は、クラスでも普通に会話が出来るようにならんとなぁ。それに、その捻くれてるトコも直さないと』
『大きなお世話だっつうの。余計なことはすんなよな』
口ではそう言っていたけれど、俺はイワとこうして、こんな話が出来たことに嬉しさを覚えていた。
このことが、俺とイワの仲を近付けていく、小さくも大きなきっかけとなったのだった。
……
すげえ懐かしいな。
そうだった、イワとはあんな恋バナしたんだよ。
彼女にするんだったら、か……。
俺にはそんなの無理だっつうの。夢過ぎるし、彼女なんて……。
もし、そんな人が居てくれたら毎日が本当に楽しいんだろうな。
……って、俺はもうあれで懲りて……。
……
「……え?ちょっと待て……」
ハッとして、俺は思わず起き上がる。
もしかして……。
頭の中を閃光が走って出された1つの解答。1人の女の子。
俺の未練は……。
自分の部屋の天井を見上げながら、俺は胸の鼓動が高鳴っていくのを静かに感じていた。