《19》
「あれ?これって……どうやるんだっけ?」
俺はぽりぽり頭を掻く。出てきた数式に完全に手が止まる。
「それはね、ここの公式を使えば解けるよ」
困っていた俺に、ナギが数学の教科書を開いて該当する箇所を指差してくれた。
「ああ、なるほど~。サンキュー」
「いえいえ。……へぇ~、【陽染学園の歴史】って特集記事面白い。意外に古いんだね、昔は名前も違うし。あの場所って、もっと昔は神社があったんだー」
「おっしゃぁ!数学終わった~」
両の拳を突き上げるように、いっちゃんが大きく伸びをする。
「オレも~。ん~っと?次は英語か……英語は樹に任せるとして」
「こらこらこら」
12月31日。大晦日。今日は朝からみんなで俺の家に集まって冬休みに出された課題をこなしていた。リビングにある大きなコタツにみんなで入り、分からない所はお互いに教え合いながら、課題をコツコツと消化していく。
「ねえ、そろそろお昼にしない?お腹減っちゃった」
そう言って、ナギが可愛く舌を出す。気がつくと、部屋の壁に掛けられた時計は12時を回っていた。
「そうだな……。じゃあ、どうする?ハンバーガーでもいっか?」
「うん、いいんじゃないかな」
いっちゃんの提案に俺は同意する。久しぶりにあの出来たてのポテトが食べたくなって、思わずあの味が口の中で思い出された。
「私もいいよー」
「歩いて5分ちょいのとこにあるし、テイクアウトにしよーか。ってことで」
イワはそう言うと、すっと手を前に出す。
「あ、悪いな、イワ」
「違ーう!オレ、買いに行くなんて言ってないやろ。ジャンケンしよーか」
お金を渡そうとした俺の手をイワは軽く払った。
まあ、そうだろうなとは思ったけど。
「買い出しは1人でいいかな?」
「う~ん、1人は寂しいかも。2人にしよう?」
「おーし、んじゃあ……ジャーンケーン」
「「「「ポン!」」」」
4人の声がリビングに見事に調和した。
「くぁ~、寒いな……」
玄関の扉を開け外界へと1歩踏み出すと、お昼時で日も差しているのにも関わらず、思わず身体を縮込ませてしまうほど肌寒かった。
「ホントだ。息も白いねー」
俺に遅れてナギも出てくる。
はぁ、と吐いた息が白く色づいてゆっくりと消えていく。漂う空気が冷たくて、ぬくぬくしていた身体と頭の中がシャッキリした気がした。
「よし、さっさと行っちゃおうか」
覚悟を決めて歩き出す俺の隣に、ナギが軽やかな足取りで並ぶ。
「うん。周哉、風邪治りたてだし、また引いたら辛いもんね」
「あ、ああ、確かに。んでも、この前はまったく考えなしだったから。今日は厚着してるし、大丈夫」
あの時は色々と混乱してたからな……。
「そっか」
ナギは陽だまりのように笑った。
……いやいやいや。
その笑顔に一瞬だけドキリとしてしまいながら、俺はハッとなって我に返る。
ナギのことは可愛いと思っているし、たぶん〝好き〟って感情も少なからず持っているんだと思う。
だけど、その〝好き〟はそういう好きではない(そもそも、ナギはいっちゃんと付き合っているし)。
特別な意味で〝誰かと一緒に居たい〟とか〝遊んだり話したりしたい〟という思いは、あれ以降俺の中で浮かんではすぐに消えている。それは、摂取した食物を消化させるような、日々繰り返される身体の日常業務と同じものだ。そういう感情が湧くだけ幾分マシだったかもしれない。
時折感じるのは、人という人を近くに感じたくない、自分勝手で自己中心的な逃避行。他人が発する言葉、ひとつひとつの仕草、どこを見ているのか分からない視線……全てに対して敏感になってしまって、何をしようとしても蛇に睨まれたカエルの如く身動きが取れなくなってしまった。
見るな。俺のことを見ないでくれ。俺のことなんか、路傍の雑草みたいに放っておいてくれ。お願いだから。
こんな風に考えるようになるなんて、昔の俺からじゃ想像もつかなかっただろう。
でも、それは仕方がない結論だった。そうでもしないと、俺はもたなかったのだ。だって、想えば傷つくことになるのだから。想いさえしなければ、関わらなければ、そこからは何も生まれない。
〝0〟という数字は割っても掛けても何ら変わることはないのだ。これに気がついた時、俺はもう2度と誰かのことを好きになるのはやめようと思った。
もちろん、未だに憧れはある。〝俺の彼女〟だなんて、1度でいいから言ってみたかった。何でもいいから話をしたり、遊んだり、ご飯を食べたり……そんなことを一緒にしてくれる人がいたらどんなにいいのか。想像してみても想像が追いつかず、それは極上の甘い夢となって俺の中で溶けてなくなる。
分かっている。そう、それはどこまでいっても〝夢〟に過ぎないということを。俺の中で固く打ちつけられた楔。俺のことを縛り付けている冷たい鎖。自分の奥底へ追いやったはずなのに、最後の最後になって顔を覗かせる。
『どうせ、お前には無理なんだよ』
誰でもない誰かの声が聞こえてくる。
『結局、誰かに裏切られるだけなんだから』
俺のことを嘲笑する声。本当は当たっているのに、こちら側が出した答えに対して、嘘をつくことだって出来てしまうのが人間だ。何が本当で何が嘘なのか……。それすらも分からなくなってしまう。
本当か嘘か、見つけるためのたった1つの方法は、〝相手を信じる〟ということに他ならないと思う。それが出来なくなってしまうなら、そこで全てが終わる。
だから、俺は終わってしまったのだ。信じたことを裏切られるのがどれだけ辛いことなのか……。
恐らく、この世界の中で、場合によっては命を落とすことと同じくらいの痛みではないだろうか。身体に生じた傷は綺麗に治しきることも出来るけど、心に受けた傷はそう簡単には治らない。傷の深さによっては一生をかけても治らない可能性だって……。
今の俺はそうは言っても、だいぶマシにはなったと思う。いっちゃんやイワの男友達に、ナギという出来ないと思っていた女友達もいる。
……
『ねえ、久遠くん』
『……』
『久遠くん!!』
『何だよ、耳元ででっけぇ声出して……』
俺は耳を庇うように両手で塞ぐ。
『だって、さっきから何回呼んでも返事してくれなかったでしょ。だから、意地でも返事してもらおうと思って』
得たかった反応を手にして満足そうに笑うナギ。
『……で、何?』
『素っ気ないなぁ。別に用って訳じゃないんだけど……こんな時間まで教室に残って何してるのかなって』
16時37分。放課後の教室、俺とナギ以外に他の生徒は既にいなかった。
『……それ、アンタに答える必要ないよね?』
俺はジロリとナギのことを睨みつける。
『俺が何をしていようが、アンタには関係ないだろ?アンタに何か迷惑をかけたってなら話は別だけど』
『……』
『……何?』
ぽかんとした表情のナギに、俺は先を促してしまった。会話は終わったはずなのに、何故だか俺は続けてしまったのだ。その理由は……?
『……どうして』
ぽつりと零した言葉。ナギは哀しげな表情に変わっていた。
『どうして、いつもそんな顔してるの?』
『そんな顔って……』
ナギの言っている意味が分からずに聞き返す。
『眉間にしわ寄せて、ずっと怖い顔してる。どうして?』
『……』
俺は黙ったままでいた。答えたくなかったからではない。ナギの問いかけに答えることが出来なかったから。怖い顔をしていた自覚はなかった。いつの間にか、自分の気がつかない内にそうなってしまったのだろうか?俺には分からなかった。
『いつもそんな顔してたらさ、みんなも話し掛けづらいと思うんだ。久遠くんと話したいって人、けっこういるんだよ?』
『……別に、俺は話すことなんて何もないから』
そうか。ナギの言葉で理解した。
『俺は1人で居たいんだ。面倒臭いんだよ、他人と関わるとか。……俺のことなんか放っておいてくれ』
誰とも関わらなければ傷つくことは何もないから。なるべく、出来る限り、他人を避けるようにした結果なんだ。いつしか、そういう空気を身に纏っていたのかもしれない。
『寂しいよ、そんなの……。ずっと1人で居るなんて、寂しすぎるよ』
『……あのな、俺は1人で居たいって言ってるんだから、何にも知らないアンタが世話焼くことじゃないだろ』
『だからだよ』
『え?』
ナギの切り返しに、俺は逸らしていた視線を思わず上げる。予想外の切り返しだった。
『何にも知らないから。久遠くんのこと、何にも知らないから知りたいんじゃない。何で怖い顔してるのか、何でいつも1人で居るのか……分かりたい』
真剣な表情のナギに一瞬引き込まれそうになるものの、俺の中からこの場に似つかわしくない笑いが込み上げてきた。
『……はっ、知ってどうすんの?俺のことを分かって、アンタ何をどうしたい訳?』
俺は嘲るように笑ってから続ける。
『余計なお世話だっつうの!関係ないだろ、俺とアンタは!』
駄目だ、駄目だ、駄目だ。塞ぐんだ。聞いちゃいけない。
『俺なんかに構ってないでさっさと帰れよ!』
思いっきり立ち上がると、反動でイスが後ろに倒れた。静かだった教室に木と鉄の衝撃音が響いた。
『……嘘だよ』
数秒間、ただ無言でじっと見つめ合っていると、ナギが口を開いた。
『全部嘘。本当は誰かと話したいって思ってるし、誰かと接したいって思ってる』
『ふざけんな!何でそんなことがアンタに分かるんだよ!』
『分かるよ、分かる……。だって……今の久遠くんの顔、すごく辛そうだから』
『そんなこと……!』
不意に世界が揺らいだ。視点を合わそうとしても景色がぐにゃぐにゃと動いて止まらない。
何だ、これは……?
心が騒めき立つ。身体の奥底から熱い何かが湧いてきて、それは一瞬にして身体全体に及んだ。
『……あれ……?』
気がつくと、俺は泣いていた。慌てて涙を拭うものの、堤防が決壊してしまったかのように涙は止まらない。
『無理しなくていいんだよ』
『……っうるせえ!うるせえ、よ……』
柔らかい表情をするナギを前にして、とうとう俺は言葉を失った。
何でだよ……。
止まらない涙が俺の気持ちを代弁していた。この時の俺は限界ギリギリの状態だったのだと思う。周囲にいる人たち全てに対して、何も弱みを見せないように、一生懸命、それこそ必死に、毎日気を張っていた。
見えない敵から自分を守るように、俺は俺自身を殺していたのだ。本当に一杯一杯だったんだと思う。そんな時に掛けられた言葉はじんわりと余計に心に染みた。
せっかく……せっかく、心を閉ざしていたのに。
分厚い硬質ガラスで出来た箱の中に入れたのと同じように、ありったけの気持ちを全部押し込めていたのに。
……。
これじゃあ、同じことの繰り返しになってしまうかもしれないのに。
言葉が留めどなく俺の中に溢れていく。
『後悔するぞ』という警告の言葉たちが飛び交う中、不思議とたった1つの言葉だけがその真ん中に在り続けていた。
『ありがとう』。
その言葉だけは動くことがなかった。何故なのかは分からない。
『私、神凪由季』
『……知ってるっつうの』
クラスメイトの顔はある程度分かる。目立つ部類にいる人なら尚更だ。男子・女子を問わず、ナギは周りからの人気が高かった。
『え、ちょっと待って。じゃあ私のこと知ってて「アンタ」呼ばわりしてたの?』
『いちいち突っ掛かるなっての。いいだろ、俺ぁ話したくないんだから』
『ふーん。でも、話しちゃったね?』
ナギはにこっと笑う。何の嫌味もない、光の笑顔。俺の中にある闇を浄化してしまえるような、綺麗な笑顔だった。
『……もう話さねぇよ』
俺はぷいっとそっぽを向く。
これ以上は駄目だ。
このままだと、俺が俺でなくなる。
『ふふっ。よろしくね、久遠くん』
『は!?アンタ、俺の話聞いてただろ?』
『「アンタ」じゃない。神凪』
『あのなぁ……』
いつの間にか、流れていた涙が止まっていた。
窓から差し込む光は暖かなオレンジ色に染まっていて、俺の目には眩し過ぎる色として映ったのだった。
……
……考えられないよな。
改めてそう思う。
あれだけ他人を拒んでいたというのに、気がつけばこうやって友達と一緒に歩いているんだよな。
当たり前なことなのかもしれない。だけど、俺にとっては特別なことなのだ。
「ん?どうしたの?」
俺の視線に気がつき、ナギが首を傾げる。
「私の顔に何かついてる?」
「いや……ちょっと昔を思い出してさ。ナギのこと『アンタ』呼ばわりしてたこともあったなって」
「ああ、そうだねー。さすがに『アンタ』はなかったよ。けど、そんな昔じゃなくない?今年の5月くらいだったよね、確か」
「あ……ごめん、そうだった。俺の勘違い」
考える仕草をするナギに慌てて訂正する。
やっべえ、そういやそうなのか……。
心の中で冷や汗を拭った。
「でも、そうだったんだよね。周哉、最初は取りつく島がなかったもん」
苦労したよー、とナギは笑う。
「はは、そいつはどうもすみませんでした」
俺は仰々しく頭を下げる。
「まだちょっと残ってる感じもするけど、だいぶ柔らかくなったよねー。印象が変わったよ」
「そうかな?」
「そうだよー。教室でもさ、私たちといる時と比べると口数とかは減っちゃうけど、人を寄せ付けない雰囲気が弱まった気がする」
言われてみればそうかもしれない。ナギたちが接してくれたおかげで、少しずつだけと、俺は他人のことを信じてもいいのかもしれないと思えてきたんだと思う。
「今年も色々あったなぁ」
ナギは歩きながら空に向かってぐっと伸びをする。
「来年はどんな年になるのかな?」
来年……。
俺の脳裏に瞬間的に映像が浮かぶ。
来年は俺たちが2年生となる年で、文系・理系のクラス分けに始まり、いっちゃんが野球部のレギュラーになって地区大会の決勝まで勝ち進んだり、イワがテニス部の副部長を任されたり……。
「……いい年になるといいね」
浮かんだ映像を掻き消すように頭を振りながら答える。
いかんいかん。余計なことは考えちゃ……。
「うん。周哉ももっと友達が出来るといいね?」
「う~ん……それはどうだろ?」
すぐそこに迫った来年のことを思いつつ、俺とナギは冬晴れの昼時分を歩いたのだった。
「……ふわ」
「周哉、眠たそうだね」
「うん、けっこう限界かも……」
いっちゃんに声を掛けられ、重たい瞼を擦りながら答える。23時58分。
あの後、テイクアウトしたハンバーガーを食べて一息をついてから課題を粗方終わらせ、4人でゲームをしたりして過ごした。夜は近くのスーパーで具材を買って鍋を作り、バラエティー番組を観ながら年の瀬を満喫していた。
「えぇ~、ここまで来て~?」
「や、やめろ、イワ……」
ぐわんぐわん俺の身体を揺するイワに、俺は弱々しく反抗する。
「あはは、あと少しで除夜の鐘だし、そこまで頑張ろう?」
「う、うん、それなら何とか……って、ナギもかなり眠たそう」
見ると、ナギも眼がトロンとしていて、今すぐにでも眠ってしまいそうな顔をしている。
「実を言うとそうなんだー。何か疲れちゃって」
舌っ足らずな調子で言いながら、ナギも欠伸をする。
「あと1分……今年も終わりか」
「静かやな」
深夜だから当然と言えば当然なのだが、テレビを切った部屋はとても静かだった。
12月31日から1月1日へと変わるこの境目は、1年が切り替わるという大きな意味を持っていると思う。過ぎ去っていく過去から、未だ来ることのない未来へ。過去、現在、未来を1番実感させる刻が今、ここにある。
「カウントダウンしよっか。10秒前からいくから」
いっちゃんが腕時計を見ながら提案する。
「その時計、ちゃんと合ってるん?」
「大丈夫。信じろって。っと、いくぞ。10」
「9」
色々あったけど……
「8」
楽しかったな、今年は。
「7」
こうやって……
「6」
一緒に居てくれる友達が出来たこと、
「5」
それが1番嬉しかったな。
「4」
来年も……いや、この先もずっと一緒に居られたらいいな。
「「「「3」」」」
「「「「2」」」」
「「「「1」」」」
―ゴーン、ゴーン……。
「「「「新年、明けましておめでとう!!」」」」
……あ、あれ?
新年の挨拶を交わしたところで、俺は急に身体の力が抜けていくのを感じた。
先程から俺を苛ませている眠気がピークに達したのか、眼を開けていることすらままならなくなってくる。
……う~ん、限界か……。
俺は諦めて睡魔に身を任せることにした。
―ゴーン、ゴーン……。
意識の遠のいていく中で、除夜の鐘が鳴り響いている音だけがいつまでも聞こえているような、そんな気がした。